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▼「反科学論」 柴谷篤弘

2016年08月16日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

 

『反科学論』を著した柴谷篤弘氏は健在だろうか。1920年生まれだから90歳に近い。柴谷氏は生物学者だが、現代に生物学ほど変容を遂げた学問もないだろう。限りなく細分化されてきた一方、化学や物理学と隣接し重なってきた。私は門外漢だから、いまやなにが生物学なのかさっぱりわからない。

柴谷氏の一冊の著書を読んだ程度で生物学のなんたるかも分かったと自慢するつもりは毛頭ないのである。 その一冊には「反科学論」という奇妙な題名がつけられていた。出版されたのは70年代のことで、科学者にあるまじき自己否定にもつながる、そのタイトルが物議を呼んだ。

当時、柴谷氏は東大の教官だった。周知のように大学紛争のまっただなかである。柴谷氏は、彼ら学生の言い分と付き合っているうちに、科学に対して根源的な疑問を抱いた。柴谷氏に、そうした原理的な問いかけをもたらしたのは、全共闘の諸君だったと、柴谷氏みずから同書に記している。全共闘とは、左翼主流派すなわち共産党とは袂をわかつ急進派の集まりだった。

わたしは当時から下町で赤旗配りをやっていた若き党員だったから全共闘をはじめ各種セクトの言うことや彼らの主張には、否定的だったどころではない。連日、赤旗新聞では、彼らの横暴を糾弾していた。まさに「反社会的分子」であり犯罪者に同然の暴力的なチンピラとみなして侮蔑し敵視していた。

その彼らの言っていることの一つに、「大学解体」というものがあった。大学は特権階級の温床となっており、その存在からして人民に敵対している権力装置のひとつであると言っていた。 こうした急進的かつ原理的な理屈に、共産党は反感をいだいき、彼らの存在と主張を封殺するために「学問の砦」たる「大学」を守るために、彼らと似たような「部隊」をつくった。その現場指揮官の一人が数年前から話題を呼んでいる宮崎学氏である。

話を柴谷氏に戻そう。私が彼の「反科学論」に触れたのは、だいぶ後年になってからである。共産党もやめていた。今になって思うに、全共闘の「大学解体」という主張は、間違っていないと思う。だがこれを実行に移すことは社会をめちゃめちゃにすることでもある。 大学解体どころではなく、まずは社会が解体されなければならない。

方法論上の理屈としては正しくても代替案が、なければ人々のコンセンサスは得られまい。彼らは決して代替案は、出せなかった。ここに人々が生きている事実と観念に直結している重大な問題がある。社会的に生きるということは、いやおうなく政治を行っている。人付き合いは政治の始まりだろう。また社会には、多かれ少なかれ歴史というものがある。それは闇雲に否定できないものなのである。よって彼らの主張も、代替案がなければ、もとより政策的には一歩たりとも、その実現は不可能だったのである。

結局全共闘運動は内ゲバ闘争に埋没し体制内社会からは完全に孤立し、そして収束していった。だが、理論的には彼らの主張はある真理を示していた。彼らの言い分に、当時から柴谷氏は思想的に共感していたらしい。だが、それは同時に自らの生業ともいえる「科学」を自己否定しなければならない、つらい作業だった。柴谷氏は、科学の社会的な原理を疑ってみたのである。自然科学を哲学の遡上にのせたといっても過言ではない。それが「反科学論」である。科学書というよりは思想書である。柴谷氏は主張する。

学問は科学に税金をつぎ込むべきだという話は、学問や科学の進歩、発展が絶対的に善であるという特定のイデオロギーの下でしか成立しない幻想である。

また次のようにも。

科学・技術による人類福祉の増大というのは、あからさまな、まやかしである。それは科学・技術の系統的な創出の時期から、その発展の頂上をきわめるまで、つねに地球上の一部の人々による他の人々の支配によって成立し、またそのために奉仕するようになっている。そして実は民主主義といった、今日一応最高の価値として考えられている概念すらが、このような支配機構のゆえになんとか存在できるものというように見えてくるのである。

科学・技術と民主主義によってより多くの自由を享受する人々のある反面、相対的に以前より自由を失っている人々がたえず存在し、しかもこのような不平等を消失させたうえで、なおかつ科学・技術文明を維持していくことができるかどうかは、まだ人類にとっては未知の課題なのである。とすれば、科学というものは、はなはだ信用のおけない危険な存在ということになる。

1969年、機動隊と学生による「島原の乱」もどきの東大時計台の攻防戦の直後のことである。この攻防戦を、すぐそばで直視していなければならなかった柴谷氏にある啓示が訪れた。

わたしは粛然として机に向かい、それまでの私の学問に対する態度が何であったのかを考えた。それを紙に書き記した。私の信じた科学とはなんであったのか。そうして、とうとう科学は悪であると認めざるを得ないような気持ちになった。そこで、そのように紙に書いた。激情がわたしを貫き、涙があふれた。わたしが、もしいささかでも変わり得たとするば、そのときに変わったのである。

・・・・齢50近く、ようやくにして眼からおおいが剥がれ落ち、急に今まで分からなかったことがわかるようになった。 そのときの体験は、ある種の宗教的体験に近いのかもしれない。わたしは科学にこだわっていたのであった。なにも、その瞬間から、わたしは科学をやめたわけではない。依然として科学は好きだった。しかし、机の前でひとりで泣いていたそのときから、必要とあらば、科学をやめてもいいという覚悟はできたと思っている。

 


 

<2007.01.19 記>

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