ビゼー:歌劇「真珠採り」
指揮:ジャナンドレア・ノセダ、演出:ペニー・ウールコック
ディアナ・ダムラウ(レイラ)、マシュー・ポレンザーニ(ナディール)、マウリシュ・クヴィエチェン(ズルガ)、ニコラ・コステ(高僧ヌーラバット)
2016年1月16日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2017年7月 WOWOW放送
ビゼー(1838-1875)25歳の時の作品、出世作となったようだが、後にビゼーといえば「カルメン」となったからか、メトロポリタンでも100年ぶりの上演とか。
それでもあのカルメンのどこをとっても入っていける音楽を作ったたんどくに人の才能はこの作品でもすでに顕著で、それは幕間インタビューで指揮者ノセダも認めている。「耳に残るは君の歌声」は単独に取り出し、いろんな形で使われ有名になっているが、それだけではない。
物語はかなり昔のセイロン(現スリランカ)あたり、真珠採りで有名で、そこの集団、部族の中だけで展開される物語。
部族の長になったズルガが、海での安全をと巫女レイを引き入れる。そこへ外に出て放浪していたナディールが帰ってくる。
男二人はかって親友であり、実はそれぞれレイラとも縁がある。ナディールはレイラの歌を聴いて彼女とわかり、嘗ての恋心がよみがえる。巫女の彼女ととの交情は禁忌であり、ズルガが問い詰めるが彼女のヴェールをとって後、彼はレイラと気付き、この地の首長としてそして嫉妬から、二人の処刑を決めるが、レイラは自分が死ぬからナディールは許してほしいと懇願する。
このレイラの決心が、強い女としてアピール性が強く、演出もそれは考えている。
ところが、この時点で予想したフィナーレとは違って、以外な結末が待っているのだが、、、
三人は声質、歌唱、演技とも素晴らしく、音楽に納得して演じていることがわかる。男性二人はこれまでよく見ているが、ダムラウは初めてではないが、「椿姫」はかなり感心したものの、もう少しドラマティックな役に向いていると思ったが、誤解だったか、今回とってもよかった。
この三人の、いくつかの二重唱、秀逸である。
さて真珠とりというわりに、話の筋には真珠採りの話は出てこないのだが、このエキゾティックな世界をうまく聴衆にサービスして演出するということか、冒頭の前奏の間、海の中を何人かが自由自在に泳ぎ回る。これはあらかじめ撮られた映像でなく、大仕掛けの機構とワイヤーで動き回り、それを海中であるかのように光の演出をするという凝ったもの。メトロポリタンならではだろうか。
衣装などは一応現代ということらしいが、それはズルガのもの以外は昔の雰囲気で、終幕にズルガが悩む現代の貧しい事務室のような部屋と彼の衣装が、前記最後の展開にいたるまでのズルガの現代的な悩みと決断を象徴しているのだろう。
恋人どうしが発覚して神の怒りを招く場面に津波の映像を使ったのは、いくらアメリカとはいえ、まだこの時期どうなんだろうか。
この「真珠採り」、十代にクラシックをよく聴くようになったころ、フランス音楽を中心に気に入っていた指揮者アンドレ・クリュイタンスの代表作の一つとして評価されていたけれど、全曲盤までは手が出なかった。クリュイタンスの演奏はその後も聴く機会がないが、作品の方はこのように楽に聴く機会を得た。いい時代になったものである。
指揮:ジャナンドレア・ノセダ、演出:ペニー・ウールコック
ディアナ・ダムラウ(レイラ)、マシュー・ポレンザーニ(ナディール)、マウリシュ・クヴィエチェン(ズルガ)、ニコラ・コステ(高僧ヌーラバット)
2016年1月16日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2017年7月 WOWOW放送
ビゼー(1838-1875)25歳の時の作品、出世作となったようだが、後にビゼーといえば「カルメン」となったからか、メトロポリタンでも100年ぶりの上演とか。
それでもあのカルメンのどこをとっても入っていける音楽を作ったたんどくに人の才能はこの作品でもすでに顕著で、それは幕間インタビューで指揮者ノセダも認めている。「耳に残るは君の歌声」は単独に取り出し、いろんな形で使われ有名になっているが、それだけではない。
物語はかなり昔のセイロン(現スリランカ)あたり、真珠採りで有名で、そこの集団、部族の中だけで展開される物語。
部族の長になったズルガが、海での安全をと巫女レイを引き入れる。そこへ外に出て放浪していたナディールが帰ってくる。
男二人はかって親友であり、実はそれぞれレイラとも縁がある。ナディールはレイラの歌を聴いて彼女とわかり、嘗ての恋心がよみがえる。巫女の彼女ととの交情は禁忌であり、ズルガが問い詰めるが彼女のヴェールをとって後、彼はレイラと気付き、この地の首長としてそして嫉妬から、二人の処刑を決めるが、レイラは自分が死ぬからナディールは許してほしいと懇願する。
このレイラの決心が、強い女としてアピール性が強く、演出もそれは考えている。
ところが、この時点で予想したフィナーレとは違って、以外な結末が待っているのだが、、、
三人は声質、歌唱、演技とも素晴らしく、音楽に納得して演じていることがわかる。男性二人はこれまでよく見ているが、ダムラウは初めてではないが、「椿姫」はかなり感心したものの、もう少しドラマティックな役に向いていると思ったが、誤解だったか、今回とってもよかった。
この三人の、いくつかの二重唱、秀逸である。
さて真珠とりというわりに、話の筋には真珠採りの話は出てこないのだが、このエキゾティックな世界をうまく聴衆にサービスして演出するということか、冒頭の前奏の間、海の中を何人かが自由自在に泳ぎ回る。これはあらかじめ撮られた映像でなく、大仕掛けの機構とワイヤーで動き回り、それを海中であるかのように光の演出をするという凝ったもの。メトロポリタンならではだろうか。
衣装などは一応現代ということらしいが、それはズルガのもの以外は昔の雰囲気で、終幕にズルガが悩む現代の貧しい事務室のような部屋と彼の衣装が、前記最後の展開にいたるまでのズルガの現代的な悩みと決断を象徴しているのだろう。
恋人どうしが発覚して神の怒りを招く場面に津波の映像を使ったのは、いくらアメリカとはいえ、まだこの時期どうなんだろうか。
この「真珠採り」、十代にクラシックをよく聴くようになったころ、フランス音楽を中心に気に入っていた指揮者アンドレ・クリュイタンスの代表作の一つとして評価されていたけれど、全曲盤までは手が出なかった。クリュイタンスの演奏はその後も聴く機会がないが、作品の方はこのように楽に聴く機会を得た。いい時代になったものである。