赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼新訳『カラマーゾフの兄弟』より

2020年11月14日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

<以下、むかし書いた雑文につき恐縮だが・・・2008.09.08 記>

 

こんにちは。芸術とイデオロギーの摺り合わせに関する論理的倫理的問題にいたれば申し分なし。実に私好みの話題で興味津々という感じだったのです。さてあなた次のように書きました。

座談も小説も超一流に面白いという人はあまりいず、私の知る限りでは中里喜昭ぐらいです。芸術は本人のイデオロギー的な限界を超えるのです。

その際あなたのおっしゃる「芸術」とは何か、という問題です。芸術の概念と申してもよい。結局、芸術というものは、人それぞれに都合よく、勝手に解釈しているようにさえ、感じられる今日この頃です。思うに、芸術という言葉(概念)は近代にいたって急造された概念であることは間違いないでしょうね。概念とは観念的な世界に生息しているだけの、他愛ないものです。よって、「芸術」という概念もまた、案外に近代以降にとってつけられたような他愛ないイデオロギーの一種だと、いえないこともないのではないでしょうか。私はそんな風に思うのです。われわれが、芸術と呼ぶ、その実態の多くは、実は人びとの暮らし向きや生活そのものかも知れません。空理空論に陥りやすい願いや祈りや、はたまたよきにせよ悪しきにせよ周囲の現実を、あれこれと解釈しつつ、それらの狭間を縫うように生きている人生そのもだとさえ言えるでしょう。芸術は、決して良いものではない。少なくても良いものばかりではない。多分に悪も含まれているのです。善行ばかりではない。さらに「私」には、理解不能なものもあるでしょう。この世には「私」には、決して見えないもの、聞こえないもの、近づけないものもあるはずです。イデオロギーなんてもんは、豆腐の角に頭をぶつけて、出来たコブのようなものですよ。時間がたてばひっこんでしまうものですよ。そんなもんに、私の言動が左右されているなんてのは、これぽっちも誉められたことではないでしょう。さて芸術とは、何でしょう。たとえば私は、こんなふうに比較する。小林多喜二の小説と、多喜二でなくても、かまいませんが、たとえば、畳や納豆や味噌汁やご飯という古来から伝わってきて、わたしたちの生命を楽しませてくれている。それらの卑近な現実物のほうが、よほど芸術作品であるらしいと、思えてきてしかたがないのです。多喜二の小説など、あってもなくてもよい。読んでも読まなくても、思想に何のかかわりがある。そんな抽象物より、よほど、あったかいご飯の上に納豆を載せて食える食える、実感的幸福を断言するほうが、よほど私にとっては作品化された、わたしの言動であり、それをもって私の思想といわずに、なにがどうした・・・と。

ゲイジュツというのは日常の食品ではなく、栄養的には不必要な余計な嗜好品です。いわば、日常を離脱させてくれる酒・麻薬の類です。

ですから、芸術という概念が、日常を超越したものであると理解されているかぎり、イデオロギーの一種に過ぎないものだと、申しているのです。麻薬や酒には、それなりの魅力はあるでしょうが、それにしても納豆や味噌汁の日常的な、うまさにかなうわけがないのです。酒や麻薬は、隠れて嗜好するぐらいが関の山でしょう。ほったらものの、どこが誉められますか。あってもなくてもよいでしょう。われわれに、なくてはならないのは、やはりご飯に納豆ではありませんか。ご飯や納豆の美を感知する、そうした芸術観を養いたまえと主張しているのです。知識人の文学なんて、屁のごとし。中里喜昭氏にしても同人誌「葦牙」に集う諸君しても、あいかわらず二流どころに甘んじているのは、思想の問題として「知識人」論やイデオロギーにたぶらかされているからだと思いますね。

資本主義社会の中では商品化をまぬがれず、意図した方向にはいけないということです。時代を超越した超イデオロギーというものは存在しない、というのが歴史の教訓のようですよ。

わたしは「芸」の商品化なんぞは、まったくもって、意図したことはありませんよ・・・と断言してしまえばウソになるかも知れません。言えることは、わたしにとって良き物、好きな物が、必ずしも商品化とは反対の存在物であるという事実を、しっかと見極めているという、少々の覚悟はあるということですね。「貧すれば鈍する」というのは、よくある定型の精神の様ですが、これは衆愚、愚民の有様ですよ。どんな時代でもそうだったのです。死を覚悟できていないからです。貧することにおびえているのです。貧した途端に、精神も捨て去って、わずかな俸給を求めて、奴隷になる。奴隷根性とは、ここから発するのです。いわば商品化とは奴隷根性の発露のことではないですか。 書きさえすれば、なにか仕事を成し遂げたような気がする。あまつさえ事前からの論戦に勝ったような気がする御仁もいるほどです。作文以上に出ない文章も、まかり間違って本に仕立て上げでもされれば、作家の一員になり上がったかのような気がするだけだ。誉められると、たちまち天狗になって、自分の書いたものこそ「大文学」に違いないという傲慢な錯角に頭がやられる。そんな屁でもないことを繰り返して、死んでいくというのが二流文学の総現象なりけりや。 大文学は、もっと謙虚ですよ。当の作家が死んでからでなくては、それらの作品が文学かどうかさえ、わかったものではござりません。文学作品として充足しているかどうかは、常に後世の歴史と後代の人々が決めるのです。多くの文章は、そこまで残されてもいないでしょう。であるとすれば、現在、実存しているわれわれに、当否についての、何が言えるのでしょう。わたしは、こうした説のほうが、よほど文学だと思うばかりにござ候や。そして改めて文学は偉大だと思うのでござります。自分はちっぽけでいいと納得できるのです。さらに、わたしの幸不幸を埋め尽くして形象してくれている言語たる「日本語」はすばらしいと思うのでござります。

自分の持っているイデオロギーなんていうものは厳密には自分で自覚できないと思います。自分の思うままに書くしかないですね

心底そのように思います。ところで、わたしは「カラマーゾフの兄弟」をまた、読み始めたところです。昨年、久しぶりに翻訳が新しくなって刊行されたとのこと。それがなんと昨年一年で40万部も売れたとのことです。ドストエフスキーの小説がですよ。それも一般に難解であると周知されている大長編の「カラマーゾフの兄弟」がですよ。訳者は新進気鋭のロシア文学者である亀山郁夫という方。彼は1949年生まれです。わたしより一歳年下です。まだ読み始めたばかりですが、売れた理由が分かります。とてもこなれた日本語になっているのです。文意が、非常に分かりやすく、なによりも読みやすいのです。カラマーゾフの読書は三度目です。この調子なら最後まで読み通すことができそうです。数年前は、死ぬまでには、もう一度だけでも読みたいと心に決めてはいたのですが、本当に読めるかどうかは、われながら半信半疑だったのです。でも、亀山氏のおかげで、こうして、またドストエフスキーにまみれることが出来ました。わたしがごときが、こうした幸運に恵まれるのもまた「日本語」の広さ大きさだと思うのです。「読書の喜び」などという言葉では形容できない、もっと違うものを感じるのです。そこにもまた文学の奥義というものがあるに違いありません。それは、ドストエフスキーを読み解く、言語の伝統が私にまで伝わっていて、それが文学的幸いを私にもたらしてくれているという実感です。万葉集とドストエフスキーは見事に、私の中で繋がっているのです。 

以下「カラマーゾフの兄弟」亀山郁夫訳より

民衆には無言の、忍耐づよい悲しみがある。その悲しみは、心の中に入り込んだままひっそりと口をつぐんでしまう。しかし他方に、外に破れでてくる悲しみもある。その悲しみはひとたび涙となってほとばしでると、その時から「泣きくどき」に変わるのだ。これは、ことに女性に多く見られる。だが、その悲しみは、無言の悲しみより楽なわけではない。「泣きくどき」で癒されるには、まさに、さらなる苦しみを受け、胸が張り裂けることによるほかにはない。このような悲しみは、もはや慰めを望まず、癒されないという思いを糧にしている。「泣きくどき」はひとえに、おのれの傷をたえず刺激したいという欲求なのである。
「町人階級のお方ですか?」とさぐるような目で女の顔を見つめながらゾシマ長老がたずねた。
「町の者でございます。長老さま。町の者でございます。出は農民ですが、町の者でございます。町に暮らしております。長老さま。あなたにお目にかかるためにまいりました。あなたのお噂をうかがったのでございます。長老さま。小さかった息子の葬式を済ませ、巡礼にまいったのでございます。三つの修道院を回り、こう指図されました。ナスターシャよ、こちらにお寄りなさい、と。つまり、こちらの長老さま。あなたのところへ行きなさいと。昨晩はこちらの宿泊所にお世話になり、今日、こうしてまいりました」
「どうして泣いていらっしゃるのですか?」
「長老さま、死んだあの子がかわいそうでならないのです。三つでした。あと三ヶ月で三つになるところでした。あの子を思うとつらいのです。長老さま。あの子のことが。たった一人、生き残った子です。わたしとニキータとのあいだには子どもが四人おりましたが、みな立って歩けるまでには育ちませんでした。長老さま。育たなかったのでございます。最初の三人の葬式を済ませたとき、わたしはそれほどかわいそうだとは思わなかったのに、最後の子を葬ってからは、どうしても忘れることができないのです。まるであの子が目の前に立っているみたいで、消えていこうとしないのです。わたしの心はもう、すっかりひからびてしまいました。あの子の肌着は、シャツや、長靴を見ていると、ついつい泣けてくるのです。あの子の形見をひとつひとつ並べ、眺めてはまた泣き暮れるありさまです。夫のニキータにもいいました。ねえあんた、わたしを巡礼にだしとくれ、と。夫は辻馬車の御者をしておりますから、長老さま、けっして貧乏じゃありません。辻馬車は自営でやっておりますし、馬も馬車もぜんぶ自前です。でも、今となっては財産が何だというのでしょう。わたしがいなければ夫のニキータは酒を飲みだします。以前もそうでしたから、きっと飲むにちがいありません。わたしが目を離せば、あの人はすぐにでもがたがくるでしょう。でもあの人のことなんて、もうどうでもいいのです。家出して巡礼に出てから、もう三月目になるのです。わたしは忘れました。何もかも忘れてしまい、思い出したくもありません。それに今さら、あの人と暮らしてどうなるというのでしょう。あの人とは終わりました。何もかも終わりにしたいのです。今となっては、自分の家も財産も二度と見たくもありません、なにも見る気になれないのです!」
「ですから母さんや、わかってください。あなたのお子さんは、今ごろはおそらく神の前に立って、喜び、楽しみ、あなたのことを神に祈ってくれているということを。あなたは泣くがいい。でもそれは喜びなのですよ。」
女は、片方の頬に手をあて目を伏せたまま、長老の話を聞いていた。それから深くため息をついて言った。
「せめて一度でいいから、あの子を見たいのです。たった一度でいいから、もう一度あの子に会いたいのです。あの子のそばに近づきもしません。何かを言ったりもしません。物陰に身をひそめてでもいい。せめて一分でも、あの子が中庭で遊んでいる姿を見たい、声が聞きたい。あの子は、わたしのそばに寄ってきては、かわいい声でこう叫んだのです。お母ちゃんは、どこ?と。一度でいいから、あの子が子ども部屋をちっちゃな足でこつこつと歩きまわる音に、そっと耳をそばだてていたいのです。たった一度でいい。思い出すんです。あの子はしょっちゅう、わたしのところに駆け寄ってきて、大声で叫んだり笑ったりしたことを。ああ、せめて一度だけでも、あの子の足音が聞けたら、あの子の足音だとわかったら!でも長老さま、あの子はいません、いないんです。けっしてあの子の声は聞けないのです。ほら、これがあの子の帯です。でもあの子はもういないのです。わたしは、もう二度とあの子に会うことも、あの子の声を聞くこともできないのです!」
女は懐からモールのふち飾りを施した息子の小さな帯を抜き取ったが、それを一目見るなり、指で目をおおい、身を震わせて号泣しはじめた。指のあいだからは、涙が小川のようにあふれ出てきた。
「それはですね」と長老が言った。「慰めを得たいなどと思ってはいけません。慰めを得てはならないのです。慰めを得ようとせずに泣きなさい。ただし泣くときは、そのたびごとにたえず思い出すんです。おなたのお子さんは、神の天使の一人だということを。お子さんはあなたのほうを見て姿をみとめ、あなたの涙を喜び、それを神さまに指で教えているのです。これからまだしばらく、母としてのあなたの大きな嘆きは消えないでしょうが、最後にはしずかな歓びに変わり、苦い涙はしずかな感動と罪から心を救う浄化の涙となるでしょう。今からあなたのお子さんの安息をお祈りしてあげましょう。なんという名前でしたか」
「アレクセイといいます。長老さま」
「かわいらしいお名前ですね。神の人アレクセイにあやかったのですか?」
「はい、神の人アレクセイにあやかりました。長老さま」
「なんて賢い子だろう。お祈りをしてあげましょう。母さんや。お祈りでは、あなたのご主人の健康も祈ってさしあげましょう。ただ、ご主人をひとりぽっちにしておくのは、罪ですよ。ご主人のもとに帰り、彼を大事にしてあげなさい。あなたが父親を捨ててしまったことを、お子さんがあの世から見たら、あなたがたのことを思って泣き出すでしょう。どうしてお子さんがあの世の幸せを壊そうとなさるんです。お子さんは目には見えない姿で、あなたたちのそばにいるのです。あなたがたご両親が一緒でないことを知ったら、お子さんは誰のところに戻ればよいのですか。母さんや、ご主人のもとにお帰りなさい。今日にも帰っておあげなさい」
「帰ります。長老さま。あなたのお言葉にしたがって帰ります。わたしのニキータ、あんたはわたしを待っているんだね」

 

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2 コメント

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東方教会とのからみがある (直人レコード)
2008-02-16 11:53:09
ドストエフスキー『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』、トルストイ『復活』、レスコーフ『僧院の人々』『封印された天使』、カザンザキス『キリストはふたたび十字架に』
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Unknown (直人レコード)
2008-02-16 11:59:16
浅田美代子「赤い風船」を作曲した筒美京平は青学卒。青学はメソジスト派。青学卒の有名人、かまやつひろしほか。私は青学よりもブルジョアな明治学院大学を中退して法政大学日本文学科2年次に編入した変わり種かも・・。実は法政よりも明治学院大学の方が都内だと評判がいい。(爆
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