②戦力は駄目だが自衛力なら持てる(非戦力的自衛力是認説)(政府見解)の続き
第2に、戦力の定義を「自衛のための最小限度を超えるもの」としてきた政府見解の問題がある。
戦力とは「自衛のための最小限度を超えるもの」とし、戦力は保持できないが、自衛のための最小限度を超えない実力は保持できるというのが、政府見解である。
「戦力」は、マッカーサー草案で「war potential」と書かれた英語を和訳したものである。現行憲法の英文でも、同じく「war potential」としている。「戦争を起こしうる潜在的能力」「戦争をし得る能力」である。
一般に戦力と言うときは、英語では force である。実力も武力も force である。軍隊も force である。政府は、戦力と実力を分けて、最小限度を超えるか超えないかという基準を出しているが、実態はどちらも force であって、その量的度合いを言っているにすぎない。漢字を一字替えて別のものであるかのようにしているところに、修辞的技巧がある。
自衛隊は、「self-defense force」と言う。そのまま訳せば、「自衛軍」である。それを「自衛隊」と漢字を一字替えて別のもののようにしているのも、同じ技巧である。
自衛のための戦力として軍隊(force)を持つが、それを自国の防衛のためにのみ用い、他国の侵攻には用いないと表現すれば、すっきりする。しかし、②にて私見を書いたように、わが国の政府は、第9条を自衛のための戦力は保持できると解釈する説を取らず、アメリカもまたそれを許さなかった。そのため、わが国の政府は、こういう詭弁すれすれのレトリックを弄してきたのである。
ところで、「自衛のための最小限度」というときの「最小限度」とは、量的な概念である。科学兵器の発達や国際情勢によって、自衛に必要な戦力=実力(force)は、変化する。
現行憲法と日米安保条約による昭和憲法=日米安保体制が敷かれた当時、わが国の周辺諸国の戦力は、第2次大戦時代と大差なかった。しかし、昭和34年(1964)に中国は核実験に成功し、47年(昭和45年(1970)年4月、人工衛星を打ち上げ、IRBM(中距離弾道ミサイル)を完成させた。それにより、中国は、日本とわが国にある米軍基地を攻撃することができるようになった。このときからわが国は、中国の核ミサイルの標的になっている。
その後、北朝鮮がミサイルや核兵器の開発を進め、平成8年(1996)には、数発の核爆弾を保有したと見られる。平成10年(1998)にはテポドンが日本列島を超えて三陸沖に着弾した。昨年平成18年(2006)7月には、ミサイルを乱射し、10月には核実験を強行した。中国は、SLBMを搭載した原子力潜水艦を持ち、さらに航空母艦の保有・建造を進めている。
こうした周辺諸国の軍事力の増大は、わが国に自衛能力の向上を余儀なくするものである。
ただし、このようにして向上していくわが国の軍事的能力を、戦力(force)ではない、自衛隊は軍隊(force)ではないと言うのは、無理を承知で無理を重ねているものと言わざるを得ない。そもそも第9条の解釈に無理があり、出発点がずれていたから、無理に無理を重ねているのである。
第3に、自衛権についてだが、自衛権には個別的自衛権と集団的自衛権がある。サンフランシスコ講和条約及び日米安保条約は、わが国が集団的自衛権を持つことを認めている。またわが国が旧敵国でありながら加盟を認められた国際連合(=連合国)は、国連憲章第51条で、加盟国すべてに対し個別的かつ集団的自衛権を「固有の権利」として認めている。
わが国において、鳩山一郎内閣・岸信介内閣の時代には、集団的自衛権は、一定の制限はあるいが行使できるという見解だった。ところが、政府見解は段々制約的になり、現在のような解釈になった。
すなわち、集団的自衛権とは、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」(昭和56年政府見解)と定義し、わが国は集団的自衛権を、国際法上は保持するが、憲法解釈上行使できないという見解である。その理由は、「自衛のための必要最小限の範囲を超える」ためだという。持ってはいるが行使はできないという権利を、権利と言えるだろうか。
集団的自衛権は、現行憲法が明文的に行使を否定しているものではない。しかし、政府は、戦力は駄目だが自衛力なら持てるという非戦力的自衛力是認説を取っている。政府がこの③の説を取っている限り、集団的自衛権は憲法解釈上、行使できないという見解を取るしかないだろう。
今日、安倍首相は、現行憲法の下でも集団的自衛権を行使できるものとし、具体的な事例に応じて、行使可能な範囲を定めようとしている。私は、現行憲法の解釈を③としたままで、集団的自衛権の行使を可能とするのは、無理があると思う。また、そのやり方は、アメリカの意思に追従し、自衛隊をアメリカ軍の補完物にとどめ、わが国の従属国的地位を固定するおそれがあると思う。
集団的自衛権の行使を改めて可能とするのであれば、自主的に憲法を改正し、条文に安全保障について規定し、その中に集団的自衛権の保有と行使について明記する必要がある。集団的自衛権の問題については、後日別稿で主題的に検討したい。
次回に続く。
第2に、戦力の定義を「自衛のための最小限度を超えるもの」としてきた政府見解の問題がある。
戦力とは「自衛のための最小限度を超えるもの」とし、戦力は保持できないが、自衛のための最小限度を超えない実力は保持できるというのが、政府見解である。
「戦力」は、マッカーサー草案で「war potential」と書かれた英語を和訳したものである。現行憲法の英文でも、同じく「war potential」としている。「戦争を起こしうる潜在的能力」「戦争をし得る能力」である。
一般に戦力と言うときは、英語では force である。実力も武力も force である。軍隊も force である。政府は、戦力と実力を分けて、最小限度を超えるか超えないかという基準を出しているが、実態はどちらも force であって、その量的度合いを言っているにすぎない。漢字を一字替えて別のものであるかのようにしているところに、修辞的技巧がある。
自衛隊は、「self-defense force」と言う。そのまま訳せば、「自衛軍」である。それを「自衛隊」と漢字を一字替えて別のもののようにしているのも、同じ技巧である。
自衛のための戦力として軍隊(force)を持つが、それを自国の防衛のためにのみ用い、他国の侵攻には用いないと表現すれば、すっきりする。しかし、②にて私見を書いたように、わが国の政府は、第9条を自衛のための戦力は保持できると解釈する説を取らず、アメリカもまたそれを許さなかった。そのため、わが国の政府は、こういう詭弁すれすれのレトリックを弄してきたのである。
ところで、「自衛のための最小限度」というときの「最小限度」とは、量的な概念である。科学兵器の発達や国際情勢によって、自衛に必要な戦力=実力(force)は、変化する。
現行憲法と日米安保条約による昭和憲法=日米安保体制が敷かれた当時、わが国の周辺諸国の戦力は、第2次大戦時代と大差なかった。しかし、昭和34年(1964)に中国は核実験に成功し、47年(昭和45年(1970)年4月、人工衛星を打ち上げ、IRBM(中距離弾道ミサイル)を完成させた。それにより、中国は、日本とわが国にある米軍基地を攻撃することができるようになった。このときからわが国は、中国の核ミサイルの標的になっている。
その後、北朝鮮がミサイルや核兵器の開発を進め、平成8年(1996)には、数発の核爆弾を保有したと見られる。平成10年(1998)にはテポドンが日本列島を超えて三陸沖に着弾した。昨年平成18年(2006)7月には、ミサイルを乱射し、10月には核実験を強行した。中国は、SLBMを搭載した原子力潜水艦を持ち、さらに航空母艦の保有・建造を進めている。
こうした周辺諸国の軍事力の増大は、わが国に自衛能力の向上を余儀なくするものである。
ただし、このようにして向上していくわが国の軍事的能力を、戦力(force)ではない、自衛隊は軍隊(force)ではないと言うのは、無理を承知で無理を重ねているものと言わざるを得ない。そもそも第9条の解釈に無理があり、出発点がずれていたから、無理に無理を重ねているのである。
第3に、自衛権についてだが、自衛権には個別的自衛権と集団的自衛権がある。サンフランシスコ講和条約及び日米安保条約は、わが国が集団的自衛権を持つことを認めている。またわが国が旧敵国でありながら加盟を認められた国際連合(=連合国)は、国連憲章第51条で、加盟国すべてに対し個別的かつ集団的自衛権を「固有の権利」として認めている。
わが国において、鳩山一郎内閣・岸信介内閣の時代には、集団的自衛権は、一定の制限はあるいが行使できるという見解だった。ところが、政府見解は段々制約的になり、現在のような解釈になった。
すなわち、集団的自衛権とは、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」(昭和56年政府見解)と定義し、わが国は集団的自衛権を、国際法上は保持するが、憲法解釈上行使できないという見解である。その理由は、「自衛のための必要最小限の範囲を超える」ためだという。持ってはいるが行使はできないという権利を、権利と言えるだろうか。
集団的自衛権は、現行憲法が明文的に行使を否定しているものではない。しかし、政府は、戦力は駄目だが自衛力なら持てるという非戦力的自衛力是認説を取っている。政府がこの③の説を取っている限り、集団的自衛権は憲法解釈上、行使できないという見解を取るしかないだろう。
今日、安倍首相は、現行憲法の下でも集団的自衛権を行使できるものとし、具体的な事例に応じて、行使可能な範囲を定めようとしている。私は、現行憲法の解釈を③としたままで、集団的自衛権の行使を可能とするのは、無理があると思う。また、そのやり方は、アメリカの意思に追従し、自衛隊をアメリカ軍の補完物にとどめ、わが国の従属国的地位を固定するおそれがあると思う。
集団的自衛権の行使を改めて可能とするのであれば、自主的に憲法を改正し、条文に安全保障について規定し、その中に集団的自衛権の保有と行使について明記する必要がある。集団的自衛権の問題については、後日別稿で主題的に検討したい。
次回に続く。