父が19歳の青年だった頃、文学を志し、小説や詩を書き込んだ創作ノートを時々開いて読むことがあります。手帳大のノートに小さな字でぎっしり書き込んであります。
音楽会でのニヒルな青年を表現しているのだと思いますが、会場は社小学校の講堂でしょうか。それとも社高等女学校でしょうか。社小学校の講堂は2階にありました。階段を上って講堂に入ると、正面に舞台があり、重々しい造りだった記憶があります。女学校の校舎は知りませんのでわかりません。当時、社小学校では納涼音楽会が開かれていた資料もあります。Y女学校は県立社高等女学校のことでしょうが、こうした音楽会は町の若い男女のときめきの場でもあったのでしょう。
写真は昭和29年(1954)のものですが、私が在籍していた頃の記憶にある社小学校の講堂と同じです。おそらくその25年前も同じではなかったと思います。
『社小学校創立百年誌』には、昭和2年に講堂が完成したと記されています。東北播磨に例をみないモダンな建物であったようです。
創作ノートから
田舍にしては珍しい木筋建の大講堂の二階で今晩はある會の主催で音樂會が開かれた。
凡ての設備が現代式に出來てゐる。
中央から正面には御眞影が安置され右と左とが階下へ行く梯子口。凡そ二百餘名の觀衆が揃ふと音樂會はプログラム通り開かれてゐく。
若い女の人、男の人、高い壇上に上る度びに大喝采を受けて笑みに迎へられる。
Y女學校の寄宿生と町のハイカラな青年二十人餘りと小學生が多く竝んだその後の小さな椅子に腰を下ろして餘程神經質な圓顏に、眉をひそめ乍ら皆が拍手しても笑つても感心しても少し笑はねば拍手もせねば隣に竝んだ青年に話さぬ二十才前後の青男がゐた・・・。
音楽会でのニヒルな青年を表現しているのだと思いますが、会場は社小学校の講堂でしょうか。それとも社高等女学校でしょうか。社小学校の講堂は2階にありました。階段を上って講堂に入ると、正面に舞台があり、重々しい造りだった記憶があります。女学校の校舎は知りませんのでわかりません。当時、社小学校では納涼音楽会が開かれていた資料もあります。Y女学校は県立社高等女学校のことでしょうが、こうした音楽会は町の若い男女のときめきの場でもあったのでしょう。
写真は昭和29年(1954)のものですが、私が在籍していた頃の記憶にある社小学校の講堂と同じです。おそらくその25年前も同じではなかったと思います。
『社小学校創立百年誌』には、昭和2年に講堂が完成したと記されています。東北播磨に例をみないモダンな建物であったようです。
創作ノートから
田舍にしては珍しい木筋建の大講堂の二階で今晩はある會の主催で音樂會が開かれた。
凡ての設備が現代式に出來てゐる。
中央から正面には御眞影が安置され右と左とが階下へ行く梯子口。凡そ二百餘名の觀衆が揃ふと音樂會はプログラム通り開かれてゐく。
若い女の人、男の人、高い壇上に上る度びに大喝采を受けて笑みに迎へられる。
Y女學校の寄宿生と町のハイカラな青年二十人餘りと小學生が多く竝んだその後の小さな椅子に腰を下ろして餘程神經質な圓顏に、眉をひそめ乍ら皆が拍手しても笑つても感心しても少し笑はねば拍手もせねば隣に竝んだ青年に話さぬ二十才前後の青男がゐた・・・。
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