お寺さんぽ Ver.03

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激突!軍神の後継者 (御館の乱)1

2008年09月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は軍神「上杉謙信」の後継者争いとして有名…なのかな、どうかなという「御館の乱(おたてのらん)」についてお送り致します。

戦国時代にて、”最強軍団”と言われ、周囲の大名に恐れられていた甲斐・武田勢。
その武田勢とまったく互角か、あるいはそれ以上の戦いぶりを見せたのが、軍神「上杉謙信」の率いる越後勢でした…。

この時代では稀な、私利私欲ではなく「義」によって行動していたという謙信。
(※実際はそれだけではないけれど)
最大版図は本拠地越後のほか、能登、越中、上野(こうずけ:群馬県)…と領国は縦に長く、北は出羽「最上氏」、陸奥「蘆名氏」、南は上野「北条氏」「武田氏」、西には加賀「織田氏」などと、それぞれ国境を接しておりました。
謙信は出羽、関東、北陸、信濃、とそれぞれ各方面にて作戦地区を分割し、本軍を率いて各地に転戦してたのです。

以上のように、周囲を強敵に囲まれていた上杉家。
実は、内側にもやっかいな敵がおりました。

以前のブログでも書いておりますが、越後守護代にして謙信の父「長尾為景(ながお・ためかげ)」
彼は下剋上にいちおう成功したものの、国内は完全に支配することができなかったのです。
なにしろ、為景が死んだ際にも敵対者を警戒して、皆甲冑姿で葬儀に参列したと言うほどなのです。

関東管領被官である上田長尾氏「長尾政景」を筆頭に、有力国人「揚北衆(あがきたしゅう)」など、複雑な関係と事情を抱えていた彼らを掌握できぬままだったのです。
それは兄「長尾晴景」、そして謙信の代になっても変わらず、彼らはたびたび所領争いなどで対立をしていたのでした。
なにしろ、調停に疲れ果てた謙信が”隠居”を言い出すほどでしたから、非常に根が深いのです。
(※しかも何回かあったらしい)

父「武田信虎」の代にて国内を平定していた武田家と違い、越後上杉家は非常に不安定な情勢にあったのです。
度々の出兵についても、”目を外に向けさせることで国内の結束を図った”という説があります。
ここがポイントの一つ。

また、よく知られていることですが、謙信は生涯で妻帯しませんでした。
ここがポイントのもう一つ。
当然ながら実子もおらず、その跡目となるのは養子だけだったのです。
何名かいた養子のうち、そう目されていたのは二名。
…がしかし、この両者をほぼ対等に遇していたこと、しっかりと指名をせずに没したことにより、国内の混乱は避けれない情勢となってしまうのでした。

⇒つづく。
 次回は「解説・二人の養子」(2/6)


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