高松市内にあって迷路のような町並みが広がるのが香西でした。またJRの香西駅は高松駅の次の駅ですが、かつては各駅停車もほとんどとまらない駅で、現在も一日の乗降客数が400人程度です。都市の中心駅の隣接駅は、無人駅であったり乗降客数が少なかったりしがちです。今回は、岐阜県第2の都市である大垣の近くにありながら乗降客数が400人/日たらずの無人駅、美濃赤坂駅周辺に残る宿場町の町並みを紹介します。
美濃赤坂駅は、大垣から北に伸びJR東海道本線の支線である美濃赤坂支線の終点駅です。美濃赤坂駅は、旅客扱いの駅では終点ですが、この駅を起点に貨物専用の西濃鉄道が北に伸びていて、金生山で採れる石灰岩の運搬に使われています。人の気配の無い小さな駅ですが、1968年秋には1年間だけですが、東海道線の下り夜行普通列車の終着駅でした。
こんな辺鄙な感じの美濃赤坂駅ですが、駅の北側には中仙道の宿場町の名残を残す町並みが残されています。辺鄙なところゆえ、再開発の手が及ばなかったのかもしれません。旧中仙道は、駅の北側を東西に伸びていて、駅から街道筋に伸びる道路沿いにも、白壁に腰板張りの家並みが続いています。
本陣、脇本陣の跡も近くにありますが、石柱と説明板が立っているだけで、遺構は何も残っていません。本陣の石柱の後方には、皇女和宮が輿入れのため江戸に向かう途中宿泊した場所を示す石碑もあります。宿場の東の外れであった場所には、赤坂宿御使者場の石柱もあり、これは宿場の入り口で使者が大名を迎えた場所だそうです。さらに、赤坂宿から北に伸びる他に組街道の分岐点にも、石柱と石灯籠、それに看板があって、歩いている人より石柱や石碑のほうが多いような感じです。
街道沿いには、現役の日本旅館や、かつての民家を転用したらしい五七処という休憩所など、土蔵造りの上に大きな瓦屋根を乗せた日本家屋が連なります。このような日本家屋の中に、かつての赤坂港跡にある資料館は下見板張りの洋館で、ちょっと意外な風景です。この洋館は、明治時代に建てられた警察署の遺構で、商工会議所などに転用された後に現在の資料館として公開されていいるようです。ただ、赤坂港という名称は、海から遠く離れた場所で奇異に感じますが、江戸時代には杭瀬川を使った舟運のための港としてにぎわったそうです。
筆者の学生時代には、当時の国鉄には各駅停車の列車が数多く走っていて、大垣夜行もそのうちの一つでした。現在の夜行快速「ながら」がその名残になります。おぼろげな記憶では、東京発姫路行きの各駅停車も存在していたように思います。ただ、当時は、青春18切符というような乗車券は無かったので、学割の枚数を節約するため、一筆書きの長~い区間の普通乗車券を持って乗車していました。しかし、時たま優等列車に乗車をしようとすると、指定券を購入するのは至難の業でした。駅に行くと、係りの人が予約センタに電話で問い合わせて手書きの指定券を発券していました。すべての列車の座席予約が、コンピュータライズされオンラインで可能となったのは東京五輪の1964年からだったのです。指定券を自宅からでも購入できるように便利になりましたが、「ながら」が季節列車になり、関西始発の夜行快速が全廃になるなど、低コストののんびりとした旅行には逆風が吹いているようです。
美濃赤坂駅は、大垣から北に伸びJR東海道本線の支線である美濃赤坂支線の終点駅です。美濃赤坂駅は、旅客扱いの駅では終点ですが、この駅を起点に貨物専用の西濃鉄道が北に伸びていて、金生山で採れる石灰岩の運搬に使われています。人の気配の無い小さな駅ですが、1968年秋には1年間だけですが、東海道線の下り夜行普通列車の終着駅でした。
こんな辺鄙な感じの美濃赤坂駅ですが、駅の北側には中仙道の宿場町の名残を残す町並みが残されています。辺鄙なところゆえ、再開発の手が及ばなかったのかもしれません。旧中仙道は、駅の北側を東西に伸びていて、駅から街道筋に伸びる道路沿いにも、白壁に腰板張りの家並みが続いています。
本陣、脇本陣の跡も近くにありますが、石柱と説明板が立っているだけで、遺構は何も残っていません。本陣の石柱の後方には、皇女和宮が輿入れのため江戸に向かう途中宿泊した場所を示す石碑もあります。宿場の東の外れであった場所には、赤坂宿御使者場の石柱もあり、これは宿場の入り口で使者が大名を迎えた場所だそうです。さらに、赤坂宿から北に伸びる他に組街道の分岐点にも、石柱と石灯籠、それに看板があって、歩いている人より石柱や石碑のほうが多いような感じです。
街道沿いには、現役の日本旅館や、かつての民家を転用したらしい五七処という休憩所など、土蔵造りの上に大きな瓦屋根を乗せた日本家屋が連なります。このような日本家屋の中に、かつての赤坂港跡にある資料館は下見板張りの洋館で、ちょっと意外な風景です。この洋館は、明治時代に建てられた警察署の遺構で、商工会議所などに転用された後に現在の資料館として公開されていいるようです。ただ、赤坂港という名称は、海から遠く離れた場所で奇異に感じますが、江戸時代には杭瀬川を使った舟運のための港としてにぎわったそうです。
筆者の学生時代には、当時の国鉄には各駅停車の列車が数多く走っていて、大垣夜行もそのうちの一つでした。現在の夜行快速「ながら」がその名残になります。おぼろげな記憶では、東京発姫路行きの各駅停車も存在していたように思います。ただ、当時は、青春18切符というような乗車券は無かったので、学割の枚数を節約するため、一筆書きの長~い区間の普通乗車券を持って乗車していました。しかし、時たま優等列車に乗車をしようとすると、指定券を購入するのは至難の業でした。駅に行くと、係りの人が予約センタに電話で問い合わせて手書きの指定券を発券していました。すべての列車の座席予約が、コンピュータライズされオンラインで可能となったのは東京五輪の1964年からだったのです。指定券を自宅からでも購入できるように便利になりましたが、「ながら」が季節列車になり、関西始発の夜行快速が全廃になるなど、低コストののんびりとした旅行には逆風が吹いているようです。