「蒙古放浪歌」「馬賊の歌」といった大アジア主義を鼓舞する歌に私が惹かれるのは、大陸に雄飛した玄洋社以来の血が騒ぐからだろう。しかし、そこで失敗した歴史を私たちは忘れてはならない。東亜解放のためにというスローガンで、日清、日露、さらには大東亜戦争に突っ込むことになったからだ。朝鮮独立、シナ革命、フイリッピン、安南、インド独立運動に身を捧げた日本人も、おびただしい数にのぼる。それらの人々の功績も顕彰されるべきだが、こと志と違って、日本はパワーゲームに引きずりこまれたのだった。今になってサヨクの側から、東アジア共同体構想が提唱されている。日本のパートナーの相手として想定されているのは、中共である。両国の友好は大事だとしても、気になるのは、日本国内の親中共派の存在である。林房雄が『大東亜戦争肯定論』で「友好を強調するのあまり、外国の手先になってしまったのでは、お話にならぬ。親米、親ソ、親中共派であることは各人の自由であるとはいえ、その前にまず親日派であることが日本人の資格であることを忘れては、たいへんなことになる」と書いている。大アジア主義を目指すとすれば、まず日本は国家として再生しなければならない。そして、日本人が自前で軍備を整備しなければならない。それまでは軽挙妄動を慎むべきだろう。まずは幕末の雄藩のように、割拠して力を蓄えるのである。安易に手を組めば、中共の朝貢国になるだけだ。
日本の民主主義が危機に瀕しているのは、日本人が徳性を見失ってしまっているからだ。モンテスキューは『法の精神』(井上堯裕訳)で「君主政体や専制政体がおのれを持し、おのれを保つには、精錬篤実は多くを要さない。前者では法の力が後者ではいつもふりあげられた君主の腕が、すべて処理し、抑制する。しかし、民衆国家には、いま一つの発条が必要であり、それは徳性である」と述べている。民衆に徳性がなければ、民主制を樹立するのは、困難だというのだ。王制を倒したイギリス人は、クロムウェルに嫉妬し、その結果元の政体に復帰することになった。モンテスキューによると「民衆政体のもとに生きていたギリシアの政治家は、自分を支える力として、徳性の力以外に認めなかった」という。国民へのバラマキしか語らない民主党政治とは、大きな違いである。そして、徳性というのは「法と祖国への愛」なのである。しかも、その愛というのは「自己自身の利益より、公共の利益を普段に優先すること」である。とりわけ民主制においては、各市民に政体はゆだねられる。民主主義を守るというのは、それなりの自覚がともなうのである。徳性を取り戻さなくては、その根幹が揺らいでしまうのである。