逝きし世の面影 渡辺京二 著
1998年に刊行され、2005年に平凡社ライブラリーに入った(約600頁)。
著者とこの内容、そして分量からいって、いい意味で奇書である。
著者は1930年生まれで主に編集者畑を歩んだ人のようだ。「逝きし世」とは江戸時代後半から明治の途中まで、つまり主に19世紀の日本のことで、その時代の主に市井の生活、労働、身分、女性、植物、風景、信仰、祭礼などなど、政治を中心とした流れではない、また文化(アート)から見たものではない、著者からすれば「文明」というべきものを、この時期に西欧から訪れた人たちが見て書いた著述から、その「面影」として描き、それはここで終わってしまったものであると説いている。
訪れた外国人は、オールコック、ハリスなどよく知られた人たちを含め、かなり多くにおよぶ。
彼らの著述によれば、日本は初対面の外国人にも友好的で愛想がよく、あらそいごとを好まず、日常生活諸般を大事にきれいにし、笑顔が絶えず、特に子供の可愛らしさは他の国に例がない、など、これまで普通に知識として植え込まれがちな面とはちがう様相を描き出す。どうも、武士階級などの支配層は、諸般かた苦しかったが、庶民はそうでなくて、朗らかに過ごしていたらしい。もちろんそうでない面はあるにしても、これだけの外国人がそう描く資料を残していたからには、そういう面はあったのだろう。
著者がはじめの方で書いていることだが、いわゆるオリエンタリズムつまり美術などにおける東洋趣味、エキゾティシズムなどが、西洋のキリスト教文明、それから出てきたヒューマニズムを前提とする一方、人種主義的、帝国主義的なものであると、サイードがその著書「オリエンタリズム」で批判してから(サイードのオリエントは中東、アラブだが)、今日の日本の多くの論客は、上記の日本賛美をオリエンタリズム的幻影として批判する一方、同じ彼らがその一方で書いている日本批判については鬼の首を取ったように引用し、まったく無批判に受容している、ということは、納得できる。
著者が一時代の終わった文明というとき、この文明は明治に入ってからの西欧志向の近代化による社会の変化と、西欧と違うことは否定したいという思考形態で、おそらく忘れられてきたのだろうし、同じ動きは先の敗戦後も再度続いたと言える。
いくつかの視点で分けられた章に出てくる訪日者による資料はかなり多く、似たようなこともあって饒舌で、斜め読みで章末のまとめを読んでもいいと思ったこともあるが、これはそれだけの証拠をそろえて説得性をもたせるということからはやむをえないだろう。資料から採録された多くの挿絵は楽しい。
なお偶然だが、どうもサイードに縁があるようで、このところ続けて出くわす。その「オリエンタリズム」も同じ平凡社ライブラリーに入っている。
また、読んでいる途中で「蝶々夫人」をアップしたが、これは本書に少し言及があるロティ―の「お菊さん」をもとにしている。だが、本書を読んでいると、この時代、日本人は死を恐れなかったらしいが、それでもあの状況で自死はしないだろうと思った。オペラが長く人気を得ていることからも、またこれから「ミス・サイゴン」が出ていることからも、西欧人には鑑賞に不都合はないのだろうが、あのミンゲラ演出で、誤解された「日本」でなく、主人公の理想とする世界、結末として表出することが、一つの解として納得できる。
著者は終わった文明と言っているが、少しだけそうでもないということを巧妙に言っているようでもあって、我々のどこかに「記憶の底」というものがあるとすれば、そこに時々現れてくるような気がするのである。それはこの本を読んだ人のよろこびであるだろう。
1998年に刊行され、2005年に平凡社ライブラリーに入った(約600頁)。
著者とこの内容、そして分量からいって、いい意味で奇書である。
著者は1930年生まれで主に編集者畑を歩んだ人のようだ。「逝きし世」とは江戸時代後半から明治の途中まで、つまり主に19世紀の日本のことで、その時代の主に市井の生活、労働、身分、女性、植物、風景、信仰、祭礼などなど、政治を中心とした流れではない、また文化(アート)から見たものではない、著者からすれば「文明」というべきものを、この時期に西欧から訪れた人たちが見て書いた著述から、その「面影」として描き、それはここで終わってしまったものであると説いている。
訪れた外国人は、オールコック、ハリスなどよく知られた人たちを含め、かなり多くにおよぶ。
彼らの著述によれば、日本は初対面の外国人にも友好的で愛想がよく、あらそいごとを好まず、日常生活諸般を大事にきれいにし、笑顔が絶えず、特に子供の可愛らしさは他の国に例がない、など、これまで普通に知識として植え込まれがちな面とはちがう様相を描き出す。どうも、武士階級などの支配層は、諸般かた苦しかったが、庶民はそうでなくて、朗らかに過ごしていたらしい。もちろんそうでない面はあるにしても、これだけの外国人がそう描く資料を残していたからには、そういう面はあったのだろう。
著者がはじめの方で書いていることだが、いわゆるオリエンタリズムつまり美術などにおける東洋趣味、エキゾティシズムなどが、西洋のキリスト教文明、それから出てきたヒューマニズムを前提とする一方、人種主義的、帝国主義的なものであると、サイードがその著書「オリエンタリズム」で批判してから(サイードのオリエントは中東、アラブだが)、今日の日本の多くの論客は、上記の日本賛美をオリエンタリズム的幻影として批判する一方、同じ彼らがその一方で書いている日本批判については鬼の首を取ったように引用し、まったく無批判に受容している、ということは、納得できる。
著者が一時代の終わった文明というとき、この文明は明治に入ってからの西欧志向の近代化による社会の変化と、西欧と違うことは否定したいという思考形態で、おそらく忘れられてきたのだろうし、同じ動きは先の敗戦後も再度続いたと言える。
いくつかの視点で分けられた章に出てくる訪日者による資料はかなり多く、似たようなこともあって饒舌で、斜め読みで章末のまとめを読んでもいいと思ったこともあるが、これはそれだけの証拠をそろえて説得性をもたせるということからはやむをえないだろう。資料から採録された多くの挿絵は楽しい。
なお偶然だが、どうもサイードに縁があるようで、このところ続けて出くわす。その「オリエンタリズム」も同じ平凡社ライブラリーに入っている。
また、読んでいる途中で「蝶々夫人」をアップしたが、これは本書に少し言及があるロティ―の「お菊さん」をもとにしている。だが、本書を読んでいると、この時代、日本人は死を恐れなかったらしいが、それでもあの状況で自死はしないだろうと思った。オペラが長く人気を得ていることからも、またこれから「ミス・サイゴン」が出ていることからも、西欧人には鑑賞に不都合はないのだろうが、あのミンゲラ演出で、誤解された「日本」でなく、主人公の理想とする世界、結末として表出することが、一つの解として納得できる。
著者は終わった文明と言っているが、少しだけそうでもないということを巧妙に言っているようでもあって、我々のどこかに「記憶の底」というものがあるとすれば、そこに時々現れてくるような気がするのである。それはこの本を読んだ人のよろこびであるだろう。