赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼ 『転居のいきさつ』 感想

2019年06月19日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

  

 

 

新潮社
http://www.shinchosha.co.jp/book/910048/

  

 

 

●第一感

その本は昨年刊行された小説集で、出入りしているネット掲示板の中で聞き知って興味を持ちさっそく最寄の書店に取り寄せてもらい今朝ほど入荷したむねの連絡があり受け取りに行き近くのカフェに入って読み続けつい先ほど読み終えた。上等な小説に出会った時には決まって湧き上がってくる幸福な満足感が胸中に広がった。久しぶりに小説らしい小説、作品らしい作品を読ませていただいた。この本にはまえがきもなければあとがきもない。そうした余計なおしゃべりの類よりは主人公の青年の言動が文体にじかにつながっていて何か途轍もなく弾力に富んだスプリングが表表紙と裏表紙の間にはさまっていた。

 

 

2016.12.28 横浜市

 

 
●第二感

当のご本はただいま同居している次男に強引に貸し出し中です。読んでごらんと云ったらめんどうくさそうに「いいよ」と断ってきたので、著者の経歴などをひとしきり説明したら顔がほころびはじめてきてニヤニヤしながら本を持って自室に戻っていきました。さても、ずいぶんと古い話で著者には不満かもしれませんが白樺派の、それも志賀直哉を読んでいるような感じでした。1967年、米国はP大学に集っていた日本人留学生の一団もまた白樺派だったような気がします。主人公の西河原は彼らの中でわずかに抜きん出ていた。その自由度において一筋縄では行かないものを持っていた。明治末年当時白樺派の中では、それが志賀直哉でしたから。さて、わたしにとってもこの本は事件でした。そこで、おれ様もこのままうずもれてしまっては半年前に九十五歳にして往生を遂げた母ちゃんに申し訳ないとわが身に活をいれたところです。わたしもまもなく七十になりますから。

 

 

2017.01.04 足立区


葉が散らずに年を越したはなみずき

 

 

 ●第三感

作品の最後に次のような一節があった。

わたしも夏にはプリンストンを去ることにした。こうしてボルスキーの研究所は消滅した。荷物いっさいを六十一年型のフォードに積み込んでプリンストンを出たとき国道一号線からGC寮の塔の背後に真っ赤な夕日が沈んでいくのがみえた。わたしはくるまをハイウェーのわきにとめて塔の写真をとった。それはわたしがプリンストンにきてはじめてとった写真だった。

主人公西河原には三度笠がよく似合うなどと不埒なことを考えた。股旅物とは言わないまでも西河原は旅人だったのだ。

 

  

 2017.01.06 横浜市

 

  

 

 2017.01.08 足立区

 

 

 

 2017.01.21 横浜市 

 

 

 

 

●第四感

私が有田さんにお知らせする前の時期にPGMさんは別ルートで(自分で調べてか?)
MOKUMOKUさんの個人情報(私のとは別口の個人情報・住所氏名など)を知っていましたね。

上の記事を載せてきたのは、どこのあんちゃんなのか。十数年前のたかだか掲示板上の矮小政治を、あれこれと持ち出してかかわってきた御連中どもを再び興奮させようとの目論見と、その発想が矮小だ。使い物にならないしょぼくれた老人の金玉模様だ。

有田芳生氏(現民進党参議院議員)は日本共産党の二軍なのだよ。どこまでいってもだ。有田氏の場合は、姿を変え、所属の組織を変えても根っからの現代共産主義者ですよ。小沢一派であろうと民進党であろうと彼にとっては自身の売名活動のために、組織も有名人も、いかに自身の売名のために利用できるかの価値しかない。その意味では世渡り上手だ。だが、彼の場合なんと言ってもポピュリズムに奉ずるしか手法はないのであり、その思想の薄っぺらさといったら全国民に周知されている事実だ。

ある人が世間から褒められるのは「一芸に秀でる」という現象を自ら世に示すしかないのです。MOKUMOKUさんの小説集『転居のいきさつ』(新潮社)を読ませていただいて、つくづくとそのようなことを考えましたね。

政治家ならば政治という泥にまみれなくてはならない。今井君のように金儲けだけが人生だというなら実際に金持ちにならなければならない。年収600万円で金持ちだと自慢できますか。こうしてネットでは中身のない口ばっかりが達者になった空っぽ人間の能無しが安直手法に乗せられて、やれラインだツイッターだフェイスブックだと雨後の竹の子のように面を出してきては、この世にたった一つの「わたし」の心の一節さえも歌うことなく傷つきつぶされていく。


本当に惨い実害が出ているのです。MOKUMOKUさんの実名、
自宅の住所、電話番号勤務先などがあちこちに貼り付けられているのです。渡邊さんも、 ご存知ですよね。


仮にも、そのようなことがあったとしてもだ。最初の最初にネットや電子メールに、自分の個人情報を偉そうに記した当人の責任である。MOKU氏は渡邊さんあてに長文のメールを送付した。後にモクモク文書と呼ばれたものである。このメールの末尾にご自分の個人情報を書き付けた。ニューヨーク在にして米国の某大学の教授職とうとう・・・。

なんのために、そのような余計な言辞を記したのか。おそらく、それらの個人情報が多少は権威となり渡邊さんを説得させるに役だつだろうとの思いからである。だが、これは誰が見ても不純なやり口だ。

MOKU氏が、もし東京の下町在にして、当時のわたしがそうであったような無職の初老男だったなら実名も住所もメールに書き記す必要性は毛頭なくなる。もとより、この話題は同時的にいくつかの掲示板で喧騒を極めていた。なぜ掲示板で議論せずに渡邊さんこそ渦中の中心人物と見なされていたとはいえ特定者あてのメールにしたのか。末尾のいかにも高級な個人情報を、これ見よがしに知らしめて後、渡邊さんをして説き伏せんとしたことは明白ではないか。これがMOKU氏によるメールにこめられた真の狙いだった。権威を盾にして有田氏擁護の立場をとっていた渡邊さんに圧力を加えんとした。

当メールによって有田芳生氏が一方的に誹謗中傷されていると判断した渡邊さんによって当の有田芳生氏に末尾の個人情報を含めてそのまま転送された。ただちに有田氏によってMOKU氏の個人情報だけが取り出されネット上に拡散されてしまったのである。何度も言うが十数年前のことである。誰が悪い彼が悪いという問いは二束三文の瑣末な話に落ちる。畢竟、MOKU氏の個人情報をばらしてしまった最初の張本人はなんといってもMOKU氏自身なのであるからして。

また、もうひとつの考えがある。ご自身の個人情報が世間にさらされてしまうことはMOKU氏にとっては、もとより想定内のことであり折り込み済みだったとしたらどうだろう。まさにMOKU氏の「いたずら」だったのかも知れやせぬ。

MOKU氏の小説『転居のいきさつ』の主題のひとつが、この「いたずら」の出来不出来にある。それもだいぶ高級な「いたずら」だ。下司はひたすら当の「いたずら」に反応発奮して犯人探しに右往左往する。

ところが実際にはそうではなく通り一遍の月並みな対応に追われた。MOKU氏は自分の個人情報がさらし者になったと怒り心頭に発した・・・ように少なくとも傍目にはそう見えた。渡邊さんはMOKU氏からのメールを有田氏あてにそのまま転送してしまったことを認め以後の断交宣言とともにMOKU氏に謝罪した。わたしは渡邊さんが謝罪する必要はまったくないと論陣をはった。

十三年前もしくは十四年前の話である。当時、有田芳生氏は参議院議員になる前で、まだ一介のジャーナリストではあったが日テレの何とかと言う番組にコメンテーターとして連日出演されていた。これが彼の人気をささえていた。共産党くずれは事実であったとしてもリベラルの旗手として視聴者に映っていたことは間違いない。またどこの誰よりもネットの使い手を自認していたようだ。こうして彼のホームページ及び掲示板は盛況を呈し一家言をぶらさげた一癖も二癖もある諸氏が集いあっていた。

ともあれ、おそらく、このときの「いきさつ」こそMOKU氏をして『転居のいきさつ』を書かせしめたもっとも重要な動機となったのではないかと、わたしなりに楽しい憶測にふけっている。

 

 

2017.02.01 横浜市

 

 

 

●第五感

先日、「モクモク文書」すなわちMOKU氏が渡邊さんにあてた長文メールについて、その末尾に自分の個人情報を記したのは、権威をちらつかせることによって、渡邊さんに圧力をかけたのだと書いてしまいましたがもう少しよく考えてみますと、それだけではないようですね。

メールの中身は、有田氏に対する一方的な誹謗中傷だと受け取ったのは当時いささか神経が過敏になっていた渡邊さん固有の受け止め方だったという見方もありそうです。

たしかにメール本文は、知られざる有田氏のプライベートを暴露するなどという部分もたしかにあった。有田氏のばあいは講演先などに取り巻きがいて仲良くしているとうとう。だが、そうした振る舞いは一般的に、わざわざ取りざたされたり非難されるような問題ではありません。

改めてわたしが着目したのは、その文体です。有田氏批判はそれとしても、またもう一面から読んでみれば、それこそ、どこかのいたづら坊主が面白しおかしく遊び友達の生態を、まるで漫談のように楽しそうに書かれています。梅雨時に大きな芋の葉の上を転がって遊んでいる水玉のような文章でした。決してだれそれをしておおげさに糾弾しようなどという考えはいささかもなかったようにも思えてきます。

ささいな誤解を解きたい一心だったのかも知れません。当時MOKU氏は70にして大学教授を退官する直前のことでした。ネット「界隈」では最高齢者であることは暗に周知されていた。それらのことを踏まえて、もしかしたらモクモク文書とは、この人に特有の「いたづら」心から発した文章だったのかも知れないとは、すでに申しあげました。

 「いたづら」としての一面もまた内在していたことを渡邊さんに読み取る余裕があったならMOKU氏からのメールをそのまま有田芳生氏あてに転送してしまう愚はさけられたはずです。

しかしながら当メールに差し出し人としての「私」の正直さを表明しておこうとするあまり個人情報を記してしまったのは、なんといってもMOKU氏の誤りであることにかわりはありません。

 

 


自室にて 

 

 

 ●第六感

ノンポリとは現在では死語と化してきたようで幸いなことだと思っている。ノンポリとは1960年の安保闘争以後に流行した思想腑分けの弁方だった。左派のいずれかの党派に属していることに優位性を得ていた諸君が、一向に旗色鮮明にしようとしない優柔不断にして中間的な、それでも時々デモなどには顔を見せてくる青年諸君をある意味見下して呼ばわった蔑称である。

ノンポリは語義通りのノン・ポリシーでは決してなかったことが『転居のいきさつ』(新潮社)にまざまざと描かれている。ノンポリこそ世紀を超えてしたたかに生き抜いてきた。ノンポリこそ健全な政治的生態だったのだ。この小説の主題はまさにここにあると確信した。

口を開けば「信仰告白」かスローガンをがなっているばかり。人を見れば色眼鏡を架してイデオロギー上の腑分けにかける。このような不全な徒党根性は敗北するのである。いやすでに敗北している。

彼らこそ「転居」しなければならない。そして新しく生まれ変わらなければならない。

 

 

 

●第七感

>神山幹夫先生の『転居のいきさつ』には文学の香りがする。

http://ameblo.jp/tta33cc/entry-12279816486.html

君だったのか。昨年末の某掲示板の書き込みにおいてわたしにMOKUMOKUさんの『転居のいきさつ』(新潮社)の刊行を教えてくれたのは。君によってMOKUMOKUさんの近況と思想の一端を知ることができたのだ。なにはともあれ君には感謝する次第。さっそく『転居のいきさつ』を最寄に書店から取り寄せ息つく暇もなく一気に読み終えてこれは近年にない事件となった。もちろん、ごくごくわたしにとってと云う意味に過ぎないが。『転居のいきさつ』の著者は「畔井遠」氏と記されていたのが、これはペンネームということだったのだね。いずれヒトの名とは難儀なものですね。上の「神山幹夫」も、私は今日はじめて耳にした。わたしの頭にあるのはMOKUMOKUさんというネットで使用されていた匿名だけしかいざ知らず、これまでこれだけで済ませてきたので。畔井遠さんといい神山幹夫さんといいなんだか縁遠い話になってくる。もちろん、これは作品そのものの文芸的な価値と巧拙には関係のない話としておかねばならないのだが。

 

 

●第八感

> 畔井遠  クロイ・ウェン

> 1936(昭和11)年京都市生まれ。1967年(昭和42)年東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。医学博士(専門:免疫化学・血液学)。同年よりプリンストン大学、パリ大学分子病理学研究所、コロンビア大学を経てシートンホール大学大学院教授。2005(平成17)年退官。1974(昭和49)年よりニューヨーク市に在住。

どうやら畔井遠の名はペンネームということならば、その下に記された略歴は何の意味を成さしめるのか。誰の略歴なのか。ペンネーム者のそれか。または、ペンネームの裏にいる本物の世俗のそれも今生きている最中の著者の略歴なのか。そこが不審だ。その彼が、これ見よがしの金銀ぎらぎらの略歴を公に発表したがるその魂胆の底の底にあるものは、いかなるものにござ候ぞ。

 

 

 



 

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15 コメント

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オランダ通信 (かもめ)
2017-02-01 20:05:54
>ばかもめにとって年収600万円はさぞかし羨ましいことだろう

これぽっちも、うらやましいとは思わんね。600万円よりも一編の歌に価値を見るのが拙者のばあいの一芸だ。もちろん物欲俗物以外のさしたるものは、なにひとつなく日夜百円玉が頭の中で運動会を挙行している今井政幸君に拙者の思想を分かってもらおうとは思ってオランダよ。


返信する
re:共産党外協定組合 (かもめ)
2017-02-05 18:07:35
Re: 元共産党員の密会談合



> 有田=渡邊=桜坂の3者には、イパーン人の想像を絶する共通点があるのだ。
> 元共産党であるという、その一点である。

それを言うなら「共産党くずれ」というべきだ。
なにを隠そう。拙者こそ、その共産党くずれだ。
現在は、立派な反共主義者として当局より認定済みだ。


> 最終的には、どこまでいっても、この3者のおっさんが 世界を敵に回しても、
> 裏で談合を繰り返すという構図には 変わりない。

強烈なシンパシーはありながらも、少なくとも談合はないね。鈍角事件以後は、三者三様にばらばらになっていると思いますよ。SNSのシステムが、そうさせたのですよ。君もバラバラしているでしょ。みな、そうなっちったんだよ。昔はオフ会なんてもんが、たびたび挙行されて、楽しかったもんだ。みんなでカラオケにも行きましたね。浜ちゃんが尺八を吹いたりね。君はなにを歌ったけ。そうだ長渕剛だ。オレはまだ流行歌に目覚める前で、なにも歌えなかった。カラオケは下らない文化だと決め付けていたからね。 酔っ払って、カラオケメニューににシューベルトはないのかシューベルトは、なんてくだをまいていたかもしれない。



> >かもめ=PGMの書き込みは「しばらくのあいだ」一切許可しない。

おいらが PGM君と同列に扱われるとは世も末だ。だいたいねPGM君はともかく拙者のばあいは、そんなことは日常茶飯事だったのですよ。出入り禁止とか、書き込み禁止とかの類は。屁でもないのですよ。そんなことは。泥炭さんという方が管理人をなさっている「教育について語ろう21」という掲示板は、今でもあるにはあqるが、ここではなんと、拙者が管理人の泥炭さんより出入り禁止を申し渡された案件は、計十数回に及びます。なんちゅうこともありゃしませんよ。そんなことは。ケツの穴の小さい御仁はどこにでもいるものですよ。それに比べると、当赤煉瓦掲示板管理人の今井様のケツの穴は大きすぎるぐらいです。日夜、銭勘定にいそしむあまり文章の何が良いのか悪いのか分別のつけようがなくなってしまったのです。味噌もクソも一緒です。



> 臭いものにはフタだな。このゲンロン封殺者。スターリン。有田、渡邊、桜坂の党外協定組合者よ。

ですから、十四年も前の話ですよ。それは。あまりムキになるなよ。



> このたびは本家にならって、鈍角を対象として「除名」騒ぎでもやってみたんだべ。 この旧態スケベ。 有田の尻尾振り振りの理論家だと、有田の尻尾振り振りヤロ。


当時から尻尾振りは、たくさんいたが、理論家とは誰のことかね。まさか、おいらのことではアルバイト。そう褒めるなよ。照れるじゃないか。




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毎夜毎夜の銭感情 (かもめ)
2017-02-06 11:04:24


以下、先刻の今井政幸君の記事を誰でも読めるように校正しました。


^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

無智無学のばかもめが言葉の意味や文意を理解出来ないのは仕方ない。

反論したとて、それしきをもってビンボー人がただちに金持ちになれるなら誰も苦労はしない。

ばかもめは、わたすのように金持ちでないから常に判断を誤る。

他人から自尊心が傷つけられたと思ったら、反論せずに黙って銭勘定にはげむことだ。

毎夜寝る前に、家中の通帳、カード、財布、貯金箱を枕元に集めおき収支の点検をする。

または、これらの物品を、しばし眺めているだけでも心は癒される。

こうした振る舞いを大切に守っていればビンボーになることもないだろう。

わたすは毎夜そんなふうにしてとげとげしい気持ちをしりぞけ心を穏やかにたもってきたのだ。

そすて、銭勘定が終われば、あとは寝るしかない。

祈るような気持ちで、さって寝よと自分に号令をかけて眠りにつく。

ばかもめが金持ちなら、ビンボー人と言われることはない。

ビンボー人のままじゃ反論もできないし、金もないなら銭勘定もできない。

こんな簡単なことすら分からないのは取りも直さずばかもめがアジア的奴隷的人格で近代的自我がないからだろう。

ビンボー人のばかもめに反論出来るわけがない。

かといって銭勘定してみるほどの銭も通帳も株もなにもないから銭勘定で自我を高めるわけにもいかない。

あ~ん 身の程を知れ。

さって寝よ。





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ノンポリの偉大性 (かもめ)
2017-02-07 06:19:28
今井政幸君もまたノンポリのようだが全然偉大には見えないが、どう思うという声が聴こえてきたので、お答えしよう。

今井政幸君はノンポリではない。 銭さえあればポリシーなんてクソだと広言してはばからないところを見れば、今井政幸君のばあいはノンポリではなく正真正銘のノン・ポリシーである。

早い話が資本主義に頭が犯されたただの阿呆ということでしょう。

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Re: 有田芳生氏をめぐるインターネット・スキャンダル (かもめ)
2017-02-09 21:07:14

> 先週早々にも着手されると予定告知されていた警察当局によるMOKUMOKU氏への捜査が、
> 今週になっても依然として動く気配が見られない。


いいかい。司法落第生の君が理解していないのは、「民事不介入」は現代警察の憲法だということですよ。たかがインターネット上の誹謗中傷の騒ぎがどうして警察沙汰になるのかね。さもなければ中年男女の恋の鞘当とか三角関係に、どうして警察が動き出すのかね。こんな情報がなんぼたまっても警察は動きませんよ。

警察もそこまで暇でもないしバカでもない。警察が介入しなければならないインターネット上の問題は、脅迫的言動があったのかまたは銭のやりとりにまつわる詐欺行為の有無の認定ぐらいでしょう。

もちろん有田と鈍角は、かなりの瀬戸際まで行っていたのは事実のようですね。その瀬戸際のところで、鈍角は有田から振られてしまった。狂言自殺は、その象徴です。あれば有田に見せ付けるがための狂言だったのですが、一番先に騒ぎ始めたのが、元はといえば鈍角に振られて蚊帳のそとに置かれていた桜坂氏だった。

鈍角の救世主としてMOKUMOKU氏が、ここからあたりから面を出してきた。だが、鈍角さんは、もちろんMOKUMOKU氏に、すべてのディテールを話しているとは到底思われません。一般問題として、そりゃそうでしょうよ。このときの男女の問題は、当事者にとってもなかなか黒白はつけられないのです。もちろん簡単に、つけるべきでもないと思っていますね。

有田氏をめぐるインターネット事件では、最終的に桜坂さんが割を食ったという按配なのですが、その自覚がないのが、またイデオロギストとしての桜坂さんの善人小人である所以です。半年もすると、のど元過ぎれば熱さ忘れるの例えがあるように、ものの見事に、またふたたび有田さまぁ~有田さまぁ~が、はじまりましたね。彼のばあいは。



返信する
Re: 有田芳生氏をめぐるインターネット・スキャンダル その2 (かもめ)
2017-02-10 02:37:40

> 現在もなおPGM掲示板の一つの上で『MOKUMOKU文書』は公開され続けて
> いる。有田芳生氏はそれに対して削除要請を行っていない。有田芳生氏がいくら名誉棄損
> の被害を訴えても、怪文書をバラ撒いたのが自身の行為であるのであれば、捜査当局も当
> 事件の犯罪構成要件を詰める作業に及んで、根本的に頭を捻らざるを得ないだろう。

PGMはともかく、MOKUMOKU文書をして、あれが怪文書だなどと騒いでいたのは有田当人ぐらいなものですよ。今でもどこかにあるでしょう。君も読んで御覧なさい。ユーモアたっぷりですよ。

怪文書というよりはよほど創作落語のシナリオです。捜査当局が出てくる理由など、どこにもありませんよ。PGMは明らかに有田の手先として活動していたようですから、MOKU氏に対するいやがらせだったのでしょう。

こうして『週刊文春』で取り上げられたわけですが。それにしてもおかしな記事だった。被害を被っているという有田氏以外は、MOKU氏、鈍角さん、桜坂さんなどの本名を知っていながら、みな匿名のままでね。つまり何者かが大規模な魂胆をもって有田芳生氏を誹謗中傷している、そうした一団が存在するとかましてきた。

文春の石井謙一郎記者は、オウム事件以来の有田芳生氏と滝本弁護士の昵懇の仲。この三者で、このときより二年前に同時代社より『異議あり 奇跡の詩人』を刊行している。同時代社は、共産党くずれの三上なにがしが創業した出版社で、やはり共産党くずれの一群が面をならべていたのです。桜坂さんなども、その一味でしたよね。

つまり『週刊文春』の記事でさえ有田にとっては自己正当化の方便であり売名のためだったのでしょうよ。ぼんやりとした事実をもとに、ぼんやりとした印象を与えるために、自称ジャーナリストであるはずの有田本人が書かずに記者に書いてもらったのですから。


> 評論やら
> 仕事の話題をネット公開している有名人は多いが、誰と会って何処で飲酒会食したという
> 生の私生活情報まで毎日詳細に載せているのは有田芳生氏の他にはいない。

御意。根っからの売名小僧のようですね。この人のばあい。ジャーナリストにもかかわらず文章で勝負しようとは決してしない。








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Re: 飲み込んでいたことなど少しだけ  (かもめ)
2017-02-10 08:55:37

> ●有田芳生氏は、自己表現力に欠ける


上の一文は有田氏の人となりを表すになにより的を射た指摘ですね。自己表現の方法はいろいろあるでしょうが、やはり文章というなら、わたしは文学だと思いますね。詩歌を詠むか。または小説を書くか。評論でも良い。または政治論文でも科学論文でも、よいかもしれない。この度MOKU氏の小説『転居のいきさつ』を読んで有田氏ばかりではなく吾が事を含めて、つくづくとそのことを痛感しました。

そして小説の優位性のようなことを考えました。ただ佳品として昇華させるには数年間の刻苦が、どうしても必要になると私は思っていますね。連日連夜呑んだり騒いだり取り巻きにちやほやされるものですから、ネットに顔を出してくるというような生活のなかから佳品は生まれないでしょう。

有田氏は、当時からすでに詩心をわすれ文学への心構えを捨て去っていたのでしょうね。以後、血相をかえて売文、売名の道に走った。なにを書いても下の下でしたね。
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売名小僧 (かもめ)
2017-02-11 00:00:02
当時のすなわち十三年、もしくは十四年前の有田芳生氏をして「アルコールカリスマ」は良かったですね。だが、その名称は少々彼をして買いかぶっているような気もしますね。そこが彼のネット上での狙いだったとしたら、どうですか。しきりに人の名(それも著名人にかぎる)を出したり、いちいちどこの店で飲み食いしてうまかったとの「店」の名を出してきますよね。彼の文章は。いまだにそうですよね。彼のネット活動は。それのみだったといっても過言とは申せません。これが売名活動なのですよ。アルコールはそこそこだったのかも知れませんよ。ネット上に、店の名を出し人の名を出す。こうして売名に励んでいるのです。これは現在でも同じでしょう。これが彼のネットのすべてであり自己表現のすべてなのですから、これではもはや二流三流の可哀想な男と呼ばわれても文句はないはずです。

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曇りガラスを取れるかな?  (投稿者: 有田芳夫)
2017-02-14 00:08:08


問題の核心はモクモク氏のメールにあるのが見えないのかな。いや見たくないのでしょう。

そこの記述の根拠となった某女性のウソ。その根拠となっているメールを公開せよということ。あの時点ではモクモクメールの存在などあなたたちは知らないでしょう。

謝罪などをする必要もありません。

人を陥れる作業に協力するのなら、堂々と本名を名乗って書き込みをしたらどうなのかな。モクモクメー
ルを公開しましょうか。もういちど。

池袋の夜の不愉快なことも、モクモクメール、その根拠となった某女のウソを見事に事実でもって暴くことができるのだから、こと(誤記を訂正)ここにいたっては、書きますよ、といっただけ。

これまで書かなかったのは「武士の情け」。いや虚
言癖は相手にしても仕方がないと判断していただけかな。

ウソで人を陥れようとするものを支援するのは勝手だが、名誉棄損は法的に完全に成立するのです。

そうした事態にあってウソの主張を繰り返すことに最小限の防衛的対応をするのは当り前のこと。本来は放っておけばいいだけのことなんだ けど、やり口の汚さに対して、ひとつの典型的な結論を出しておくことも、広く
意味あることかな、という判断がある。

そこでは「すべて」が公開されるでしょ う。

メディアも関心をもって待っている事例ですから、もはやそこへの半歩を踏み込むかどうかは相手の今後の対応いかんだけです。

あのモクモクメールは意外にも大変な内容が記されているんですよ。案外気がついていない方が多いようだ けど。いや内容に関わる法的構成要件として。



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テレビ小僧たる所以 (他老人家 (田中 宏和))
2017-02-14 00:15:17
有田芳雄氏のネット日記『酔醒漫録』の観察を通じて、われわれは徐々に有田芳生氏の思想と人格の全体像に迫り
つつある。 前回は有田芳生氏のアルコールカリスマとしての夜毎の派手なパフォーマンスの裏側で、それとは無関係に静謐な二人の女性の家庭生活が営まれている事実について注目した。

ワイドショーで全国の主婦に常識を訓告するコメンテータである有田芳生氏の家庭像の問題である。

今回は醜聞問題から少し離れて、有田芳生氏の文章の問題について考察してみたい。

がその前に、注目された共産党の筆坂秀世のセクハラ辞職問題について、有田芳生氏はワイドショー番組の中で、さも他人事のように涼しげな顔で論じていた。

テレビの中では他人事かも知れないが、ネットの中ではすでにそうではない。

前回、『酔醒漫録』において自身のアルコールカリスマを自讃し、勝新太郎を後継しようとする有田芳生氏の
壮大な野望を窺い見たが、今回は少し地味に『酔醒漫録』の文章の問題について観察してみたい。

すでに他からも指摘されているところだが、この日記の文体にはある特徴が見受けられる。

それは二つあって、その一つは毎回ある著者の作品とそこからの抜粋が紹介される点であり、もう一つは文章全体にメッセージ性が希薄である点である。 メッセージ性がないと言うよりも起承転結の組み立てがないと言うべきだろうか、要するに結論がない、言いたいことが何なのかボヤッとして掴みどころがない。 この二つの特徴は実は別個の問題ではなく重要に関連する問題であろうと思われる。

テレビでは自分のポジションを中立あるいは右よりの読売新聞と同じスタンスにして一般視聴者の前で振舞う。 そうしながら、ネットの中では左翼に傾斜した位置から巧みに「自分の実像」を アピールしている。 有田芳生氏の周辺にいる雑誌社や出版社の人間やフリージャーナリストが『酔醒漫録』を見ているからだ。 こういう世界には左翼的な心情と知識を持った者が多く、政治的に元左翼であった人間が多い。 有田芳生氏はそうした計算と配慮の上で、媒体によって思想的立場を
スイッチして自己演出しているのである。

さらに言えば、知識も思想も何も知らないまま興味本位に有田芳生氏のサイトを覗き込んだ主婦たちに、
擬似的な「インテリカリスマ」を演出して訴求しているのである。

左翼的な思想と追憶の断片を内面に残すジャーナリズムの世界の職業者たちに、山川暁夫や藤田省三や
丸山真男の名前をちらつかせて心を擽っているのである。

また現左翼・元左翼の人間たちに対して「俺は裏切ってはいない」「テレビは偽装転向に過ぎない」と懸命に弁解しているのだ。 そちらの世界も失いたくないのである。左の世界も失いたくない。

しかし原宿の高級レストランで豪勢なフレンチを楽しむ豊かな生活も失いたくない。

銭金を保証する右の世界も失いたくない。右翼の世界で生きながら左翼の世界に愛想を振りまく。

だから知識人の言葉の引用が弁解になり欺瞞になる。
有田芳生氏の場合は、この思想生活の捩れや矛盾が自身の内面にいて苦痛とはならない。容易に並存均衡できる。

まさに「鵺のようなジャーナリスト」たる所以である。




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