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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

辰野金吾が設計の楼門尾ある掛尾温泉は温泉町という性格だけでなく長崎街道の塚崎宿という宿場町の風情が残されています

2025-03-23 08:00:00 | 日本の町並み
 関西における迎賓館として、国内外の賓客を迎えたのが奈良ホテルでした。現在では、ツアーの団体客の姿も見かけるようで、やや品格が下がったようにも思えますが、本館の気品のある建物はさすがに味があります。この建物は、東京駅を設計したことで有名な辰野金吾ですが、多くの金融機関の建物を設計した中に、少し軽みのある建物として武雄温泉の楼門があります。今回は重々しい建築が多い辰野の軽みの和風建築の遺構が残る武雄温泉周辺を紹介します。

 
 
 
 
 武雄温泉の象徴となっている楼門は新館とともに大正期の初めに作られて重文に指定されています。釘を一本も使わない純和風建築で竜宮城を思い起こします。新館はかつての浴用使節で、現在は資料館となっていて、大正天皇の浴室なども残されています。楼門と新館の近くには共同浴場があって、、その中の元湯は楼門より古い日本最古の温泉施設で明治初期の建物だそうです。たしか、各浴場の入り口には温泉の温度が表示されていたように思いますが、どれも40℃をはるかに超えるもので、入るのが辛そうです。温泉施設から見上げるのが蓬莱山で、地元の人々のハイキングコースになっているようですが、頂上にある奇岩が特徴があって、岩に空いた三角形の穴は武雄の窓と呼ばれるそうです。

 
 
 
 
 
 武雄温泉は、現在では温泉町として知られていますが、江戸時代には長崎街道の塚崎宿として本陣も置かれた宿場町でした。武雄温泉駅から楼門のある共同浴場までの間には、温泉旅館の間に宿場町であった町並みの風情が残されています。要所要所には、町のいわれなどを開設したパネルが設置されていて、分かりやすくなっていますが、温泉に入りに来ただけの観光客はほとんど気が付いていないのではと思います。高札の掲示場であった札の辻、外敵の侵入を阻む鍵型道路、源為朝が打ち取った大蛇のうろこを運ぶ牛車の牛が地面に鼻を着いて動かなくなったという牛の鼻町など面白い内容の掲示が続きます。絞るとに学んでわが国初の種痘を行ったという中村諒庵の旧宅跡という表示もありました。武雄温泉は焼き物県の佐賀にあるからでしょうか、旅館の入口の柱が陶板巻きになっち増した。道端にある石仏にかけられた前垂れの色合いが、この陶板の色に似ていたのは偶然でしょうか。また、古い和風建築に混じってレトロな洋館が残っているのも町並みに変化を与えています。

 武雄温泉というと、長崎新幹線の起点駅を思い起こします。きわめて政治的なにおいのする路線ですが、軌道幅の異なる路線を直通できる列車を走らせるといった技術的な試みも挫折してしまい、税金の無駄遣いだけが残りました。せっかく研究した軌道幅が変わる列車は電車にこだわりすぎて失敗したように思います。日本では電車が幅を利かせていますが、ヨーロッパなどでは機関車けん引の列車が多く走っていて、フランスのTGVも前後が動力を持つ機関車です。機関車けん引の方式は、効率面では不利かもしれませんが、乗客の立場からはきわめて乗り心地の良い列車になります。高速で走る軌道幅を変える動力を持たない客車はすでにスペインで走っているのですから、機関車けん引の客車を作って、博多ー長崎間を走らせ、軌道幅が変わる駅で機関車だけを付け替えれば乗り換えのわずらわしさは無くなるはずです。でも、これだけやってもどれほどの需要があるのでしょうね。

優雅なひと時を過ごせる奈良ホテルの後に、シックなたたずまいの奈良町の散策、奈良にはいろんな楽しみ方があります

2025-03-09 08:00:00 | 日本の町並み
 円山公園の南にある長楽館は煙草で利益お得た豪商が顧客や政治家かをもてなす迎賓館の役割で建てたものでした。現在は迎賓館としての役割は終え、誰でも利用できるレストランとして肺胞され、優雅な午後ティーのひと時を過ごすこともできます。長楽館は企業の賓客をもてなすためですが、日露戦争後に国は賓客をもてなすため迎賓館を建てる瀬策を打ち立て、関西にも都の意向で建てられたのが奈良ホテルです。明治期に国の迎賓館として建てられた鹿鳴館はイギリス人のジョサイヤ・コンドルの設計でしたが、奈良ホテルはコンドルの教え子の辰野金吾でした。今回は、奈良ホテルとその西南に広がる奈良まち一帯を紹介します。

 奈良ホテルは、明治末期に、都ホテルの創始者西村仁兵衛などの立案で計画され、その後は市とっ関西鉄道の代わりに県と国有化した鉄道院が加わって推進され、1909年に完成しました。当初は県が東大寺南門への参道東側の用地を示しましたが、西村の反対で現在の大乗院庭園のそばの小高い丘に建てられています。戦前は鉄道院の後継社によって経営が引き継がれ、国の内外の賓客の定宿でした、戦後は占領軍の接収解除後は国鉄と都ホテルの共同形態を取ったのち、現在は都ホテルの代わりの近鉄とJRが50%ずつ株式を保有する株式会社となっています。

 
 
 
 
 現在の建物は、明治期に建てられた辰野金吾設計の本館に加えて、1970年の大阪万博の開催時に村野藤吾の設計で一部工事がはじめられましたが、古都保存法に抵触して計画は中段しました。その後の1984年の国体開催時に設計を見直して半地下で建てられたのが現在の新館です。天上の高い優雅なメインダイニングは当然ながら本館の入った左手すぐにあり、内部の装飾など、かつての迎賓館を忍ばせる優雅さです。結婚式というとホテルで、都の需要が多く、ホテルも大きな収入源の一つのようで、ホテルの南側の斜面の下には教会も建てられていました。

 
 
 
 
 
 奈良ホテルの建つ丘の西寄りに広がるのが奈良町で、最近は名が知れるようになりましたが、かつては奈良というと東大寺や興福寺などのお寺が思い起こされるのみで、古い町並みの存在は知られていませんでした。金星の街や軍の中に、寺社がポツポツと建っているといった感じの町並みで、京都の二条当たりとも似ているでしょうか。これらの町家は、現役の商店もあり、幾つかは内部を公開している町家もあります。奈良ホテルに近い町家は、今西家で興福寺大乗院の坊管の居宅跡で室町建築の遺構を残す重文で公開されています。寺社で近いのは元興寺で、名前の通り元は広大な寺域を誇っていたようですが、現在は極落防のみが残りますが、世界遺産の一つです。我が国に2基しか残っていない屋内にある建造物の五重の小塔のうちの一基が残されています。奈良町資料館は、民家を開放して収集した資料や町家の内部を見学できる貴重な使節で、無料というのがうれしいですね。

 鹿鳴館の設計者のコンドルが設計した国立博物館の旧本館は関東大震災で壊れてしまいましたが、奈良ホテルの設計者で弟子の辰野金吾が設計の東京駅はびくともしませんでした。コンドルは地震の少ない英国出身の建築家野設計だったからでしょうか。ところが、日本で最初に作られた地震計は明治期にイギリスから来た御雇外人でした。ごく最近までの地震計は、台地の動きそのものをとらえるため、基準となる動かないおもり(不動点)を作るのに苦労をしてきたようです。しかし最新の地震計は、動きそのものをとらえるのではなく、加速ををとらえるようになりました。地震計にはスマホの中にも組み込まれている小さな加速度センサと小型のコンピュータが内蔵されているだけです。加速度センサの出力を2階積分すれば動きそのもの(変位)が得られるからで、直径20cmくらいの円筒状になりました。ただ、内蔵するコンピュータには先人たちの苦労の結果がプログラム二なっています。

円山公園の枝垂桜も宵山の風情も長楽館の午後のひと時も、全部が優雅なのは京都の故でしょうか

2025-02-23 08:00:00 | 日本の町並み
 東洋大学を作った井上円了が世界の哲学者を祭り哲学をするかsン強を作ったのが東京中野区にある哲学堂でした。現在の哲学堂周辺は、運動公園も併設された区民の憩いの場で、公園の西側を南北に通る中野通と合わせて桜の名所となっています。桜は日本の国花になっていて、全国に桜の名所は数多くありますが、意外と大都市の中に数多くあるようにも思います。今回は、これらの都会の桜の名所の中から京都の公園に咲く枝垂桜で有名な円山公園周辺を紹介します。

 
 
 円山公園は、江戸時代までは八坂神社などの境内であったものが、明治の廃仏毀釈で政府に没収されて9万㎡の公園となったものです。この円山公園をを代表する枝垂桜は戦後まもなく枯れて現在の桜は2代目なのだそうです。八坂神社は、境内の一部を明治政府に没収されたといっても、丸山公園は八坂神社の裏庭といった感じがします。この八坂神社は、通常は四条通の突き当りの西楼門から入って、お参りした後に東に丸山公園に通り抜けますが、神社の正門は神幸通に面して建つ南楼門で、南楼門から入ると舞殿と本殿が延長線上に現れます。

 
 
 この八坂神社の祭礼が祇園祭で、山鉾巡行ばかりが目立ちますが、お祭りは1か月にわたって続きます。お祭りの祈願を行う1日に始まって、31日の疫神社奈津子氏祭りで締めくくられます。目玉の山鉾の巡行は前祭りが17日、跡祭りは24日に行われ山鉾の通る四条通から河原町通りまでは観光客であふれかえります。筆者はおよそ60年前に前祭り(その前後から50年間ほど後祭りの巡行が途絶えていた)の巡行を四条通と烏丸通の交差点、辻回しの所で見ました(モノクロの写真を撮りましたが行方不明)。その頃は、京都市殿が健在で、山鉾の通る側は架線を支えるポールが片側からだけ伸びて、巡行を邪魔しないようになっていました。巡行は勇壮で見ごたえがありますが、山鉾の飾りや、鉾町で披露される屏風などを見たり、町中でお祭りを支えている雰囲気を味わうのは宵山や宵々山です。こちらの方は8年ほど前に、後祭りの宵々山を見る機会がありました。巡行では味わえない、しっとりとした風情も味わえます。

 
 
 
 
 八坂神社の社殿は江戸時代に建てられ国宝や重文の神社建築物が並んでいますが、円山公園の南側には明治中期に建てられたしゃれた羊羹が建っています。煙草で財を成した村井吉兵衛が迎賓館として建てたもので、外観はるねさんす、内装はネオ・クラシックなどの建築スタイルで建てられています。現在は、レストランなどに使われていて、予約なしでも楽しめるアフタヌーン・ティーで優雅な時間を過ごすことができます。室内の造作は当時のままで、シャンデリアやステンドグラス、階段も優雅でした。窓の向こうには、祇園祭の山鉾を思わせる大倉財閥の喜八郎別邸跡に建つ伊藤忠太設計の祇園閣も望めます。

 祇園閣を設計した伊藤忠太は明治から昭和にかけて活躍した建築家です。明治の活躍した、ジョサイヤ・コンドルの弟子である辰野金吾や片山東熊などは西欧建築に範を取ったものが多いのですが、伊藤忠太は日本の伝統建築に光を当てた人物とされています。それまでArchitectureの訳語として造家が使われていたものを建築という言葉に改めて人でもあります。最近は外来語を日本語に訳す時に、発音をそのままカタカナ表示することが増えました。中国の、音訳の漢字表記に似ています。明治期に活躍した夏目漱石は外来語表記の名人だったようで、現在のようなカタカナに加えて、瓦斯、会堂、洋燈など数多くの漢字表記を生み出しているようです。言葉は生き物ですから、ひび変化していて、カタカナ表記だったものが漢字表記に変わるかもしれません。コンピュータの自動翻訳のデータベースのアップデートはどれくらいの頻度で行われているのでしょうか。

哲学堂には孔子をはじめ多くの思想家が祀られていますが、ブダペストの哲学の庭のコピーの聖人群像には孔子は居ませんでした

2025-02-09 08:00:00 | 日本の町並み
 2件しかない重文指定の孔子廟があるのが足の便が悪い多久聖廟でした。孔子は世界に影響を与えた思想家ですが、東京中野区の哲学堂公園の四聖堂には孔子を含めた4人の思想家が祭られています。

 
 公園の南には哲学の庭があって多くの聖人の像が飾られており、筆者の記憶では孔子も並べられていると思っていました。しかし、先日再訪問して確認したところ、哲学の庭の群像の中に老子は居ましたが孔子は見当たりませんでした。今回は筆者の自宅からも近い哲学堂公園周辺を紹介します。

 
 
 
 
 哲学堂公園は、JR中野駅から中野通を北に2kmほど行った道路の東側に広がる公園です。明治時代の後期に東洋大学の創始者である井上円了が、ソクラテス、カント、釈迦それに孔子を祭る四聖堂を建てたのが哲学堂公園の始まりです。この四聖堂を別名で哲学堂と呼んだことから、現在のような呼び名になったそうです。その後、四聖堂を中心に世界各地の哲学者を祭る堂が建てられて、哲学者の展覧会状態となっています。塔のような形の六賢台は聖徳太子、菅原道真、荘子、朱子、龍樹、迦毘羅の東洋の哲学者が祭られ、三學亭は平田篤胤、林羅山、釈擬然と日本の哲学者を、三祖苑には黄帝、足目仙人、タレスが祭られていった具合です。

 聖堂以外にも、哲理門には天狗と幽霊が居て、図書館の役割の絶対城や、講義を行う宇宙館などがが明正寺妙正寺川の河岸段丘の「上に建っています。公園は、建物群がある丘の上から南斜面二広がっていて、春は桜の名所として、中野区民の憩いの場所になっています。冒頭で紹介した哲学の庭は、妙正寺川を南に渡った所にあって、2009年にハンガリー外交140年を記念してブダペストにある哲学の庭をコピーしたものだそうです。孔子はハンガリーでは、あまり知られていないのでしょうか。

 
 
 
 哲学堂公園を通り過ぎて中野通りを北進すると突き当りに蓮華寺があります。静かなお寺ですが、このお寺の墓所に哲学堂を作った井上円了が眠っています。この墓所のそばには、都内にはあまり多くはない芭蕉の句碑が自然石に刻まれています。「初しぐれ 猿も小蓑を ほしげなり」と刻まれていますが、都会化された風景からは猿の存在は想像できません。付近には、猿ではなく、猿でもよじ登るのが難しそうな円筒の野方配水塔があります。1966年に配水塔としての利用は停車されていますが、中野区の災害貯水槽として使い続けられています。

 AIが全盛で、AIを使えば℃なことでもできるように誤解しがちですが。しかし、AIは膨大なデータベースを頼りに、コンピュータが過去の事例から最適解を求めるにすぎず、あたらしい価値は生みだしません。コンピュータに教えた事柄からは一歩も踏み出せないわけです。一方、哲学の分野は、過去になかった考え方、価値観や世界観など、過去の事例の組み合わせではたどりつけない考えを導き出します。AIは便利ですが、決して人類の進歩に役には立たない道具の一つだと思います。

多久聖堂は聖堂建築で2件しか残らない重文建築の一つですが森の中にポツンと建っていますが、地味な朱色が周りの緑との対比で存在感を増しています

2025-01-26 08:00:00 | 日本の町並み
 都内の桜の名刺である飛鳥山は、日本の資本主義の父と言われる渋沢栄一が晩年を過ごした地としても有名です。渋沢栄一は金儲け委一辺倒ではなく、節度のある資本主義を通したことでも有名で、その根底には儒教の精神が影響していると言われています。儒教の創始者である孔子を祭るのが孔子廟で、我が国にもいくつかの聖廟があります。その聖廟の建物が重文指定となっているのは関谷学校と多久聖廟のみで、今回はその多久聖廟を紹介します。

 
 
 多久聖廟は佐賀県の中央やや南寄りの多久市にあり、最寄りの駅は佐賀駅から唐津に向けて北西に延びるJR唐津線の多久駅ですが、駅前から本数の少ない武雄温泉行バスで南に7~8分という本多久の近くです。バスが牛津川が作る谷筋に出てT字路になるところが本牛久のバス停です。バス停近くには9世紀初頭の創建になる浄土宗の専称寺があり、戦国大名の少弐政資にまつわる伝説が残されています。政資は大内氏との戦いに敗れて、この専修寺で自害をしましたが、最後にかみ砕いて投げ捨てた梅干しの種の核がその後に芽を吹き実を付けましたが、なぜか最初から核が割れたものがあるそうです。その後、この梅を核割れ梅、自害の時に腰かけていた石を血曳の石と言って境内に残されています。

 
 
 
 さて、多久聖堂ですが、バス停から南東に600~700m行った山の西斜面に南面して建っています。聖廟までの途中には、18世紀に聖廟を建てた多久茂文の像や成文をたたえる碑文、ナポレン石と呼ばれわが国では数少ない球状閃緑岩、苔むした藁屋根が存在感のある観光案内所と、その前にはおうどんの美味しかったレストラン花ごよみなどが連なっています。もちろん大きな孔子像もあります。

 
 聖廟は前面の向拝と後方の奥陣を除くと6m弱の方形のもこしの上に入母屋造りの屋根が乗っています。この聖廟は多久茂文が教育のために建てた学問所の講堂に祭られた孔子像のための拝殿として建てられ現在に至っています。聖堂の周りには何もなく、木立の中にポツンと立っています。ただ、木部に塗られた朱色は、茶色に近い地味なものですが、周りの緑色とは補色関係なためか、目だって存在感があります。聖堂が建てられる元となった学問所の方は東原庠舎と呼ばれ、文武双方を勉強する藩校で、藩校としては珍しく武士の子弟だけでなく百姓や町人も学ぶことができる学校だったようです。明治時代初期まで存続し、小学校に改変された後に閉校になったそうです。

 孔子の教えは論語としてまとめられていますが、ほとんどの中国思想は、教祖などの語録として残されているのが特徴です。仏教の分野でも、中国の道教の影響を強く受ける禅宗では臨在語録のように語録なんですね。漢字文化の文字の国ということも影響しているのでしょうか。漢字は元来は表意文字で、文字自体が意味を表していますが、編や旁でで意味の違う文字がたくさんあります。これらは、漢字本来の意味とは乖離しているようにも思えて、発音が先に決まったようにも思います。この発音ですが、かなで書くと同じでも四声や五声と言ってアクセントの位置で意味が変わります。中国でグーグル翻訳を使ったことがありますが、この微妙な違いをちゃんとと聞き分けているようです。

廃線になりそうな阿武隈急行線沿線の丸森には数多くの観光資源は見当たりませんが齊理屋敷の建物群は一見の価値があります

2025-01-12 08:00:00 | 日本の町並み
 渋沢栄一が晩年を暮らし祈念館のあるのが王子の飛鳥山でした。渋沢がこの地を選んだ理由は、王子製紙を視察した時に周りの景色が気に入ったとのことです。王子製紙の工場の立地の理由の一つが水のきれいな場所であったそうですが、現在工場は移転し跡にはサンスクエアというスポーツの複合施設になっています。王子で作られた紙は洋紙ですが、我が国伝統の和紙の生産にもきれいな水が必須で、和紙のふるさとと言われる町は水の豊かなところばかりです。この和紙のふるさとは全国に分布していますが、今回はその中からシルク和紙と呼ばれる特産品を生む丸森町を紹介します。

 丸森町は、福島県の福島駅と宮城県の槻木駅との間を阿武隈川沿いに走る三セクの鉄道の沿線にある町です。もともとは東北線や常磐線のバイパス戦として計画され槻木駅から丸森までが部分開通していましたが、東北線も常磐線も複線電化されバイパス線の必要性が薄れ、盲腸線であったため利用客も伸びず、赤字路線として国鉄から切り離され三セクとなった歴史があります。その後、工事中の丸森~福島間が開通しましたが、営業喪失が5億になっているそうで、廃止か運行形態を変えての存続かが議論されています。

 自然豊かな町のようですが、目だった観光資源はなさそうで、それも町全体に分散していて、観光客を呼ぶのは楽ではなさそうです。その中で、筆者が訪れたのは蔵の郷土館齋理屋敷と大銀杏の木だけでした。とこrが、そのどちらも丸森駅から遠く、大イチョウは4.1kmもあって歩いて往復すると2時間仕事です。しかし、救いの神がありました、丸森駅で無料で電チャリを貸して下さるのです。このおかげで、本数の少ない電車のダイヤに間に合うよう効率的に廻ることができました。

 
 
 
 
 
 
 
 蔵の郷土館齊理屋敷は駅から2.5kmで、江戸後期から続いた豪商の屋敷跡で、七大目当主から町に寄贈されたものです。名前の由来は、代々の党首が齋藤理助を名乗ったためだそうです。道路に面した間口は15m程に思え、ずいぶんとこじんまりに見えますが、奥行きが長く、そして奥に行くほどに幅も広がって全体では8,535㎡もあるのだそうです。この敷地の中に居宅が1棟、蔵が6棟、石造りの浴室1棟それに丸森町に譲渡の跡に町が新築した2棟の計10棟の建物が建っています。もともとの建物は箱階段や箪笥などが残されていて、生活の様子がうかがえ、新しく建てられた建物は資料展示室での様相で蔵にしまわれていたと思われるような品々や柱時計などが展示されています。また、これらの建物は敷地の周辺にあって、その間には建物の面積よりも広い緑地がありかつては建物が存在したのか不明ですが贅沢な配置です。

 
 一方の大イチョウは、樹齢が600年以上と言われ高さが42m、幹回りが17mもあるそうで、ちょうど黄葉の頃に訪れたので青空に向けて補色の黄色の大樹がすっくと建つ姿は存在感がありました。

 展示室の柱時計は、明治元年のアメリカ製のカレンダ時計で、時刻だけではなく月日曜日までが表示できるものでした。江戸時代までは、現在の24時制ではなく不定時報と言って太陽の動きに合わせた時刻のシステムが取られていました。夏は、昼間の一時(約2時間)は2時間より長く、冬は2時間より短くなります。そのため江戸時代に使われた和時計では文字盤を調整したり動きそのものを調整する作業が必要でした。これを、自動的にやってしまう万年時計というものが江戸末期に作られ、科博に重文指定の実物が飾られています。アメリカ製のカレンダ時計も日本の蔓延時計も、仕組みは歯車とカムの組み合わせで作られ、決してコンピュータ・プログラムによるものではありません。おそらく、プログラム制御の方が、ずっと楽に実現でき、歯車の組み合わせなどの実現技術は大変な工夫と努力が必要で、現在では廃れてしまった技術の一つではないでしょうか。

パークセーはラオス第2の都市の一つですが、ワット・プーなどへの観光拠点に過ぎなく観光客にとっては地味な町の一つです(ラオス)

2025-01-05 08:00:00 | 日本の町並み
 前回までにラオス南部のシーパンドンを2回にわたり紹介しました。また世界遺産の最新の紹介ではワット・プーでした。これらの観光地へのアクセス拠点となるのが、ラオス南部随一の都市のパークセーになります。今回は、このパークセーの街を紹介します。

 ラオスには5か所の国際空港が登録されているようですが、実際に国際線が飛んでいるは3か所の、ヴィエンチャン、ルアンパバーンそしてパークセーになります。ラオスには日本からの直行便は飛んでなく、当然パークセーも例外ではなく、むしろ日本からは、行くのが不便な空港です。1回の乗り継ぎで行くには、ベトナムのホーチミンから3便/週の便に乗り継ぐしかありません。コロナの前には、タイのバンコクからの便もあったようですが、現在は運休中です。ただ、国際空港とは名ばかりで、誘導路なしで1,600mの滑走路が1本、飛行機の乗り降りはタラップ経由です。日本の地方空港でも見かけないような三角屋根の小さなビルがポツンとあり、もちろんイミュグレーションはありますが、両替所すらありません。、

 パークセーはラオス第2の都市と言われますが、都市部の人口は8万人ちょっとで、日本の都市でいえば広島県の三原や静岡県の袋井程度ですから、空港が貧弱なのもうなづけます。北部のルアンパバーンの人口もさほどは変わりませんが、ルアンパバー^ンはラオスで最も人気のある世界遺産の街であるためか、ルアンパバーン空港からの就航先も多く空港ビルも立派です。

 
 
 
 
 パークセーの市街地はメコン川左岸の空港の下流の南東方向に2km程行ってメコンの支流のセードーン川を渡った先あたり。川を渡ってすぐに右手にあるのがパークセー最大の寺院であるワット・ルアンでなかなかきらびやかなお寺です。ラオスの国花はプルメリアですが、町中で目立つのはブーゲンビリア、南国の青い空や、金ぴかの寺院との愛称がいいようです。ワット・ルアンの東側、道路に囲まれた三角形の広場の中央にもお寺のお堂野由奈物が建っていて、こちらもほどほどきらびやかです。調べてみるとラック・ムアンの社といってパークセーのランドマークだそうです。

 
 
 
 先に書いたようにパークセーは田舎の都市で、あまり観光拠点もありません、ワット・ルアン以外には、ワット・ルアンの東1kmほどにあるワット・パバーとぐらいでしょうか。ぶっ即席が祭らrているとのことでしたが、どこにあるのかもわからずでしたが、境内が広く伸びやかなお寺でした。

 
 
 筆者が泊まったホテルはワット・ルアンの近くでしたが、近くには市場があって新鮮な果物がたくさん並んでいましたし、フレンチ・コロニアル風の建物も建っていました。。ちょうど春節の日だったので、近くの商店には中国風の獅子舞が待っていました。屋上がレストランになっていて、メコン川の向こうに沈む夕日を眺めながら夕食を楽しめました。

 日本の出入国管理は顔認証技術でパスポートに張られた写真と実物とを照らし合わせてアッという間に済んでしまい、最近は待たされた記憶がありません。顔認証の前には事前に指紋を登録しての指紋認証で、専用ゲートがあって比較的早く通過できましたが、指紋の読み取り率が高くなく、便利とは言えませんでした。シンガポールの入国管理にも指紋読み取りが行われていますが、どうしても認識してもらえなくって、人間対応ゲートに行かざるを得ませんでした。一方、ラオス、ベトナムそれにマレーシアなどでは電子化はまだまだ、係官が一人ひとりチェックしています。このために、入国管理を通過するのは大仕事です。ハノイやホーチミンでは1時間かかるのは当たり前で、乗り継ぎの飛行機に間に合わなかったことがあります。なんてことはない、コンピュータによる顔認証ではなく、係官による顔認証なのですがね。

飛鳥山は古代には古墳、江戸時代には桜、そして戦前は渋沢栄一、現代は隠れたアジサイの名所として時代ともに主役が交代してきました

2024-12-15 08:00:00 | 日本の町並み
 琵琶湖から引いた水で発電をして、その電気でわが国初の路面電車を走らせたのが琵琶湖疎水でした。このような事業は都が京都から東京に移ることで京都が低落するのを食い止めようという意思もあったそうです。一方、移転先の東京では、数々の事業を立ち上げて明治維新を産業の面から支えた人物の一人が、新一万円札の肖像にもなった渋沢栄一ではないでしょうか。この渋沢栄一は深谷の出身ですが、晩年を過ごしたのが飛鳥山後で、祈念館やゆかりの建物の一部が残されています。今回は、この飛鳥山界隈を紹介します、都内で唯一残った路面電車も通って居る場所でもありです。

 
 飛鳥山の最寄り駅はJR京浜東北線の王子で、駅の南西に接して小高いい丘があるのが飛鳥山でその飛鳥山の西側の麓を回り込んで走るのが唯一残った都電の荒川線です。JR線の高架を東北方向に越え飛鳥山とJRの高架沿いを渋沢が作った王子製紙の工場跡地との間を180°向きを変えて南西に回り込んでいます。この都電の走っている道路から飛鳥山までは少し登りになるのですが、あすかパークレールと名づけられた斜行エレベータが上下しています。

 
 
 
 
 飛鳥山の上は飛鳥山公園となっていて、公園の南東の半分くらいが渋沢栄一が別荘を建てやがて本邸とした場所です。戦災によって本邸の大部分は焼失してしまい、戦後に敷地の多くは北区の管理となりました。跡地の一郭には渋沢関連の資料を展示する渋沢記念館が新設され入口には栄一の銅像が置かれてあります。戦災でも焼け残った建物として、喜寿に清水組から送られた晩香廬と傘寿祝いに竜門社から送られた青淵文庫の2つの重文の建物が公開されています。晩香廬は平屋の洋風茶室で青淵文庫はコンクリート製の2階建てで、窓にはめ込まれたステンドグラスがきれいな建物です。ちなみに、渋沢栄一は飛鳥山からも近い谷中の墓地に葬られています。

 
 
 渋沢関連施設の北西には5基の古墳があり、6~7世紀に作られたと思われる円墳です。1号墳の平成元年の発掘調査では、横穴式の石室や太刀やガラス玉などが見つかったそうです。また江戸時代には吉宗によって桜の苗木が植えられ、現代まで続く桜の名所になっています。この山の上の桜に加えて、麓のJR線との間の飛鳥の小径は隠れたアジサイの名所になっています。350m程の道路沿いに2,000株程のアジサイが植えられて、通り過ぎる京浜東北線の電車を組み合わせて撮影ポイントになっています。
 
 これまでにも渋沢栄一がお札の肖像の候補として上がったことがあったのですが、ひげが無いために却下されてきたそうです。かつては、細かなひげの線が偽造防止に効果があったためだそうです。現在の偽造防止技術は数多くのものが使われて、単に絵柄のみで判断されることがなくなったので、ひげのない渋沢や女性が肖像として採用されるようになったそうです。自販機の紙幣判別ユニットは、秘匿性の高い技術のため、特定の製造会社が集中して製造にあたっているようですが、最新の電子技術が組み合わされた高機能のコンピュータのようです。ただ、紙幣は自販機で使われるだけでなく、人から人へ流通し、ほとんどの場合は渡された人が目視で認識するので、見てくれも大切でしょうね。

京都に流れ下る琵琶湖疎水が京都に入ってすぐに通る水路閣は南禅寺の境内の寺院建築の風景の中でなぜかしっくりと溶け込んでいます

2024-12-01 08:00:00 | 日本の町並み
 もともとあった川を付け替えてできた町が神戸の新開地であり、川を暗渠にして地表を長細い緑地公園にしたのが旧桃園緑道でした。これらの例では川は邪魔者扱いですが、逆に川を新たに引いて利用しようというのが運河です。今回は、明治時代に琵琶湖の水を山越えで京都に引いて水道や水運だけでなく発電にも利用した琵琶湖疎水の京都側の出口にあたる蹴上周辺を紹介します。

 
 
 琵琶湖疎水の琵琶湖川の取水口は大津市にあって、石づくりのトンネルの入り口が作られ、長等山をトンネルで山を越え山科に向かいます。山科を流れる部分を山科運河と呼ぶこともあるそうで、山科駅から桜や紅葉の名所となっている毘沙門堂の参詣道と交差します。さらに西に流れて3つのトンネルを抜けて京都の蹴上に至ります。

 
 
 
 
 
 トンネルを出た疎水は、分流して北に流れて南禅寺の境内を水路閣という水道橋で越えていきます。ローマの水道橋が石作りに対して、こちらはレンガ作りで茶色の世界です。石川五右衛門が上って「絶景かな!」と叫んだという逸話のある南禅寺山門など江戸時代に再建の和建築の諸堂と明治に作られた洋風の水路閣とがなぜか風景として調和しているのが不思議です。禅の建築も元をただせば中国風で、どちらも輸入文化なのでしっくりいくのでしょうか。この水路閣は絶好の撮影ポイントらしく、順番待ち状態が続いています、特にオーバーツーリズムのこの頃は写真を撮るのも時間がかかりそうです。

 分流した一方は北西に流れて蹴上のインクラインの上に至ります、インクラインというのは傾斜のことで、琵琶湖から疎水経由でやってきた船は、標高差をこのインクラインで降りて行って丘崎公園の南に着きます。このインクラインの構造は、ケーブルカーと同じで、台車がレールに乗り、その台車の上に船を乗せて上下します。この標高差を利用して蹴上水力発電所も作られ、この伝記を利用して日本で初めての路面電車が走りました。この電車は明治村で宇井イラン電車として走っていますが、筆者の幼いころまでは堀川通を現役で走っていました。南の起点が京都駅でしたが、後にできた市電が1435mmの標準機に対して、堀川線の電車は1067mmの狭軌だったので、京都駅前には3本のレールが敷かれてありました。

 
 
 疎水の流れ下る蹴上、南禅寺そして岡崎公園あたりは、館j後脚の集中するところの一つで、特に紅葉の頃に市バスを途中乗車したくても満員で乗せてくれません。移動の手段は強引に歩くか、地下鉄の蹴上駅や東山駅から地下鉄での移動でしょうね。さすがに地下鉄は満員通過はしないようですから。岡崎公園の北端には観光客が群がる平安神宮がありますが、中央当たりには京都市美術館があります。現在は命名権を売って京セラ美術館になってしまいましたが、登録文化財の本館は展示物だけでなく、なかなか見ごたえのある建物です。かつて、関西には西洋美術を展示できる美術館は少なる、ヨーロッパの美術展は決まってこの美術館でした。本館の周りに長蛇の列ができたものでした。

 現在のIT社会を支えている素材の一つがIC(集積回路)で、パソコンの心臓部のプロセッサも大規模なIC回路です。このICチップを支えたり覆っているのが京セラが名づけの親であるファインセラミックスで、純度の高い焼き物の一種です。焼き物(セラミックス)と聞くとお茶碗などのイメージですが、ファインセラミックスの用途は思いもよらない分野に及んでいるようです。ICの製造はいうに及ばず、台所ではセラミックス製のナイフが活躍し、それで調理したものを噛むための歯の修復にも使われます。強度を買われてベアリングの材料に、耐熱性では宇宙飛行船の外壁保護、またまた超伝導性のあるセラミックスもあるようです。そういえば、水路閣の材料のレンガもセラミックスの一種でした。 

水が干上がった川のような形の旧桃園川緑道は地下を暗渠化されたかつての桃園川が流れる細長い公園です

2024-11-17 08:00:00 | 日本の町並み
 もともとあった川を付け替えて生まれた土地にできた歓楽街が神戸の新開地でした。新開地は湊川を付け替えて生まれた土地ですが、神戸には生田川を付け替えて生まれた土地もあるんですね。この付け替えに尽力した人の名前を取って加納町という町名になっています。これらの例は、川そのものが付け替えられて姿を消していますが、東京では川を暗渠化されて、地上からは見えなくなってしまいましたが、流れが無くなったわけではなくて現前として存在する川があちこちにあるようです。その一つが、新宿と中野の区界から杉並に至る桃園川で、見えなくなった川の上部は旧桃園緑道と呼ばれる公園になっています。今回は、この旧桃園川緑道を神田川に合流する地点から中野区と杉並区の境あたりまでを紹介します。

 旧桃園川は、杉並区の天沼弁天池が水源で、そこから流れ下って大久保通が神田川を越える末広橋の誓うの下流で神田川に合流していました。現在はすべてが暗渠化されて川の姿は見えなくなりましたが、阿佐ヶ谷駅東で中央線と交差する場所から下流の地上部分のおよそ5km程度が旧桃園緑道という日本一ではないかと思われる細長い公園になっています。

 
 
 
 
 
 最下流の起点の神田川への合流地点には、神田川の左岸にぽっかりを穴が開いています。そこから大久保通を南に越えたあたりに、広場があって、かつて流行した「神田川」の歌碑が建てられています。そこから、西へ一直線に川公園が始まります。元が川なので、ほぼ一直線で、公園に面した側に民家の出入り口はほとんど無いので、すぐにそれとわかります。よく整備がされていて、四季の花々が植えられたコンテナあったり、舗装面のところどころにはおとぎ話のシーンが陶板にして埋め込まれています。元が川なので、南北の道路と交差するところには、かつてあった橋の名前が記された石柱が建てられています。道路沿いには、江戸名所図絵にある中野の三重塔が描かれた石碑もありました。

 
 
 
 前衛彫刻のようなオブジェがあるかと思えば、普通の公園も隣接しています。ツタの生い茂った民家の近くには、お寺もありお隣には、かんなで板を削っている人が高いところに居た、と思ったら人形でできた建築屋さんの看板でした。

 
 
 西へ行くと、やがて中野駅から南に延びる中野通と交差しますが、その手前には新渡戸稲造ゆかりの中野総合病院の建物の鵜あらを通ります。中野通を越えて、大久保通を斜めに北の交差して進み、そろそろ杉並区というところに、高村光太郎終焉のアトリエ跡が残っています。もともとは貸しアトリエで最近になってオーナーが亡くなられて、半ば廃墟のようになっていますが、何とか保存運動で残してほしいものです。

 桃園川のように大きな地下空間を通る構造物は、そのあり場所を性格に管理されているのでしょうが、都市部の地下には様々な構造物が埋まっています。ずいぶんと昔ですが、地下の通信ケーブルを管理する図面を電子化する話を聞きましたが、通信ケーブル以外にも様々な所有者の異なる構造物が埋められているわけで、これらを総合的に管理できているのでしょうか。当然地下空間は2次元平面ではなく3次元で管理できないと意味ないのですから大変な情報量なのでしょう。先日に広島で水道管が壊れて地面が陥没する事故がありましたが、どうもこのことからすると、管理の総合化は進んでなさそうですね。