②自衛のための戦力は持てる(自衛的戦力保持可能説)の続き
前回、憲法解釈としては自衛のための戦力を持つことが可能であっても、日米関係において、それは許されなかったと述べた。関連することを補足する。
仮にわが国が独立回復後、自衛軍または国防軍を保持する場合、最大の課題は、シビリアン・コントロール(非軍人による軍の行政管理)をどのようにして実効あるものとするかにあっただろう。
大日本帝国憲法では、軍の最高指揮権つまり統帥権は、天皇にあるとして、内閣の関与する一般国務から独立していた。軍部や右翼の一部は統帥権干犯と称してこの仕組みを利用し、軍人が政治に介入し、国の進路を誤らせた。帝国憲法には内閣総理大臣の文言がなく、首相は戦後の首相に比べて、権限が小さく、立場が弱かった。戦後は、日本人自らこうした歴史を反省し、シビリアン・コントロールの仕組みを整えることが課題だった。
また、戦前の日本では、軍の暴走が起こったが、国会が結局これを追認してしまった。たとえ、軍が事前の承諾なく作戦行動をしても、国会が追認せず、予算をつけなれば、軍はそれ以上動けない。戦後は、この反省に基いて、国会議員がしっかり国政に取組む自覚を持つことが求められた。それは、国会議員を選ぶ国民の意識の向上という課題に帰着する。
軍隊を持てば、即侵攻戦争を起こすというのは、脅迫的な思い込みか、ためにする悪宣伝である。軍隊をコントロールする法的な仕組みをつくり、政治が軍隊をコントロールできるように、国民が国政に意思を反映させるところに、デモクラシーの政治体制は維持しうる。
「日本人はそれができない。だから自衛軍・国防軍は持つべきでない」という人もいる。そういう人々は、主権在民のデモクラシーを担うことはできない。国際社会において、独立と主権を守ることができず、他国に従属して、他国民を主人とする奴隷の地位に甘んじるしかないだろう。軍隊をなくせば平和でいられる、という人々を待ち受けているのは、他国の軍隊による侵攻と搾取なのである。
ともあれ、わが国は、憲法第9条を②のように解釈して、独立回復後に自衛軍または国防軍を保持する道を進まなかった。実際にわが国の政府が選択したのは、第3の解釈だった。
③戦力は駄目だが自衛力なら持てる(非戦力的自衛力是認説)(政府見解)
第1項は侵攻戦争のみを放棄したもの、第2項は侵攻戦争のための戦力は保持しない、交戦権は否認したもの。そのうえで、戦力とは、「自衛のための最小限度を超えるもの」と定義し、戦力は保持できないが、自衛のための最小限度を超えない実力は保持できると解釈する説。
私見: アメリカ主導のもとで自衛隊が創設されて以来、政府が一貫して取ってきた見解。自衛力は保持でき、自衛権の行使としての武力行使は可能とする。②の「自衛のための戦力は持てる」という自衛的戦力保持可能説との違いは、自衛のために持てるのは、戦力ではなく、最小限度の実力とするところである。②を取らなければ、こういう解釈をするしかないだろう。ただし、その解釈のもとで、政府は集団的自衛権や防衛戦略を、より制約的に規定する道を進んできた。以下、4点に絞って問題点を指摘したい。
第1点は、第1項の後半の構文についての問題である。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」という部分だが、日本語をそのまま読めば、放棄するのは、戦争と武力による威嚇と武力の行使という三つとなる。その三つを放棄するに当たって、「国際紛争を解決する手段としては」これを放棄するという意味に、この節が全体にかかると解釈するのが、文法的には正しいだろう。
しかし、マッカーサー草案では、「War as a sovereign right of the nation is abolished. The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.」となっている。「国際紛争を解決する手段としては」がかかるのは、武力による威嚇と武力の行使のみである。戦争は、そもそも別の文である。現行憲法の英文でも、「renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.」となっている。「A as X and B as Y」を放棄するという構文だから、「国際紛争を解決する手段としては」がかかるのは、武力による威嚇又は武力の行使のみである。こういうとき、普通の日本人は、「国家主権の発動としての戦争と、国際紛争解決の手段としての武力による威嚇又は武力の行使は、永久にこれを放棄する」と表現するだろう。
このように見ると、第9条第1項は、趣旨は良いとしても、そのまま捧持すべき日本語ではないことがわかるだろう。
また、重要なことだが、「A as X and B as Y」を放棄するという構文において、「国際紛争を解決する手段」がかかるのは、武力による威嚇又は武力の行使のみである。ここで放棄しているのは、「国際紛争解決の手段としての武力による威嚇又は武力の行使」であって、それ以外の場合の武力による威嚇又は武力の行使は放棄していない。すなわち、自衛のための武力による威嚇又は武力の行使は、可能である。
「武力による威嚇又は武力の行使 the threat or use of force」という用語は、国連憲章第2条の「武力による威嚇又は武力の行使」を「慎まなければならない」からの引用だろう。その一方、国連憲章は、集団安全保障体制の下で、個別的自衛権及び集団的自衛権を国家の固有の権利とし、自衛権の発動としての武力行使を認めている。自衛権を認める以上、その発動としての武力行使を認めるのは、当然である。そして、わが国の憲法を同様に解釈するのは、至極適切である。自衛権は正当防衛権であり、攻撃されたら自分を守るために力を使うのは、個人も国家も同じである。
次回に続く。
前回、憲法解釈としては自衛のための戦力を持つことが可能であっても、日米関係において、それは許されなかったと述べた。関連することを補足する。
仮にわが国が独立回復後、自衛軍または国防軍を保持する場合、最大の課題は、シビリアン・コントロール(非軍人による軍の行政管理)をどのようにして実効あるものとするかにあっただろう。
大日本帝国憲法では、軍の最高指揮権つまり統帥権は、天皇にあるとして、内閣の関与する一般国務から独立していた。軍部や右翼の一部は統帥権干犯と称してこの仕組みを利用し、軍人が政治に介入し、国の進路を誤らせた。帝国憲法には内閣総理大臣の文言がなく、首相は戦後の首相に比べて、権限が小さく、立場が弱かった。戦後は、日本人自らこうした歴史を反省し、シビリアン・コントロールの仕組みを整えることが課題だった。
また、戦前の日本では、軍の暴走が起こったが、国会が結局これを追認してしまった。たとえ、軍が事前の承諾なく作戦行動をしても、国会が追認せず、予算をつけなれば、軍はそれ以上動けない。戦後は、この反省に基いて、国会議員がしっかり国政に取組む自覚を持つことが求められた。それは、国会議員を選ぶ国民の意識の向上という課題に帰着する。
軍隊を持てば、即侵攻戦争を起こすというのは、脅迫的な思い込みか、ためにする悪宣伝である。軍隊をコントロールする法的な仕組みをつくり、政治が軍隊をコントロールできるように、国民が国政に意思を反映させるところに、デモクラシーの政治体制は維持しうる。
「日本人はそれができない。だから自衛軍・国防軍は持つべきでない」という人もいる。そういう人々は、主権在民のデモクラシーを担うことはできない。国際社会において、独立と主権を守ることができず、他国に従属して、他国民を主人とする奴隷の地位に甘んじるしかないだろう。軍隊をなくせば平和でいられる、という人々を待ち受けているのは、他国の軍隊による侵攻と搾取なのである。
ともあれ、わが国は、憲法第9条を②のように解釈して、独立回復後に自衛軍または国防軍を保持する道を進まなかった。実際にわが国の政府が選択したのは、第3の解釈だった。
③戦力は駄目だが自衛力なら持てる(非戦力的自衛力是認説)(政府見解)
第1項は侵攻戦争のみを放棄したもの、第2項は侵攻戦争のための戦力は保持しない、交戦権は否認したもの。そのうえで、戦力とは、「自衛のための最小限度を超えるもの」と定義し、戦力は保持できないが、自衛のための最小限度を超えない実力は保持できると解釈する説。
私見: アメリカ主導のもとで自衛隊が創設されて以来、政府が一貫して取ってきた見解。自衛力は保持でき、自衛権の行使としての武力行使は可能とする。②の「自衛のための戦力は持てる」という自衛的戦力保持可能説との違いは、自衛のために持てるのは、戦力ではなく、最小限度の実力とするところである。②を取らなければ、こういう解釈をするしかないだろう。ただし、その解釈のもとで、政府は集団的自衛権や防衛戦略を、より制約的に規定する道を進んできた。以下、4点に絞って問題点を指摘したい。
第1点は、第1項の後半の構文についての問題である。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」という部分だが、日本語をそのまま読めば、放棄するのは、戦争と武力による威嚇と武力の行使という三つとなる。その三つを放棄するに当たって、「国際紛争を解決する手段としては」これを放棄するという意味に、この節が全体にかかると解釈するのが、文法的には正しいだろう。
しかし、マッカーサー草案では、「War as a sovereign right of the nation is abolished. The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.」となっている。「国際紛争を解決する手段としては」がかかるのは、武力による威嚇と武力の行使のみである。戦争は、そもそも別の文である。現行憲法の英文でも、「renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.」となっている。「A as X and B as Y」を放棄するという構文だから、「国際紛争を解決する手段としては」がかかるのは、武力による威嚇又は武力の行使のみである。こういうとき、普通の日本人は、「国家主権の発動としての戦争と、国際紛争解決の手段としての武力による威嚇又は武力の行使は、永久にこれを放棄する」と表現するだろう。
このように見ると、第9条第1項は、趣旨は良いとしても、そのまま捧持すべき日本語ではないことがわかるだろう。
また、重要なことだが、「A as X and B as Y」を放棄するという構文において、「国際紛争を解決する手段」がかかるのは、武力による威嚇又は武力の行使のみである。ここで放棄しているのは、「国際紛争解決の手段としての武力による威嚇又は武力の行使」であって、それ以外の場合の武力による威嚇又は武力の行使は放棄していない。すなわち、自衛のための武力による威嚇又は武力の行使は、可能である。
「武力による威嚇又は武力の行使 the threat or use of force」という用語は、国連憲章第2条の「武力による威嚇又は武力の行使」を「慎まなければならない」からの引用だろう。その一方、国連憲章は、集団安全保障体制の下で、個別的自衛権及び集団的自衛権を国家の固有の権利とし、自衛権の発動としての武力行使を認めている。自衛権を認める以上、その発動としての武力行使を認めるのは、当然である。そして、わが国の憲法を同様に解釈するのは、至極適切である。自衛権は正当防衛権であり、攻撃されたら自分を守るために力を使うのは、個人も国家も同じである。
次回に続く。