ハナミズキが咲いていた。ひさしぶりに婿殿をたずねる。婿殿は正月に、わたしの写真が展覧されている美術館まで来ていただいた。以来、三ヶ月がたつ。毎年のことだが、この時期は4年前に亡くなった妹のことが思い出されて気持ちが落ち込んでならないという。四年前の今時分、妹は最後の闘病生活にあけくれていた。わたしが婿殿から、何年かぶりに電話をいただいたのが四年前の四月の十八日だったと覚えている。次の日、婿殿の家に駆けつけて、詳しい事情を聞いてきた。さらに次の日の四月二十日に病院の妹をたずねたのである。妹は前もって婿殿から聞かされていたとおり、骨と皮になっていた。それからちょうど一月目の五月二十日に妹はわたしたちの見ている目の前で息を引き取った。
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高校時代は彼はとなりのクラスだったが、
学園祭のときエレキ演奏を企画し学校側の猛反対(エレキ騒動てんまつ記)
の顛末があったが、そのとき、彼は演奏に参加した一員だった。
天野くんは考え方も若く心情はいまだ青年だ。
そんな彼の風貌が若いのも当然だろうか。
音楽・ジャズに関する理論もなかなかだ。
そんな彼は小さな宣伝・広告の会社の社長。
奥さんは薬剤師。
子どもが四人いた。現在、三人。
というのも長男を交通事故で亡くしたのだ。
それからというもの八年間「鬱状態」だったとは天野くんの弁。
だからその間、音楽活動から離れてしまっていたとのこと。
きっと子ども達を育て、自分や(家族達で)生きてゆくのがやっと
というような状態だったのじゃないだろうか。
そういえば「友達ってなんだろうか」
「自分はきくちゃんとはどういう関係だろうか」
「人間ってなんだろうね」とか
人生にまつわる問題について質問されたことがあった。
当時、天野くんは
私にはまだよくわからないけれど、いきなり子どもを失ってしまい
「喪失感」というのだろうか、いやとてもコトバでは表現できない
感覚・感情に襲われていたのだろうことは、私にも想像できた。
昨年からやっと立ち直り(本人の弁)演奏活動に参加。
(私が住む)近所の駅前喫茶店で毎月第四日曜日、午後三時からライブを再開した。
観客は私ただひとりということもあった。
彼はそれでもよいとのことだった。
三月は妻と孫とを参加させた。
毎月第四日曜日夜、七時から「モナの丘」でジャズライブもやっている。
http://www.monanooka.com/
彼はふたり姉弟で子どもの頃から学校の勉強ができた。
だから高校は東大に進学するような高校へと進んだ。
茂ちゃんの父親は軍隊時代はパイロットだったとのこと。
なぜか、英語も堪能だった。
「戦争は負ける」と思っていたとの告白を伺ったことがあった。
敗戦濃厚となって「飛行機」の内部は今では信じられないけれど
「紙や竹」を使用し、そして燃料は枯渇し菜種油を混合するなど、
もはや「めちゃくちゃ」な状態にあったとの由、
それにだいいち陸軍と海軍の飛行機の部品やネジなどがことごとく違い、
まったく帝国陸軍・海軍ども「軍部のバカ」につける薬もなし、とは
ありし日の叔父さん(茂ちゃんの父親)の弁だった。
そんな叔父さんは茂ちゃんに対して激しく教育熱心だった。
子どもの頃(小六)の夏休み、勉強(宿題)をサボった茂ちゃんを
叔父さんはこっぴどく叱っていた。
近所中の騒ぎになったようなこともあった。
あるときなどは、どういう計算が働いてなのか、
叔父さんの怒りが激しく、彼は屋根の上に逃げたのだ。
また、あるときなどは、私を誘って「逃げよう」という算段となった。
子どものことだから遠く遠く逃げたのはよいが、はてさて帰り道となると
ふたりともまったく帰路が分からない。
茂ちゃんは「きくちゃん、ごめんね。ごめんね」と謝り、そのとき私といえば
もう夜も遅くなり真っ暗になって自分が父親に叱られることばかり考えている
というような自分勝手な自分がそこにいたのである。
その反対に茂ちゃんはきっと本当は自分が叔父さんにひどく怒られてしまう筈なのに
私を心配してくれるような賢い子どもだったのだ。
やがて茂ちゃんは国立大学へと進学。でも大学三年で中退してしまった。
私が住み込みで牛乳配達で学んでいたのに影響したのか、
彼はアパートを借り新聞配達で私立の大学へと入学、無事卒業。
大学院卒業後、高校の教師をしていたが、それをやめ、
「農協」に就職。
(農民ではない彼は)№1にはなれないというルールのためか、
その組織の№2で定年退職した。
定年前、彼は、年下の部下に侮蔑されてしまった。
たかだか「パソコンのやりとり」のことである。
そこで組合長に相談したところ
「君が愚かだから・・・」とテンで話にならない。
部下は部下で彼の非力を周囲になじりバカにする。
プライドの高い彼は身の置き所がなくなってしまった。
こういった類の話は、最近よくある、よく耳にする話である。
我々の世代では、誰でもある誰にでも共通する話なのだ。
彼はこの件でパニック障害となり神経科のお世話になり、ようやく回復。
斉藤君は、臨時教員の募集に応募し中学一年生を教えることに。
ところが昨今の教室の騒々しいこと、けたたましい上このうえない状態。
授業を妨害するある生徒に堪りかねた彼は「廊下に出ろ」と指示。
その日、夜「廊下に出された」生徒の両親が血相をかかえて、
校長室に怒鳴り込んできたそうな。
「教育権を奪った」とのご託宣である。
校長はおろおろして「申し訳ない」「教師に謝罪させます」と。
後々、斉藤君からその顛末を聞いた私は
「みんなの教育権(教育を受ける権利)を奪ったのはその生徒の方じゃないの?」と。
しかし「モンスターペアレント」と思(おぼ)しき
その親御さんの圧倒的力学の前にすべては非力というのも現実である。
斉藤君は校長に「自宅まで謝罪に行きます」と応じたが、
結局、先方の親御さんに「結構です」と断られてしまった。
私は彼に「まっ教室の後ろの方に立たせてゆくしかないのかな」と折衷案を提示すると、
彼は何人もの生徒が「騒いだのは私もだから、私も立つ」といって、きりがないのだと。
現在、斉藤君は中学二年生を教えるべく教壇に立っている。
彼が再び深刻な病に襲われないかと心配している私がいる。
しかし本当に心配なのは
「一体これからどうなってしまってゆくのか」ということなのだが、・・・。
【教育につぃて語ろう21】は、本来渡辺さんが此処でなさっているようなお話をするのに適した場だったはずなんですが、最近はすっかりこの手の話題が少なく成ってしまいました。 できたら、渡辺さんに私どもの掲示板でこの手の話題に花を咲かせていただけたら、私どもの掲示板のかっての常連も戻ってきてくれるのではないかと思ったりするのですが、如何でしょうか。
往年の賑わいを懐かしく思い出すことの多い昨今です。なにとぞ、ご協力の程、お願いします。
私は現在、ソーシャル・ネット「mixiミクシィ」で日常ふと
感じたことを細々と書き綴っているような状態です。
どなたかと議論するというような状況は私にはなく、
感じたことをつれづれに細々と書き綴るのが精一杯なのです。
ただかつて私の軽率な判断と行為から、一連の騒動に
かもめさんを巻き込んでしまって申し訳ないとの思いもあって、
「新平家物語」に私のとりとめもない文章を転載させていただいている
というのが実際です。
ですから折角のお誘いを頂戴したのに、今の私には
議論板に参加して大いに議論に加わるという状況はないと
申し上げるほかありません。
また、状況が変わりましたら、書き込みさせていただくような
こともあるかも知れません。
そのときは、よろしくご指導のほどお願いいたします。
逆に議論の沸騰を期待してスレッドを立てても誰もレスしてくれないことも少なくありません。
基本的には、掲示板に必要なのは多様性です。 100件以上のレスのつくスレッドの傍らで孤高の
気を吐くスレッドが有るのも良い。 深刻な問題提起の傍らで、クイズ問題なんぞにうつつを抜かす人々がいるのも良い。 人生相談とか、借家の紹介とか、色々有るのが良い掲示板だと思ってます。
気が向いた時に気楽に顔を出してみてください。
>気が向いた時に気楽に顔を出してみてください。
いずれそのときはよろしくお願い致します。
岡本夫人は、そのときすでにご高齢なのにもかかわらず、若々しく、滑らかで清らかな口調に少し驚いたことを記憶している。
その際夫人によると「日月神示」(別名:ひふみ神示)とかを解析(解読)しつつあるとの話だった。
岡本 天明 (おかもと てんめい,)1897年~ 1963年没。幼少の頃から、他人には見えないものが見えたり、聞こえたりと霊能力を持っている子どもだったと言う。また、絵が得意で17才の頃に絵の個展を開き、新聞に「天才少年画家現る」と称賛されたという。その後、上京し明治大学に学ぶ。紆余曲折を経て大本教と出会ったのは大正9年で天明が22才の時だった。
昭和19年に千葉県成田市台方の麻賀多神社の末社である天之日津久神社に於いて、大本系宗教の関連啓示となる『日月神示』(別名:ひふみ神示)を自動書記する。
この自動書記現象は約16年間に渡り続き後に全38巻にまとめられた。なお書かれた文字は数字とカナと記号からなり、書いた天明自身読めなかったといわれる。その後、天明自身や仲間の神典研究家の協力のもと少しずつ解読が進み天明亡き後も妻の 岡本三典の努力で、一部を除きかなりの巻が解読されたと言われている。一方では日月神示の読み方や解読は八通り有るといわれ、その内のいくつかに 成功したとの認識が関係者の間では一般的である。 = 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
現在、私が知っている「自動書記」には、町田市成瀬にお住まいの山川紘矢・亜希子夫妻がいる。
鉱矢氏は「人生に悪いことが起こったら、それは良きことが起こっていると知りましょう。 人生は学ぶために生まれてきたのです。 幸せ、幸せ、の人生などありません。 どんなに恵まれていると見える人生にも大変なことが起こるものです。
それは、すべて学びたいという魂の欲求なのです。 何か悪いこと、問題があったら、それを祝福しましょう。」などのメッセージを日々つづられている。
http://www.tcp-ip.or.jp/~hirai/index.html
話は飛躍するが、「2012年地球大変動説」というような説もある。
「マヤ暦」とか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A4%E6%96%87%E6%98%8E
「ホピの予言」など
http://hyla.jp/ark.htm
↑これら (先住民の啓示?)を信じるか信じないかということよりも、これらが発している情報に価値を感ずるかどうかということが私は大切なような気がする昨今の世界の状況である。