赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼習うより慣れろ

2016年07月24日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

 

昔、自分が書いた以下の記事を読み直し、はずかしながら自画自賛の憂き目にあった。読者諸賢にも、どうか、もう一度読んでみてほしいと願う自己愛の湧出を大目にみてほしい。

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10年ほど前のこと。小学校の先生の話を聞く機会があった。その方は、九九の教え方についての実践例のようなものを得々と話されていた。わたしは、疑問にも思わなかった。たいしたものだと、そのときは、そう思った。われわれが昔習ったように九九なども「ににんがし」以下、まるで歌のように暗誦していれば、それでよいものだったが、その先生がおっしゃるに、それでは意味が理解したことにはならず、意味こそ大事で、2×2=4ということにしても、さまざまな教材をつかって、この式に含まれている意味を、論理的に教えるのが肝要であり、ここに今日の教育全般を読み解く鍵もふくまれているという理念的な話にもおよび、保護者としての立場から、その会合に列席していた私たちも心底から、それはその通りだと重々と納得したのである。

それからだいぶたって、私の心には疑念が芽生えてきた。そういうものだろうかと。わたしは算数はともかく、数学たるや、子どもの頃から、まったく毛嫌いしており、つり銭を数えるのも面倒な口なのである。かろうじて自分の年齢が数えられる程度なのである。だが、幸いに九九は、いまでもちゃんと覚えている。どういうわけだろうか。10歳の頃、教室で大声を出しながら九九を暗誦した光景を思いだす。

あの頃は、教師も九九について難しい話など、なにもしなかった。ともかく大声を出して、全員一致、算数の授業の前に「ににんがし」から始まって「はっぱろくじゅうし」にいたり、「くくはちじゅういち」まで、ながながとした歌を暗誦させられたものである。ところどころつっかかる箇所もないとは言えないが、ほぼ完全に覚えている。論理も理屈も関係ない。覚えていればいつでも引っ張り出して、援用できるのである。桁数の多い数字の計算は苦手だが、四則なら、できないことはない。これも、50年も前の算数のおかげだと思っているのだ。

実際が、こうだとするなら、冒頭の先生のありがたくも小難しい教育法というものは、どうなのだろうかと疑うのである。これは九九ばかりではないだろう。総じて理屈っぽくなってしまっているような気がするのだ。不毛なとこに情熱をかけている。退屈きわまりない。

いくら論理や理論が大事だとはいっても、それは学校教育とどういう関係があるのだろう。物事の奥義ともいえる。そうした重大な認識の奥深い問題を、学校で教育できるものなのか。論理や理屈は、そもそも、人の言語体験に含まれる、個別にして私的なものなのではないだろうか。思想的な認識までに直結している重大な問題とは、云えないだろうか。

こんな風に思うと、先の先生の実践と考え方も、逆のことを行っているようにも思えてくるのである。徒労にして不毛な感じもする。子どもたちが、それで喜んでいるというなら、関係のない私が文句を言う資格はないが、なにか考え違いがあるような気がしてならないのである。

さらに子どもに「考えさせえる教育」などという言辞を耳にしたことがある。これも同じことだ。子どもに十分に考えさせるというのだが、眉唾物なのである。そんなことが字義通りにできるのだろうか。考えるということは、非常に個人的な内心の問題である。目をつぶって黙想していれば、それが考えることであるとでも、思っているわけではないだろうが、かりに、子どもたちに向かって、5分間の時間を与えるから、さっそく考えろと言ったところで、なにがどうなるものでもないだろう。

考えろといわれて、やおら考え始めるようでは、考えていることにはならない。考えるということは、集団的な動作でまかなえるようなことは、なにもない。ならば、どうするかということだが、無理は禁物だ。もちろん子どもも考えるということは、必要だとは思う。

だが、考えるということは集団的な行為にはなりにくいということを、わきまえておくべきだろう。誰でもそうだが考えるということは、自問自答の一環なのだ。難問を前にして、さらにその難問を解こうと身構えて、始めて考え出すものではないのだろうか。教師が質問が、考えるに値するほど甚大な意味を持つものか信用できないのである。

教師であろうとなかろうと多くの場合、人から自分に対して発せられた問いは、必ずしも問いにはなっていない。考えるに値する問いは、むしろ自分の内面から、あるひ突然生まれてくる。子どもは、それについて悩みに悩み考えているのである。

このときばかりは、教師も親も不要となる。解答が見つからず、悩めば悩むほど、思考する力が深くなるに違いない。これは学校の授業とは別の問題だと思う。よって、学校における手法として「考えさせる」うんぬんかんぬんとは、私にはウソっぱちに見えてくるのだ。こうしたことは、こればかりではないだろう。

実質がともなわず、それに出来るわけもないのに言葉だけが先走っている。「詰め込み教育」とか「ゆとり教育」なんて言辞も流行ったが、これも何ひとつ確たる内実はなかったようだ。それほど詰め込むのが嫌で「ゆとり」が欲しいなら、最初から子どもには勉強などさせなければよい。

 

<2008.04.11 記>

当記事の下のほうに「教育を語ろう21掲示板」の管理人泥炭氏がいくつかのコメントを書き込まれている。コメント欄は、当記事のタイトルである「▼習うより慣れろ」の文字をクリックすると全文が閲覧できる。しかしながら、今のところ私には泥炭氏の主張の先が、さっぱり分からないままなのである。不徳のいたすところなり。

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8 コメント

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学校以外にも学ぶ場はある拝読 (泥炭)
2008-03-29 18:21:40
今晩は

 少々ルール違反かもしれません。問題が有ったら削除してください。 当該の記事はコメントを受け付けないことに成っていますのでこちらに投稿させて戴きます。

 さすがは朝日新聞論壇に掲載されただけの事はある、素晴らしい文章です。 
苦しい経験に意欲的に取り組んでこられた方でなければとてもこれ程の文章は書けないだろうと感じ入りました。要点を掴み、抑制が効き、ヒューマンでかつ新鮮な視点が感じられます。

 とはいえ、御主張に素直に賛同できるかと言えば、残念ながらそうではありません。 この問題を考える上で、貴重な参考資料に成るだろうとの思いから
早々にコピー保存させていただきましたが、一方ではこの文章は必ずしも実態を踏まえていないのではないかと言う疑問も沸いています。

 おそらく、この疑問はかもめさんご本人を知らずにこの文章だけを読んでいたら湧いてこなかったものかもしれません。 またかもめさんと同程度にかもめさんのお子さんの事を知っていたら、もっと素直に共感できる事かもしれません。 しかし、当のお子さんの事はかもめさんの文章を通してしか知りようが無く、その一方でかもめさんご本人は掲示板を通してとはいえ、10年近くに渡って観察させていただいています。 随分と議論もさせていただきました。そのご本人の印象が読み進む文章の上に折り重なって来ると、ついつい批判的な思いが行間に浮かんで来てしまうのです。

まずもって浮かび上がるのは、これ程の文章を書く人が、何故近頃は所嫌わず吐き気をもよおすような愚劣な文章を書きまくっているのだろうかと言う疑問です。 まるで別人の様です。 書く内容が稚拙であってもそれは能力の問題です。 他人を誹謗中傷することに明け暮れていても、本人にしてみれば少しでも振り向いてもらいたい一心でする求愛行動に過ぎないかもしれません。
しかし、かもめさんの最大の問題は、それぞれの掲示板上に定められたルールに従う意思が全く伺えない事です。いえ、そうした規範に縛られる意思は無いともしばしば公言されています。 かつて革命を指向する集団に属していたとご本人が公言する唯一のそれらしくもある過去の残影かと窺はせるところです。

 かもめさんは言われます:
 < 氏は、学校とは「子供たちが集団生活を学」ぶ所であると強調するのだが、はたして集団でなければ「教育」は成り立たないものだろうか。集団生活を学ぶことも必要だろうが、それは個別的カリキュラムに過ぎないのであって、必ずしも勉強する環境を四六時中強固な集団にしておかなければならないということではないはずである。 >

なるほどおっしゃるとうりです。 第二次世界大戦をリードしたチャーチルもルーズベルトも幼少年期のある時期、学校教育に馴染めず家庭での教育で育ったように記憶しています。 しかしながら、集団生活の有様はどこかで学ばねば成りません。社会的な人の交わりにはそれなりのマナーなり規範なりはつきものです。 生涯それを学ばれなかったかもめさんの様なあり方は不幸ではないでしょうか。 勿論、かもめさんにはこの点においては異論が有ることでしょう。 それも含めてどこかでこのかもめさんの
【学校以外にも学ぶ場はある】
を題材に多いに論じたいものです。テーマとしては【教育について語ろう21】
で論じるのに最適なテーマだと思います。しかし、それにはまずもってかもめさんに掲示板でのルールを遵守する約束をしていただかねば成りません。 それはかもめさんの潔しとするところではないのでしょうから、なかなか議論も進められません。 いかにも残念な事です。 


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泥炭さんへ (かもめ)
2008-04-02 02:15:01
泥炭さん。コメントをいただき、感謝です。ですが、相変わらず、あなたの言うことは迂遠です。肝心なところ、なにを言いたいのか、雲につつまれたような気分になりますね。掲示板で議論をしたいというが、あなた自身が、そうしてここに自分の主張を書き記しているではありませんか。そんな調子で、何事につけ、意見があるなら、そのように書ける場所に、書いてみればよいではありませんか。それ以上のなにかの形を欲しているようですが、他に求めても、それはないものねだりと申すもの。ここの形に従ったのだし、誰もそこのことを否定も批判もしていないでしょう。しきりに議論したいと申しても、わたしには、あなたが希望されている議論の性質が、さっぱり分かりませんよ。自分の思うところから、さっそく本題に入ってみればよいのです。何か、わたしに不平やその他言いたいことがあるなら、上の文章が、その端緒となっているらしいが、そのまま、ここで論じて見ればよいのです。あなたが自ら自慢されていた長文論文も、不自由なく、ここでは書き残せるはずですよ。どうぞ思うところを存分に書いてみてください。
返信する
ここでは議論もろくにできません (泥炭)
2008-04-06 17:41:24
ご返事いたみいります。

> 相変わらず、あなたの言うことは迂遠です。
肝心なところ、なにを言いたいのか、雲につつまれたような気分になりますね。

 それは困りましたね。 簡潔に書けば、とんでもない誤読をしてトチ狂い見当違い
の罵詈雑言を浴びせてくるのに丁寧に順を追って話せばこれだもの。度々の前科はお忘れですか? 

> そんな調子で、何事につけ、意見があるなら、そのように書ける場所に、書いてみれば
よいではありませんか。

 いえね、私に意見が有ると言うよりもね、貴方の“学校以外にも学ぶ場はある”と
題した御意見は【教育について語ろう21】に持ち出せば多いに読者を刺激して皆さ
んの間で論議が弾むだろうと思ったのですよ。論議の深化にはここよりツリー形式の
掲示板の方が適していると言うのが私の持論ですが、論じられたことは末永く保存し
ておきたいものですし。 第一臆病に< ただいまコメントを受け付けていません
 >なんてんでは、私の期待する論議の深化は望むべくも無いのですから。

> しきりに議論したいと申しても、わたしには、あなたが希望されている議論の性
質が、さっぱり分かりませんよ。自分の思うところから、さっそく本題に入ってみれ
ばよいのです。何か、わたしに不平やその他言いたいことがあるなら、上の文章が、
その端緒となっているらしいが、そのまま、ここで論じて見ればよいのです。あなた
が自ら自慢されていた長文論文も、不自由なく、ここでは書き残せるはずですよ。ど
うぞ思うところを存分に書いてみてください。

 私の申し上げたいところは既に先の投稿で充分申し上げています。 それをご理解できない貴方とこんな隅っこで私的に論じていても理解は深まらないのです。 論議の深化は一人の人の思い付きを様々な人の視点から吟味することによって得られることが少なくありません。 また、貴方にしても私一人から言われただけでは気づかないふりをして済ませてしまわれることでも、色々な人の意見を聞けば、ついには自らの誤りを認める気になることもあるでしょう。 貴方に限った事ではありません。 誰でもそうしたものです。 勇気を出して穴倉から出てこられては如何ですか? 

返信する
遊びから学んだことが多いかも知れない (渡辺 喜久雄)
2008-04-12 13:13:55
私達夫婦が親として実行してきたことを少しまとめてみました。

①子どもの発育を静かに見守る
「早く寝なさい」「起きなさい」などなど、子どもを急き立てるような言動を日常、廃してきたこと。

②子どもの関心・興味に寛容となる
 工作や粘土、遊びに対して途中で止めたり邪魔しなかったこと。

③子ども時間を大切にする
 大人の生活時間と子どものそれとは異なっていることに注意したこと。

④子どもに遊び過ぎということはない
 大人の判断や都合は、子どもの世界や集中力を妨げてしまうことに気がついていたこと。

⑤すべては学びである
 「おはよう」「おかえりなさい」など日常の挨拶は親から実践してきたこと。

⑥可能なかぎり強要・強制を廃する
 親は「躾」と称して些細なことまでも子どもに「無理強い」しがちなので、それに配慮してきたこと。
「勉強しなさい」「学校に行きない」これらの類の強制は一度もなかったこと。

結構、礼儀正しい大人として成長してくれました。
学校の勉強には難ありとなりましたが、社会人として一線級の仕事をこなすようになってくれました。
子どもが生まれたことも有り難いですが、一応、一人前の人間として成長してくれたことも有り難いです。
返信する
「部屋開放」 (渡辺 喜久雄)
2008-04-15 07:31:29
息子が小学生時代、我が家の一部屋を子ども達に開放していた。
その部屋には、ファミコン、パソコン、テレビ、ステレオその他ちょっとした遊び道具などがあり、
そして文庫というと大げさだが、マンガや本の書棚あり、という具合だっただろうか。
子ども達の一番人気はファミコンで、ゲームソフトのストックはたくさんあったが、新しいゲームソフトはよく盗まれた。だから買い足ししなければならないような始末だったこともある。
しかしゲームソフトはやがて返却されることも多かった。きっと飽きたら返すということだったのだろう。
クラシック音楽が大好きな子がいて自宅でレコードを聞きたいとのことで貸し出しもした。
異年齢の子ども達が出入りしていた。
あるとき、警察官が来て「お宅の品物を盗んだといっているのだが・・・」。と事情聴取に来訪した。
私は「そのようなことは一切ない」と応じたことがある。

五年間に及んだ開放部屋も私達の転居によって終結した。
短い期間だったが、この部屋の空間によって子ども達にいくばくかの教育的価値をもたらしたかどうかということは分からない。が、けして悪いことだけじゃなかったと今でも信じている。
返信する
可愛い子には旅をさせよ (渡辺 喜久雄)
2008-04-15 08:48:47
私が極度の「方向音痴」や「英語力」なしということもあって、子どもには、このふたつのことが苦手にならないようにとの願いがあった。

幸いのことに南米ブラジルに住む友人家族(日本人)があって、息子は二度ほどお世話になることができた。二度目のときは息子が六年生のとき、彼の「夏休み」を利用して小二の子どもを連れ立って「子どもふたり旅」で一ヶ月間、ブラジルを拠点に南米のいくつかを国を探索する幸運に恵まれた。

彼が小三のとき子どもひとりの参加も許可ということで、一週間程度の「中国大陸の旅」というツァーにひとりで参加させた。
小四のとき、オーストラリア夏休み「ホームスティ」の旅という企画があって、それにも参加することができた。

やがて青年となった彼は「アジア放浪の旅」に出発するということで親の私達には「もしかしたら帰ってこないかも知れない」と送り際宣告された。

こんなエピソードもある。嘘のようなホントの話である。
彼が出国してから4ヶ月頃のことだろうか、息子が生きているのか死んでしまったのかその安否さえ定かではなく心中親の私達は心配だった。そんなとき、たまたまネパールに立ち寄った友人が「渡辺さんの息子さんとばったりお会いして彼から声をかけられました。お元気そうでした。現地人に溶け込んでいるような感じなので心配ないでしょう。」との朗報をもたらしてくれたのですごく安心させられた。

やがて成長し社会人となった息子は仕事でアメリカ、プエルトリコ、中国と出張するようになっていた。

昨年だか、英語力が必要な「オンラインゲーム」世界大会で優勝チームの一員として活躍とのことから推測するとまぁ英語を苦手とはしていないことが伺える。

我が家の場合、たまたま幸運に恵まれたが、
学校現場から離れたところで「学ぶ」という事柄が多岐・広範囲に及ぶということを示しているといってもよい教訓ではないだろうか。
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親の基準は当てにならない (渡辺 喜久雄)
2008-04-15 12:26:16
息子が小学校高学年のときのことである。
彼はパソコンをやりながらマンガを読みテレビをつけている。
電気代が勿体ないので私は息子に「テレビは消してみたら」とお願いしてみたところ「テレビも見ているよ」との返事。「じゃぁパソコンの電気は消してみたら」との私のコトバに彼は「パソコンもやっているよ」とのこと。真正面からお互い言い分が食い違ってしまっているので息子の意見を尊重することにした。
というと格好いいのだが、そのときの私の気持ちは、「聖徳太子じゃあるまいし、一度に3つ4つのことなど同時にやれることなどあるまいし」と思っていたのが本当の気持ちだった。それにまぁ彼がそう言い切ったので私は仕方ないといはば諦めの境地だった。
だから二度とこの件に関して干渉がましい依頼は避けた。

20歳のとき、彼は「金属超微粒子(ナノコロイド)」を扱ういくつかの会社を立ち上げていた。その当時、あるとき、彼に(製薬に関する商品もやるので)私はある専門書を読んで欲しいと依頼した。「いいよ」といって彼はトイレに入り本を読んでいたらしい。すると20分もしないのに「うん、よく分かった。参考になるよ」といって私に返本したのだった。私は呆れて「分かったって。これは専門書だよ。ちゃんと読んでくれないと困るよ」というと、彼は再び「うん、さらっと読んだけど良く分かったよ」との返答。「えっ何書いてあるのか分かったの?」と聞くと「うん、まぁね。じゃぁオヤジ何処に何が書いてあるのか聞いてみたら?」との由。親の私の知らない間に、息子は子どもの頃から自然に「速読」を身に着けていたらしいのだ。

その後、成人に達した息子に子どもの頃、同時にいくつかのことをしていたって言っていたけれど本当にそうだったの?って聞いたら「そうだったよ」との息子の応えだった。

息子は学校以外で獲得した「学び」が遥かに多く、小学校・中学校までの成績はまぁまぁだったが、高校時代はまるでダメの生徒だった。しかし学校での成績はバカみたいに陥ってしまったが、息子は決して本当のバカではなく言はば「天才系」に属していたのじゃないだろうか。。

そんな息子は、現在、得意のコンピューターを生かして「携帯電話の開発チーム」や○○システム開発に参加、「SE」としても働いている。
返信する
学校以外にも学ぶ場はある (かもめ)
2016-04-09 07:09:29
上のコメントで泥炭さんが、指摘している私の文章は、以下のものである。

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▼学校以外にも学ぶ場はある

2008年04月11日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話




九七年十二月十八日の当欄(朝日新聞:論壇)で「教師の存在感を高めるために」という不登校問題についての小児科医・上野良樹氏の意見を読んだ。氏は、不登校の子どもには「勉強でのつまづきをきっかけにしている子が多」く、このような子への教師の対応が希薄すぎるので、もっとしっかり対応すべきであると述べられ、また「不登校も積極的な選択の一つだと主張する人がいるがこれは間違い」である、なぜなら「学校を否定して生きていく力は子供たちにはない」からだと断言されていた。しかしこれでは、教師にとっても親にとっても一向に解決への道は見い出せない。在籍校への登校を子どもの気持を無視して強要することになり、登校したいのだができないという自家撞着の堂々巡りから永久に抜け出せないのである。

私の場合も息子が地元の中学校に在籍しているのだが、入学当初からほとんど登校していない。そこで、同じ問題をかかえる地域の親たちと毎月話し合いを設けている。時に学校の素っ気ない対応に怒りをぶつける親の声なども聞こえてくる。だがこれは学校と教師の「教育」上の存在感を大きくしておきたいという親心の裏返しであり、学校へのこだわりの強い親ほど悩みも深刻であるという傾向に気づかされた。さらに氏は、学校とは「子供たちが集団生活を学」ぶ所であると強調するのだが、はたして集団でなければ「教育」は成り立たないものだろうか。集団生活を学ぶことも必要だろうが、それは個別的カリキュラムに過ぎないのであって、必ずしも勉強する環境を四六時中強固な集団にしておかなければならないということではないはずである。自分を押し殺し統制感の強い集団に無理にでも溶け込ませておかなければ学ぶことができないという環境こそ問題だと思うのだ。

「勉強でのつまずき」が不登校に結びつくのは学校での勉強のあり方が一人ひとりの子どもという主体から発想されているのではなく、他との比較、集団との折り合いということを主眼としているからだろう。学習の進度なども子どもによって多様なのが自然なのであって、それが「つまずき」になり不登校となってしまうのは、多様さが許されないからである。集団生活を学ばせるという名目での強制力が強くなれば、はじき出される者が出て来るのは必至である。子どもたちが再び登校できるためのゆるやかな対策もたしかに必要であろう。クラス編成も「四十人はやはり多すぎる」し、小人数学級や小規模学校を実現していくことも一助となることは否定しない。だが着々と学校統廃合が進んでいる現状では、いずれも理想論に過ぎない。たとえクラス定数を二十五人にしたとしても学校運営における集団主義的指向が相変わらず続くのであれば不登校がなくなるとは思えない。

私たちの「会」でもよく話題となるのだが、不登校の子どもを取り巻く地域の冷淡な視線もまた、子どもたちから広い意味での「学ぶ場」を奪っている。不登校であるがゆえに地域の学習塾から入会を断られた子どもの話を聞いたことがある。このように、登校しないかぎり「教育を受ける権利」は一切享受されないという一元的なシステムからの圧迫が、不登校の子どもたちを必要以上に閉じこもらせ、新しい学びの場との出会いを困難にさせている。学校に在籍していることはたしかに子どもすべてが受けることのできる重大な権利の一つだが、これにしがみついていても実際には登校しない子どもの「教育」にとってはなにひとつ好転しないのが実状である。したがって私は、不登校の子どもとその親に対して学校や「教師の存在感を高める」のではなく、むしろ在籍しているという呪縛からとりあえずは逃れなさいと奨めたい。

家族の新しい関係を模索する中で、やがて家庭の中でも意外にしっかり育ちつつある子どもを発見し不安が薄らいでくる。気持を安定させた後、再び登校できるようになる子もいるし、子どもによっては篤志の人たちによって運営されているフリースクール、フリースペースなどに通うことができるようにもなり、またある子は家庭学習の構築を図っていく。私の場合も子どもが休み始めた当初は悩みがつきなかった。世間の目を気にして息子が登校するかしないかに一喜一憂の日々を過ごした。だが「親の会」などでそうした気持を打ち明けあい情報を交換する中で、登校を拒否する子どもたちも、決して学ぶことを拒否しているわけではないことが見えてきた。以来、一年半にわたってほとんど毎日子どもと一緒に本を読んできた。これを通して親子の信頼が深まり息子の表情に自信と明るさ、知的な向上心さえもよみがえってきた。やりようによっては家庭でも十分に「学ぶ場」になるという確信を強めているところである。

(98年1月20日付;朝日新聞「論壇」)

<1965字>
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