岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

50年目の弔辞

2020-05-19 16:44:46 | いなか暮し

 釜石線を走る人気の「SL銀河」に、彩をと咲かせた菜の花だったが
  花は散っても「SL銀河」は来ない、3月22日にオリンピック聖火を乗せて、走り去ったまま戻ってこない。
 一日も早く”普通の”日常に戻れますように・・・・・

 おばあさんが亡くなって今年50年、おじいさんは70年。
 私は訳あって、二人に育ててもらった、頃は終戦前後。
 23才の若さで叔父が戦死、同じ年に玉のような男の子(?)私が生まれた。
 翌年、1才の誕生日前に30才の父が死んだ。
 次の年、あろうことか、母は私を残して里に帰ってしまい、そして終戦。
 更に農地解放、貸していた田んぼは、開放という名のもと小作者の所有となり小作料収入の道も閉ざされた。
 終戦前後、日本中が貧しく、物資の極端に無い時代、幼子を抱えての苦労は大変なことだったが、そんな中にも人助けもしていた。
 大きな母屋を生かして、2世帯の疎開者も引き受けていた。
 後に養子として母が戻り、再婚、弟もできて、家族として一応の落ち着きに安心したのだろう、おじいさんが60才で逝ってしまった、その時、私は小学1年。
 残されたおばあさんは、成長する孫の私に期待したことだろうが、勉強嫌いで、何かと反抗する孫には、ほとほと呆れた。
 九星占いをよくした、おばあさんは、成長する私に、相性判断をしてくれた。
 「三碧木星のお前には、二つ年下の、一白水星の娘が相性がとってもいいから・・・」と何回も何回も言われた。
 反抗する私も「一白水星」だけは素直に聞いて結婚、今、子や孫に恵まれて平穏に暮らしているから、おばあさんの相性判断は正解だったのだろう。

 おじいさん、おばあさんありがとうございました。
 50回忌を迎えた今、感謝したり、謝ったりして、二人の功績を、孫たちに語って聞かせたところで仕方もないので、「50年目の弔辞」としてまとめて、お仏壇に収めておきます。
    そう遠くない将来、私もそちらに行くことになるでしょう。
       積る話は、その時までお待ちください。 

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