赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼「スカートの中の劇場」 上野千鶴子

2002年04月24日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

本日午後3時半。某私鉄ターミナル駅の改札口前。春ですね。娘たちの白いおみあしが艶(なま)めかしい。タバコを吸う手つきまでなかなか板に付いている。通りすがりのオジサンも一応、これでも男だし・・・・変な気持ちにさせられる。ガッコ帰りなのだろう、いずれもれっきとした制服を着てござる。この子は中学生か高校生か。二人の息子たちが異様なほど抵抗した「ガッコ」と「制服」。それが彼女たちを見ていると少し分かってくる。もちろん息子は男。現在どこまで欲望が肥大している状態なのかは、ほとんどよく知らない。知らぬが花ということもある。どこでなにをやっているものなるや。もしかしたら、今だ男と女の区別がよく分からず、その境界線上でふらふらしているということもあり得る話だ。だが、こればかりは人に教えてもらって納得しても、どうなるものでもない。なにもかも、子ども個々が苦労し、内面に少しづつ蓄積させてきた結果と外からやってくる導体との偶然の関係にゆだねる他はない。さて昨今では女を「女」にさせる過程は、男を作るよりガッコではよほどうまく行くようだ。「制服」こそガッコだ、と断言していた風俗学者がいたが、なるほどと思う。「女の子」たちにとって、ガッコと制服こそ「女」になるための最適最上のツールだったとは、私も世間を知らな過ぎた。女子生徒はスカートをはくのが空気のように当たり前だと認識していたのだが、こうしたところもよおく考えてみれば、面白い問題にぶつかるものだ。そういえば男女差別なしのズボンをはかせているという話は公立小学校などをのぞけば聞いたことがない。女性学の上野千鶴子氏の『スカートの中の劇場』という本を読んだことがあるが、改めて納得した次第。「女の子」にはスカートをはかせてみて、世渡りの「劇場」も方法も男と違うことを、まずは思い知らせてやるのだろう。「体に覚えさせる」というのが、何事もてっとり早いとでも考えているのだろう。これぞガッコ教育と言わずして、他にガッコの価値など探しても見つかるものでない。それはともかくこうも毎日、駅周辺に現れては他ならぬガッコ制服のスカートを「劇場」にして、あからさまに「女」修行を始めるものだから、目のやり場がなくなり困ってしまう、オジサンの立場も考慮してほしいのだよ。ガッコさん。

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