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17世紀のミルトン伝

17世紀のミルトン伝

1. ジョン・オーブリーによる伝記メモ

- とても明るい性格。
- 痛風で発作的に痛みがひどい時でも明るく、歌を歌っていた。
(Darbishire 5)

- 早起き。
- 視力を失ってからは、朝4時に起きてヘブライ語聖書を誰かに読んでもらう。7時に再度何かを読んでもらう。そしてディナーまで何か書く。読む量と書く量は同じくらい。
- 自制心あり、食事と食事のあいだに酒は飲まない。
- 繊細できれいな声をしていて、歌がとても上手だった。
- 音楽は父から習った。
- 運動は散歩程度。
- 教養ある人たちがよく彼に会いにきた。彼がもういい、と思うくらい。
(Darbishire 6)

- フランスやイタリアにきてくれとしつこく頼まれていた。
- 外国人がよく会いにきて、称えられていた。
- クロムウェルとミルトンに会って、ミルトンの生まれた家や部屋を見るためだけにイングランドにきた外国人も何人かいる。
- 国内より国外で評価されている。
(Darbishire 7)

[弟クリストファーからの情報]
- 小さい頃からとても一生懸命勉強し、夜遅くまで起きていた。
- その頃から大人のような詩を書いていた。
- 大学でも一生懸命学び、発表・演説はとても高く評価されていた。
- 甥のエドワードとジョンをそれぞれ10歳・9歳の時に教えはじめ、1年で彼らはラテン作品が読めるようになり、3年で最高レベルのローマ・ギリシャ著作家の作品を読みとおした。
- ローマでは、ルクレティウス、マニリウス、ギリシャではヘシオドス、アラトス……。
- カトーやウァローから読ませた。
- 彼は厳しい教師だったが、厳しく教えている子たちにふだんは親しみやすく、わけへだてなく接した。
- 生徒には歌も教えた。
(Darbishire 10-12)

[甥エドワード・フィリップスからの情報]
- 『楽園喪失』は王が戻る2年前から書きはじめ、王が戻って3年くらいで完成した。
- 第4巻のサタンのセリフ、太陽への言葉は着想の15-6年前に悲劇用に書いていた。
- 王政を批判する言葉は、王個人に対する悪意からではなく、人の自由に対する熱い思いから。
- 王国より共和国の人々のほうが自由……リウィウスなどローマの著作家を多く読み、共和国期のローマの偉業や、その指導者たちの立派さを見て、そう考えるようになっていた。
- 最初の妻(パウエルさん)は楽しくにぎやかな家で育ってきたから……夫の家ではとても寂しく感じていた。誰も話しかけてこないのみならず、甥っ子たちは殴られてしょっちゅう泣いている。そんな暮らしはうんざり、ということで彼女はフォレスト・ヒルの両親の家に帰ってしまった。彼は(しばらくして)迎えの者を送ったが、確かこの召使いは冷たくあしらわれたかと思う。でも、メアリーには他に好きな男がいたとか、そういう話は一切聞かなかったし、彼もそういうことは一切疑っていなかった。
(Darbishire 13-14 )

*****
2. 教え子シリアック・スキナーによる伝記

- 共和国擁護の論説を書くなかで視力を完全に失った。論敵は神の裁きと主張して嘲ったが、そうではなく、若い頃から夜まで- 一生懸命勉強していたことで目が弱りはじめていて、次第に片目が見えなくなった。
- 医者は、そのように集中して仕事をしていると視力を失う、と警告していたが、彼は自分がよく考えて決めたことはやりとおすタイプで、真理と祖国への愛が何よりも強かったので、これらを弁護しないわけにはいかなかった。
- 盲目になっても、筆記者の手を借りて、それまでと同様勉強を続けていた。
(Darbishire 28)

- 生まれつき鋭く、判断力もあった。
- 自制心をいつも大事にしていた、若い頃は禁欲的すぎるふしも。
- 利益を求める仕事にはつかなかった。
- 教えることで何か得があるとは思っていなかった。
- ラテン語秘書官の仕事も自分から求めたものではなかった。
(Darbishire 29)

- 利益のためにどこかの党派につくことはなく、また恨みで人から離れることもなかった。
(Darbishire 30)

- 常に質素に暮らしていた。
- 妻が実家に戻ってしまっていた時でも、その他のどんな時でも、彼が不誠実なことをすることはまったくなかった。
(Darbishire 31)

- 背の高さはふつう、スタイルがよく、健康な顔色をしていた。
- 髪は明るい茶色で、美しい顔立ちをしていた。ただ、目はあまりよくなかった。
- 物腰が柔らかく、人あたりもよく、真っ直ぐ男らしく歩いた。
- 目が見える時は剣をもち、上手に使えた。
- すばらしく音に敏感で、歌も楽器も上手だった。
- 王政復古後も反体制の姿勢はまったくとらず、静かに暮らしていたので、政府のために文章を書いてくれないか、高級官僚が家まで頼みにきた。
(Darbishire 32)

- 貴族院で離婚が話題になった時、議員に参考意見を求められた。
- (節度ある人はだいたいそうだが、)彼は早起きで、筆記者がくる頃にはたいていかなりの詩ができあがっていた。だからたまに筆記者が遅れたりすると、「頼むから早く乳しぼりしてくれよ」と文句を言っていた。
- 夜も同じようにお気に入りの詩人を読んで日中の疲れを癒し、そして明日へのアイディアを蓄えた。
- 彼が教えていた若者たちが時折筆記を担当したし、学識ある彼と話す機会がもてて嬉しい年配者も喜んでその役を務めた。
- 彼は痛風の発作で死んだが、痛みも苦しみもまったくないようすだったので、彼が息を引きとったことに部屋にいた誰も気づかなかった。
- 痛風にかかって長く困っていて、拳も完全に固まってしまっていたが、彼がひどくイライラすることを見たことはなかった。
(Darbishire 33)

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3. 甥エドワード・フィリップスによる伝記

- [教師としては]生徒にとって模範的で……よく学び、食事は控えめだった。ただ、大人の特権として3週間または月に1回くらい、知りあいの若者たちと……ムチャして派手に楽んでいた。
(Darbishire 62)

妻が帰ってきて1年以内、最初に生まれたのは元気な女の子だった。でも、体質の問題か、育てかたの問題か、だんだん弱っていった。
(Darbishire 67)

- [1670年頃]アングルシー伯爵がよく家にきた。ミルトンと話したくてしかたないようすで、それは相当な身分の他の貴族たちも同様だった。外国からもかつてないほどの来客があった。それこそ、彼が死んだ日にも。
(Darbishire 76)

- 最初の妻とのあいだの娘たちに彼は特殊な仕事をさせた。自分は目が見えなかったから、娘たちの目と口をかわりに使った。毎日彼のまわりには本を読む係が誰かしらいて、大人でもぜひぜひ彼に読んでさしあげる機会をいただきたい、そしてかわりにその内容を教えていただきたい、と言ってきていたりして、また同じ目的で若い子たちも親から送られてきたりしていたのだが、体に問題があってうまく発音できなかったいちばん上の子を除いて、下の2人の娘は読書の刑を受けていた。つまり、何語で書かれたものであれ、彼がたまたま読みたいと思った本を正確な発音で読まさせられていた。ヘブライ語(シリア語もあったかも)、それからギリシャ語、ラテン語、イタリア語、スペイン語、フランス語の本を、その内容はまったくわからないのに。これはなかなかの試練、忍耐が求められる仕事で、ほとんどがまんの限界を超えていたに違いない。2人の娘は長らく耐えていたが、やはりその苦痛は隠しきれるものでもなく、だんだん、もううんざり、という空気になってきた。
(Darbishire 77)


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