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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

天気の悪い日に乗ったハノイのシティツアーバスでしたが、天気が良い日にもう一度乗りたいですね(ベトナム)

2023-04-30 08:00:00 | 世界の町並み
 ベトナム首都のハノイ市街の中心街二なるホアンキエム湖と旧市街と紹介しましたが、ハノイにはシティ・ツアー・バスというオープンデッキの2階建てバスが走っています。ホアンキエム湖の北岸を起点に旧市街をかすめて、およそ一時間をかけてハノイの見どころを一周してくれます。乗客はベトナム語だけでなく日本語を含むガイドをレシーバで聞くことができます。初めてハノイに訪れた観光客の場合、とりあえず一周乗った後に、見たいところで途中下車をしても30分ごとバスはやってくるので手際よく観光ができる観光バスです。このバスのコースに含まれているホーチミン廟周辺はこのブログではすでに紹介していますので、別途紹介予定の世界遺産のタンロン遺跡これら以外の場所を紹介します。

 
 
 
 
 
 
 ホアンキエム湖を出たバスは、湖の西側の旧市街をかすめてハノイ大教会の前を西に進みます。やがてレーニン像を通り過ぎフラグタワーの手前から北西に転じホーチミン廟の手間で北に向かいます。ホーチミン廟の前はバスから見ても長い人垣ができています。北にそのまま進み、タイ湖畔のクアンタン寺に停車します。ハノイの街を北側から守る鎮護寺として11世紀に送検されたようで、道路に面したこじんまりした門に比べて境内は意外と広く、中国の道教寺院に来た感じです。堂内は朱色が目立ち、こちらも中国風ですが、扉や欄間の彫刻はきれいです。中央には巨大な玄天上帝の像が祀られ、中国の関帝廟の関羽の像のようです。

 
 
 
 タイ湖の築堤を北に進むと左手の湖に突き出た半島にチャンクオック寺の八角の朱色の塔が見えてきます。2004年に再建された仏舎利塔ですが、創建は6世紀と古く現在地に移転したのが17世紀だそうです。バスはタイ湖の北出ターンして再び築堤を渡って、クアンタン寺のところを左折してしばらく行くと北門教会です。フランス統治時代の20世紀初頭に建てられたカトリック教会で、ハノイの3大教会の一つです。屋根がオレンジで壁が黄色の建物は、ベトナムでは公的機関に多くて、ハノイの博物館も同じような色でした。この色の組み合わせは高貴なものなのでしょうか。鐘楼にある鐘はハノイで一番高いところに置かれた鐘なのだそうです。

 
 北門教会の南側には世界遺産のタンロン遺跡で、この遺跡は別途、遺跡を通り過ぎて西にバスは文廟に寄りますが、ここから少し歩くとハノイ中央駅です。場とナムを代表する鉄道駅で、なかなか立派な建物が立っていますが、発車する列車は10本に満たない寂しさです。

 
 駅の東にあるのがホアローの収容所跡です。フランスの植民地時代に、ベトナム人の反抗勢力の弾圧のためフランスが作ったもので、西欧列強のひどさを実感させる施設です。ギロチンも展示されていました。我が国も一つ間違えば似た環境になっていたかもしれません。ベトナムの人々は、弾圧に屈することなく、フランスから独立し、非人道的なアメリカの攻撃にも打ち勝ち、アメリカに唯一戦勝した粘り強さは驚嘆させられます。

 お寺の塔の起源はインドで釈迦の遺骨を祀ったストゥーパで、土でできた半円のドーム状の物だったようです。仏舎利塔の性格はそのままで中国に伝わった後は、建造物となり、やがて我が国伝わった時には木造の多重塔になりました。名称もストゥーパ→塔婆→塔と省略進んでいったわけです。中国やベトナムなどの塔は軒の出入りがほとんどなく、六角や八角中のような形ですが、軒の出入りの深い我が国の塔はどこから見ても美しいと思います。ただ、このような高層の塔を木造で作るのはノウハウの塊のようで、コンピュータの構造設計の領域を超えているようです。解体数理後の台風で、頂上の九輪が傾いてしまったはその表れでしょうか。

ホアンキエム湖の回りは散歩をしても気持ちの良い遊歩道がありますが、旧市街は人間の歩くところがないくらい商品があふれています(ベトナム)

2023-04-02 08:00:00 | 世界の町並み
 
 ホアンキエム湖や旧市街はハノイの市街地の中心的な場所で、ベトナムを南北に走る唯一の鉄道のハノイ駅の東2km程の場所です。この鉄道は南北ベトナムが統一した時に統一鉄道と名づけられましたが、軌間は1mでハノイからホーチミンシティまでを2日がかりで走るようです。そして、1等寝台に相当するソフトベッドの料金は、LCCの飛行機よりも高価で、移動や旅情を楽しむ向きの交通手段のようです。

 
 
 
 
 
 
 
 ホアンキエム湖は市街地の北を流れるフォン川の氾濫のよってできた湖で東西が200m、南北が600m程の角の丸まった長方形をしています。湖には2つの島があり、南側の小さな島には四角の亀の塔と呼ばれる祠が建ち、日没とともにライトアップされて幻想的な光景です。一方の北側の大きな島には18世紀に建てられた玉山祠が建っていて、13世紀の元との戦いで活躍した人物などを祭っています。島には赤色の橋が架けられて、多くの人がお参りをしていました。旧市街は湖の北西になりますが、逆側の南東岸には中央郵便局があり、その隣にはリータイトー公園があります。11~13世紀にハノイに存在した李朝之初代の王様であるリータイトーの巨大なブロンズ像が立っています。逆に、旧市街までも北には行かない湖の西岸には、いくつかのお寺や、キリスト教会のハノイ大聖堂など宗教施設が数多くあります。

 
 
 
 さて、旧市街ですが、全体が巨大な市場群で、扱っている商品の種別によってエリアが異なっていて、筆者は東寄りの町を散策しましたが、どのあたりはどうも食材関係や繊維関係の店が多かったようです。焦点がひしめく中にも、いくつかの寺院がありますが、何か肩身の狭いい思いで立ってるような感じがします。繊維関連の商店群の北のはずれに近いところに巨大な焦点の集合場所がドンスアン市場で、2階建ての建物の中に所狭しと焦点が並んでいます。建物は中央部が吹き抜けになっていて、2階から下を眺めると壮観です。この市場を東に行き、市場群の東端と思しきところには東河門があります。市場の門にしては古くて立派な門と思いましたが、それもそのはず世界遺産にもなっているタンロン城にあった16の城門のひとつで、唯一残っているものです。旧市街のエリアは歩道にまで商品を陳列していて、実質的には歩道は無く、車道を歩くしかないうえに、車道も車が頻繁に行きかう混沌ぶりで、あまり気持ちの良い散策ではありません。買い物が好きな方には、安い品物が手に入るのでしょうが、町並み散策派には、車に気を払い身の危険を感じながら歩くのは向いていない所のようです。

 ハノイの街中では信号機があっても、大きな通りは別として、ほとんどの歩行者は信号に関係なく、流れてくる車の間を悠々と渡っていきます。以前に訪問した時には、大きな通りでも信号が無かったので、ゆうゆう横断は当たり前の現象でした。この横断ではけして走ってはいけないらしいのです。ゆっくり歩くと、車は歩行者を器用によけて走っていきますが、走ると予測が付かないので危険なのだそうです。車の自動運転が話題となる今日ですが、この自動運転のプログラムでは、歩行者を検知したら停止とプログラムされていると思います。たしかに安全でしょうが、このようなシステムでは、ハノイは車の大渋滞が起こってしまうのではないでしょうか。多少は危険を伴いますが、ギリギリの運転技術はコンピュータではなく長年の感と経験を積んだ人間にはかなわないのかもしれません。

フォンニャ洞窟への観光の入り口に位置するドンホイは、ビーチリゾートで、冬に行くと人の気配が無く、次は夏に行きたいところです(ベトナム)

2023-03-05 08:00:00 | 世界の町並み
 ベトナムの山の中の小さな村が、村はずれに巨大な鍾乳洞が発見されて世界遺産に登録され、その名前が世界に知られるようになった村がフォンニャでした。しかしフォンニャ洞窟は有名になりましたが、フォンニャ村はまだまだ静かな山奥の村に過ぎないようです。フォンニャの洞窟群をじっくり見学する人や、田園ののんびりした時間を過ごしたい人以外は滞在する観光客はあまりいなく、日本人は皆無に近いようです。代表的なフォンニャの洞窟の見学者は、空港のある海岸近くのドンホイからツアーで往復するようです。今回は、フォンニャ洞窟の実質的な観光基地のドンホイを紹介します。

 

 ドンホイは、ベトナムの首都のハノイの南00kmほど、飛行機で1時間ほどの海に面した人口15万人ほどの地方都市です。人口15万人というと武蔵野市くらいの都市なのですが、周辺に空港がないためか空港があって、到着出発併せて1日に14便も飛んでいて、将来は国際空港化する予定ですから、日本の地方空港顔負けですが、世界遺産のおかげでしょうか。ただ、このドンホイでも日本人観光客の顔はほとんど見かけず、ハノイからの飛行機で日本語のできる現地の人から、珍しがられました。日本人がフォンニャ洞窟に行く日本語ツアーは日本人にお馴染みのフエを起点とするもので、バスの移動だけで往復6~8時間もかかり、1か所の洞窟だけ見てでさっさと見て引き上げるようです。

 
 
 後で調べてみたら、ドンホイはビーチリゾートの観光地のようでした。筆者が訪問しのは真冬で、かつ異常気象だったのか日本と同じくらいの寒さでした。泊まったホテルも冷房はあっても、暖房が無かったのでは思われる寒さでした。曇天の浜辺は人の気配がなく、沖の方で白波が砕けていました。ビーチのそばには、多くのホテルが立ち並びますが、コロナのあおりを受けたのでしょうか、工事の途中で放棄されたと思われる建物もありました。寒空の中を散歩したところをいくつか紹介しましょう。

 
 
 
 
 地図でドンホイを見ると町の中心に函館の五稜郭のような要塞があります。こちらは変形四角形というか八角形とも取れ、なかなか個性的な水路を備えたシタデルです。ただし、五稜郭のような展望台は無いので、地上からでは仁徳陵墓のように折れ曲がった掘割が続くのが見えるだけです。参考に、Googleから衛星写真をお借りして載せました。要塞の内部は公的な建物ばかりのようで、市庁舎や裁判所などの役所や、博物館、ホーチミン記念公園には群像とその後方には記念寺院もあります。要塞としての遺構は、水路沿いに作られたレンガ米の一部や水路の石橋の先に城門があるくらいです。

 
 
 
 博物館は残された城門を入ってすぐのところで、入場無料でしたが、ベトナムの生活の歴史や、ベトナム戦争関連の展示が盛りだくさんです。建物も立派だし、入ってすぐのホールの中央には巨大なレリーフが飾られています。オフシーズンだったせいなのでしょうか、入場者にあまり会わなかったのは寶の持ち腐れのように思いました。


 
 
 
 この博物館と対向する西側に広い場所を取っているのがホーチミン公園で、突き当りにはホーチミンを中心にした巨大な群像と両脇にはレリーフ状の群像で、こちらは裏側にも群像が彫られています。裏側にあるお寺は、中国風で、孔子廟を思わせますが、大きな梵鐘で日本を感じる面もありました。

 
 
 
 シタデルから北へ海岸沿いに散歩をすると、ニヤットレ川の河口付近には漁港が広がり、四つ手網のようなものもあります。海岸のそばではなく、少し奥まった丘の上に灯台があったりします。さらにベトナム戦争で破壊された教会の残骸もあり、ベルリンの同じような残骸を思い出します。下降の先まで行くと、やはりベトナム戦関連の記念碑が建っています。資料が無くてあまりはっきりは分からないのですが、ドンホイ出身のベトナム戦で戦死したチュオン・パッフをたたえるもののようです。この記念碑の向こうを米軍の爆撃機ではなく、ドンホイ空港に向かうエアバスの旅客機が横切っていきました。

 五稜郭やドンホイのシタデルは星形要塞と呼ばれ、火砲に対する防御力を高めるため15世紀にイタリアで作られるようになった要塞の形式だそうです。鋭角的に突き出た部分が死角を無くするという発想でしたが、新選組の一部が立てこもって明治政府軍と戦った函館戦争では落城してしまいました。落城にはいろんな理由があったのでしょうが、完全な防衛というの難しいということでしょうか。コンピュータシステムも種々の街亭にさらされ、防衛のためにファイアウォールやウィルスチェッカーなどありますが、最新の防衛システムが装備されていると思われる公的な機関のサーバーが乗っ取られて話題になります。完ぺきというのは難しいし、最後はシステムを扱う人間之問題かもしれません。

世界遺産の洞窟の観光基地として有名になったフォンニャですが、天気が良ければ散歩や昔の生活を垣間見るなど、面白い経験ができるかもしれません(ベトナム)

2023-02-05 08:00:00 | 世界の町並み
 ソウルからさほど遠くない水原の郊外に韓国の伝統的な村を再現したのが民俗村でした。わが国でも数十年前に見られたような風景を思い出しますが、海外には現在もそのような生活を送っている村々も多くあるようです。そのような村の中から、村のはずれの洞窟が世界遺産になって、ちょっと世間ずれしたのかと思われる村がフォンニャです。今回は、村の中を牛や鶏、それに猿までもが往来するベトナムの山奥にある村を紹介します。

 
 
 
 
 フォンニャはベトナムの首都のハノイから南に飛行機で1時間ほどにある海沿いのドンホイから、さらに車で1時間、50kmほど西に入った、隣国のラオスにも近い村です。人口は数千人程度と思われますが、2003年の世界遺産の登録以前はもっと少なかったのではないかと思います。宿泊施設も現在はホームステイからホテルまで100軒ほどもあるそうですが、かつては数軒だったのだそうです。村の中心は、船に乗って世界遺産のフォンニャ洞窟に向かう船乗り場周辺で、銀行はありませんがATMはあり、小規模の商店街のようなものもあります。ドンホイから1時間に1本程度で利用が難しい路線バスの終点もこのあたりのようです。筆者が泊ったのは、村の中心からソンコン川に沿って上流へ3kmほど行ったところのホームステイで、村の中心までは2車線あった道路も1車線で、乗用車鹿入れないような場所でした。部屋数は4部屋ですが、前はソンコン川に面し、洞窟に向かう船が行き来し、夜は対岸の光が川面に映ってなかなか綺麗です。ただ、滞在中ずっと天気が悪く、晴れていればもっと気持ちがよかったのではと思います。初日の夕食はチキンのバーベキューを頼みましたが、庭の焚火で丸焼きの調理です、筆者も日を仰ぐのも手伝いましたが、ボリュームもあってなかなか美味しいしかったです。

 
 村はフォンニャ洞窟の観光基地といったほかには、回りの山々がカルスト地形独特の丸い山が連なるなどの田園風景が広がるだけで、さしたる見どころは無さそうです。世界遺産の洞窟の情報は、あふれているのですが、村の情報はほとんど無し、英文は少しありましたが、日本語は皆無でした。天気が良ければ、野原などの広がる所をトレッキングもよさそうですが気温も異常に低くって、村の中を少し散歩したに留まりました。

 
 
 村の中の表通りは一車線と細い割には舗装はされていますが、牛が所かまわず糞をするのでかなり汚れています。時には、道路一杯に牛がいて通り抜けるのにちょっと恐怖を感じる場面もありました。道路まで出てくるのは牛とヤギで、時には泊っているホームステイの庭にまで入り込んできてオーナーに追い払われていました。塀の上には野生なのか飼われているのか猿がいましたし、川沿いの農家と思しき庭には鶏や水鳥が群れていました。これらの動物類を集めると、村の人口と変わらないのかもしれません。

 
 
 
 
 何かの記念塔屋水道タンクか灯台のような構造物、それに観光案内所というのですが、どうも役所らしく旗が建っていて門からは入れません。た、小学校と思しき建物は、人口が少ない割には立派で美しく、役所がらみはどれも立派なのかもしれません。不思議なのは、ベトナムのキリスト教信者は数パーセントと言われているのですが、村内に確認しただけで3つも教会がありました。それも、村内の民家がちょっとみすぼらしいのにもかかわらず、どれも立派です。その一つの前庭にはキリスト誕生のジオラマが作られていましたが、よくよく見ると背景や両側の壁にはカラフルに色づけされたペットボトルがびっしりと貼り付けられていました。こんな利用法もあるんですね。教会に交じって民間信仰の祠らしきものもありました。

 フォンニャは山の中の村でしたが、スマホは空港で買ったSIMを使ってデーター通信はストレスなく使えました。かつて、日本の離島で携帯が使えるのは1社だけっということもあったので、通信の普及には目を見張ります。ホームステイのオーナーは英語があまり達者ではなカったのでスマホノ翻訳アプリでコミュニケーションをしました。前に中国では専用翻訳マシンを使いましたが、スマホのアプリでほぼ同じことができるので便利です。ただ、相手の受け答えから推定して、こちらの日本語はベトナム語に翻訳されて通じているように見えるのですが、ベトナム語を翻訳した日本語はかなりチンプンカンプンで、何度も言い直してもらいました。Googleのアプリも言語によって得手不得手がありそうです。

韓国の民俗村で見た伝統舞踊のヨルトゥバルでは、踊り手の頭に付けたリボンの動きが巧妙で驚嘆します(韓国)

2023-01-08 00:36:03 | 世界の町並み
 バリ島の伝統舞踊のバロンダンスはガムラン音楽を伴奏にしたヒンドゥー教の宗教行事の一つでした。舞踊や音楽が宗教と結びつくことは多いようで、クラシックの発祥之一つの教会音楽もその一つでしょう。韓国の農楽の発祥には2説あって、戦争起源説ともう一つには儒教が国教に定められた時に、迫害され山奥に追いやられた仏教僧が布教のために木魚や鉦を演奏して布教活動を行ったという説とがあります。農楽は宗教活動と結びついた韓国の伝統芸能の一つと言えるでしょう。今回は、この農楽や韓国の伝統行事などのデモが見られる民俗村周辺を紹介します。

 
 韓国民俗村は1974年にソウルの南、水原の郊外に作られた野外博物館です。筆者が訪問したのは30年ほども前で、まだ世界遺産に登録されていなかった頃の水原を訪問した後に駅からバスで行ったように思います。帰りは、ソウルまで直行する長距離バスに載ったように思いますが、現在はどうなっているのかは不明です。

 
 民俗村で見たのが農楽でしたが、村の広場で多くの男性によって演じられていました。同様の舞踊は、ソウルでも見ましたが、こちらは室内、満韓全席的な食事の後に伝統芸能を見られるというものでしたが、舞台で演じられるより、屋外の広場の方が見ごたえがあります。バロンダンスは目や手の動きに特色がありますが、農楽の舞踏はヨルトゥバル(十二歩幅)と呼ばれますが、演者がかぶった帽子のてっぺんに長くて白いリボンがついていることです。これを振り回して踊るのですが、農楽の戦争起源説によれば、このリボンの先に刀を付けて敵を威嚇、または殺したとの伝承もあります。

 
 
 
 
 ヨルトゥバルの外に、綱渡りや結婚式の行列もあったように思います。村は意外と広く東京ドームの20倍ほどもあり、川か池のようなものもあります。その中に李朝後期の伝統家屋が移築され、京都の映画村のようにロケにも使われるそうです。家屋の中では伝統工芸の実演なども行われ、かつての韓国の人の暮らしぶりをうかがい知ることができる場所になっています。スウェーデンのストックホルム郊外にある巣感染と似ていますが、広さを比べて驚きました、民俗村はスカンセンの3倍も広いそうです。周辺の山々も民俗村の一部なのかもしれません。

 韓国の民俗村は、今回紹介の水原郊外だけでなく筆者が訪れた民俗村だけでも、安東郊外のもの(このブログの2021年2月7日)、順天郊外の楽安邑城民俗村(このブログの2017年4月30日)があって、それぞれに特色があるようです。楽安邑城民俗村は城壁に囲まれた村で、こちらはもともとの村が核になっているようでした。こちらでは結婚氏の行列ではなく、衛兵の交代式が見られました。韓国の人って、このような民俗村が好きなのか、ナショナリズムの一種なのかもしれません。

 ナショナリズムと言えば、文字表記でのハングル専用法の制定もその表れの一つかもしれません。ハングルは15世紀に発明され、純粋な表音文字で、最も進化した文字の一つと言われます。公文書は法律でハングルのみで表記することが義務付けられましたが、戦後しばらくは漢字交じりの表記が残っていたように思います。しかし、すべての表記がハングルのみとなり、韓国に行くと音が分からない文字があふれて船酔いのような気分になります。ハングルは子音と母音とを組み合わせて音を表すので、少し勉強をすれば発音はできるようになるそうですが、べた書きの表音文字は、全文を読まないと意味が分からないという欠点があります。韓国のゲストハウスで、焚火を囲んでいろんな国の出身の人と談笑しましたが、交通標識など一瞬の判断が必要な時に困るとのことでした。それではパソコンの入力はどうするのかと思ったら、専用ソフトを入れて、キーボードにハングルの母音と子音都が印刷されたマスクをかぶせるのが一般的だそうです。日本語はアルファベットの2文字で入力できますが、ハングルをアルファベットで入力するには5文字入力や表現できない文字もあるようです。

30年以上も前に訪れたバリ島は、どこかのんびりとした時間が流れていましたが、便利になった最近の状況はどうでしょうか(インドネシア)

2022-11-27 08:00:00 | 世界の町並み
 ポルトガルの都市の中で祈りの町と呼ばれるのがポルトの東にあり郊外には世界遺産のボン・ゼスス教会もあるブラガで町中に数多くの教会が建っていました。ポルトガルはカソリック教会ですが、島中にヒンドゥー教の聖地があり祈りの島といった印象を受けるのがバリ島です。今回は、30年以上も前に訪れて、記憶も消えてしまいそうなバリ島で、筆者が島内観光として回った場所を紹介します。訪問した場所は4か所で、Batubulanではバロンダンスを、Goa Gajahは洞窟寺院、Peneuokanはバトゥール山やバトゥール湖などを望む高原で最後がTanpaksiringは聖水のお寺でした。写真類は当然にアナログで、ネガをプリントしたもとポジのスライドをそれぞれスキャナで取り込んだものを使っています。

 

 バリ島は、南部に芋のような形をした半島が突き出ていて、その半島の付け根は補足くびれて東西に2km程度の幅しかありません。空港の滑走路はこの細いところに東西に延びていて、半島への交通を遮断するような形です。筆者が訪問した時は、滑走路が1本で誘導路もなく、着陸機は滑走路の端まで行かないと向きが変えられないローカル色豊かな空港でした。現在は、発着数が増えて処理しきれなくなったのでしょうか、滑走路に並行して誘導路ができているようです。また、南北の道路も、湾の中の海の上に道路ができているようです。また、この空港はデンパサール空港都も呼ばれていますが、正式にはングラ・ライ国際空港で、ンで始まるのですが、世界には他にもンで始まる地名があるようです。「しりとり」遊びでンで終わっても、これらの地名で逃げられるかもしれません。 

 
 
 
 Batubulanは島の東南部にある彫刻の芸術村で、村の中のプセ・バトゥブラン寺院の前庭でバロンダンスのショーが行われます。バロンとは獅子の姿をした聖獣で、踊りの中心となります。このバロンダンスは、本来はヒンドゥー教が伝わる以前のバリ島の伝統宗教に基づく宗教行事で3時間ほども続くそうですが、観光客向けに端折って演じられます。演奏はインドネシア伝統のガムラン音楽だっとように思いますが、鐘の多いガムラン音楽は高音成分が多く、聞くことによって脳が活性化されるのだそうです。

 
 
 Goa Gajahは、Batubulanの北のウブドゥの近くにある11世紀に作られた寺院で、女神像がはっきり残る沐浴場があり、その先にはゴア・ガシャと呼ばれる石像が現れます。大きな口を開け、その口から中に入ることができますが、大きさは違いますが、ローマの真実の口にちょっと似てるかなとも思います。


 Peneuokanは島の北東部の標高,500mほどの高原で、標高が高いせいで涼しく避暑地二なっています。カルデラ湖のバトゥール湖を挟んで2つの火山があって、どちらも活火山として噴火を繰り返しています。特に東のアグン山は、大噴火を繰り返し、2017年、2018年の噴火では空港が閉鎖されたそうです。

 Tanpaksiringはやはりウブドゥの近くにあり、村内には11世紀に作られたGunung Kawiと呼ばれる聖水寺院があり、Goa Gajahと同様に沐浴場があります。バリ島ではありませんが、ジョグ・ジャカルタの水の宮殿も沐浴場の一種で、こちらの宗教はヒンドゥーではなく、イスラムでしょうから、暑い風土では宗教儀式の前の沐浴は宗教の種類に関係なく必須なのかもしれません。境内からは、谷の向こうにバリに多く見られる緑豊かな段々畑を望めますが、世界遺産の一部かどうかは不明です。

 
 
 ヒンドゥー教は多神教で、多くの自然現象に神が宿るとされています。我が国の民俗信仰も多神教で、本来は神の存在を前庭としない仏教というよりヒンドゥー教に似ているかもしれません。理解しがたいふるまいをする自然現象を神の聖とすることは、科学知識が未熟な頃は、ごく自然だったのかもしれません。ただ、この神という存在は、宗教権力者が、権力の手段として「神の言葉」といって民衆を弾圧するようになったのは悲しむべきことです。コンピュータが発達した現代では電気にまつわるほとんどの機器に大小種々のコンピュータが埋め込まれています。仕組みの分からない人にとっては、これは神の存在で、コンピュータ神による多神教の世界なのかもしれません。

ブラガの郊外には世界遺産のボン・ジェスス教会がありますが、祈りの町のブラガの市街地にも数多くの教会など見どころたくさんです(ポルトガル)

2022-10-30 08:00:00 | 世界の町並み
 前回はイギリスで最も保存性の良い城塞都市のひとつであるチェスターを紹介しました。ヨーロッパ大陸側では陸続きで隣国と接するために、町の周りを城壁で囲むのが通例のようですが、必ずしも現代まで保存されているわけでもなさそうです。今回は、中世時代に造られた城塞が残っていない都市の中に、ポルトガル北部のブラガがあり、その郊外に世界遺産のボン・ジェスス教会がありますが、ボン・ジェススは昨年に世界遺産のカテゴリーで紹介したので、ブラガの町中を中心に紹介します。

 ブラガは、ポルトガルの北西部、ポルトがるの第2の都市であるポルトの北80kmほどの内陸都市です。リスボン都市圏、ポルト都市圏に次ぐ第3の都市圏の中心地です。リスボンは楽しみの町、ポルトは働く町、そしてブラガは祈りの町と言われ、市街地に数多くの教会があります。世界遺産のボン・ジェスス教会は町の中心から東に3kmほどバスで15分くらい、都市圏を取り囲む山の麓からケーブルカーに乗るかつづら折りの階段を上ったところにあります。

 
 ブラガの中心街は、鉄道駅の東にあるレプブリカ広場の周辺です。筆者が訪問したときは鉄道駅が建て直し中で、鉄道ならばポルトからブラガまで1時間ほどで行けたようですが、レプブリカ広場の北にあるバスセンタから2時間ほどかかったように思います。レプブリカ広場と鉄道駅との間には数多くの教会など見どころが集中しています。とてもすべてを訪問できませんでしたので、訪れたところを順に紹介します。

  

 レプブリカ広場に面してはラバ教会とカソリック教会があり、ラバ教会の後方にももう一つのカソリック教会の塔が覗いています。広場の南西にあるのがコインブラス礼拝堂とサンタ・クルス教会です。コンブラス礼拝堂は小ぶりでマヌエル様式で作られ右側に隣接してコンブラス家の邸宅跡があります。サンタクラス教会はコインブラス礼拝堂の筋向いに建ち堂内は白と金色を中心としたきらびやかなものです。

 
 コインブラス礼拝堂を西に行くと旧大司教館があり、現在は図書館などに使われています。前庭には噴水があって中央のポールの先端に建つ女神はブラガを表すのだそうです。内部は見学できませんでしたが、マニュエル様式の窓の飾りや、前庭に面した建物に付いた回廊の列柱がきれいです。

 
 旧大司教館の南にあるのがブラガ大聖堂(カテドラル)で正面から見るとさほど大きく感じないのですが、堂内に入ると大きなパイプオルガンなどブラガを代表する聖堂といった感じがします。ここでも結婚式に遭遇しましたが、花撒きをする子供たちがかわいくって印象的でした。

 
 旧大司教館の西にあるのが18世紀から1世紀をかけて建設されたブラガ市庁舎があります。正面から見ると何の変哲もないような長方形の建物ですが、連続する窓が美しい建物です。また、建物の前提には中世には愛の象徴とされたペリカンをモティーフとした噴水があります。

 
 市庁舎のさらに西にあるのが訪問当時には休館中のビスカイニョス美術館で、17世紀に貴族の館として建てられた建物は、中は見られませんでしたが外観だけでも重文綺麗でした。

 
 大聖堂の西、ビスカイニョス美術館の南にあるのが18世紀に造られたアルコ門で、ブラガ駅からこの門を越えると旧市街になります。おそらく、門が作られた頃には市壁の一部賀残っていて、この城壁に造られた門ではなかったかと想像しますが、調べてみても情報がありませんでした。

 ブラガは祈りの町と言われるそうですが、わが国で祈りの町というと何処でしょうか。町ではありませんが比叡山や高野山が相当するかもしれません。特に、比叡山はその後の日本仏教界に大きな影響を与えた宗派の開祖を生み出しています。比叡山は、京都御所の鬼門封じの役割も持っていたようです。現代では鬼門という言葉自体も死語になりつつあり、スマホの地図情報に鬼門なんて表示されません。しかし、歴史の長い京都では家の鬼門の方角を隅切りした町家を見受けスマホが無くても、町中で方角を知るヒントになるかもしれません。ちなみに、鬼門の方角は十二支でいうと丑寅の方角となり、鬼の角は牛にちなみ、虎の皮のパンツをはいているとの説もあります。

ロンドンから2時間、イングランド北西部のチェスターでは絵本の世界から飛び出したような風景が現実に目の前に広がります(イギリス)

2022-10-02 00:54:44 | 世界の町並み
 ロマンティック街道にある小さくかわいらしい中世の町を紹介しましたが、どちらの町も周りを取り囲む城塞のある町でした。ヨーロッパなど陸続きで隣国などと接する場所では、隣国の侵略から町を守るため町を取り囲む塀は必須だったのでしょう。中国の万里の長城は、最も巨大な例かもしれません。一方、イギリスは日本と同じように島国ですが、市を囲む城壁が残る町があります。思い当たる都市としてヨークとチェスターがありますが、今回はチェスターを紹介します。

 
 

 チェスターは、ロンドンの北西250kmほど、特急列車で2時間ほどのイングランドの北西端、ちょと西に行けばウェールズという場所にあります。人口は8万人と小ぶりな都市で、イギリスの中の城塞都市の中で、最も保存状態がよい都市と言われています。持の規模が大きくないのがよかったのかもしれません。しかし、日本の古い町並みの中にあるような、冷凍保存の漢字はなく、活気のある街という印象です。城壁の門の一つのイーストゲートの時計は、ヴィクトリア女王即位60年を記念して1897年に作られた時計台は100年以上たった今も時を刻み続けています。

 筆者が訪れたのは約25年前で、写真はアナログで撮ったものをスキャナで取り込んでいます。ウェールズにある世界遺産のカナーボンの帰りに寄ったのですが、あまり記憶が残っていなく、カンーボン城などのウェールズの城やチェスターの後に寄ったウェッジウッドのアウトレットの記憶が頭を占領していました。しかしながら、写真を整理してみると、このチェスターって町は、絵本に出てきそうな景色にあふれていてびっくりで、もう一度行ってみたいイギリスの町の一つになりました。

 
 町並みの建物の大部分は木造のハーフティンバーと呼ばれる様式で、白い壁に構造体の木材が描き出す模様が絶妙で、建築は凍れる音楽というたとえが分かるような感じもします。ハーフティンバーの建物群は、フランスのストラスブールでも見ましたが、ストラスブールでは、ハーフティンバーの町並みは運河沿いに集中して多様な記憶がありますが、チェスターは城壁の内部にあふれているように思いました。ちなみにハーフティンバーの語源には諸説あり、外部から見ると壁と木材之面とが半分半分で見えるから、とか、木材の半分が壁の外に露出しているからとか、と言われています。

 ハーフティンバーは、土やレンガといった圧縮に強い材料と、木材という引張強度のある材料とを組み合わせていて地震にも強い建物と言われています。現代の鉄筋コンクリートも圧縮強度はコンクリートが、引張強度は鉄筋を分担するという同じ考え方です。一方、日本の伝統建築でも大壁と真壁という工法があり、壁で柱を隠す大壁に対して、柱の一部が露出する野が真壁です。この真壁は一種のハーフティンバーですが、お寺の建築を除いて、一般の民家では、外部に対して柱が見える建物は少ないように思います。建物を設計するときに引張と圧縮の強度が十分あるかコンピュータを使った強度計算があり、初期の大型コンピュータ共同利用でもこれらの計算に使われることが多かったようです。ただ、この強度計算は、随分と精密な計算をするようですが、不思議にも最後に安全係数として2~3の数値を掛け算するんですね。天然の素材を使う建築分野では、材料のばらつきを補正するためでしょうか。

環状の城壁のあるネルトリンゲンと凸凹の城壁のローテンブルグ、共に中世の世界が冷凍保存されたような町並みです(ドイツ)

2022-09-04 08:00:00 | 世界の町並み
 ロンドンからさして遠くない所に緑の草原が広がり、かわいらしい家々が建っているのがコッツウォルズでした。イングランド北部の世界遺産にもなっている湖水地方は、この草原の中に湖水が加わった景色が広がり、童話のピーターラビットが出てきそうです。どうもイギリス人は、緑豊かな草原の広がりが好きなように思います。同じ童話のような町並みも、ドイツではやや人間臭い感じもします。有名なところではグリム童話にちなんだメルヘン街道で、ドイツ北部のハーフナウからブレーメン間での町並みです。一方、南部にはドイツの街道を代表するロマンティック街道があり、こちらも直接童話には結びつきませんが、童話に出てくるような街並みが続きます。今回は、ロマンティック街道の町の中からネルトリンゲンとローテンブルグを紹介します。

 ロマンティック街道は、南のノイシュバン・シュタイン上で有名なフュッセンから北はヴュルツブルグまで、およそ400km続く街道です。ロマンティックの語源は恋愛物語のロマンティックではなく中世ロマン主義を感じることから命名されたようですが、恋愛物語の舞台となりそうな町並みが続きます。完工の足としては、ローテンブルグに支線が伸びているくらいで鉄道は不向きです。筆者は、ヨーロッパ・バスと呼ばれたアウグスブルグからヴュルツブルグまでを走るバスで移動しました。一日に1~2本ですが、3か所ほどの町で観光の時間を取ってくれます。

 
 
 
 
 ネルトリンゲンは、アウグスブルグの北50km程の所にある、800mほどの楕円形の城壁に囲まれた人口2万人ほど、日本の町では静岡県の下田程度の町です。ネルトリンゲンは、今から1,500万年前に落下した隕石による直径5kmもあるクレータの中にあって、ネルトリンゲンの町はその中心点から南西に6kmの地点になります。ネルトリンゲンの素敵な町並みは、この時に宇宙人がもたらしたもの・・ではありません、人間の歴史と比べて2桁ほども違います。鉄道駅は、城壁の外の東側にありますが、ローカル列車しか止まらず、あまり便利ではなさそうです。町を取り囲む最初の城壁ができたのは13世紀ですから、せいぜい800年ほどの昔です。こじんまりした町並みはドコモ綺麗で、町なおほぼ中心に聖ゲオルグ教会が建っています。15世紀に後期ゴシック様式で建てられた建物は、高い建物のない町並みのどこからも見えて、町のシンボルと道しるべになっているようです。

 
 

 
 
 
 
 ローテンブルグは、ネルトリンゲンからディンケルスビュールを通り越して北に50km程に位置する南北にやや長い1km四方ほどの町です。丘の上にあって、周りは緑一面の畑が続き、緑の海に浮かぶ小島のような人口は1.1万人ほど、日本の町でいうと高知県の室戸市程度のこじんまりとした町です。、鉄道駅は町の南東隅にあって、ローカル列車が発着しているようですが、ネルトリンゲンと同様に鉄道で町に入るのは一般的ではないようです。ネルトリンゲンと同様に城壁に囲まれていますが、ほぼ環状のネルトリンゲンと比べて凸凹が多く、要所に門が作られたいます。また、水路があって景色に変化を付けていて、ちょっと田舎っぽい感じも受けます。ドイツでよく見かける、商売の内容が一目でわかる看板も随分と見かけました。

 恐竜が絶滅したのは6,550万年前の巨大隕石の衝突が原因という説が有力です。ネルトリンゲンに隕石が落ちる、もっともっと前ということになります。隕石の衝突は現代科学をもってしても回避するのは難しいようですが、人工衛星の残骸やロケットの在外が落下して害を与える可能性が高くなっているそうです。打ち上げっぱなしで、跡はほったらかしの国の残骸が多いようで、この国は被害が出ても補償はおろか謝罪すらしないようです。人工衛星がコントロールを失うのは、制御系の故障ではなく燃料切れによるようですが、この人工衛星に搭載する制御系の電子回路は、地上で使っている部品とは比べ物にならない頑丈さが要求されるようです。温度や宇宙線という障害に打ち勝つ必要からですが、某国の衛星はこの信頼性でも怪しそうです。

コッツウォルズの人口400人足らずのカッスル・クームは時代の流れに取り残されましたがライム・ストーンの美しい家並に静かな時間が流れます(イギリス)

2022-08-07 08:00:00 | 世界の町並み
 前回は、首都である都会に7つの丘があって変化にとんだ町のリスボンを紹介しました。丘は上り下りに苦労をしますが、山ほどの急峻さはなく、景色に変化をつけます。英国は島国で狭い国土が我が国と似ているといわれますが、スコットランドなどを除いてさほど高い山はなく、綿々とした丘が続き、利用できる国土の面積は圧倒的に広いように思います。今回は、丘が続く英国の田舎の中からコッツウォルズを紹介します。今回も、訪問したのが古く、アナログ写真をベースとしたので、枚数も少なく変色をしています。

 
 コッツウォルズは「羊の丘」という意味だそうで、ロンドンから西へ、ブリストルの少し手前の北側に広がる丘陵地帯です。標高300m程度の丘が長辺が100km程の長さの楕円形に広がっています。筆者が訪れたのは、広いコッツウォルズの中の南部にある小さな村のカッスル・クームでコッツウォルズの中でももっとも古く最も美しいとされているところです。カッスル・クームとは城のある険しい谷とでもいったところでしょうか。最寄りの鉄道駅のチップナムの西北西0kmほど、タクシーは田舎道を15分ほど走ってマーケット・クロスと呼ばれる小さな広場に着きます。三角形の広場には、馬から降りるための石段や、三角屋根の中にはモニュメントも置かれています。

 
 
 人口は400人足らずの村ですが、マーケット・クロスの西には14世紀に建てられた4つ星のマナー・ハウス・ホテルもあります。庭園の奥にあるレストランでは、食べきれないほどの食材が3段のプレートに乗ったアフターヌーン・ティーも楽しめます。また、マーケット・クロスから南に行くと、左手にバイ・ザ・ブルッグ川という小さな流れで、バック・ホス橋という石造りのアーチ橋もかかっています。この辺りは、絵葉書にもよく使われる景色のようで、結婚式の前撮りの風習が英国にあったのかどうかわかりませんが、ウェディング・ドレス姿の新婦さんを見かけました。

 村の建物はライム・ストーンと呼ばれる石灰岩(コッツウォルズ・ストーン)で作られ、村全体がはちみつ色の独特のトーンに包まれています。かつては羊毛産業で栄え、ホテルや教会それに広場の石造りの遺構、それに石造りの家並などは、その繁栄の残照なのではないでしょうか。19世紀に始まった鉄道の敷設では、村から遠くを通ったために衰退し、500年前の景観が冷凍保存された結果、観光客が押し掛ける村になってしまったようです。

 日本でも鉄道が通らなかった、敷設に反対したために衰退した町は篠山など数多くあります。JR中央線も甲州街道沿いが住民の反対にあったため、東中野から立川まで何もなかった田んぼの中に真っすぐな線路を引いて開通しました。あまり知られていませんが、この区間は日本で2番目に長い直線区間です。この中央線のおかげで、現在の中央線沿いの繁栄につながります。衰退や興隆は交通手段の変化によるもので、現在は鉄道網が大きな要因を握っていますが、通信ネットワークの発達と働き方の変化で、これから衰退してしまう都市も出てくるのかもしれません。