goo blog サービス終了のお知らせ 
goo

夏目漱石、『それから』

夏目漱石、『それから』

以下、雑感--

「現代日本の開化」や「文芸と道徳」にあるような開化前後の
新・旧日本のあいだの感性・価値観・道徳観の対立を、漱石が
多かれ少なかれ一貫して小説の題材として、あるいはその語彙
として、活用してきていることがわかってきた。
(少なくとも『虞美人草』以降。『猫』や『坊ちゃん』は未読。)

作品にもよるが、その扱いかたはいつも微妙。現在と過去、
どちらかの優越を決定的に説くような書きかたはされていない。
そもそも「現代日本の開化」や「文芸と道徳」も、新旧いずれかの
道徳の優越を説いてはいない。また、小説はあくまで小説であって、
論文やプロパガンダではない。

『それから』も、新・旧道徳という対立では割り切れない物語。
旧道徳的な義侠心から三千代を平岡に譲った代助が
旧道徳的・自然的な本心に駆られて彼女をとり戻そうとする。
その結果、家を重んじるという点で旧道徳的な父や兄を
敵にまわす。そもそも旧道徳的に見れば、代助の純愛は
姦通罪(の一歩手前)である。過去の日本では切腹などと
いうこともおこなわれていた……。

* * *
人の妻に対する純愛の物語として、『それから』には
宮廷風恋愛文学の近代版という側面があるように思われる。
代助と三千代が二人で泣いているところなど、シドニーの
『アストロフィルとステラ』の歌8と同じ雰囲気を感じる。
愛する女性の父は彼女と主人公の結婚を望んでいたが、
それが実現する前に死んでしまう、というシナリオも同じ。
(『文学論』にはシドニーへの言及はない。他のどこかに
ある?)

* * *
俗世間から乖離し、それを超越した感のある代助の思考・
道徳を常に支持する語りには、バイロン的なものを強く感じる。
いわば彼は近代日本版バイロニック・ヒーローであるかのよう。

* * *
王政復古期の文学との比較--

個人的に王政復古期の作品については、往々にして物語が
読者の嫌な予想どおり悪い方向へと進む印象をもっている。
見え見えなかたちで悲しい結末に向かう、という。
「ここでこいつが裏切ったら最悪だな……うわ、ほんとに
裏切りやがった……」という。

(具体的にどの作品か思い出せない……オトウェイの
『ヴェニス』やベーンの『オルーノーコー』など?)

また、王政復古期の作品においては、往々にして明確な、
図式的でわかりやすい対立構図にもとづいて物語が進む。

王への忠誠をとるか、愛をとるか
親への忠誠をとるか、愛をとるか、など

(王でもある父親が自分の恋人を奪いにくる、という
ドライデンの『オーレン・ジーブ』はその典型。)

このような作風に慣れているので、『それから』を
読みながら、ついつい嫌な方向に話が進むことを
恐れながらも期待してしまった。

平岡が代助の父と兄の会社の不正について裏情報を
握っている、という13章のエピソードがもっと
嫌なかたちで発展するのではないか、と。
三千代から手を引かないと、おまえの父と兄の会社の
スキャンダルにするぞ、と平岡が言いだすのではないか、
と。

つまり、自分の愛のために一族を破滅させるか、
あるいは一族のために愛、すなわち自分のいちばん
大切なもの、自分にとっていちばん自然なものを
棄てるか、という究極の選択の物語となっていくのでは
ないか、と。

このような方向に話が進まず、むしろ逆に愛を貫くことが
(おそらく)できるという純愛路線、遊民からの脱却(職探し)
という成長路線に熱く泣きながら突っ走るところに、
漱石や『それから』の特色があるように感じる(なんというか、
漱石がいわば「いい人」であるような印象を受ける)。

加えて、三千代の重病を提示してハッピーハッピーな結末を
避けているところも特徴的かと思われる。

ドライデンへの言及がきわめて少ないなど、漱石は
王政復古文学(特に演劇)をあまり読んでいないよう(?)。
東北大の漱石文庫で検索しても、ドライデンの劇作品は
ヒットしない。

また、ホッブズの著作を読んでいたら「自然」についての
理解や描写が多少なり変わっていたのではないか、などとも
想像する。(ホッブズも漱石文庫でヒットしない。)

以上、私見まで。

* * *
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。

ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。

商用、盗用、悪用などはないようお願いします。


コメント ( 0 ) | Trackback (  )
« Herrick, "To ... From Behn, Lo... »