赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼老人と鉄砲

2018年06月27日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話

 

2915.02.20 川崎市

 

 

●以下、教育年金掲示板より

「老人の教養と教育」 

だじゃれに過ぎないのだが、下のような言い回しをラジオで耳にして感心した。

今日用がある。今日行くところがある。

六十歳代も後半にさしかかった私も、日々自覚的に用をつくり、無理にでも行くところをつくりつつまずは肉体的に活き活きと過ごしたい。一つの用もなくなり、別にどこにも行くところが思いつかないとなったら生き物としての終焉が近いに違いない。

 

 

 

 

 

さて時間が余ってしまい、昨日の泥炭さんの記事を下のように書き換えてみました。いつものことで深い意味はありません。遊びの一種です。

教育を語ろうと言いながら戦争記事が多すぎます。教育について語らずに戦争のことばかりの記事の投稿は少し控えてくだい。原稿を書いてから、ご自身の中で一日ぐらい「休戦協定」を確約されて、すこし「戦争」はひかえてみたらいかがでしょうか。「戦争」の話ばかりでは命がいくつあっても物足りない。

いや、いいんではないですか、戦争大好き老人で。拙者のばやいも年をとったせいか、からっきし教育なんてものには興味が失せた。教育よりは、よほど「戦争論」のほうが面白い。だから、言うのです。「教育について語ろう」なんぞという看板は看板違いじゃござせんかと。

教育について語ろうは、もう二十年も三十年も昔の中流を目指すPTA諸君にとっては、たしかに焦眉の議題だったことは確かだが今や中流もへったくれもなくなった。時給がなんぼで、幸不幸が計られている。

計量こそすべて、これぞ科学次術の世界ではないのか。次なるは、分給なんてのも、出てくるぞ。分刻みで給料が算定されかねない。勤労者は株価以下の価値しかない。

景気の棒グラフで共産主義であろうと資本主義であろうと有無を言わせぬ時給的情報社会と相成り候。

こんな人間世界はぶち壊してやりたい・・・と思う青少年の幾多が出てきても不思議でもなんでもない。よって戦争は、いつまでたっても避けられないようにおもわれますよ。

憎しみとか憎悪をなくせという人たちの意見もありますが、わたしは、人に暴力があるかぎり戦争はやまないと思いますよ。武器があるかぎり人間は殺されるでしょう。生きつつある生き物の、生きる道徳のなかにそも人と人とが戦わはなければならない原理があるのだと思っています。

せめて、わが家族、わが親類、またわが市町村の国民と同類らは暴力や武器や戦争から逃げるすべなりを学んで欲しいとぞ思うなりけり。そのための憲法であり、安全保障とかいう問題なのでしょう。そのために自衛隊が、日々訓練しているのではありませんか。暴力からわが親類と国民を守るために。いざとなったら国家を作っている以上、政府としても売られたケンカは買わなければ、そりゃ仕方のない話なのです。

そして、あなたの場合も、これだけは分かっておいたほうがよいと指摘しておくのですが、戦い終わったはてに、戦争はいやだとか戦わないほうがよかったと言い募って感傷に浸っているのは、いつの場合も敗れた方だけだという真実です。勝てば官軍とは、よく言ったものですね。勝った方は、100年たっても、千年たっても、子孫永遠に、勝どきを上げながら先の戦争は実によい戦争だったと言っているではありませんか。

むかしベトナム戦争という戦争がありました。この戦争の場合、珍しく米軍が負けたのです。そこで御存知のようにベトナム戦争は「悪」だったと言っているのは敗けた方の米国だけであり、ベトナム国民は実に英雄的な立派な独立戦争だったと言っているはずですよ。そのように自国内の子どもたちには教育しているはずです。あなたはどう思いますか。ベトナム戦争も無い方がよかったのですか。そんなことを申しては、ベトナム人から袋叩きにあいますよ。

誰が戦争一般を心から否定しているのですか。ようするに敗者だけではないですか。「非戦論」なんぞは敗けたことのうらみつらみを、愚痴っているだけにしか聞こえませんね。戦争は悪だ、平和こそ理想だというのは、どう見ても口先だけのことですね。

 

 

 

ですから、言うのですよ。なんでもかんでも教育すれば解決可能だというならば、よほど老人のための老人教育を実践されたら、いかがかなと。いっそ老人にも軍事教練でも参加させ、鉄砲の打ち方を教育せよと。

クソの役にも立たなくなった老人は、特攻隊風の教育をなさしめて覚悟をもたせ憎き敵陣に向かって、老人の一匹づつに爆弾をかかえさせ、つっこませたほうが、なんぼかお国のためになる。

最近の老人は税は払いたくない、もっと年金をよこせ、老人なのだから遊んで暮らさせよ等々と口ばっかり達者になって国費を浪費する以外には何一つ役立たずの、それこそ「くたばれぞこない」なのだから。 

ですから、地球が死ぬのも人類が死滅するもの想定内のことであり、実に近似的なことなのではないですか。それは明日かもしれませんよ。生き物であるかぎりいずれ地球上のすべての命が地球自身が死ぬ前に絶えて滅亡することは常識的かつ科学的な理屈です。生けるものすべて死す、または、形あるものすべて壊れるという神学と哲学をあなたは勉強したことはなかったのですか。われわれは生きているとか生きているから真実なのだと放弁放題も宇宙的に言えば、瞬時のことにすぎないと頭のよい科学者のだれそれから聞きましたよ。

あくまでも仮の話ですがね。泥炭さん。仮にですよ、地球滅亡の危機を人間どもが察知しているという想定での空想的物語です。よく耳にしたところですが、大きなロケットに、人々を積んで地球によく似た宇宙体に逃れようとする。これまた、そのような宇宙体が事前に見つかっているという場合ですがね。あまりに遠くては、意味はない。到達するのに、何十年もかかるというのでは、ロケット内の人間は死に絶えてしまいますからね。

問題は、移住対象とされた宇宙体に先住している生き物が存在している場合です。彼らは、おそらく地球人らが、やってくることに反対するでしょう。ロケットの着陸を拒否するでしょう。

さあ、どうしますか。そうそうは、地球に似て、人間たちが安堵できる宇宙体なんて、ありませんよ。ここしか。ここに着陸できなければ、地球人は、もはや全滅するのみです。ロケットには武器は積んでこなかったのですか。おそらく小銃の何丁かぐらいは所持してきているはずですね。さあさあさあ。泥炭さんなら、どうしますか。

わたしなら、強引にいくしかないと思いますよ。生きようと思うなら。相手がなんと云おうと、まずは、ロケットに着陸する体勢を取らせる。そして乗員乗客に銃を持たせる。彼らが、われわれを拒否するというのなら、さらに力を持ってわれわれを追い払おうとするなら、侵略者だと言われようと、軍国主義者だと言われようと、なんと言われようと、彼らと戦争する以外には、彼らの宇宙体を乗っ取る以外には、わたしたちの生きる道はないのです。

考えておくべきは、上の場合の逆もあり得るということです。すなわち地球上に宇宙人がやってきた場合にどうするかというSFです。これまたさんざんに語られてきたような気がしますが、まずは火星人がやってきた場合。それに未確認飛行物体が、これみよがしに飛び交ってきた場合等々。

おそらく、地球恋しき、われわれは彼らを容認することはないだろう。まずは排斥行動に出るだろう。二度と来るなと、彼らが何者であれ、一匹残らず撲滅しようとするに違いありません。こうした時の政治的狂気こそ、そも戦争状態だと、言うのかも知れませんね。

さて、異物としてのゴジラは海に帰っていきました・・・・・めでたしめでたしという按配です。ゴジラの気持ちもわからなくはないです。しかしながら、わたしたちヒト科が、ゴジラと一緒に同じ屋根の下で、それも仲良く暮らそうなどということは、どう考えても無理難題だったのです。

 

 

 

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