シャツのほころび涙のかけら

昔よく聞いたNSPのタイトルを拝借。…趣味や日常を綴っています。基本はガンバレ自分!時々覗いてみてください。

新座市『野火止用水』

2012-12-05 | お出かけ

平林寺裏手の雑木林沿いに「野火止用水」が流れている。埼玉県指定史跡にもなっているので、平林寺を退場した後に寄ってみた。

総門を出て南に行き、交差点を平林寺沿いに西に歩くと敷地の角にある伊豆殿橋に行きつく。地図では約600mほど。この橋の下を流れるのが野火止用水だった。橋のたもとには案内板あり。

この案内板及び調べたところによると、
武蔵野のなかでも野火止台地は特に高燥な土地で自然の水利に恵まれなかった。
(厚いローム層に覆われているため、井戸も湧水もなく農民は飲み水にも事欠いた。)

川越城主松平伊豆守信綱は、私領であるこの土地を開発するため、江戸の上水道である玉川上水を完成した功績により、上水から3割の分水許可を得て、1655年に野火止用水を開削した。
(功績とはいえ、私領の新田開発のために3割の分水が許されたというのはスゴイ。)

開削は東京都小平市小川町から志木市の新河岸川までの約25km。
(農民は喜び深く感謝し、後世「伊豆殿堀」とも唱えたという。)

1663年に岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも用水掘を開削して引水した。
(これが平林寺掘で、流れは平林寺に入ると奥庭園と放生池に流れ込んでいた。)

水路は、地形的に高いところを選んで掘りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑および沿線の乾燥化防止に果たした役割はきわめて大きい。
(近年まで飲料水、消防用水、水車の動力源などにも使用されていたようだ。)

急激な都市化の影響により、水はしだいに汚濁し・・・
(昭和30年代に入って、家庭雑排水や工場排水が放流されドブ川と化していった。)

昭和49年度から東京都と新座市で復原・清流復活の事業に着手し、本流と平林寺掘の一部を復活しました。 ~昭和58年 埼玉県及び新座市教育委員会~
(めでたしめでたし。)

伊豆殿橋から下流にむかって歩いて行く。

浅いのに大きな鯉が泳いでいて、少し驚く。

雨がポツポツあたりだし、Uターンする。紅葉が色を添えていた。

平林寺に引水された支流「平林寺掘」で、敷地の上流はこのように整備されていた。


なお、東京都環境局は用水に隣接する樹林地とともに野火止用水を歴史環境保全地域に指定している。上流から整備しないと清流復活とはならないからな~。東京側の散歩も面白そうだ。機会があれば。

最初に野火止用水を見た時、見慣れた「見沼代用水」に比べると川幅もせまく水量も少ないように感じたが、野火止用水は生活用水の確保がそもそもの目的なので違うわけだ。
これだけの用水なのに「疏水百選」に選ばれていないのも、そういう理由なのだろう。
(ちなみに、日本三大農業用水と称されている「見沼代用水」は延長約85km。)

 

コメント (6)
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