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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

歴史の浅い北米にあってもモントリオールの旧市街に居ると、ヨーロッパのどこかに行ったように錯覚します(カナダ)

2019-11-17 08:00:00 | 世界の町並み
 首都のベルンより大きな金融の町がスイスのチューリッヒでした。日本では最大の都市と首都とが東京で一致していますが、首都と商都となどを区別して首都はこじんまりという国も多いように思います。これらの国の中kら、今回は、首都オタワのおよそ2倍の人口があるカナダのモントリオールを紹介します。

 モントリオールは、カナダの東南部のケベック州の都市でトロントに次いで2番目の大きさになります。カナダの東部をアメリカとの国境沿いに流れるセントローレンス川の中流域にあり、セントローレンス川の上流にあるオンタリオ湖の北岸にかけてじゅず状に都市が並んでいます。このルートには、カナダの東海岸と西海岸を結ぶVIA(カナダ国鉄)が走っており、ケベックからトロントまでおよそ700kmを飛行機ではなく鉄道で移動して車窓の風景を楽しむことができます。このVIAの本社もモントリオールにあります。カナダの東部は、英語よりフランス語がよく話され、市内の交通標識なども英語とフランス語の併記で、モントリオールは北米のパリと呼ばれているようです。

 
 
 
 
 町並みの散歩は、VIAの中央駅の北東にあるノートルダム大聖堂から市役所のあるジャック・カルティエ広場あたりまでが旧市街の中心になります。ノートルダム大聖堂は19世紀初頭に建てられたバシリカ様式の聖堂で、完成当時は北米最大の教会建築でした。外観は左右に塔を持ち、パリのノートルダム大聖堂に似ていますが、内部はモントリオールのほうが圧倒的に華やかです。筆者が訪問の時には、結婚式が多くて昼間には入堂できず、夜の光と音のショーを見ましたが、なかなか憎い演出でおすすめです。入道すると、協会の内壁はすべてスクリーンで覆われてみることができません、そしてスクリーンを使って協会の歴史が解説されます。ちょっとガッカリした頃に、該当する壁面の解説が終わると同時に、その壁面のスクリーンが外れていき、最後に祭壇のスクリーンも上がって豪華な全容が現れるというシナリオです。

 
 ノートルダムの前にあるアルム広場の向こう側には、ギリシャ神殿風の列柱にドーム屋根を載せた銀行博物館があります。隠れた穴場の名所のようですが、時間が無くって入館できませんでした。時間が無かったのは、ケベックからモントリオールまでのVIAが途中でエンジントラブルのために何もない原野でストップしてしまい、3時間ほども遅れたためでもあったのです。ただ、この建物は外観を眺めるだけでもなかなか奇麗で、特に暗くなって来てから列柱の上部からライトアップされるさまは華麗です。

 
 
 
 
 
 ノートルダム大聖堂とジャックカルティエ広場を結ぶノートルダム通りなどはヨーロッパの街並みを散歩しているようなてて物が並んでいます。ノートルダム通りを北東に行くと、左手に市庁舎が右手にはジャック・カルティエ広場が見えてきます。市庁舎は19世紀の終わりころにカナダ最初の市庁舎建築としてフランスで流行した第二帝政期様式で作られたものでしたが、1922年の火災で外壁を残して焼けてしまいました。現在の市庁舎は翌年に再建されたものですが、中央に塔を持つシックな建物は北米に居ることを忘れます。一方のジャック・カルティエ広場は、線とローレンス川に向かってだらだら坂になっていて、広場の中央にはネルソン司令官記念碑が立っています。ヨーロッパのあちこちでこのようなポールを見かけ、その頂上には彫像が乗ってますが、権力を誇示するようで、あまり好ましい感じではありません。広場を下って突き当りが盆スクール・マーケットで、銀色のドーム屋根は港に出入りする船の目印になっていたそうです。

 一つの国で複数の言語が使われることは珍しくありませんし、そのような国では複数の言語を話せるのが当たり前のようになっているようです。ただ、日本人は相変わらず、日本語以外は苦手で、英語など小学校から勉強していても、自由に話せる人はまだ少数です。外国語の会話塾に、こんなに多大なお金を使う民族も珍しいのだそうです。科博では、ボランティア・ガイドのためのツールとして、最近は電子式の多言語翻訳機が使われるようになりました。昔に比べて、話し言葉の認識率も変換の正確さも向上したように思いますが、「出口はどっち?」や「恐竜の展示場所は?」といった質問の応対には使えますが、展示品の解説などに使うには、まだまだ無理があるように思います。日本人の外国語に対する苦手意識は、対人恐怖症によるものだ、との説に共感しますが、多言語翻訳機は対人恐怖症には感染しないんでしょうね。

スイス最大の都市のチューリッヒは、お金持ちには心地良い町のようですが、文化の香りは少ないように感じます(スイス)

2019-10-20 08:00:00 | 世界の町並み
 45年も前の風景とTVなどで見る現在の風景とがあまり変わっていないように感じられたのがロサンゼルスでした。そもそも、アメリカという国は、ヨーロッパ人が勝手にやってきて、発見!発見!と叫んで先住民を蹴散らかし、西部開拓の名のもとに侵略を重ねた結果できた国であることには違いはありません。色んな民族がごちゃ混ぜになった人種のるつぼと言われるのもこのような歴史からで、英語だけでなくフランス語やスペイン語を話す人々も多く、特にロサンゼルスでは、ヒスパニック系のスペイン語が幅を利かせているようです。一つの国で、多数の言語が話される国は少なくなく、シンガポールなどは公用語が4種類で、ヨーロッパでもベルギーではフランス語圏とオランダ語圏があって、標識も2か国語対応です。今回は1か国で複数の言語が話される国の中のスイスから最大の都市であるチューリッヒを取り上げます。

 
 スイスの公用語は、ドイツ語、フランス語、イタリア語それにスイスの狭い特定地域で離されるロマンシュ語と定められ、鉄道などの公用期機関では3~4か国語が併記されています。ただ、切手などセマイスペースでの国名はラテン語がつかわれています。この4種類の言語は、全国で平均的に使われているのではなく、地域性があるようです。今回紹介するチューリッヒは、ややドイツに近いこともあって、ドイツ語が多く話されているようです。

 
 チューリッヒは、スイスのほぼ中央部にあって、首都ンおベルンを差し置いて最大の都市であり、日本からの直行便もチューリッヒ空港に到着します。空港には鉄道も乗り入れていて、市の中心部へのアクセスも便利です。人の動きが首都ではなくチューリッヒに集中するのは大都市ということだけでなく、ヨーロッパの金融の重要な中心都市の一つであるからです。このためか、市の中心部には商店や金融機関などは多いのですが、あまり文化の香りを感じない、商売人の町とという感じもします。それでも、中央駅からリマート川両岸にかけては、教会や雰囲気の良い町並みも存在するようです。

 
 チューリッヒ中央駅は、日本には少ない頭端式の駅でリマト川に突き当たるような形で、チューリッヒを経由する列車は、ここで向きを変えて出ていきます。市内には、日本では少なくなり、ヨーロッパの都市ではどこでも見かける路面電車が走っていて、路線バスに比べて観光客も安心して移動ができます。チューリッヒの路面電車は、幅の狭いやや古風な電車が連結されて走っていました。

 
 中央駅から、リマト川沿いにチューリッヒ湖に向かって南にしばらく行くと聖ペータ教会で、ヨーロッパ最大の教会の時計が塔の上に付けられています。暑気の教会は8~9世紀に作られたと言われ、13世紀にロマネスク様式で建てられ、15世紀にはゴシック様式で身廊が再建されたそうです。一方、リマト川を対岸に渡り、さらに南に進むと2本の塔が印象的なグロスミンスターがあります。最初の教会は9世紀に建てられ、2つの塔は15世紀ごろにロマネスクで建てられています。

 スイスと言えば時計で、聖ペータ教会の大きな時計もそのことを象徴しているようです。ただ、機械式の時計は、美術品的な価値に変質し、精度では水晶時計にはかないません。この水晶時計の分野では、世界で初めてクォーツの腕時計を我が国の精工舎が作って以来、実用時計の分野では日本が世界を制したと言えるでしょう。50年前に作られた最初のクォーツ腕時計は、当時の小型車と同じくらいの火カウだったそうで、当時の開発者は\100ショップで売られるようになるとは夢にも思わなかったかもしれません。時計は時を刻む振動子の振動数が高いほど精度を高くでき、現在世界標準となるセシュウム発振器を使った原子時計の精度は1億年に1秒以内と言われていますが、いったい誰が測ったのでしょうか。

45年前のロサンゼルスのディズニーランドは現在まであまり変わってなく、ユニバーサルスタジオはまるで違っていました(アメリカ)

2019-09-22 08:00:00 | 世界の町並み
 杉浦千畝が外交官として活躍した町がリトアニア第2の都市でかつての首都であったカウナスでした。代2の都市と言っても人口は36万人程度で、日本でいえば奈良市くらいです。このカウナスの姉妹都市の一つがアメリカのロサンゼルスで、こちらは市域だけで人工は380万人程度、都市圏だと1500万人以上にもなります。初めてロサンゼルスを訪れたのは45年も前になり、写真もアナログのポジフィルムでかなり退色し、記憶も退色していますが、思い出しながら当時の様子を紹介します。

 
 
 45年前に日本からアメリカ西海岸に飛ぶ飛行機は、当時の航空機の能力では追い風の往路ではノンストップでしたが、向かい風の復路では途中で給油の必要があったように思います。特にロサンゼルスは、日本との距離がサンフランシスコより、500kkmほども遠いので無理をしても届かなかったようです。JALでは日付変更線を越えた証明書を機内で配っていたように思います。ロサンゼルスは、西海岸の経済の中心なので、プライベートや仕事で行く機会もありましたが、最初に訪れた時の印象が鮮烈に残っています。ただ、パッケージツアーのロサンゼルス観光はチャイニーズシアターやハリュッド・ボールなどのハリュッド周辺とファーマーズマーケットで飲んだオレンジジュールがおいしかったくらいの思い出で、印象の大部分は、自由時間に行ったナッツベリー。ファームとディズニー・ランドです。その後にウニバーサル・スタジオも訪れて、ロス周辺の遊園地を制覇した感じです。

 
 
 ナッツベリー・ファームは、3つの遊園地で唯一日本に進出してない遊園地ですが、意外と存在感のある遊園地でした。スウェーデンのストックホルム郊外にあるスカンセンのように、アメリカの歴史を前面に出した遊園地だったようです。園内を蒸気機関車や幌馬車が走り、突如西部劇のシーンのような銃撃戦が始まります。糸紬の実演もあり、砂金をより分けるアトラクションもありました。日本でコピーの遊園地ができなかったのは、このようなテーマでは、日本では集客率が低いと思ったのかもしれません。しかし、ヨーロッパなど他国の文化のペラペラなコピーにあふれているディズニーランドより、ずっと意味があると思うんですが。

 
 
 
 45年前のディズニーランド写真を改めて見てみると、舞浜のディズニーランドとあまり変わらないような気がします。ディズニーランドは、常に新しいって宣伝していますが、変わらないところも多いんですね。ディズニランドのそばのホテルに泊まりましたが、窓から見ると遊園地より駐車場の方が広いのでさすがに車社会だな~と感じたことを覚えています。

 
 
 ユニバーサル・スタジオを最初に訪れたのは35年ほど前ですが、現在のユニバーサルとは、だいぶ様子が違っていました。遊園地というより、京都の東映映画村の感じです。映画スタジオの中を、トラムに乗って巡ることがメインでした。ジョーズも、トラムが通るタイミングを見計らって水の中からガバッと顔を出すので迫力があります。それ以外は、劇場があって当時人気の映画の有名なシーンを演じてくれたくらいでした。当然ながら生身の人間が演じるわけで、これは現在のユニバーサルに通じる流れで、人形やロボットが演じるディズニーとは対照的です。ディズニーが均質で味気ないのに対して、人間が演じると演者の力量が出て、良くも悪くも面白いのですが、USJが開園したころは力量不足が気になりました。

 45年も前のアメリカ西海岸のパッケージツアー料金は、当時の所得水準と較べてかなり高額だったように思います。ツアー料金の大部分は航空運賃で、飛び始めたジャンボによる大量輸送時代の幕開けも、料金を下げるまで時間がかかったようです。飛行機は大型ほど乗り心地も良く安全と言われ総二階建てのA380はで出現しました。これは大型ほど、飛行を支援するより高度なシステムを搭載できるからです。飛行機は電子技術で飛んでいるようなもので、エアバスの操縦系統は、舵輪は無くなり戦闘機などで使われるサイドスティックの操作信号をコンピュータで解析して、エルロンなど飛行機各部の動きやエンジン出力の制御をするフライバイワイヤと呼ばれる技術が使われています。しかしながら、コンピュータのプログラムの検証は難しく、フライバイワイヤとは異なりますが、ボーイングのB737Maxではプログラムの不具合で墜落事故も起こりました。トラブルが起こった時の最終判断は、人間なんですね。

リトアニア第2の都市のカウナスにはソ連時代の弾圧を潜り抜けてきた綺麗な教会が沢山ありました(リトアニア)

2019-08-25 08:00:00 | 世界の町並み
 ルーマニア中部のブラショフには、もともと住んでいたルーマニア人と植民地として侵入してきたドイツ人を分断するための城壁とそこに開いたスケイ門とがありました。民俗ならぬ、宗教や考え方の違いによる分断は現在も続いていて、その最も顕著な例がアメリカかもしれません。第2次大戦の時には、文壇の最大のターゲットはユダヤ人だったわけで、そのユダヤ人がアメリカに逃れるために独断でビザを発給したのが、在リトアニア日本領事館の外交官であった杉浦千畝でした。リトアニアのカウナスには、旧日本領事館の建物が残され、杉浦千畝記念館となっています。ただ、杉浦千畝は、人道的には素晴らしいことをやったのですが、結果的には現在の世界の不幸の基になる種をまいてしまったのかもしれません。地域紛争を含めて人殺しの道具である兵器で巨万の富を得ているのは大部分がユダヤ資本ですし、ラスベガスの賭博王で日本への進出を虎視眈々と狙っているのはリトアニア出身のユダヤ人です。今回は、リトアニア第2の都市であるカウナスを紹介します。

 カウナスは、リトアニアのほぼ中央部、首都のヴィリュヌスの西70kmほど、列車で70分ほど、バスで100分ほどのところにある人口35万人程度の都市です。中央駅やバスターミナルは、旧市街の東、Neman川の上流3kmほどの所にあり、杉浦千畝記念館は、中央駅の北1kmほどの所にあります。中央駅やバスセンターから見どころの集中する旧市街までは、市内を走るトロバスで旧市街まで行くことになります。旧市街は1km四方に満たなく、2つの川の合流地点に角のように西に向かって張り出しています。この狭い地域に、美しい教会などが所狭しと建ち並び、感じの良い街並みが広がっています。

 
 
 
 旧市街の入り口あたり、東の端に建っているのがカウナス大聖堂で、リトアニア最大のゴシック建築ですが、15世紀に建てられた後に増改築を重ねたため、色々な様式が混じった建築になっています。外観は、素っ気ない教会ですが、内部の装飾は素晴らしく、真っ白ではなく、ややピンクがかった色合いも温かみを感じます。背後のパイプオルガンも綺麗なデザインです。大聖堂の隣には旧市庁舎の建物があり、16世紀に建てられた建物はカウナス一の美しさと言われているようです。正面に塔屋のある白い建物は、教会風であり、ロッケットのイメージもあるようです。旧市役所の横には広場に面して17世紀から18世紀にかけて建てられたバロック様式のカトリック教会であるイエズス会教会があります。

 
 広場には、上部に人物や怪獣の顔のような造りのある水飲み場や、ドイツの町並みで見られるような、凝った看板を見かけました。

 
 さらに西に、川の合流地点に突き出した突端部分に向かっていくと、15世紀に建てられリトアニアで最も古いゴシック建築に一つのペルクーナスの家があります。ハンザ商人の建てたもので、ベルク―ナスというのは雷神の名前で、かつてここには、その神殿があったとのことですが、ファサードの上部の意匠が印象的な家です。そこから、Neman河畔に出ると川のすぐそばに15世紀にゴシック様式で建てられたビタウタス大公教会があります。リトアニアを代表する美しい教会の一つと言われています。

 
 北に行ってもう一つの川のネリス河畔に行くと、カウナス城跡があります。14世紀に建てられたリトアニアで最も古い要塞の一つで、周りは公園に、建物は博物館になっています。カウナス城のそばには15世紀にゴシック様式で建てられた聖ゲオルギ教会があり、こちらもレンガ積みの外壁が美しい教会です。ただ、ソ連時代には、宗教弾圧のために、パルシュート舞台の倉庫として使われ、現在も痛みの激しい状態のままです。

 カウナスのバスターミナルの近くの食堂で、近くの人が奇妙な料理を食べていたので、恐る恐る指さして注文をしてみました。ラグビーボールを小さくしたような白い塊で、後で調べたところツェペリナイという名前の料理でした。すりつぶしたジャガイモの中に引き肉などの詰め物をして、煮たものですが、モチモチしてなかなか美味しい料理です。ドイツのツェッペリン飛行船に形が似ているとの命名だそうです。このツエッペリン飛行船は、ヨーロッパとアメリカとを2日程度で結び、当時主流の船旅に要する日程を大幅に短縮したそうです。現代の飛行機は、GPSや慣性航法装置を積んで、自分の位置を確認できますが、飛行船時代は天測をしていたのでしょうか。この慣性飛行装置と同じ技術が、最新の地震計にも使われいることは、あまり知られていないかもしれません。装置内はスマホにも使われている加速度センサとコンピュータチップでできていて、2回積分をして地面の動いた量を計算しています。

ルーマニア第2の都市のブラショフは町中に緑や教会が多くてホッとするヨーロッパの田舎都市です(ルーマニア)

2019-07-28 08:00:00 | 世界の町並み
 東洋では北からの異民族侵入を防ぐ万里の長城が有名ですが、ヨーロッパでは狭い場所に異なる民俗が隣接して住んでいるせいか市街地を取り囲む城壁が目立ちます。前回に紹介したスイスのルツェルンにも見張り台をを備えた市壁がありました。一方、同じ市街地の中に複数の民族が暮らすところでは、民族間を分けるための壁や門がある所があります。今回は、ル-マニア人居住地区とドイツ人居住地区とを隔てていたスケイ門があるルーマニア第2の都市ブラショフを紹介します。

 
 ブラショフは、ルーマニアの首都のブカレストの北方約140km、列車で2時間半ほどの距離の都市で、列車の中央駅は繁華街の東北東2~3kmとちょっと離れた所にあります。民俗を分断していたスケイ門は、繁華街の南西の橋に近いところにあります。第2次大戦以前まで、ブラショフはクr-ンシュタットと呼ばれドイツのザクセン人が入植した植民地で、先住のッルーマニア人は市街地南西のスケイ地区に押しやられて迫害されていました。スケイ門は、ドイツ人の暮らす城壁に囲まれた植民地エリアからスケイ地区に唯一開かれた門だったようで、ルーマニア人たちは通行も制限されていたそうです。このスケイ地区にある教会が聖ニコラエ教会で、ゴシックにバロック様式を加えたルーマニア正教のの教会です。

 
 一方、スケイ門から市街地に戻ったところにあるのが黒の教会で、こちらはドイツ地区なのでプロテスタントの教会です。15世紀にゴシック様式で作られ、最も東に位置するゴシック教会と言われ、ルーマニア最大の規模を誇っています。黒の教会の名前は、17世紀にオスマン定刻の侵攻の際に大火の煙で外壁が黒くなってしまったことによるものです。

 
 
 市街地には黒の教会以外にも綺麗な教会が沢山あり、駅に近い公園のそばには丸い白のドームが美しい正教会があり、そこからスファイトルイ広場の途中にはステンドグラスの綺麗なカトリック教会があります。また、スファルトルイ広場の北側には、壁面の装飾の綺麗な大聖堂が建っています。広場の中心に建つ旧市庁舎も見張り用の塔屋があって、教会っぽい建物です。

 
 
 
 ブラショフは、ルーマニア第2の都市という割に緑が多くて、なんとなくのんびりしています、いやルーマニア全体がそうなのかもしれません。中心街の商店街も、通りにはモザイクが施されて洒落た感じで、喧噪さはありません。正教会位置覚には、古いホテルと見違えるような図書館の建物があり、そばの公園では、トランプのような麻雀のようなボードゲームに興じる人々も見かけました。ルーマニアは、ヨーロッパの喧騒から離れたホッとするヨーロッパの田舎なのかもしれません。

 ルーマニアには、カトリックやプロテスタントのキリスト教会と、ギリシャ正教の流れをくむルーマニア正教の教会とが混在しています。ドイツの植民地であったトランスシルバニア地方にはキリスト教会が多いようですが、都の地方ではルーマニア正教会が多数を占めているように思います。二つの教会の違いはいろいろとあるでしょうが、聖堂内に椅子があるのがキリスト教会で、無いのがルーマニア正教会です。例外もあるかもしれませんが、結婚式も新郎新婦や参列者もすべて立って式に参加します。また、正教会を象徴するのがキリストやマリアなどの聖教者を描いたイコンの存在で、祈りの対象になっています。このイコンは、ギリシャ読みで、英語読みではアイコン、つまりコンピュータで使われているアイコンはイコンが語源なのです。
 

駅のチャイムがルツェルンと聞こえるルツェルンは小さな町に見どころが沢山、周辺の観光基地にもなってます(スイス)

2019-06-30 08:00:00 | 世界の町並み
 ロンドンから特急で2時間ほどのヨークには世界最大級の鉄道博物館があり、日本の0系新幹線も展示をされていました。我が国の交通博物館は神田にありましたが、大宮に引っ越すと共に鉄道以外の展示が切り捨てられて鉄道博物館になってしまったのは少々残念です。ただ、世界的に鉄道博物館は数多くあるのですが、交通博物館というとあまりありません。乗り物として身近に走っている鉄道にファンが多いからかもしれません。今回は、数少ない交通博物館のあるスイスのルツェルンを紹介しますが、筆者は時間が無くって町並みを散歩しただけで交通博物館は入り損ねました。

 ルツェルンはチューリッヒの南南西40kmほどルツェルン湖のほとりにある人口8万人ほどのこじんまりとした都市です。人口8万人というと近江八幡市やあきる野市くらいですが、旧市街など市内やルツェルン湖やリギ山、ピラトゥス山など近くに観光地を控えているためか活気のある町です。中心となるルツェルン駅は、ルツェルン湖に突き当たるような形の頭端式で、駅前広場には火事で焼け残ったかつての駅舎のアーチが建っています。その先の湖のほとりには、ルツェルン湖を渡って各地に行くフェリーの乗場です。筆者は駅のそばに泊まったのですが、駅の発車のサイン音が、なぜか「♪ルツェルン♪ルツェルン♪」と聞こえたんです。

 
 
 
 旧市街は、ロイス川がルツェルン湖から流れ出る河口の周辺に広がり、ルツェルンの代表的な観光地の一つがこの河口近くにある14世紀に作られた木造の屋根付き橋であるカペル橋です。この屋根の裏にはルツェルンにまつわる絵画が描かれています。この橋を渡って北側に行くと、14世紀に作られ旧市街をぐるりと取り囲むムゼック市壁がほとんど昔の形で残っています。要所要所には9つの見張り台もあります。記憶が定かではないのですが、ルツェルンの市街地を見下ろす写真が残るので、このうちのどれかに上れたのではないかと思います。市壁を越えて北に行くとライオン記念碑があります。フランス革命の時にブルボン王朝を擁護して戦死したスイスの傭兵を悼んで作られ、スイスの傭兵制度を物語るものの一つです。

 
 
市内には綺麗な教会が数多くあり、筆者が訪れた2つの教会を紹介します。一つは、ロイス川の南岸に17世紀に建てられたイエズス教会です。スイスで最も古いバロック様式で建てられ、内部は白と金色で飾られていて、なかなか華やか、少々貴族趣味的です。天井に描かれた絵画もきらびやかで、外観のやや地味な感じとは対照的です。

 
 もう一つはロイス川の北側にあり、湖水からの風景の中に2つの尖塔が目立つホフ教会です。17世紀に建てられ、スイス有数のルネサンス様式の建物です。こちらの内部も城を基調としていますが、金色は使われず抑えた感じがします。祭壇と対向するパイプオルガンは6,000本のパイプを持つスイス最大級のものです。

 
 
 ルツェルンからの登山では、最大斜度の登山電車のあるピラトゥス山がありま日本人観光客で混雑するようですが、筆者はやや穴場で眺めの良いリギ山に登りました。リギ山へは、ルツェルン湖畔のフィッツナウからと、鉄道駅のあるアルト・ゴッダウから、それにヴェッギスからロープウェイで上りフィッツナウからの登山電車と途中のカルドバートで乗り換える3ルートがあり、行き帰りで別のルートを取ることもできます。このうちフィッツナウからの登山鉄道はヨーロッパ最古のもので、筆者が上った時には、蒸気機関車にけん引された登山列車が上ってきて、観光客は大騒ぎでした。

 スイスは、山岳地帯で産業もあまり無かったことから15世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各地の様々な戦争に金で雇われて参加する傭兵が盛んでした。さすがに1874年には傭兵輸出が禁止され、1927年には外国軍への参加も金社されました。ただ、例外的にローマ法王庁を守っているのはスイス兵で、戦争のためではなく警察任務との解釈なのだそうです。スイスの傭兵精度は無くなりましたが、現在でも各地の戦場、特に民族紛争では傭兵が存在すそうです。傭兵という人は輸出しなくとも人殺しの兵器は大手を振って輸出されていて、兵器産業の上位はユダヤ系が占めていることも忘れてはなりません。イスラエルのIT技術は軍需技術で培われたことも事実ですが、兵器産業の民間利用が民生のIT技術だという屁理屈がまかり通らない世の中になってほしいものです。

ロンドンから特急で2時間のヨークは20万都市とは思えない、落ち着いた散歩をして楽しい街並みがありました(イギリス)

2019-06-02 08:00:00 | 世界の町並み
 前回はロンドンの南のイギリス海峡に面した保養地のヘイスティングスを紹介しました。列車で2時間くらいの距離ですが、一方ロンドンから特急列車で北に向かって2時間ほど走るとヨークに到着します。距離的にはヘイスティングスの3倍ほどありますが、特急列車のおかげでロンドンから日帰り圏になっています。今回は、城壁に囲まれて、古い街並みが残るヨークを紹介します。

 筆者がヨークを訪れたのは、初めてのヨーロッパ旅行で、もう30年も前のことになります。したがって、記憶も怪しいし、町の表情も変わっていると思います。また、掲載の写真はアナログのポジフィルムをスキャナで取り込んだものですが、退色が進んでいて、も一つパッとしないことをお許しください。

 
 
 ヨークはロンドンの北280kmほど、スコットランドのエディンバラに向かう特急列車のちょうど中間あたりの駅になります。人口は20万人程度ですから、西東京市や荒川区程度でこじんまりとした内陸都市です。旧市街は、12世心に作られた城壁で、北西から南東に600m、横幅が400mほどの範囲に囲まれていてます。ヨーク駅はこの城壁の西端の外側にほぼ平行にあって、駅を出ると目の前に壁が立ちはだかっりその前を二階建てバスが走って行きました。この城壁は保存性がよく、城壁の上を通って一周できるようです。

 ヨークを代表する名所がヨーク・ミンスターと国立鉄道博物館です。ヨーク・ミンスターは、ドイツのケルンの大聖堂に次ぐゴシック建築で、現在の建物は15世紀に再建されたものです。元になる教会は7世紀に木造で建てられ、何度か火災や破壊を受けて、ノルマン様式の聖堂を経て現在のゴシック様式で建てられました。筆者は時間が無くって、内部に入られなかったのですが、模様の着いた大理石で敷かれた床や、中世最大規模のステンドグラスなど、心残りでなりません。

 一方の交通博物館は、駅の北側に隣接している3つの車庫を中心に展示が行われているもので、世界最大級の鉄道博物館です。現在地での開館は比較的新しく1975年で、たの2貸にあった博物館を併合したようです。王室専用列車の他、スティブンソンのロケット号の複製や蒸気機関車の速度記録を持つマラード号に交じって、2001年からは日本の0系新幹線が展示されているそうです。

 
 
 
 
 
 ヨークミンスターの前の広場から、南南東に行くとシャンブルズ通りで、狭い石畳の通りの上に、2階や3階がが張り出しさらに軒先に看板がぶら下がっています。ただでも狭い通りをさらに狭くして、通行人には極めて迷惑な通りですが、お土産屋やカフェが並んで観光客に人気の通りで、ハリーポッターのダイアゴン横丁のモデルと言われています。ヨーク・ミンスターやシャンブルズ通りは、駅からウーズ川を渡った対岸ですが、14世紀に建てられ内部が透けてかろやかな感じの鐘楼を持つ All Saints' Church、広場には露店のマーケット、石造りやハーフティンバーの建物、さらには花盛りの花壇などなど散歩していて楽しくなります。

 アメリカのニュー・ヨークは、元はニュー・アムステルダムと呼ばれていたものがヨークに因んだイギリス貴族のヨーク公の名前を取って改名したものです。アメリカの地名は、ヨーロッパにある地名にNewをつけたり、そのままパクったりのものが多いようです。登録商標は原則的に早い者勝ちで、特許庁に1秒でも早く申請したものが排他的な商標使用権が認められます。令和になって、某国では令和の付いた商標登録が集中豪雨のように登録され、日本から令和の付いて賞品は輸出できない状態なのだそうです。他国の知的財産権は、平気で侵害するのに、自国の権利は100%主張する、いくらGDPが大きくなったと言っても大国とはいいがたいですよね。

ロンドンから2時間のヘイスティングにはさしたる名所は少ないのですが陽光溢れる空気があります(イギリス)

2019-05-05 08:00:00 | 世界の町並み
 夏でも雪が残る高原から一気にフィヨルドの奥まで断崖を下っていく列車がフロム鉄道でした。フロム鉄道のように断崖は下りませんが、町の後方の断崖の上に城跡があって、フィヨルドではなく大西洋に面した美しいビーチがあるのがイギリスのヘイスティングです。ロンドンっ子の日帰り旅行地として人気の町を紹介します。

  
ヘイスティングスは、ロンドンのヴィクトリア駅かチャーリングクロス駅から列車で南に2時間くらい、進行方向が南から東に向いて海岸と平行になったあたりがヘイスティングです。ヘイスティングには4つの駅があって筆者が訪れた時にはヘイスティング駅の手前のセント・ウォリア・スクエア駅で、レンガ色のかわいらしい駅舎ですが、グーグルで見ると中央駅のヘイスティング駅舎は何処にでもあるようなビルのようです。駅舎は素っ気ないのですが、駅駅前の様子はセント・ウォリア・スクエア駅と同様に、落ち着いた感じの町並みが続いているようです。

 
 
 ヘイスティング城跡などの見どころは、駅の東に広がる丘陵地帯で、海に向かって延びてきた丘がすとんと切り取られたような所です。これらの丘は歩いてでも登れますが、短いケーブルカー(イギリスではリフトと呼んでますが)があって、日本のケーヅルカーのように単線で行き違い部分だけ複線という構造ではなく、全線複線になってます。筆者はイースト・ヒル・リフトに乗りましたが、あっという間に頂上駅です。

 
  
 一方の、ウェスト・ヒル・リフトで上った高台には、ヘイスティング城跡で石造りの廃墟が丘の上に散らばっています。海岸線の防備のために作られた砦とのことですが、さすがに眺めが良くって、西には市街地が、南には大西洋が、東にはウェスト・ヒルの向こうにイースト・ヒルが望めます。

 
 
 城跡からイーストヒルまでは下りたり登ったりのハイキングコースで、この坂道も感じの良い場所が沢山あります。ヘイシティングスがロンドン子に人気なのはこのような町並みななのかもしれません。特に、イーストヒルの手前には、オールド・セイントゥ通りが南北に通っていて、この通りを中心に、古い街並みが広がっています。緩やかな坂に石畳の道、石壁の家など安野光雅の絵本に出てきそうな風景が広がっています。町並み散歩に疲れたら、すぐ近くにある浜辺に出ると、イギリス料理で唯一おいしいとされているフィッシュ・アンド・チップスが売れれていて、新鮮な魚のフライが食べられます。

 単線のケーブルカーが、行き違いをする複線区間で車両ごとに決まった側を通るのですが、この仕組みをご存知でしょうか。通常の鉄道では、ポイントがあって切り替えているのですが、ケーブルカーの仕組みではポイントはありません。車両についている車輪のうち、片側のものはフランジが両方に付き、他方にはフランジがありません。2台の車両の舎利ンおフランジのある側は、一方は左、他方は右で、複線部分のレールに誘引されて、それぞれが右左に分かれます。ポイントという可動部もなく、実に自然でスマートなやり方です。新幹線などの高速列車は、コンピュータによる複雑な列車制御システムで安全に運行され、このシステムの優秀さが日本技術の売りになっていますが、ケーブルカーのシステムはシンプルの極致と言えるかもしれません。

フロム鉄道はオリーブグリーンの車体で周りの緑と一体化して地味ですが、車窓の景色は滝の連続で華やかです(ノルゥエー)

2019-04-07 08:00:00 | 世界の町並み
 マッターホルンの観光基地で自働車の乗り入れが禁止されている町がツェルマットでした。ツエルマットまで走る氷河急行のもう一方の終点はレーテッシュ鉄道のサンモリリッツですが、このレーテッシュ鉄道は、スイスの登山電車では珍しくラックレールがありません。我が国の箱根登山鉄道も80‰という急坂を上りますがラックレールを使わないことから、この二つの鉄道は終い鉄道の関係を結んでいます。勾配を緩やかにするために、ループ線やスイッチバックが各所に設けられています。一方、標高差が900mほどもあるフィヨルドの谷底に岩肌に張り付くように走るフロム鉄道もラックレールは使っていません。今回は、ノルウェーのミュルダルかとフィヨルドの最深部にあるフロムとを結ぶフロム鉄道周辺を紹介します。



 
 
 フロム鉄道は、ノルウェー国鉄のベルゲン線の支線として、建設され1998年に民営化されたものです。線路は現在もノルウェー国鉄が所有するので、ベルゲン鉄道は二種鉄道事業者ということになります。ノルウェーの首都オスロからベルゲン急行でおよそ5時間で乗換駅のミュルダールに着きます。途中列車は北欧の鉄道で最も高い地点の一つ標高1,237mのハルダンゲル高原を通りますが、さほど高くないわりに緯度が高いので夏でも白銀の世界です。ベルゲン急行は、真っ赤な機関車と客車で緑の中を走ると映えます。一方の、フロム鉄道は、日本のトワイライトと似たオリーブグリーンで、客車の内部は木を多用し赤が基調のレトロスタイルです。

 
 
 
 
 フロム鉄道の列車は、急坂の路線のために前後に電気機関車がついてプッシュプル運転をしています。坂道に有利なだけでなく、終点で機関車の付け替えもいりません。全線単線なので、途中で対向列車と交換する場所が設けてられています。車窓からの風景は、断崖の連続で、の断崖に無数の滝があります。途中のショース滝には、観瀑台があって、しばらく列車が止まります。乗客が下りてきたのを見計らって、滝の中間あたりのテラスに滝の精のような格好をした人が現れる演出があります。

 
 
 やがて、視界がひらけて平地が見えてくると終点のフロムです。フロム駅のすぐ隣は、フィヨルド観光の船が接岸している岸壁です。フロムには、鉄道の駅と船着き場以外に、断崖が海に落ちる手前に少しある平地にホテルやレストランがひしめき合っています。フィヨルド観光船に乗ると、もっと狭い平地しかなく、後方の断崖にも道らしきものが無い場所に人家を見があって、寄港もします。おそらく、船が唯一の外部との連絡手段なのではないかと思います。西表島でも、船でしか行けない集落が存在しますが、こちらは陸路がジャングルに阻まれているようです。

 フィヨルドは、ご存知の通り氷河期に氷河が大地を削り取った後に海水が入り込んだものです。ノルウェーの海岸の専売かと思ってたのですが、南米のチリやニュージランドにも多くのフィヨルドがあります。これらは緯度の高いところですが、緯度の低いところにも意外ですがあり、世界遺産にもなっているのがモンテネグロのコトル湾です。北緯42度というと函館くらいですが、南欧と呼ばれるヨーロッパの暖かい地方より南になります。現在の地球は間氷期で、温暖化と言っても、つかの間の暖かさで、また氷河期がやってくるかもしれません。地球規模環境シミュレータというスパコンシステムがあり、地球温暖化や近く変動などのシミュレーションに使われ、ベクトル演算用スパコンとしては世界最高速の計算機の一つです。現在の天気予報は、このシステムの流れをくむスパコンを用いていますが、明日の予報もよく外れるシステムが、温暖化や氷河期の再来などの予測って大丈夫でしょうか。

ガソリン車が乗り入れないツェルマットの道路をヤギの大群が闊歩していました(スイス)

2019-03-10 08:00:00 | 世界の町並み
 敦煌には仏典を運んできた白馬を鳩摩羅什が弔ったと言われる白馬塔がありました。当時は、広大な砂漠の移動にも歩くか、せいぜい馬に頼ることしかできなく、排気ガスは出さない自然に優しい移動だったわけでしょう。世界の観光地で内燃機関の車の乗り入れを禁止している所は意外に多く、アメリカでは、映画「ある日どこかで」の舞台になったマキノー島が有名で、スイスには、いくつかの観光地で禁止されています。今回は、これらの中で、マッターホルン観光の基地の一つツルマットを紹介します。

 
 
 ツェルマットは、スイスの南西部、マッターホルンやモンテローザの観光基地ですが、それらの峰の向こうは、もうイタリア領です。ブリークから南進をしてきたマッターホルン・ゴッタルド鉄道の終点で、サンモリッツからオーバーアルプ峠を越えてきた氷河急行の終点駅でもあるのがツェルマット駅です。車で来た観光客は、ツェルマットの手前のテッシュで車を駐車場に停めて、テッシュ駅で鉄道に乗り換えてツェルマット駅まで行くことになります。ツェルマットの中は電気自動車や馬車の実が走れ、ガソリン車は緊急車両など、特別に許可された車両だけです。町中の道路には、電気自動車や馬車や歩く人間だけでなく、時折ヤギの集団が通り、まるでアルプスの少女ハイジの世界です。ヤギの行進する道路沿いのホテルの窓からは、マッターホルンが望め、居ながらにして、太陽の動きによる色合いの変化も楽しめます。

 
 ツェルマット駅周辺は、窓に花鉢が並んだ綺麗な山小屋風のホテルなどが建ち並んでいますが、少し離れた場所には木造の倉庫群があります。食糧倉庫は石の基壇の上に建ち、これは鼠返しなのだそうです。16世紀ごろに建てられたものだそうで、冬場は羊小屋になるものもあります。これらの倉庫の窓も花鉢で飾られていました。

 
 
 
 ツェルマットは言わずと知れたマッターホルンの観光基地で、ここからマッターホルンまで登山をする人、マッターホルンの肩の部分までハイキングをする人なども居ますが、ほとんどはゴルナーグラートまで登山電車で上って景色を眺める観光客です。このゴルナーグラート鉄道の終点からは、ツェルマットの向こうにマッターホルンが見えますが、北壁が良く見えないようです。また、この鉄道は混雑することで有名で、乗車できるまで随分と待たされます。筆者は、このルートを避けて、ロートホルンに上ることにしました。こちらは、地下駅を走るケーブルでスネガまで登り、ここからロープウェイに乗り継ぎます。頂上は、ゴルナーグラートより高く、北にあり、マッターホルンの北壁も良く見えます。何より良いのは、このルートは、なぜか空いているのです。頂上駅の近くには、高山植物らしい花々が咲いていました。

 現在の電気自動車は、随分と性能が良くなって、一家の充電で何百kmも走れるようになりました。バッテリーとモータで動く自動車の歴史は意外と古く、ガソリン車より早くに製造されたようです。ただ、電池の性能などの問題から、その後はガソリン車が大勢を占めたようです。最近の蓄電池の性能向上は素晴らしいもので、モーター駆動の飛行機も出現しそうな勢いです。ただ、電池の充電時間が長いことから、次世代の本命は燃料電池という議論もあるようです。電気自動車は自然に優しい、と言われますが、原発を止めてしまって、火力発電ばかりの現状では、化石燃料を燃やす場所が変わっただけなんですね。