以下は、いまや20年近く前に書いた古い記事につき、恐縮至極。
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『ゆきてかへらぬ -中原中也との愛-』(長谷川泰子/述 村上護/編 1974年 講談社)という本を図書館から借りてきて読んだ。本の最後に次のようにあった。
私はビルの管理人として、十二年半働きました。朝早く目覚めると屋上に出て、鳩に餌をやりました。一人ぼっちの生活でしたが、鳩を毎朝ながめながら、こしかた60年の思い出を反芻(はんすう)したり、中原の詩を読んで涙を流すこともありました・・・・ビルの管理人の後、ホテルの帳場に半年ほどすわり、その仕事も1年あまり前にやめて、いまは一人静かに暮らしています。気ままに過ごした人生も70年を越えました。
巻末で長谷川泰子さんの口述をまとめて、この一冊をなした経緯を村上護氏が以下のように解説している。
長谷川泰子さんが中原中也と同棲し、のち小林秀雄氏のところに去って行った(大正14年)ことは、よく知られた事実である。それは三角関係ということで、ゴシップ的に扱われやすいため、いろいろ取りざたされてきた。だが、その真相に触れたいきさつについては、当事者があまり語っていないため、やはり推測に頼る部分が多かった。ことがことだけに、それも無理からぬことかもしれないが、詩人中原中也の研究が細かいところまでいっている現在、ただゴシップ的風聞にとどめておくのも、やはり心残りと考えるのは私一人ではないと思う。
けだし良書であった。私は、この本を読みおえてページを閉じる前に、また本の最初にもどって、しばらく長谷川さんの写真を眺めていた。そして、いずれも二十歳そこそこだった彼らの早熟すぎて危うい心意気のようなものを想像して胸を熱くした。中原中也はほんの19歳。三つ年上の泰子は22歳、小林秀雄にしても23歳だった。中也が結核で逝ってしまったのは、それから十年後のことである。長谷川さんは、すでに小林とも別れ、別の男と結婚していた。幼い息子の手を引いて中也の弔いにやってきた長谷川さんは、そこに座り込んだまま長い時間泣いていたのだと云ふ。
中原中也
後日、某掲示板において、以下のような面白き議論があったので再掲載の儀に及ぶ。
●投稿者:モクモク
「あなたは中原とは思想が合い、僕とは気が合うのだ」。これは、17歳の不良少年中原中也と京都川原町今出川上るの下宿で同棲していた中原より3歳年上の女優志願の女長谷川泰子に中也の友人小林秀雄がささやいたクドキの言葉。泰子は小林のもとに走り、中也は『口惜しき人』になる。泰子は女優としては成功せず(それでも1度は主演したそうである)、晩年はビルの清掃人・管理人となり生涯を終えた。まだラジオの時代、わし長谷川泰子へのインタビューを聞いたことがある。泰子は中也のことを「田舎者だった」といっていた。わし、中也と泰子がその昔同棲していた、川原町今出川のスペイン風の下宿の前を歩いて、高校に通った。小林は日本一の知性と呼ばれる文芸評論家になった。昭和29年の東大の入試には小林の「無常といふ事」からの1節が出された。(東大の先生も賢くなかったんだね)。口惜しき人中也は30歳で病死、新古今も理解していない小林(秀才丸谷才一による)は西行についての書物を書いた。あれから80余年たった今、口惜しき人中原中也は本物、日本一の知性小林秀雄はニセ者。ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
●投稿者:かもめ
80余年が経とうが経つまいが、時間と文学の核心は関係のない話だ。中也が本物なのは、彼が詩人そのものであったという事実を説明する以外のなにものでもない。中也の詩は、韻文というより、歌だからね。音楽だよ。そのことを小林秀雄は自分の生涯をかけて、説明してきたのだよ。自らは歌えなかった。歌わなかった・・・少なくても小林自身は、そう思っている。小林は中也を見て、詩を断念した。そう言っても過言とはいえまい。以後、評論に徹したわけだが、その散文に独特の「歌」を感じているのが、わたしだ。小林の散文は「歌」になって・・・しまっているのだよ。いつだって、文学の核心は「歌」にある。極端に言えば、音楽から離れて文学はないとさえ、思っている。それを教えてくれたのが小林の散文だ。この小林秀雄が生涯で一度だけ、詩を書いたことがある。以下の一編がそれだ。
死んだ中原 小林秀雄
君の詩は自分の死に
顔がわかってしまった男の詩のようであった
ホラ、ホラ、これが僕の骨
と歌ったことさへあったっけ
僕の見た君の骨は
鉄板の上で赤くなり、ボウボウと音を立てていた
君が見たという君の骨は
立て札ほどの高さに白々と、とんがっていた
ほのかながら確かに君の死臭を嗅いではみたが
言うに言われぬ君の額の冷たさに触ってみたが
とうとう最後の灰の塊りを竹箸の先で積つてはみたが
この僕に一体何が納得できただろう
夕空に赤茶けた雲が流れさり
みすぼらしい谷間に夜気が迫り
ポンポン蒸気が行くような
君の焼ける音が丘の方から降りてきて
僕はやむなく隠坊の娘やむく犬どもの
生きているのを確かめるような様子であった
ああ 死んだ中原
僕にどんなお別れの言葉がいえようか
君に取り返しのつかぬ事をしてしまった、あの日から
僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃった
ああ 死んだ中原
たとえばあの赤茶けた雲に乗っていけ
何の不思議な事があるものか
僕たちが見てきたあの悪夢に比べれば
(昭和12年12月「文学界」)
●投稿者:モクモク
大正も終わりに近い頃、小笠原に遊んだ小林秀雄は、帰って来ると友人たちにしきりにいうのだった。「海だろうと山だろうと、色彩なんてものは、小笠原へ行って来なけりゃ、わかるものか」(三浦一郎)。林の表現にはこういうたぐいのハッタリが多い。「モオツアルト」も「無常といふ事」もこのたぐいで、よく知りもせんくせに上記のような調子でもの書いて一生メシ食ってきたんだ。わし、日本を出る前、いろんな文化人の口演をじかにきいたが、一番感銘をうけたのは広津和郎、一番ゴミだったのが小林秀雄。長くなるので、くわしくは書かないが、広津は例によって松川事件の経過。口演が始まって10分くらい経ったところで、絶句して立ったままになった。どうかしたのかな(言うことを忘れちゃったのかな、八代目桂文楽の最後の高座みたいだ)と思ったら、数十秒後、背後から2人の係員が駆け寄り、広津を両脇から抱えた。過労のための貧血だった。広津はまだ意識があり、一言「失礼」とはっきりした声でいい、係員に抱えられて退場した。広津は大作家ではないだろうが、「神経病時代」は秀作だし、じぶんの少年期を書いた作品は、わし、大好きである。吉屋信子によると、若いころの広津は、女、女に明け暮れした異常な女たらしだったそうだが、晩年は老いの一徹で松川事件に全エネルギーをつぎ込んだ。わし、広津がほんとに大好きだった。わしはそのあと外国に出たが、広津が死んだというニュースを聞いたら泣くだろうと思っていた。しかし、わしは泣かなかった。小林の口演は、スポーツマンシップについての話題だった。昭和40年当時、小林はゴルフに凝っていた。ボールを打つとき、誰も見ていないとき空振りすると、誰も見ていないから振らなかったことにするのは年をとってからゴルフを始めた人間、若いころからスポーツをやってた人間は誰も見ていなくても空振りを一回振ったと勘定する。スポーツマンシップとはかくも重要なことである、というような愚にも付かぬ話を45分。係員がやってきて、時間を超過していますと告げると、われわれ聴衆に「失礼」ともいわず(一言のアイサツもなく)、さっさと引き上げた(偉いんだからね)。わしのまわりで話にアクビしていた連中は、あいつバカじゃないのかと口々につぶやいてた。いま、アイオワ大学で解剖学の教授をやってる友人(プリンストン時代からの日本人の友人)は、浅沼稲次郎が刺されたとき前から4列目にいて、事件を目撃したそうである。
小林秀雄
●投稿者:田吾
小林秀雄は読んだことないが、アメリカ帰りのモクモク先生が小林秀雄について書くたびに、読まなくていいんだなと安心すますた。あれ読むといいよ、などという情報も大事だが、読まなくていいよ、という情報も大事だすね。先生の言うとおりだす。
●投稿者:かもめ
これ田吾よ。小林秀雄の本など読もうが読むまいが何ひとつ大勢に影響はあるまい。そうならそれで結構なことじゃないか。そこで、読まないと法螺をふいている田吾には余計なお世話かもしれないが、この際ぜひとも紹介しておきたい小林秀雄の短い一文がある。ま、そうひねくれずに、せめてこれだけでも読んでおきたまえ。読むのは一分あればよい。だが、心から理解するには十年かかる。良い文章というものは、そういうものだ。そうした文章の歴史的民族的集積が「文学」と呼ばれている総現象だ。
長谷川泰子
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中原中也 小林秀雄
先日、中原中也が死んだ。夭折したが彼は一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なんぞを受けて、詩人面した馬鹿野郎どもからいろいろな事を言われながら、日本人らしい立派な詩をたくさん書いた。事変の騒ぎの中で、世間からも文壇からも顧みられず、どこかでネズミでも死ぬ様に死んだ。時代病や政治病の患者たちが充満しているなかで、孤独病を患って死ぬのには、どのくらいの抒情の深さが必要であったか、その見本をひとつ掲げて置く。
六月の雨
またひとしきり 午前の雨が
菖蒲のいろの みどりいろ
まなこうるめる 面長き女(ひと)
たちあらわれて 消えてゆく
たちあらわれて 消えゆけば
うれいに沈み しとしとと
畠の上に 落ちている
お太鼓たたいて 笛吹いて
あどけない子が 日曜日
畳の上で 遊びます
お太鼓たたいて 笛吹いて
遊んでいれば 雨が降る
簾子(れんじ)の外に 雨が降る
<「手帖」昭和12年12月号>
朝から新橋に出て、いつもの茶店で時間をつぶす。小林秀雄の『作家の顔』(新潮文庫)などを読む。中に「中原中也の思い出」という短い文章がある。冒頭に触れたとたんに涙腺がゆるんできた。本を読んで泣くのは久しぶりだった。
中原と会ってまもなく、私は彼の情人に惚れ・・・・やがて彼女と私は同棲した。この忌まわしい出来事が、私と中原との間を目茶目茶にした・・・・彼を閉じこめた得体のしれぬ悲しみが。彼は、ひたすら告白によって汲(く)み尽くそうと悩んだが、告白するとは、新しい悲しみを作り出す事に他ならなかったのである。
主語にも術語にもなれるトートロジーな言語の数の言葉(自然数)の本性に迫れるかもしれない。
《哲学は、一つのシステム》は、〈悲しみ〉(長谷川泰子)を昇華するエネルギー(エンテレケイア)かもしれない。
〈悲しみ〉(エンテレケイア)からの自然数の本性の絵本は、「もろはのつるぎ」(有田川町ウエブライブラリー)あり。