英語の詩を日本語で
English Poetry in Japanese
The Blasphemy Act, 1650
1650年8月9日制定法/1649年9月27日議会公式声明
ここに列挙された意見を固持する者は懲役6ヶ月に処す
保釈は認めない
議会の義務とは、正しい方法・かたちで福音を
この共和国に広め、心から真に神を敬う嘘のない
宗教を発展させることである。ゆえに議会は、
教義や信仰のありかたの改革の維持・推進のため、
また冒涜・悪行・迷信・かたちだけの信仰を防ぐため、
さまざまな規則・法を定めてきた。神の正しい賛美と
人々の幸福の増進を願ってのことである。しかし、
このような議会の善意に反し、悲しく驚くべきことに、
男女を問わず、尋常ならざる考えを抱き、以下に
記すような人の道からはずれた忌まわしい悪事に
ふける者がおり、彼らの思想・行為の伝播によって
社会が腐り、乱れ、そして壊れかねない状況である。
そのような者はキリストや使徒の定めにいっさい
従わず、社会のなかの人がすべき道徳的に正しいこと・
必要なことをまったくしようとしない。それゆえ議会は、
1649年9月27日に公布された宣言どおり、そのように
規範を破る者、良心の自由を濫用して過剰・過激な行為に
ふける者に対して強い不快感・憎悪を抱いていることを
正式に表明し、そして厳格で実効ある措置を直ちに
とることにする。すなわち、現在開会されている議会の
権威により、以下のように定める。自分自身または
他の誰かが神・無限者・全能者である、栄誉・能力・地位・
力において真の神と同等もしくはまったく同じである、
あるいは永遠に最高の支配権をもつ真の神は自分または
他の誰かのうちに宿る、などと発言または書によって
断言・主張する者(病や脳の障害によって平常の思考を
失っている者は除く)--神の清らかさと正しさを
否定する者--冒涜的に神を罵ること、酒に溺れること、
汚らわしい獣のような行為に耽ることは清らかな
ことであって神の言葉によって禁じられていない、
誰がおこなおうとこれらのことは、それが誰であれ
これらのことをする人は、神によって褒められる、
これらの人・行為はまるで神・神の行為のようである、
などと、前述のように発言・書によってあつかましくも
主張する者--神やその清らかさ・正しさを否定し汚すこと、
神を呪ったり、不敬なことを言ったり、神の名にかけて
嘘を誓ったりすること、その他、嘘・盗み・詐欺・
詐取・殺人・姦通・近親相姦・姦淫・淫行・同性愛・
酒浸り・汚らわしく淫らな発言、これらの行為が、
誰によってなされるにしろそれ自体恥ずべき・悪しき・
罪深き・不敬な・嫌悪憎悪に値するものでなく、むしろ
みなに推奨すべき、などと前述のように発言・書によって
主張する者--姦通・酒浸り・罵詈雑言のような
公然たる悪は本来神聖で正しい行為であって、
祈りや説教や神に感謝を捧げることと同様、
人としての義務である、などと前述のように発言・
書によって主張する者--(売買春であれ、姦通であれ
深酒であれ、その他どんな悪事であれ)自分が
おこなうことに罪はない、そのような行為をおこなうのは
自分のうちに宿る真の、最高の支配者である神あるいは
永遠に不死なる魂である、最大の罪を犯して最小限の
後悔や罪悪しか感じないような者こそ永遠の神とも
見紛う最高に完璧な人である、本当に正しくないこと、
汚らわしいこと、罪であるようなことは存在しない、
それはたんなる男や女が勝手に罪と思いこむことに
すぎない、天国も地獄も救済も破滅も存在しない、
これらは実はみな同じことであって区別はない、などと
前述のように発言・書によって主張する者--
これらのような神を恐れぬ、冒涜的な、唾のように
吐き捨てられるべき意見をひとつでも抱き、固持し、
そして前述のように発言・書によって、はっきり、
自分のものとして主張する者は……監獄または矯正院に
6ヶ月監禁されることとする。この間の保釈・条件付釈放は
認めない。その後も、一年間正しく生きることを十分に
宣誓あるいは保証しなければ釈放されないこととする。
二度目に逮捕された者は追放に処す。許可なく帰国した
場合には財産没収・称号剥奪・遺産継承禁止に処す。
*****
9 August 1650
Declaration 27 Sept. 1649.;
Any person maintaining any of the Opinions
here enumerated.; shall suffer six moneths
imprisonment without Bail.
The Parliament holding it to be their duty, by all good ways and means to propagate the Gospel in this Commonwealth, to advance Religion in all Sincerity, Godliness, and Honesty, Have made several Ordinances and Laws for the good and furtherance of Reformation, in Doctrine and Maners, and in order to the suppressing of Prophaneness, Wickedness, Superstition and Formality, that God may be truly glorified, and all might in well-doing be encouraged. But notwithstanding this their care, finding to their great grief and astonishment, that there are divers men and women who have lately discovered themselves to be most monstrous in their Opinions, and loose in all wicked and abominable Practices hereafter mentioned, not onely to the notorious corrupting and disordering, but even to the dissolution of all Humane Society, who rejecting the use of any Gospel Ordinances, do deny the necessity of Civil and Moral Righteousness among men; The Parliament therefore, according to their published Declaration of the Twenty seventh of September, One thousand six hundred forty nine, To be most ready to testifie their displeasure and abhorrency of such Offenders, by a strict and effectual proceeding against them, who should abuse and turn into Licentiousness, the liberty given in matters of Conscience, Do therefore Enact and Ordain, and be it Enacted and Ordained by the Authority of this present Parliament, That all and every person and persons (not distempered with sickness, or distracted in brain) who shall presume avowedly in words to profess, or shall by writing proceed to affirm and maintain him or her self, or any other meer Creature, to be very God, or to be Infinite or Almighty, or in Honor, Excellency, Majesty and Power to be equal, and the same with the true God, or that the true God, or the Eternal Majesty dwells in the Creature and no where else; or whosoever shall deny the Holiness and Righteousness of God, or shall presume as aforesaid to profess, That Unrighteousness in persons, or the acts of Uncleanness, Prophane Swearing, Drunkenness, and the like Filthiness and Brutishness, are not unholy and forbidden in the Word of God, or that these acts in any person, or the persons [so] committing them, are approved of by God, or that such acts, or such persons in those things are like unto God: Or whosoever shall presume as aforesaid to profess, That these acts of Denying and Blaspheming God, or the Holiness or Righteousness of God; or the acts of cursing God, or of Swearing prophanely or falsly by the Name of God, or the acts of Lying, Stealing, Cousening and Defrauding others; or the acts of Murther, Adultery, Incest, Fornication, Uncleanness, Sodomy, Drunkenness, filthy and lascivious Speaking, are not things in themselves shameful, wicked, sinful, impious, abominable and detestable in any person, or to be practised or done by any person or persons: Or shall as aforesaid profess, That the acts of Adultery, Drunkenness, Swearing and the like open wickedness, are in their own nature as Holy and Righteous as the Duties of Prayer, Preaching or giving of Thanks to God: Or whosoever shall avowedly as aforesaid profess, That whatsoever is acted by them (whether Whoredom, Adultery, Drunkenness or the like open Wickedness) may be committed without sin; or that such acts are acted by the true God, or by the Majesty of God, or the Eternity that is in them; That Heaven and all happiness consists in the acting of those things which are Sin and Wickedness; or that such men or women are most perfect, or like to God or Eternity, which do commit the greatest Sins with least remorse or sense; or that there is no such thing really and truly as Unrighteousness, Unholiness or Sin, but as a man or woman judgeth thereof; or that there is neither Heaven nor Hell, neither Salvation nor Damnation, or that these are one and the same thing, and that there is not any distinction or difference truly between them: All and every person or persons so avowedly professing, maintaining or publishing as aforesaid, the aforesaid Atheistical, Blasphemous or Execrable Opinions, or any of them . . . shall be . . . committed to Prison or to the House of Correction, for the space of six moneths, without Bail or Mainprize, and until he or she shall have put in sufficient Sureties to be of good behavior for the space of one whole year.
For the second offence shall be Banished.; Felony to return with out License.
https://www.british-history.ac.uk/no-series/acts-ordinances-interregnum/pp409-412
(一部修正)
*****
散文。
教会に乱入して礼拝の邪魔をする、酒を飲んで暴れる、
裸で出歩く、堂々と不倫・姦淫をする・ひけらかす、
というような反社会行動をもたらす類の異端思想を
法で取り締まる試み。
個人が抱く思想は本来自由で取り締まることは
根本的に不可能だが、その思想ゆえに他の人や
社会に迷惑をかけるようなことがあれば、
やはりそれは取り締まらざるを得ない、ということ。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者・タイトル・
URL・閲覧日など必要な事項を必ず記し、
剽窃行為のないようにしてください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
ここに列挙された意見を固持する者は懲役6ヶ月に処す
保釈は認めない
議会の義務とは、正しい方法・かたちで福音を
この共和国に広め、心から真に神を敬う嘘のない
宗教を発展させることである。ゆえに議会は、
教義や信仰のありかたの改革の維持・推進のため、
また冒涜・悪行・迷信・かたちだけの信仰を防ぐため、
さまざまな規則・法を定めてきた。神の正しい賛美と
人々の幸福の増進を願ってのことである。しかし、
このような議会の善意に反し、悲しく驚くべきことに、
男女を問わず、尋常ならざる考えを抱き、以下に
記すような人の道からはずれた忌まわしい悪事に
ふける者がおり、彼らの思想・行為の伝播によって
社会が腐り、乱れ、そして壊れかねない状況である。
そのような者はキリストや使徒の定めにいっさい
従わず、社会のなかの人がすべき道徳的に正しいこと・
必要なことをまったくしようとしない。それゆえ議会は、
1649年9月27日に公布された宣言どおり、そのように
規範を破る者、良心の自由を濫用して過剰・過激な行為に
ふける者に対して強い不快感・憎悪を抱いていることを
正式に表明し、そして厳格で実効ある措置を直ちに
とることにする。すなわち、現在開会されている議会の
権威により、以下のように定める。自分自身または
他の誰かが神・無限者・全能者である、栄誉・能力・地位・
力において真の神と同等もしくはまったく同じである、
あるいは永遠に最高の支配権をもつ真の神は自分または
他の誰かのうちに宿る、などと発言または書によって
断言・主張する者(病や脳の障害によって平常の思考を
失っている者は除く)--神の清らかさと正しさを
否定する者--冒涜的に神を罵ること、酒に溺れること、
汚らわしい獣のような行為に耽ることは清らかな
ことであって神の言葉によって禁じられていない、
誰がおこなおうとこれらのことは、それが誰であれ
これらのことをする人は、神によって褒められる、
これらの人・行為はまるで神・神の行為のようである、
などと、前述のように発言・書によってあつかましくも
主張する者--神やその清らかさ・正しさを否定し汚すこと、
神を呪ったり、不敬なことを言ったり、神の名にかけて
嘘を誓ったりすること、その他、嘘・盗み・詐欺・
詐取・殺人・姦通・近親相姦・姦淫・淫行・同性愛・
酒浸り・汚らわしく淫らな発言、これらの行為が、
誰によってなされるにしろそれ自体恥ずべき・悪しき・
罪深き・不敬な・嫌悪憎悪に値するものでなく、むしろ
みなに推奨すべき、などと前述のように発言・書によって
主張する者--姦通・酒浸り・罵詈雑言のような
公然たる悪は本来神聖で正しい行為であって、
祈りや説教や神に感謝を捧げることと同様、
人としての義務である、などと前述のように発言・
書によって主張する者--(売買春であれ、姦通であれ
深酒であれ、その他どんな悪事であれ)自分が
おこなうことに罪はない、そのような行為をおこなうのは
自分のうちに宿る真の、最高の支配者である神あるいは
永遠に不死なる魂である、最大の罪を犯して最小限の
後悔や罪悪しか感じないような者こそ永遠の神とも
見紛う最高に完璧な人である、本当に正しくないこと、
汚らわしいこと、罪であるようなことは存在しない、
それはたんなる男や女が勝手に罪と思いこむことに
すぎない、天国も地獄も救済も破滅も存在しない、
これらは実はみな同じことであって区別はない、などと
前述のように発言・書によって主張する者--
これらのような神を恐れぬ、冒涜的な、唾のように
吐き捨てられるべき意見をひとつでも抱き、固持し、
そして前述のように発言・書によって、はっきり、
自分のものとして主張する者は……監獄または矯正院に
6ヶ月監禁されることとする。この間の保釈・条件付釈放は
認めない。その後も、一年間正しく生きることを十分に
宣誓あるいは保証しなければ釈放されないこととする。
二度目に逮捕された者は追放に処す。許可なく帰国した
場合には財産没収・称号剥奪・遺産継承禁止に処す。
*****
9 August 1650
Declaration 27 Sept. 1649.;
Any person maintaining any of the Opinions
here enumerated.; shall suffer six moneths
imprisonment without Bail.
The Parliament holding it to be their duty, by all good ways and means to propagate the Gospel in this Commonwealth, to advance Religion in all Sincerity, Godliness, and Honesty, Have made several Ordinances and Laws for the good and furtherance of Reformation, in Doctrine and Maners, and in order to the suppressing of Prophaneness, Wickedness, Superstition and Formality, that God may be truly glorified, and all might in well-doing be encouraged. But notwithstanding this their care, finding to their great grief and astonishment, that there are divers men and women who have lately discovered themselves to be most monstrous in their Opinions, and loose in all wicked and abominable Practices hereafter mentioned, not onely to the notorious corrupting and disordering, but even to the dissolution of all Humane Society, who rejecting the use of any Gospel Ordinances, do deny the necessity of Civil and Moral Righteousness among men; The Parliament therefore, according to their published Declaration of the Twenty seventh of September, One thousand six hundred forty nine, To be most ready to testifie their displeasure and abhorrency of such Offenders, by a strict and effectual proceeding against them, who should abuse and turn into Licentiousness, the liberty given in matters of Conscience, Do therefore Enact and Ordain, and be it Enacted and Ordained by the Authority of this present Parliament, That all and every person and persons (not distempered with sickness, or distracted in brain) who shall presume avowedly in words to profess, or shall by writing proceed to affirm and maintain him or her self, or any other meer Creature, to be very God, or to be Infinite or Almighty, or in Honor, Excellency, Majesty and Power to be equal, and the same with the true God, or that the true God, or the Eternal Majesty dwells in the Creature and no where else; or whosoever shall deny the Holiness and Righteousness of God, or shall presume as aforesaid to profess, That Unrighteousness in persons, or the acts of Uncleanness, Prophane Swearing, Drunkenness, and the like Filthiness and Brutishness, are not unholy and forbidden in the Word of God, or that these acts in any person, or the persons [so] committing them, are approved of by God, or that such acts, or such persons in those things are like unto God: Or whosoever shall presume as aforesaid to profess, That these acts of Denying and Blaspheming God, or the Holiness or Righteousness of God; or the acts of cursing God, or of Swearing prophanely or falsly by the Name of God, or the acts of Lying, Stealing, Cousening and Defrauding others; or the acts of Murther, Adultery, Incest, Fornication, Uncleanness, Sodomy, Drunkenness, filthy and lascivious Speaking, are not things in themselves shameful, wicked, sinful, impious, abominable and detestable in any person, or to be practised or done by any person or persons: Or shall as aforesaid profess, That the acts of Adultery, Drunkenness, Swearing and the like open wickedness, are in their own nature as Holy and Righteous as the Duties of Prayer, Preaching or giving of Thanks to God: Or whosoever shall avowedly as aforesaid profess, That whatsoever is acted by them (whether Whoredom, Adultery, Drunkenness or the like open Wickedness) may be committed without sin; or that such acts are acted by the true God, or by the Majesty of God, or the Eternity that is in them; That Heaven and all happiness consists in the acting of those things which are Sin and Wickedness; or that such men or women are most perfect, or like to God or Eternity, which do commit the greatest Sins with least remorse or sense; or that there is no such thing really and truly as Unrighteousness, Unholiness or Sin, but as a man or woman judgeth thereof; or that there is neither Heaven nor Hell, neither Salvation nor Damnation, or that these are one and the same thing, and that there is not any distinction or difference truly between them: All and every person or persons so avowedly professing, maintaining or publishing as aforesaid, the aforesaid Atheistical, Blasphemous or Execrable Opinions, or any of them . . . shall be . . . committed to Prison or to the House of Correction, for the space of six moneths, without Bail or Mainprize, and until he or she shall have put in sufficient Sureties to be of good behavior for the space of one whole year.
For the second offence shall be Banished.; Felony to return with out License.
https://www.british-history.ac.uk/no-series/acts-ordinances-interregnum/pp409-412
(一部修正)
*****
散文。
教会に乱入して礼拝の邪魔をする、酒を飲んで暴れる、
裸で出歩く、堂々と不倫・姦淫をする・ひけらかす、
というような反社会行動をもたらす類の異端思想を
法で取り締まる試み。
個人が抱く思想は本来自由で取り締まることは
根本的に不可能だが、その思想ゆえに他の人や
社会に迷惑をかけるようなことがあれば、
やはりそれは取り締まらざるを得ない、ということ。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者・タイトル・
URL・閲覧日など必要な事項を必ず記し、
剽窃行為のないようにしてください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
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Barlow, The Idle Animaduersions of Marke Ridley
ウィリアム・バーロウ
『物理学博士マーク・リドリーの論文
「磁力の磁力」の愚説』(1618)より
まったく問題外で常識では考えられないほど
あつかましいこの男は、ぬけぬけとこう主張する。
月のうちに、また月を越えたところに磁気が
はたらいている、と。それから、地球も磁気によって
回っている、と。このように彼は愚かにも
聖書を捻じ曲げて、磁気学なる頭のおかしい
妄想を説く。
彼は聖書中の次の二箇所に気づいていないのか?
ひとつはヨシュアの10.12、もうひとつは
イザヤ38.8である。前者には太陽と月が
一日のあいだ動かなかったとある。後者には
アハズの日時計の陰が10度分逆に進んだ、
つまり空の太陽が10度分沈んだところから
さかのぼった、とある。
知的なふりをしてわたしに反論する彼だが、
理に適う議論に従わなければならない。
聖書を信じるのであれば認めたくなくても
認めなくてはならない。そこにはっきりと、
大地は動かない、動いているのは太陽と月と
星たちである、と書かれているのだから。
詩篇の19.6、104.5、ヨシュア10.12-14、
イザヤ38.8など、どこを見てもいいだろう。
自然と呼ばれるものは神の定めたことに他ならない。
すべてのものは神の定めたる自然に従い、
そしてそれに反するものは存在しない。
こうして神は(先に述べたように)太陽と月と星を
動くものとして、逆に地球を動かないものとして
定めたのだから、これが当たり前のこと、
自然の理に適うことである。神の定めに
従わないような自然は存在しえない。それに
従ってこそはじめて自然と言えるのである。
*****
William Barlow
A Breife Discouery of the Idle Animaduersions of
Marke Ridley Doctor in Phisicke vpon a Treatise
Entituled, Magneticall Aduertisements
Out of all question, somewhat it is more then
ordinarie, that maketh him of so hauty a spirit, so
to braue the world with such prodigious assertions
of his Magneticals, in, and aboue the Moone; the
earths Magneticall circular Motions, and his paltry
abusing of the holy scriptures to support his lunaticke
fictions vnder the name of Magneticall Philosophie.
There are yet two texts of Scripture, which it is
a wonder how they escaped him; the one is in
Iosuah 10. ver. 12. and the other is in Esay 38.
ver. 8. In the one: That the Sunne and the Moone
stood still the space of a whole day: The other,
that the shadow in Achas diall went backe 10 degrees,
and the Sunne in the skie returned 10 degrees
by the which he was descended.
. . . [M]y tetricall Animaduersor
must be ruled by reason, and affoord all those his
patience that do beleeue the holy Scriptures, which
flatly doe denie the Earths motion, and affirme the
motion of the Sunne, Moone & Stars, in the whole
current thereof, as Psal. 19. 6. 104. 5. Iosua 10. 12.
13. 14. Esay 38. 8. &c.
And that which we call Nature, it being nothing
else but Gods ordinance; there can bee nothing
contrary, but all things agreeable vnto nature, which
God hath ordained. But God hath ordained the
motion of the Sunne, Moone, and Stars (as aforesayd)
and the vnmooueablenesse of the earth; therfore
this is more easie, and more agreeable vnto nature;
which is preserued onely by obeying Gods
ordinance, and heerein onely that consisteth, and
hath her being.
https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A04321.0001.001
*****
散文。天動説。聖書に基づく地動説の否定。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。
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かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
『物理学博士マーク・リドリーの論文
「磁力の磁力」の愚説』(1618)より
まったく問題外で常識では考えられないほど
あつかましいこの男は、ぬけぬけとこう主張する。
月のうちに、また月を越えたところに磁気が
はたらいている、と。それから、地球も磁気によって
回っている、と。このように彼は愚かにも
聖書を捻じ曲げて、磁気学なる頭のおかしい
妄想を説く。
彼は聖書中の次の二箇所に気づいていないのか?
ひとつはヨシュアの10.12、もうひとつは
イザヤ38.8である。前者には太陽と月が
一日のあいだ動かなかったとある。後者には
アハズの日時計の陰が10度分逆に進んだ、
つまり空の太陽が10度分沈んだところから
さかのぼった、とある。
知的なふりをしてわたしに反論する彼だが、
理に適う議論に従わなければならない。
聖書を信じるのであれば認めたくなくても
認めなくてはならない。そこにはっきりと、
大地は動かない、動いているのは太陽と月と
星たちである、と書かれているのだから。
詩篇の19.6、104.5、ヨシュア10.12-14、
イザヤ38.8など、どこを見てもいいだろう。
自然と呼ばれるものは神の定めたことに他ならない。
すべてのものは神の定めたる自然に従い、
そしてそれに反するものは存在しない。
こうして神は(先に述べたように)太陽と月と星を
動くものとして、逆に地球を動かないものとして
定めたのだから、これが当たり前のこと、
自然の理に適うことである。神の定めに
従わないような自然は存在しえない。それに
従ってこそはじめて自然と言えるのである。
*****
William Barlow
A Breife Discouery of the Idle Animaduersions of
Marke Ridley Doctor in Phisicke vpon a Treatise
Entituled, Magneticall Aduertisements
Out of all question, somewhat it is more then
ordinarie, that maketh him of so hauty a spirit, so
to braue the world with such prodigious assertions
of his Magneticals, in, and aboue the Moone; the
earths Magneticall circular Motions, and his paltry
abusing of the holy scriptures to support his lunaticke
fictions vnder the name of Magneticall Philosophie.
There are yet two texts of Scripture, which it is
a wonder how they escaped him; the one is in
Iosuah 10. ver. 12. and the other is in Esay 38.
ver. 8. In the one: That the Sunne and the Moone
stood still the space of a whole day: The other,
that the shadow in Achas diall went backe 10 degrees,
and the Sunne in the skie returned 10 degrees
by the which he was descended.
. . . [M]y tetricall Animaduersor
must be ruled by reason, and affoord all those his
patience that do beleeue the holy Scriptures, which
flatly doe denie the Earths motion, and affirme the
motion of the Sunne, Moone & Stars, in the whole
current thereof, as Psal. 19. 6. 104. 5. Iosua 10. 12.
13. 14. Esay 38. 8. &c.
And that which we call Nature, it being nothing
else but Gods ordinance; there can bee nothing
contrary, but all things agreeable vnto nature, which
God hath ordained. But God hath ordained the
motion of the Sunne, Moone, and Stars (as aforesayd)
and the vnmooueablenesse of the earth; therfore
this is more easie, and more agreeable vnto nature;
which is preserued onely by obeying Gods
ordinance, and heerein onely that consisteth, and
hath her being.
https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A04321.0001.001
*****
散文。天動説。聖書に基づく地動説の否定。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
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Luther on Copernicus
マルティン・ルター
コペルニクスについて
新しい天文学者については聞いている。地球が動くこと、
回っていることを証明したいらしい。天や太陽や月や
その他の星ではなく。馬車や船に乗って移動しながら、
自分は動いていない気がするのと同じように、大地や木も
実は動いている、進んでいる……愚かな妄想・空想に耽ると
こういう話になる、といういい例だ。この馬鹿は天文学を
根幹からひっくり返したいのだろうが、聖書をよく読んで
自分の間違いを思い知ればいい。ヨシュアが「止まれ」と
命じているのは地球ではなく太陽なのだから。
*****
Martin Luther on Copernicus
"I am now advertised that a new Astrologer is risen, who presumeth to prove that the earth moveth and goeth about, not the Firmament, the Sun, Moon nor the stars, like as when one sitteth in a Coach, or in a Ship, and is moved thinketh he sitteth still and resteth, but the earth and the trees, go, run, and move themselves. Therefore thus it goeth when we wean ourselves to our own foolish fancies and conceits. This foole will turn the whole Art of Astronomie upside down, but the Scripture sheweth and teacheth him another lesson.
https://books.google.co.jp/books?id=oA4LAAAAYAAJ
*****
散文。天動説。1650年代に英訳された食卓談義より。
(Colloquia Mensalia)
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。
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かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
コペルニクスについて
新しい天文学者については聞いている。地球が動くこと、
回っていることを証明したいらしい。天や太陽や月や
その他の星ではなく。馬車や船に乗って移動しながら、
自分は動いていない気がするのと同じように、大地や木も
実は動いている、進んでいる……愚かな妄想・空想に耽ると
こういう話になる、といういい例だ。この馬鹿は天文学を
根幹からひっくり返したいのだろうが、聖書をよく読んで
自分の間違いを思い知ればいい。ヨシュアが「止まれ」と
命じているのは地球ではなく太陽なのだから。
*****
Martin Luther on Copernicus
"I am now advertised that a new Astrologer is risen, who presumeth to prove that the earth moveth and goeth about, not the Firmament, the Sun, Moon nor the stars, like as when one sitteth in a Coach, or in a Ship, and is moved thinketh he sitteth still and resteth, but the earth and the trees, go, run, and move themselves. Therefore thus it goeth when we wean ourselves to our own foolish fancies and conceits. This foole will turn the whole Art of Astronomie upside down, but the Scripture sheweth and teacheth him another lesson.
https://books.google.co.jp/books?id=oA4LAAAAYAAJ
*****
散文。天動説。1650年代に英訳された食卓談義より。
(Colloquia Mensalia)
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
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してください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
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Wilkins, A New World and Another Planet
ジョン・ウィルキンズ
『新世界・新惑星について』(1640)
主張4
多くの知識人が愚かな思い込みに陥ってしまったのは、
聖書の言葉を学問の基盤にしようとしたからである。
古代ユダヤ人は、信仰や服従に関することのみならず、
学問・科学において追求されるべきこの世の神秘も
モーセの掟のなかに書き込まれていると考えていた。
幾何学の証明・数の法則、その他どのような分野における
難問もすべてモーセ五書を見ればわかる、というように。
彼ら曰く、ソロモンの知恵・思慮はすべてにモーセから
学んだものであった。レバノン杉、壁に生えるヒソップ、
その他すべての植物の性質について、ソロモンは
モーセから学んだのであった。モーセの掟を見れば、
奇跡の起こしかた、山の動かしかた、死者の生き返らせかたが
わかるのであった。このようにおかしな誤解に古代ユダヤの
知識人はとらわれていた。自分で自分を呪うことになって
しまっていた。
だが、今の研究者たちも同じような愚かな迷信に
とらわれている。何か新しいことを発見する度に
彼らは、何だかよくわからない聖書の言葉にその
根拠を求めたがる。細々(こまごま)したこの世の
詳細すべてを聖霊が管轄している、とでも言わんばかり
である。古代ユダヤ人が勝手にそう思い込んでいたように。
古代ユダヤの知識人の妄想がどんな愚考をもたらしてきたか、
その例は山のようにある。ほんの一部だが、見ておこう。
聖書を見て彼らは、巨人オグの脛の骨は3リーグ[1リーグは
1時間に歩ける距離]以上だと信じ、また(やや現実的に)
モーセの背は14キュビト[1キュビトは肘から中指の
先までの長さ]で、彼の槍は10エル[1エルは45インチ]で、
そしてそんなモーセでも巨人オグの踝(くるぶし)までしか
届かなかった、と考えた。……
この類の愚かでありえない話は他にもたくさんあって、
理性ある人間がどうしてそのようなことを考えられたのか、
まったく理解に苦しむばかりである。もちろん、問題は
思考の根幹が間違っていること、まさにすべての真理が
聖書に書かれていると信じていたことにある。聖書の
言葉にあること、あるいは聖書が神秘的・象徴的に
語ることはみな正しい、という思い込みから、おかしな
誤りが生まれるのである。
古代ユダヤ人と同じことが他の人にも言える。
迷信的に聖書の言葉を信じることにより、多くの
人が妙な誤解に陥ってきた。例えば、聖バシレイオスは
太陽の次に大きい星は月だと信じていた。モーセが
太陽と月だけを「大きな光」と呼んでいるからだ。……
*****
John Wilkins
A Discourse Concerning a New World & Another Planet
Proposition IV:
That divers learned men have fallen into great absurdities, whilest they have looked for the grounds of Philosophy from the words of Scripture.
IT ha's bin an antient and common opinion amongst the Iewes, that the Law of Moses did containe in it, not only those things which concerne our Religion and Obedience, but every secret also that may possibly be known in any Art or Science;* so that there is not a demonstration in Geometrie, or rule in Arithmeticke; not a mysterie in any trade, but it may be found out in the Pentateuch. Hence it was (say they) that Solomon had all his wisedome and policie: Hence it was that hee did fetch his knowledge concerning the nature of Vegetables, from the Cedar of Lebanon, to the Hysop that growes upon the wall. Nay from hence, they thought a man might learne the art of Miracles, to remoove a Mountaine, or recover the dead. So strangely have the learneder sort of that Nation been befooled, since their owne curse hath lighted upon them.
Not much unlike this foolish superstition of theirs, is that custome of many Artists amongst us; who upon the invention of any new secret, will presently find out some obscure text or other to father it upon; as if the Holy Ghost must needs take notice of every particular, which their partiall fancies did over-vallue.
Nor are they altogether guiltlesse of this fault, who looke for any secrets of nature from the words of Scripture; or will examine all it's expressions by the exact rules of Philosophy.
Vnto what strange absurdities this false imagination of the learneder Iewes hath exposed them, may be manifest by a great multitude of Examples. I will mention only some few of them. Hence it is, that they proove the shin-bone of Og the Giant to bee above three leagues long;* Or (which is a more modest relation) that Moses being ourteen cubites in stature, having a Speare tenne Ells in length, and leaping up ten cubits, could touch this Giant but on the Ancle. . . .
Many other relations there are, which containe such horrible absurdities, that a man cannot well conceive how they should proceed from reasonable creatures. And all this arising from that wrong Principle of theirs; That Scripture did exactly containe in it all kind of Truths; and that every meaning was true, which by the Letter of it, or by Cabalisticall interpretations might be found out.
Now as it hath been with them, so likewise hath it happened in proportion unto others: who by a superstitious adhering unto the bare words of scripture, have exposed themselves unto many strange errours. Thus* S. Basil holds, That next to the Sun, the Moon is bigger than any of the Stars, because Moses do's call them onely two great Lights. . . .
https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A15364.0001.001
*****
Ross, The New Planet No Planet の対象となった著作。
聖書の科学的価値を否定。天動説を支持。
ウィルキンズは17世紀の神学・科学・言語学における
最重要人物のひとり。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
『新世界・新惑星について』(1640)
主張4
多くの知識人が愚かな思い込みに陥ってしまったのは、
聖書の言葉を学問の基盤にしようとしたからである。
古代ユダヤ人は、信仰や服従に関することのみならず、
学問・科学において追求されるべきこの世の神秘も
モーセの掟のなかに書き込まれていると考えていた。
幾何学の証明・数の法則、その他どのような分野における
難問もすべてモーセ五書を見ればわかる、というように。
彼ら曰く、ソロモンの知恵・思慮はすべてにモーセから
学んだものであった。レバノン杉、壁に生えるヒソップ、
その他すべての植物の性質について、ソロモンは
モーセから学んだのであった。モーセの掟を見れば、
奇跡の起こしかた、山の動かしかた、死者の生き返らせかたが
わかるのであった。このようにおかしな誤解に古代ユダヤの
知識人はとらわれていた。自分で自分を呪うことになって
しまっていた。
だが、今の研究者たちも同じような愚かな迷信に
とらわれている。何か新しいことを発見する度に
彼らは、何だかよくわからない聖書の言葉にその
根拠を求めたがる。細々(こまごま)したこの世の
詳細すべてを聖霊が管轄している、とでも言わんばかり
である。古代ユダヤ人が勝手にそう思い込んでいたように。
古代ユダヤの知識人の妄想がどんな愚考をもたらしてきたか、
その例は山のようにある。ほんの一部だが、見ておこう。
聖書を見て彼らは、巨人オグの脛の骨は3リーグ[1リーグは
1時間に歩ける距離]以上だと信じ、また(やや現実的に)
モーセの背は14キュビト[1キュビトは肘から中指の
先までの長さ]で、彼の槍は10エル[1エルは45インチ]で、
そしてそんなモーセでも巨人オグの踝(くるぶし)までしか
届かなかった、と考えた。……
この類の愚かでありえない話は他にもたくさんあって、
理性ある人間がどうしてそのようなことを考えられたのか、
まったく理解に苦しむばかりである。もちろん、問題は
思考の根幹が間違っていること、まさにすべての真理が
聖書に書かれていると信じていたことにある。聖書の
言葉にあること、あるいは聖書が神秘的・象徴的に
語ることはみな正しい、という思い込みから、おかしな
誤りが生まれるのである。
古代ユダヤ人と同じことが他の人にも言える。
迷信的に聖書の言葉を信じることにより、多くの
人が妙な誤解に陥ってきた。例えば、聖バシレイオスは
太陽の次に大きい星は月だと信じていた。モーセが
太陽と月だけを「大きな光」と呼んでいるからだ。……
*****
John Wilkins
A Discourse Concerning a New World & Another Planet
Proposition IV:
That divers learned men have fallen into great absurdities, whilest they have looked for the grounds of Philosophy from the words of Scripture.
IT ha's bin an antient and common opinion amongst the Iewes, that the Law of Moses did containe in it, not only those things which concerne our Religion and Obedience, but every secret also that may possibly be known in any Art or Science;* so that there is not a demonstration in Geometrie, or rule in Arithmeticke; not a mysterie in any trade, but it may be found out in the Pentateuch. Hence it was (say they) that Solomon had all his wisedome and policie: Hence it was that hee did fetch his knowledge concerning the nature of Vegetables, from the Cedar of Lebanon, to the Hysop that growes upon the wall. Nay from hence, they thought a man might learne the art of Miracles, to remoove a Mountaine, or recover the dead. So strangely have the learneder sort of that Nation been befooled, since their owne curse hath lighted upon them.
Not much unlike this foolish superstition of theirs, is that custome of many Artists amongst us; who upon the invention of any new secret, will presently find out some obscure text or other to father it upon; as if the Holy Ghost must needs take notice of every particular, which their partiall fancies did over-vallue.
Nor are they altogether guiltlesse of this fault, who looke for any secrets of nature from the words of Scripture; or will examine all it's expressions by the exact rules of Philosophy.
Vnto what strange absurdities this false imagination of the learneder Iewes hath exposed them, may be manifest by a great multitude of Examples. I will mention only some few of them. Hence it is, that they proove the shin-bone of Og the Giant to bee above three leagues long;* Or (which is a more modest relation) that Moses being ourteen cubites in stature, having a Speare tenne Ells in length, and leaping up ten cubits, could touch this Giant but on the Ancle. . . .
Many other relations there are, which containe such horrible absurdities, that a man cannot well conceive how they should proceed from reasonable creatures. And all this arising from that wrong Principle of theirs; That Scripture did exactly containe in it all kind of Truths; and that every meaning was true, which by the Letter of it, or by Cabalisticall interpretations might be found out.
Now as it hath been with them, so likewise hath it happened in proportion unto others: who by a superstitious adhering unto the bare words of scripture, have exposed themselves unto many strange errours. Thus* S. Basil holds, That next to the Sun, the Moon is bigger than any of the Stars, because Moses do's call them onely two great Lights. . . .
https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A15364.0001.001
*****
Ross, The New Planet No Planet の対象となった著作。
聖書の科学的価値を否定。天動説を支持。
ウィルキンズは17世紀の神学・科学・言語学における
最重要人物のひとり。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。
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From Ross, The New Planet No Planet
アレグザンダー・ロス
『新惑星?:地球は惑星にあらず』(1646)
第2章より
1. 聖書を信じなくてはならない。おかしな空想・妄想ではなく。
2. 聖書のなかに嘘や誤りはない。聖書は、この世のことを
わたしたちにわかるようには語らない。それが語るのは
ふつうにはありえないような神秘である。
3. 聖書がこの世のことを語るとき、わたしたちはそれを
文字どおり読まなくてはならない。
聖書と科学を切り離すことができたらいい、と
あなたは言うが、むしろわたしは言いたい、
科学の問題はすべて聖書に従って解決すればいい、
人はもっと慎み深くなって、科学の問題についても
聖書の言葉、聖書の言うことをそのまま信じて
いればいい、と。しかし、残念なことに論争の
収拾はつきそうにない。みな自分が正しいと思い込んでいて、
誰も聖書の正しさを認めようとしない。むしろ
好き勝手に聖書を解釈したがっている。理性的な
議論を認めようともしない。自分が主張したいこと以外は。
自分の感覚すら信じようとせず、根拠のない妄想の
奴隷になっている。もう絶望的ではないか?
聖書には、こうはっきり書かれている、大地は
動かない、と。わたしたちもふつうにそう感じているし、
すでに見てきた数々の議論からも、大地は動かない
と信じざるをえないだろう。だが、あなたは聖書も
自分の感覚も理に適った議論も認めない。むしろあなたの
ただの妄想が世界の法則であるかのように説く。判断力を棄て、
感覚を棄て、教会を棄て、そして訳のわからない
あなたの主張に従え、と? まったくありえない、
この世界の真理を知る際に、この世界の真理を
つかさどる聖霊に従わないとは。
(研究・実験という名の)自分の勝手な思い込みを信じ、
そして神の言葉に従わないとは。
*****
Alexander Ross
The New Planet No Planet: Or, The Earth No Wandring Star
Ch. 2
1. Wee must beleeve the Scripture, not our own phansies.
2. The Scripture never patronizeth a lye or an error,
nor doth it apply it self to our capacity in naturall things,
though it doth in supernaturall mysteries.
3. Wee must stick to the literall sense, when the Scripture
speaks of naturall things.
It were happy for us (say you) if we could exempt Scripture
from Phisophicall controversies. And I say, It were happy for us,
if all Philosophicall controversies could be decided by Scripture;
or if men would be so modest, as to rest contented with
Scripture phrases, and expressions of such Philosophicall
points, as are mentioned there: But what hope is there
to end controversies, when many are so wedded to their
own phansies, that neither will they yeeld to Scripture,
except they may have leave to interpret them; nor to
reasons, except they may have leave to forme them;
nor will they trust their own senses, but will captivate
and enslave them also to their groundlesse imaginations?
The Scripture tells us in plaine tearmes, the Earth is
immoveable: our senses doe assure us, and many
reasons which I have heretofore alledged, induce us
to beleeve the truth of this assertion: and yet you
spurning at Scripture, sense, and reason, as if your
phansie were instar omnium, would have our judgements,
senses, Scripture, Church, and all regulated by your
absurd dictates; therefore it is an unreasonable thing
in you, to desire that the holy Ghost should not be
Judge of his owne assertions in naturall truths;
and that there should be more credit given to your conceits,
(which you call industry and experience) then to Gods own words.
https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A57666.0001.001
*****
散文。天動説。ここで扱われているのは詩篇19、伝道1、
ヨシュア12、イザヤ38。
著者のロスはある学校の校長先生。当時の保守的知識人。
ここにおける「あなた」とは地動説を説いていたジョン・ウィルキンズ
(John Wilkins)だが、彼は匿名で出版していたので、
ロスは自分の論敵が誰だかわかっていない。
ウィルキンズは後の王立協会設立にあたって中心的役割を
果たすことになる人物。クロムウェルの妹の再婚相手。
50年代にはオックスフォードとケンブリッジの
コレッジ長として活躍。聖職者として後にチェスターの
司教となる。
詳しくは以下を参照。
Grant McColley, "The Ross-Wilkins Controversy",
Annals of Science 3.2 (1938): 153-89.
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
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してください。
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かまいません。
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『新惑星?:地球は惑星にあらず』(1646)
第2章より
1. 聖書を信じなくてはならない。おかしな空想・妄想ではなく。
2. 聖書のなかに嘘や誤りはない。聖書は、この世のことを
わたしたちにわかるようには語らない。それが語るのは
ふつうにはありえないような神秘である。
3. 聖書がこの世のことを語るとき、わたしたちはそれを
文字どおり読まなくてはならない。
聖書と科学を切り離すことができたらいい、と
あなたは言うが、むしろわたしは言いたい、
科学の問題はすべて聖書に従って解決すればいい、
人はもっと慎み深くなって、科学の問題についても
聖書の言葉、聖書の言うことをそのまま信じて
いればいい、と。しかし、残念なことに論争の
収拾はつきそうにない。みな自分が正しいと思い込んでいて、
誰も聖書の正しさを認めようとしない。むしろ
好き勝手に聖書を解釈したがっている。理性的な
議論を認めようともしない。自分が主張したいこと以外は。
自分の感覚すら信じようとせず、根拠のない妄想の
奴隷になっている。もう絶望的ではないか?
聖書には、こうはっきり書かれている、大地は
動かない、と。わたしたちもふつうにそう感じているし、
すでに見てきた数々の議論からも、大地は動かない
と信じざるをえないだろう。だが、あなたは聖書も
自分の感覚も理に適った議論も認めない。むしろあなたの
ただの妄想が世界の法則であるかのように説く。判断力を棄て、
感覚を棄て、教会を棄て、そして訳のわからない
あなたの主張に従え、と? まったくありえない、
この世界の真理を知る際に、この世界の真理を
つかさどる聖霊に従わないとは。
(研究・実験という名の)自分の勝手な思い込みを信じ、
そして神の言葉に従わないとは。
*****
Alexander Ross
The New Planet No Planet: Or, The Earth No Wandring Star
Ch. 2
1. Wee must beleeve the Scripture, not our own phansies.
2. The Scripture never patronizeth a lye or an error,
nor doth it apply it self to our capacity in naturall things,
though it doth in supernaturall mysteries.
3. Wee must stick to the literall sense, when the Scripture
speaks of naturall things.
It were happy for us (say you) if we could exempt Scripture
from Phisophicall controversies. And I say, It were happy for us,
if all Philosophicall controversies could be decided by Scripture;
or if men would be so modest, as to rest contented with
Scripture phrases, and expressions of such Philosophicall
points, as are mentioned there: But what hope is there
to end controversies, when many are so wedded to their
own phansies, that neither will they yeeld to Scripture,
except they may have leave to interpret them; nor to
reasons, except they may have leave to forme them;
nor will they trust their own senses, but will captivate
and enslave them also to their groundlesse imaginations?
The Scripture tells us in plaine tearmes, the Earth is
immoveable: our senses doe assure us, and many
reasons which I have heretofore alledged, induce us
to beleeve the truth of this assertion: and yet you
spurning at Scripture, sense, and reason, as if your
phansie were instar omnium, would have our judgements,
senses, Scripture, Church, and all regulated by your
absurd dictates; therefore it is an unreasonable thing
in you, to desire that the holy Ghost should not be
Judge of his owne assertions in naturall truths;
and that there should be more credit given to your conceits,
(which you call industry and experience) then to Gods own words.
https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A57666.0001.001
*****
散文。天動説。ここで扱われているのは詩篇19、伝道1、
ヨシュア12、イザヤ38。
著者のロスはある学校の校長先生。当時の保守的知識人。
ここにおける「あなた」とは地動説を説いていたジョン・ウィルキンズ
(John Wilkins)だが、彼は匿名で出版していたので、
ロスは自分の論敵が誰だかわかっていない。
ウィルキンズは後の王立協会設立にあたって中心的役割を
果たすことになる人物。クロムウェルの妹の再婚相手。
50年代にはオックスフォードとケンブリッジの
コレッジ長として活躍。聖職者として後にチェスターの
司教となる。
詳しくは以下を参照。
Grant McColley, "The Ross-Wilkins Controversy",
Annals of Science 3.2 (1938): 153-89.
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From Stubbes, Anatomy of Abuses
フィリップ・スタッブズ
『悪事の分析』より
酒の虫みたいな連中がうじゃうじゃ集まってきてて、そりゃもうひどいんです……一日中、いや、夜もずっと、たぶん金さえあれば一週間丸々ずっと、馬鹿みたいにごぶごぶぐぶぐぶ飲んでて……もう見てて呆れるしかありません。しゃべれない立てない歩けない、で……うぇ、って吐いてる奴がいて、げろげろ、って吐いてる奴がいて、おろろろろー、って全部吐いてる奴がいて、ついでに机の下におしっこしてる奴までいて、ほんとこれでもかってくらいやりたい放題でひどいんです。
*****
Philip Stubbes
From The Anatomie of Abuses
I say, ye it is a horrible vice & too too much vsed in Ail. Euery cūtrey, citie, towne, vil∣laged & other, hath abundāce of alehouses, tauerns & Innes, which are so fraughted with mault-wormes night & day, that you would wunder to se them. You shall haue them there sitting at ye wine, and goodale all the day long, yea all the night too, peraduenture a whole wéek togither, so long as any money is left, swilling, gulling & carowsing from one to an other, til neuer a one can speak a redy woord. Then when wt the spirit of the buttery they are thus possessed, a world it is to consider their gestures & demeanors, how they stut and stāmer, stagger & réele too & fro, like madmen, some vomiting spewing & disgorging their filthie stomacks, other some (Honor sit auribus) pissing vnder the boord as they sit, & which is most horrible, some fall to swering, cursing & bāning, interlacing their spéeches we curious tearms of blasphemie to ye great dishonour of God and offence of the godly eares present.
https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A13086.0001.001
*****
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『悪事の分析』より
酒の虫みたいな連中がうじゃうじゃ集まってきてて、そりゃもうひどいんです……一日中、いや、夜もずっと、たぶん金さえあれば一週間丸々ずっと、馬鹿みたいにごぶごぶぐぶぐぶ飲んでて……もう見てて呆れるしかありません。しゃべれない立てない歩けない、で……うぇ、って吐いてる奴がいて、げろげろ、って吐いてる奴がいて、おろろろろー、って全部吐いてる奴がいて、ついでに机の下におしっこしてる奴までいて、ほんとこれでもかってくらいやりたい放題でひどいんです。
*****
Philip Stubbes
From The Anatomie of Abuses
I say, ye it is a horrible vice & too too much vsed in Ail. Euery cūtrey, citie, towne, vil∣laged & other, hath abundāce of alehouses, tauerns & Innes, which are so fraughted with mault-wormes night & day, that you would wunder to se them. You shall haue them there sitting at ye wine, and goodale all the day long, yea all the night too, peraduenture a whole wéek togither, so long as any money is left, swilling, gulling & carowsing from one to an other, til neuer a one can speak a redy woord. Then when wt the spirit of the buttery they are thus possessed, a world it is to consider their gestures & demeanors, how they stut and stāmer, stagger & réele too & fro, like madmen, some vomiting spewing & disgorging their filthie stomacks, other some (Honor sit auribus) pissing vnder the boord as they sit, & which is most horrible, some fall to swering, cursing & bāning, interlacing their spéeches we curious tearms of blasphemie to ye great dishonour of God and offence of the godly eares present.
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Westminster Confession of Faith (1647)
ウェストミンスター神学者会議による信仰告白案
第3章 永遠なる神の定め
永遠なる神は清らかで賢いご意志に自由に従い、この世に起こることを絶対に変わらぬものとして定めた。しかし、神は罪をつくってはおらず、また神につくられたものの意志が損なわれることはなかった。つくられたものの世界に存在する偶然性は失われることなく、むしろこれは神の定めによって確立された。
2
あらゆる条件下で起こりうるすべてのことを神は知っているが、しかし彼は未来のこととして予見したからそれぞれを定めたわけではない。また、各条件に従って起こるであろうこととして定めたわけではない。
3
神の定めにより、神の栄光の証として、人や天使の一部は永遠の生に、また残りの者は永遠の死に、予定されている。
4
人や天使たちに対する予定は、個別かつ不変のものである。永遠に生きる者・永遠に死ぬ者の数は確定されていて、それぞれ増減することはありえない。
5
永遠の生に予定された者とは、この世界の基盤が用意される以前に神が永遠かつ不変の目的に従って、またはかり知れぬお考えと善良なるご意志に従って、救い主キリストのうちに永遠の栄光を与えられるべく選んだ者のことである。この予定の背後にあるのは神が無償で与える恩寵と愛であり、その人が信仰をもつ、善いおこないをする、これらを堅持する、などということの予見ではない。信仰や善行や堅忍は、神が人を永遠の生に予定する条件や理由ではない。称えられるべきはひとえに神の輝かしき恩寵である。
6
一定の人を栄えある天国行きに選び、予定したのと同時に神は、永遠かつ自由なご意志により、これらの人が天国に向かう道筋まであらかじめ定めた。つまり、天国行きに選ばれた者は、アダムのうちに堕落しつつもキリストの霊によって罪から取り戻され、然るべき時に導かれてキリストへの信仰に真に召され、罪を赦され、神の子とみなされ、聖なる者となり、そしてキリストの力に護られつつ信仰を保ち、やがて最終的に救われることとなる。神に選ばれていない者は誰もキリストによって罪から取り戻されず、真に召されるもことなく、罪も赦されず、神の子と認められず、聖なる者となれず、そして救われることがない。
7
神は、はかり知れぬお考えとご意志に従い、自分がつくったものすべての上に立つ者としての最高の力と栄光を示すべく、人に慈悲を与えることもあれば、与えることを控えることもある。ゆえに彼は、選ばなかった残りの人については顧みないことにした。つまり、栄えあるみずからの正義が称えられるように、その罪ゆえに彼らを不名誉と怒りの対象と定めた。
8
このいと高き、不可思議なる神の予定の教えの扱いには特別な注意と思慮が必要である。聖書のうちに明かされる神の意向を人が正しく理解し、それに従うのであれば、真に召されているという確かな意識から、自分が永遠に救われることを確信できるであろう。このようなかたちで、救済の知らせを心から信じる者は、以上の予定の教えゆえに神を褒め称え、敬い、拝めることとなるであろう。また同時に神の前にへりくだり、神の言葉に耳を傾け、そしておおいなる安らぎを得ることであろう。
第5章 神の定めについて
すべてのもののつくり主である神は、彼につくられたものすべてを、それら自体やそれらがなすことすべてを、極めて大きなものから極めて小さなものまで、彼の清く正しい定めによって支え、導き、指揮し、治めている。その源にあるのは神の完璧なる予知、および自由で不変なるご意志であり、この正しき定めにゆえにわたしたちは彼の知恵、力、正義、善良さ、そして慈悲を褒め称えなくてはならない。
2
予知され、かつこの世のはじまりの段階で神に定められたすべてのことがらは、必ず、誤ることなく、起こる。しかし同時に神は、これらがつくられたものそれぞれの本質に従って、必然的に、自由に、起こらない可能性もありつつ起こるように、定めた。
3
神の定めのなか神によってつくられたものの行動・言動が利用されているが、神はこれらに頼らず、これらを超えて、またはこれらに反して、すべてを定めることができる。
4
神のもつ全能の力、はかり知れぬ知恵、無限の善良さは、彼が定めたことのなかにあらわれている。人の堕落やその他天使や人が犯す罪までもが神の定めである。これらは罪であるが、賢く強い神が許容し、導き、治める範囲でなされることであり、さまざまなかたちで神の聖なる目的に適うようになっているのである。同時に、罪を犯す悪は、神ではなく神につくられた天使や人それぞれのものである。清く正しい神が罪をつくったわけではなく、また罪をよしと認めているわけでもない。そのようなことはありえない。
……………………
第9章
自由意志について
神は人の意志に対して然るべき自由を与えている。人の意志が善または悪をなすのは外部からの強制ではなく、生まれもった性格からくる必然でもない。
2
罪のない状態にあった人は自由であり、神の意に適う善をなす力と意志をもっていた。しかしこれは常に変わらぬものでなく、人は罪を犯すこともできた。
3
堕落によって罪に堕ちた人は、神の意に適い救済をもたらすような善をなす意志の力を完全に失っている。人として生まれたかぎり人はそのような善に背を向けており、いわば罪のなかに死んでおり、自分の力で自分を変えること、善や救済に自分を向けることができない。
4
罪深い人を善に向かわせる時、恩寵を受けた状態へと人を移行させる時、神は罪に隷属した生まれついての状態から人を解放し、ひとえに恩寵の力により、自由に善を望み、おこなう力を彼に与える。しかし、それでも人のうちには腐った部分が残っているので、彼は完全に善のみを望むことはできない。善と同時に悪をも望んでしまう。
5
人の意志が完全に、常に善のみを望むことができるようなるのは、天国に行くことができてからである。
(つづく)
*****
The Humble Advice of the Assembly of Divines,
Now Appointed by Authority of Parliament Sitting at
Westminster, Concerning a Confession of Faith (1647)
Chap. III
Of Gods eternall Decree
GOD from all eternity did by the most wise and holy Counsell of his own Will, freely, and unchangeably ordain whatsoever comes to pass[1]. Yet so, as thereby neither is God the Author of sin[2], nor is violence offered to the wil of the Creatures, nor is the Liberty or contingency of second Causes taken away, but rather established[3].
II. Although God knows whatsoever may, or can come to pass upon all supposed conditions[4], yet hath he not decreed any thing because he foresaw it as future, or as that which would come to pass upon such conditions[5].
III. By the decree of God for the manifestation of his glory, some men and Angels[6] are predestinated unto everlasting life, and others fore-ordained to everlasting death[7].
IV. These Angels and men thus predestinated and fore-ordained, are particularly and unchangeably designed, and their number is so certain and difinite, that it cannot be either increased or diminished[8].
V. Those of man kind that are predestinated unto Life, God, before the foundation of the world was laid, according to his eternall and immutable purpose, and the secret counsell and good pleasure of his Will, hath chosen in Christ unto everlasting glory[9], out of his meer free grace and love, without any fore sight of Faith, or Good works, or perseverence in either of them, or any other thing in the creature, as conditions, or causes moving him thereunto[10], and all to the praise of his glorious grace[11].
VI. As God hath appointed the Elect unto glory, so hath he, by the eternall and most free purpose of his Will, fore-ordained all the means thereunto[12]. Wherefore they who are elected being fallen in Adam, are redeemed by Chrift[13], are effectually called unto faith in Christ, by his Spirit working in due season, are justified, adopted, sanctified[14], and kept by his power through faith unto salvation[15]. Neither are any other redeemed by Chrift, effectually called, justified, adopted, sanctified and saved, but the Elect only[16].
VII. The rest of man-kinde God was pleased according to the unsearchable councell of his own Will, whereby he extendeth, or withholdeth mercy, as he pleaseth, for the glory of his Soveraign Power over his creatures, to pass by, and to ordaine them to dishonour and wrath for their sin, to the praise of his glorious justice[17].
VIII. The doctrine of this high Mystery of Predestination is to be handled with speciall prudence and care[18], that men attending the Will of God revealed in his Word, and yeelding obedience thereunto, may, from the certainty of their effectuall Vocation, be assured of their eternall Election[19]. So shall this Doctrine afford matter of praise, reverence, and admiration of God[20], and of humility, diligence, and abundant consolation to all that sincerely obey the Gospell[21].
Chap. V
Of Providence
GOD the great Creator of all things, doth uphold[1], direct, dispose, and govern all creatures, actions and things[2], from the greatest even to the least[3], by his most wise and holy Providence[4]; according to his infallible fore-knowledg[5], and the free, and immutable counsell of his own Will[6], to the praise of the glory of His Wisdom, Power Justice, Goodnesse, and Mercy[7].
II. Although in relation to the fore-knowledg and decree of God, the first Cause, all things come to pass immutably and infallibly[8]: yet by the same Providence he ordereth them to fall out, according to the nature of second causes, either necessarily, freely or contingently[9].
III. God in his ordinary Providence maketh use of means[10], yet is free to work without[11], above[12], and against them at his pleasure[13].
IV. The Almighty power, unsearchable wisdom, and infinite goodness of God so farre manifest themselves in his Providence, that it extendeth itselfe even to the first Fall, and all other sinnes of Angells and Men[14], but such as hath joyned with it, a most wise and powerfull bounding[15], and otherwise ordering, and governing of them, in a manifold dispensation to his own holy ends[16]: yet so, as the sinfulness thereof proceedeth only from the creature, and not from God, who being most holy and righteous, neither is, nor can be the Author or Approver of sin[17].
Chap. IX
Of Free-will
GOD hath indued the Will of man with that naturall liberty, that is neither forced, nor by any absolute necessity of nature determined to do good or evil[1].
II. Man, in his state of Innocency, had freedom and, power, to will, and to doe that which was good, and well pleasing to God[2]; but yet, mutably, so that hee might fall from it[3].
III. Man by his fall into a state of sin, hath wholly lost all ability of Will to any spirituall good accompanying salvation[4]: so as, a naturall man, being altogether averse from that good[5], and dead in sin[6], is not able, by his own strength, to convert himselfe, or to prepare himself thereunto[7].
IV. When God converts a sinner, and translates him into the state of grace he freeth him from his natural bondage under sin[8] and by his grace alone, inables him freely to will, and to do that which is spiritually good[9], yet so, as that by reason of his remaining corruption, he doth not, perfectly, nor onely, will which is good, but doth also will that which is evil[10].
V. The will of man is made perfectly, and immutably free to good alone, in the state of Glory only[11].
Mat. 17. 12.
Iam. 1. 14.
Deut. 30. 19
Eccles. 7. 29
Gen. 1. 25
Gen. 2. 17, 17
Gen. 3. 6
Rom. 5. 6
Rom. 8. 7
Iohn 15. 5
Rom 3. 10, 12
Eph. 2. 1, 5
Col. 2. 13.
Ioh. 6. 44, 65
Eph. 2. 2. 3, 4, 5
1 Cor. 8. 14.
Titus 3. 3. 4, 5
Col. 1. 13
Ioh. 8. 34, 36
Phil. 2. 13
Rom. 6. 18, 22
Gal. 5. 17
Rom. 7. 15, 18 19, 21, 23
Eph. 4. 13
Heb. 12. 23
1 Iohn 3. 2.
Iude v. 24.
https://en.wikisource.org/wiki/The_Humble_Advice_of_the_Assembly_of_Divines
(読み取りミスなど修正)
*****
学生の方など、自分の研究・発表のために
上記を参照する際には、このサイトの作者
(プロフィール欄のURL参照)・ページタイトル・
URL・閲覧日など必要な事項を必ず記し、
剽窃行為のないようにしてください。
ウェブ上での引用などでしたら、
リンクなどのみでかまいません。
第3章 永遠なる神の定め
永遠なる神は清らかで賢いご意志に自由に従い、この世に起こることを絶対に変わらぬものとして定めた。しかし、神は罪をつくってはおらず、また神につくられたものの意志が損なわれることはなかった。つくられたものの世界に存在する偶然性は失われることなく、むしろこれは神の定めによって確立された。
2
あらゆる条件下で起こりうるすべてのことを神は知っているが、しかし彼は未来のこととして予見したからそれぞれを定めたわけではない。また、各条件に従って起こるであろうこととして定めたわけではない。
3
神の定めにより、神の栄光の証として、人や天使の一部は永遠の生に、また残りの者は永遠の死に、予定されている。
4
人や天使たちに対する予定は、個別かつ不変のものである。永遠に生きる者・永遠に死ぬ者の数は確定されていて、それぞれ増減することはありえない。
5
永遠の生に予定された者とは、この世界の基盤が用意される以前に神が永遠かつ不変の目的に従って、またはかり知れぬお考えと善良なるご意志に従って、救い主キリストのうちに永遠の栄光を与えられるべく選んだ者のことである。この予定の背後にあるのは神が無償で与える恩寵と愛であり、その人が信仰をもつ、善いおこないをする、これらを堅持する、などということの予見ではない。信仰や善行や堅忍は、神が人を永遠の生に予定する条件や理由ではない。称えられるべきはひとえに神の輝かしき恩寵である。
6
一定の人を栄えある天国行きに選び、予定したのと同時に神は、永遠かつ自由なご意志により、これらの人が天国に向かう道筋まであらかじめ定めた。つまり、天国行きに選ばれた者は、アダムのうちに堕落しつつもキリストの霊によって罪から取り戻され、然るべき時に導かれてキリストへの信仰に真に召され、罪を赦され、神の子とみなされ、聖なる者となり、そしてキリストの力に護られつつ信仰を保ち、やがて最終的に救われることとなる。神に選ばれていない者は誰もキリストによって罪から取り戻されず、真に召されるもことなく、罪も赦されず、神の子と認められず、聖なる者となれず、そして救われることがない。
7
神は、はかり知れぬお考えとご意志に従い、自分がつくったものすべての上に立つ者としての最高の力と栄光を示すべく、人に慈悲を与えることもあれば、与えることを控えることもある。ゆえに彼は、選ばなかった残りの人については顧みないことにした。つまり、栄えあるみずからの正義が称えられるように、その罪ゆえに彼らを不名誉と怒りの対象と定めた。
8
このいと高き、不可思議なる神の予定の教えの扱いには特別な注意と思慮が必要である。聖書のうちに明かされる神の意向を人が正しく理解し、それに従うのであれば、真に召されているという確かな意識から、自分が永遠に救われることを確信できるであろう。このようなかたちで、救済の知らせを心から信じる者は、以上の予定の教えゆえに神を褒め称え、敬い、拝めることとなるであろう。また同時に神の前にへりくだり、神の言葉に耳を傾け、そしておおいなる安らぎを得ることであろう。
第5章 神の定めについて
すべてのもののつくり主である神は、彼につくられたものすべてを、それら自体やそれらがなすことすべてを、極めて大きなものから極めて小さなものまで、彼の清く正しい定めによって支え、導き、指揮し、治めている。その源にあるのは神の完璧なる予知、および自由で不変なるご意志であり、この正しき定めにゆえにわたしたちは彼の知恵、力、正義、善良さ、そして慈悲を褒め称えなくてはならない。
2
予知され、かつこの世のはじまりの段階で神に定められたすべてのことがらは、必ず、誤ることなく、起こる。しかし同時に神は、これらがつくられたものそれぞれの本質に従って、必然的に、自由に、起こらない可能性もありつつ起こるように、定めた。
3
神の定めのなか神によってつくられたものの行動・言動が利用されているが、神はこれらに頼らず、これらを超えて、またはこれらに反して、すべてを定めることができる。
4
神のもつ全能の力、はかり知れぬ知恵、無限の善良さは、彼が定めたことのなかにあらわれている。人の堕落やその他天使や人が犯す罪までもが神の定めである。これらは罪であるが、賢く強い神が許容し、導き、治める範囲でなされることであり、さまざまなかたちで神の聖なる目的に適うようになっているのである。同時に、罪を犯す悪は、神ではなく神につくられた天使や人それぞれのものである。清く正しい神が罪をつくったわけではなく、また罪をよしと認めているわけでもない。そのようなことはありえない。
……………………
第9章
自由意志について
神は人の意志に対して然るべき自由を与えている。人の意志が善または悪をなすのは外部からの強制ではなく、生まれもった性格からくる必然でもない。
2
罪のない状態にあった人は自由であり、神の意に適う善をなす力と意志をもっていた。しかしこれは常に変わらぬものでなく、人は罪を犯すこともできた。
3
堕落によって罪に堕ちた人は、神の意に適い救済をもたらすような善をなす意志の力を完全に失っている。人として生まれたかぎり人はそのような善に背を向けており、いわば罪のなかに死んでおり、自分の力で自分を変えること、善や救済に自分を向けることができない。
4
罪深い人を善に向かわせる時、恩寵を受けた状態へと人を移行させる時、神は罪に隷属した生まれついての状態から人を解放し、ひとえに恩寵の力により、自由に善を望み、おこなう力を彼に与える。しかし、それでも人のうちには腐った部分が残っているので、彼は完全に善のみを望むことはできない。善と同時に悪をも望んでしまう。
5
人の意志が完全に、常に善のみを望むことができるようなるのは、天国に行くことができてからである。
(つづく)
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The Humble Advice of the Assembly of Divines,
Now Appointed by Authority of Parliament Sitting at
Westminster, Concerning a Confession of Faith (1647)
Chap. III
Of Gods eternall Decree
GOD from all eternity did by the most wise and holy Counsell of his own Will, freely, and unchangeably ordain whatsoever comes to pass[1]. Yet so, as thereby neither is God the Author of sin[2], nor is violence offered to the wil of the Creatures, nor is the Liberty or contingency of second Causes taken away, but rather established[3].
II. Although God knows whatsoever may, or can come to pass upon all supposed conditions[4], yet hath he not decreed any thing because he foresaw it as future, or as that which would come to pass upon such conditions[5].
III. By the decree of God for the manifestation of his glory, some men and Angels[6] are predestinated unto everlasting life, and others fore-ordained to everlasting death[7].
IV. These Angels and men thus predestinated and fore-ordained, are particularly and unchangeably designed, and their number is so certain and difinite, that it cannot be either increased or diminished[8].
V. Those of man kind that are predestinated unto Life, God, before the foundation of the world was laid, according to his eternall and immutable purpose, and the secret counsell and good pleasure of his Will, hath chosen in Christ unto everlasting glory[9], out of his meer free grace and love, without any fore sight of Faith, or Good works, or perseverence in either of them, or any other thing in the creature, as conditions, or causes moving him thereunto[10], and all to the praise of his glorious grace[11].
VI. As God hath appointed the Elect unto glory, so hath he, by the eternall and most free purpose of his Will, fore-ordained all the means thereunto[12]. Wherefore they who are elected being fallen in Adam, are redeemed by Chrift[13], are effectually called unto faith in Christ, by his Spirit working in due season, are justified, adopted, sanctified[14], and kept by his power through faith unto salvation[15]. Neither are any other redeemed by Chrift, effectually called, justified, adopted, sanctified and saved, but the Elect only[16].
VII. The rest of man-kinde God was pleased according to the unsearchable councell of his own Will, whereby he extendeth, or withholdeth mercy, as he pleaseth, for the glory of his Soveraign Power over his creatures, to pass by, and to ordaine them to dishonour and wrath for their sin, to the praise of his glorious justice[17].
VIII. The doctrine of this high Mystery of Predestination is to be handled with speciall prudence and care[18], that men attending the Will of God revealed in his Word, and yeelding obedience thereunto, may, from the certainty of their effectuall Vocation, be assured of their eternall Election[19]. So shall this Doctrine afford matter of praise, reverence, and admiration of God[20], and of humility, diligence, and abundant consolation to all that sincerely obey the Gospell[21].
Chap. V
Of Providence
GOD the great Creator of all things, doth uphold[1], direct, dispose, and govern all creatures, actions and things[2], from the greatest even to the least[3], by his most wise and holy Providence[4]; according to his infallible fore-knowledg[5], and the free, and immutable counsell of his own Will[6], to the praise of the glory of His Wisdom, Power Justice, Goodnesse, and Mercy[7].
II. Although in relation to the fore-knowledg and decree of God, the first Cause, all things come to pass immutably and infallibly[8]: yet by the same Providence he ordereth them to fall out, according to the nature of second causes, either necessarily, freely or contingently[9].
III. God in his ordinary Providence maketh use of means[10], yet is free to work without[11], above[12], and against them at his pleasure[13].
IV. The Almighty power, unsearchable wisdom, and infinite goodness of God so farre manifest themselves in his Providence, that it extendeth itselfe even to the first Fall, and all other sinnes of Angells and Men[14], but such as hath joyned with it, a most wise and powerfull bounding[15], and otherwise ordering, and governing of them, in a manifold dispensation to his own holy ends[16]: yet so, as the sinfulness thereof proceedeth only from the creature, and not from God, who being most holy and righteous, neither is, nor can be the Author or Approver of sin[17].
Chap. IX
Of Free-will
GOD hath indued the Will of man with that naturall liberty, that is neither forced, nor by any absolute necessity of nature determined to do good or evil[1].
II. Man, in his state of Innocency, had freedom and, power, to will, and to doe that which was good, and well pleasing to God[2]; but yet, mutably, so that hee might fall from it[3].
III. Man by his fall into a state of sin, hath wholly lost all ability of Will to any spirituall good accompanying salvation[4]: so as, a naturall man, being altogether averse from that good[5], and dead in sin[6], is not able, by his own strength, to convert himselfe, or to prepare himself thereunto[7].
IV. When God converts a sinner, and translates him into the state of grace he freeth him from his natural bondage under sin[8] and by his grace alone, inables him freely to will, and to do that which is spiritually good[9], yet so, as that by reason of his remaining corruption, he doth not, perfectly, nor onely, will which is good, but doth also will that which is evil[10].
V. The will of man is made perfectly, and immutably free to good alone, in the state of Glory only[11].
Mat. 17. 12.
Iam. 1. 14.
Deut. 30. 19
Eccles. 7. 29
Gen. 1. 25
Gen. 2. 17, 17
Gen. 3. 6
Rom. 5. 6
Rom. 8. 7
Iohn 15. 5
Rom 3. 10, 12
Eph. 2. 1, 5
Col. 2. 13.
Ioh. 6. 44, 65
Eph. 2. 2. 3, 4, 5
1 Cor. 8. 14.
Titus 3. 3. 4, 5
Col. 1. 13
Ioh. 8. 34, 36
Phil. 2. 13
Rom. 6. 18, 22
Gal. 5. 17
Rom. 7. 15, 18 19, 21, 23
Eph. 4. 13
Heb. 12. 23
1 Iohn 3. 2.
Iude v. 24.
https://en.wikisource.org/wiki/The_Humble_Advice_of_the_Assembly_of_Divines
(読み取りミスなど修正)
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学生の方など、自分の研究・発表のために
上記を参照する際には、このサイトの作者
(プロフィール欄のURL参照)・ページタイトル・
URL・閲覧日など必要な事項を必ず記し、
剽窃行為のないようにしてください。
ウェブ上での引用などでしたら、
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Beza, A Briefe Declaration
テオドール・ドゥ・ベーズ
(シオドー・ベザ)
『図解: キリスト教の要点まとめ』
第2章
神さまのご判断は人には計り知れません。神さまの道は見えず、神さまのご意志について人は口を慎まなくてはなりません。そのような神さまの固く変わらぬご意志に従ってすべてのものは創られました。悪いもの、呪われるべきものも、です。(もちろん、これらは神さまみずからがよくお考えになって創られたというわけでなく、空の支配者、不従順の子たちに宿るあの悪霊がもたらせる範囲でもたらしたものであるわけですが。) 神さまはすべてのはじまり以前によくお考えになり、栄(は)えあることとしてすべてのものを限りある命とともにお創りになりました。特に人について神さまは、まったく正反対の二つの類の者たちを創られました。ひとつは、計り知れぬご意志と目的ゆえに神さまがお選びになり、慈悲深くもご自身の栄光を分け与えることにされた者たちです。わたしたちは神さまの言葉に従って、彼らを「尊い器」、「選ばれし者」、「約束の子」と呼びましょう。彼らは救済に予定されているのです。残りの者たちは、神さまのお考えによって呪われ、永遠の罰を受けることになっています。これは神さまの怒りと力の証明であり、彼らは滅ぶことによって神さまを称えることになります。このような者たちをわたしたちは「汚れと怒りの器」、「神に見棄てられた者」、「善から追放され悪に溺れる者」と呼びましょう。
以上の選び、そして永遠の命への予定とは、神さまのご意志によるものです。まさにこの選び、選ぶというご決定が、神さまの子たちの救済の源、いわばその第一段階です。誤解している人が少なからずいることですが、神さまは、人がご自身のことを信じ、また善いおこないをするであろうことを予見して、そしてそのような人を救済に予定するわけではありません。神さまはただご自身の善良なるご意志に従って選ぶ人を定め、そしてそのような人が結果として神を信じ、善いおこないをするようになるのです。……
同様に、神さまに見棄てられた者の破滅・地獄落ちについても、その責任はすべて彼らにあるわけですが、偉大なる神さまのご忍耐の大きさと、ご慈悲の器たる人々に与えられるお恵みの豊かさを比べることが特に必要であれば、聖書は、彼らが地獄に落とされる究極の理由、この高く深遠なる秘密へとわたしたちを導いてくれています。この秘密とはすなわち、彼らの破滅は正しき神さまのご意志であるということに他なりません。正しき神さまのご意志に対し、わたしたちは恭(うやうや)しく心から遜(へりくだ)り従わなくてはならないのです。正しいのは神さまだけであり、どのような人がどのようにしても神さまのご意志を理解することはまったくできないのですから。人の破滅・地獄落ちという定めやその目的と、この破滅自体は区別しなくてはなりません。神さまはご自身のお考えを人の目からお隠しです。と同時にわたしたちは人が地獄落ちに定められ、そしてそれゆえに破滅する理由を知っています。それは神さまのお言葉にあるとおり、心が腐っているから、神さまを信じないから、そして悪をおこなうからです。これらは定められた必然であると同時に、「汚れの器」においては各自の意志によってなされる意図的なことでもあるのです。
(A3v-A5r)
第3章
主なる神さまは、永遠なるお考えをこの世にあらわそうとされました。ご自身の栄誉とすべく、限りないお知恵に従ってある道筋を用意されました。誰をお選びに、あるいはお退けになるか、ということとは無関係にです。というのも、選ばれた者たちを救済に導いて限りないご慈悲を示すこと、および地獄落ちに定められた者たちを正しき裁きによって破滅させることの前提として、まずこの両者を不従順と罪のなかに閉じこめる必要があったからです。それでこそ神さまを信じる者すべて、つまり神さまに選ばれた者すべて--信仰とは選ばれた者に与えられる神さまからの贈りものですから--に対するご慈悲が明らかになるのです。また逆に、信じる心を与えられていない者、はかり知れない神さまのお考え・お力を知らない者を正当な理由で断罪できるようになるのです。このような経緯で、神さまのご意向とお知恵により、破滅に定められ地獄に落ちる者の罪はみな彼ら自身のもの、また逆に、選ばれた者の救済において褒め称えられるのは神さまのご慈悲のみ、ということになったのです。神さまは人を罪人としてお創りではありません。もしそうであれば、(畏れながら)罪を創ったのも神さまということになり、それを神さまがまた自分で罰する、というおかしな話になってしまいます。そうではなく、神さまは人を自分と同じ姿に創りました。罪のない、汚れのない、清らかな者として創りました。そのような人が何者かに強制されることなく、どうしても必要だから望んだというわけでもないのに--まだ罪の奴隷でなかった頃なので当然ですが--それでも自分から進んで、みずからの意志で、神さまに背いたのです。……
さらに、神さまのご意志に反することが起こりうる、などということはできません。これは神さまの全能を否定するまさに冒涜です。聖アウグスティヌスが『咎めと恩寵』第104章にはっきり記しているとおりです。だからわたしたちはこういわなくてはなりません--アダムの堕落とは彼自身の意志によって起こったことであり、そしてそれは神さまのご意志に適わないわけではなかった、と。人にははかり知れない、驚くほかない不思議なかたちで、罪という神さまのお許しにならないことが、神さまのご意志に反することなく起こったのです。このことにより、先ほどいいましたように、ご慈悲の器に定められた人々をお救いになる神さまの偉大さと恵み深さが明らかになります。同時に、辱めと破滅の器に定められた人々を滅ぼす神さまのお力や怒りの大きさも明らかになります。これらは神さまご自身の栄誉のためになされることです。神さまがお考えになっている最終的な目的は、選ばれた者の救済や呪われた者の破滅ではなく、選ばれた者を救うご慈悲、および呪われた者を破滅させる正しき裁きにより、ご自身の栄誉を称えることなのです。
(A7r-A8v)
第4章
以上のことをご自身のうちでお決めになられた時、神さまは何がどのように起こるかという順序を定めました。神さまにとってはすべてのものが同時に存在しますので、これらは実際には永遠のこと、時間の世界に属さないことですが、神さまは然るべき順序・段階を経て選ばれた者がご自身の王国にやってくるようにしたのです。神さまはお恵み深いと同時に正しいお方ですから、正義をなすこともお忘れではありません。ですから神さまは、何よりもまず、罪を犯した人を完全に元の状態に戻すことができるような仲裁者を定めることが必要、選ばれた者の救済は無償の慈悲と恵みによるものとしなくては、とお考えになりました。人とは弱く、神さまの怒りの大きさ重さに耐えられません。というか、そもそも神さまのお怒りに気づかないほど哀れで愚かな存在です。人は完全に罪の奴隷となっていて、神さまの掟を死のように忌み嫌っています。自由を取り戻すことなどまったく不可能で、ほんの少しでも神さまの法に従って生きることができません。ですから、選ばれた者の父であるこのうえなく恵み深い神さまは、無限のご慈悲で正しき裁きを和らげでくださりました。ご自身のたったひとりの子、ご自身とまったく同じ存在であり永遠にともに神であられる子に対し、聖霊の力によってまさに人間となるよう命じられました。つまり、神の性質と人の性質を救い主イエスのみにおいて結合させたのです。こうして悪しき人の腐った部分がひとりのうちで癒されることとなりました。イエスによって正義が達成される、つまりあのお方が神さまによって裁かれる、ということになりました。神の意をなす者、父なる神の怒りを鎮めおさめるに足る・値する者として、ご自身は正しく罪がないまま、わたしたち悪しき罪人のためにイエスは死ぬことになったのです。イエスがわたしたちの不従順を覆い隠し、罪すべてをみずからに引き受け、そしてわたしたちを浄化してくださるのです。こうしてイエスがご自身を犠牲としてさし出してくださったおかげで、神さまに選ばれた者はみな清らかでいられるようになりました。イエスが死に、埋葬されるとき、彼らのうちの罪も死に、埋葬されるのです。イエスが復活するとき、彼らも生き返り、新たな生を授かるのです。
(B1v-)
(つづく)
*****
Theodore Beza
A Briefe Declaration of the Chiefe Poyntes of
Christian Religion Set Forth in a Table (1575?)
*****
堕落前予定説(supralapsarianism)あるいは
創造前予定説(creabilitarianism)。
ベーズはカルヴァンの弟子・後継者。
だが、思想的にはカルヴァンと異なる点も少なくない。
重要なのは予定と自由意志の共存。神によって
破滅・地獄落ちに定められた人がみずからの意志と
責任において悪をなす、という矛盾。
予定説は自由意志を否定するものではない、
ということ。
逆に、天国行きの人が天国に行けるのはすべて
ひとえに神さまのお恵みによる。人は自分の
意志・力でよいことをすることができない。
(cf. アウグスティヌスなど以来の堕落人間観)
ベーズは神に選ばれた者のみのためにイエスは死んだ、
と考える。すべての人のために、でなく。
(カルヴァンは後者。)
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
(シオドー・ベザ)
『図解: キリスト教の要点まとめ』
第2章
神さまのご判断は人には計り知れません。神さまの道は見えず、神さまのご意志について人は口を慎まなくてはなりません。そのような神さまの固く変わらぬご意志に従ってすべてのものは創られました。悪いもの、呪われるべきものも、です。(もちろん、これらは神さまみずからがよくお考えになって創られたというわけでなく、空の支配者、不従順の子たちに宿るあの悪霊がもたらせる範囲でもたらしたものであるわけですが。) 神さまはすべてのはじまり以前によくお考えになり、栄(は)えあることとしてすべてのものを限りある命とともにお創りになりました。特に人について神さまは、まったく正反対の二つの類の者たちを創られました。ひとつは、計り知れぬご意志と目的ゆえに神さまがお選びになり、慈悲深くもご自身の栄光を分け与えることにされた者たちです。わたしたちは神さまの言葉に従って、彼らを「尊い器」、「選ばれし者」、「約束の子」と呼びましょう。彼らは救済に予定されているのです。残りの者たちは、神さまのお考えによって呪われ、永遠の罰を受けることになっています。これは神さまの怒りと力の証明であり、彼らは滅ぶことによって神さまを称えることになります。このような者たちをわたしたちは「汚れと怒りの器」、「神に見棄てられた者」、「善から追放され悪に溺れる者」と呼びましょう。
以上の選び、そして永遠の命への予定とは、神さまのご意志によるものです。まさにこの選び、選ぶというご決定が、神さまの子たちの救済の源、いわばその第一段階です。誤解している人が少なからずいることですが、神さまは、人がご自身のことを信じ、また善いおこないをするであろうことを予見して、そしてそのような人を救済に予定するわけではありません。神さまはただご自身の善良なるご意志に従って選ぶ人を定め、そしてそのような人が結果として神を信じ、善いおこないをするようになるのです。……
同様に、神さまに見棄てられた者の破滅・地獄落ちについても、その責任はすべて彼らにあるわけですが、偉大なる神さまのご忍耐の大きさと、ご慈悲の器たる人々に与えられるお恵みの豊かさを比べることが特に必要であれば、聖書は、彼らが地獄に落とされる究極の理由、この高く深遠なる秘密へとわたしたちを導いてくれています。この秘密とはすなわち、彼らの破滅は正しき神さまのご意志であるということに他なりません。正しき神さまのご意志に対し、わたしたちは恭(うやうや)しく心から遜(へりくだ)り従わなくてはならないのです。正しいのは神さまだけであり、どのような人がどのようにしても神さまのご意志を理解することはまったくできないのですから。人の破滅・地獄落ちという定めやその目的と、この破滅自体は区別しなくてはなりません。神さまはご自身のお考えを人の目からお隠しです。と同時にわたしたちは人が地獄落ちに定められ、そしてそれゆえに破滅する理由を知っています。それは神さまのお言葉にあるとおり、心が腐っているから、神さまを信じないから、そして悪をおこなうからです。これらは定められた必然であると同時に、「汚れの器」においては各自の意志によってなされる意図的なことでもあるのです。
(A3v-A5r)
第3章
主なる神さまは、永遠なるお考えをこの世にあらわそうとされました。ご自身の栄誉とすべく、限りないお知恵に従ってある道筋を用意されました。誰をお選びに、あるいはお退けになるか、ということとは無関係にです。というのも、選ばれた者たちを救済に導いて限りないご慈悲を示すこと、および地獄落ちに定められた者たちを正しき裁きによって破滅させることの前提として、まずこの両者を不従順と罪のなかに閉じこめる必要があったからです。それでこそ神さまを信じる者すべて、つまり神さまに選ばれた者すべて--信仰とは選ばれた者に与えられる神さまからの贈りものですから--に対するご慈悲が明らかになるのです。また逆に、信じる心を与えられていない者、はかり知れない神さまのお考え・お力を知らない者を正当な理由で断罪できるようになるのです。このような経緯で、神さまのご意向とお知恵により、破滅に定められ地獄に落ちる者の罪はみな彼ら自身のもの、また逆に、選ばれた者の救済において褒め称えられるのは神さまのご慈悲のみ、ということになったのです。神さまは人を罪人としてお創りではありません。もしそうであれば、(畏れながら)罪を創ったのも神さまということになり、それを神さまがまた自分で罰する、というおかしな話になってしまいます。そうではなく、神さまは人を自分と同じ姿に創りました。罪のない、汚れのない、清らかな者として創りました。そのような人が何者かに強制されることなく、どうしても必要だから望んだというわけでもないのに--まだ罪の奴隷でなかった頃なので当然ですが--それでも自分から進んで、みずからの意志で、神さまに背いたのです。……
さらに、神さまのご意志に反することが起こりうる、などということはできません。これは神さまの全能を否定するまさに冒涜です。聖アウグスティヌスが『咎めと恩寵』第104章にはっきり記しているとおりです。だからわたしたちはこういわなくてはなりません--アダムの堕落とは彼自身の意志によって起こったことであり、そしてそれは神さまのご意志に適わないわけではなかった、と。人にははかり知れない、驚くほかない不思議なかたちで、罪という神さまのお許しにならないことが、神さまのご意志に反することなく起こったのです。このことにより、先ほどいいましたように、ご慈悲の器に定められた人々をお救いになる神さまの偉大さと恵み深さが明らかになります。同時に、辱めと破滅の器に定められた人々を滅ぼす神さまのお力や怒りの大きさも明らかになります。これらは神さまご自身の栄誉のためになされることです。神さまがお考えになっている最終的な目的は、選ばれた者の救済や呪われた者の破滅ではなく、選ばれた者を救うご慈悲、および呪われた者を破滅させる正しき裁きにより、ご自身の栄誉を称えることなのです。
(A7r-A8v)
第4章
以上のことをご自身のうちでお決めになられた時、神さまは何がどのように起こるかという順序を定めました。神さまにとってはすべてのものが同時に存在しますので、これらは実際には永遠のこと、時間の世界に属さないことですが、神さまは然るべき順序・段階を経て選ばれた者がご自身の王国にやってくるようにしたのです。神さまはお恵み深いと同時に正しいお方ですから、正義をなすこともお忘れではありません。ですから神さまは、何よりもまず、罪を犯した人を完全に元の状態に戻すことができるような仲裁者を定めることが必要、選ばれた者の救済は無償の慈悲と恵みによるものとしなくては、とお考えになりました。人とは弱く、神さまの怒りの大きさ重さに耐えられません。というか、そもそも神さまのお怒りに気づかないほど哀れで愚かな存在です。人は完全に罪の奴隷となっていて、神さまの掟を死のように忌み嫌っています。自由を取り戻すことなどまったく不可能で、ほんの少しでも神さまの法に従って生きることができません。ですから、選ばれた者の父であるこのうえなく恵み深い神さまは、無限のご慈悲で正しき裁きを和らげでくださりました。ご自身のたったひとりの子、ご自身とまったく同じ存在であり永遠にともに神であられる子に対し、聖霊の力によってまさに人間となるよう命じられました。つまり、神の性質と人の性質を救い主イエスのみにおいて結合させたのです。こうして悪しき人の腐った部分がひとりのうちで癒されることとなりました。イエスによって正義が達成される、つまりあのお方が神さまによって裁かれる、ということになりました。神の意をなす者、父なる神の怒りを鎮めおさめるに足る・値する者として、ご自身は正しく罪がないまま、わたしたち悪しき罪人のためにイエスは死ぬことになったのです。イエスがわたしたちの不従順を覆い隠し、罪すべてをみずからに引き受け、そしてわたしたちを浄化してくださるのです。こうしてイエスがご自身を犠牲としてさし出してくださったおかげで、神さまに選ばれた者はみな清らかでいられるようになりました。イエスが死に、埋葬されるとき、彼らのうちの罪も死に、埋葬されるのです。イエスが復活するとき、彼らも生き返り、新たな生を授かるのです。
(B1v-)
(つづく)
*****
Theodore Beza
A Briefe Declaration of the Chiefe Poyntes of
Christian Religion Set Forth in a Table (1575?)
*****
堕落前予定説(supralapsarianism)あるいは
創造前予定説(creabilitarianism)。
ベーズはカルヴァンの弟子・後継者。
だが、思想的にはカルヴァンと異なる点も少なくない。
重要なのは予定と自由意志の共存。神によって
破滅・地獄落ちに定められた人がみずからの意志と
責任において悪をなす、という矛盾。
予定説は自由意志を否定するものではない、
ということ。
逆に、天国行きの人が天国に行けるのはすべて
ひとえに神さまのお恵みによる。人は自分の
意志・力でよいことをすることができない。
(cf. アウグスティヌスなど以来の堕落人間観)
ベーズは神に選ばれた者のみのためにイエスは死んだ、
と考える。すべての人のために、でなく。
(カルヴァンは後者。)
*****
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Hobbes, Leviathan, ch. 14
トマス・ホッブズ
『リヴァイアサン』 第14章
人が本来もっている権利、一般に自然権と呼ばれるものは、すべての人が思いどおりに自分の力を、あるがままの自分の存在・命の保護のために使う自由のことである。それがなんであれ、自分を保護するために最適と思う・考えることをする自由を人はもつ。
自然法とは、理性によって導かれる命令・一般法則、人は自分の命の破壊や命を維持する方法の喪失につながることをしてはならない、命の維持に最適と自分で考えることをしなくてはならない、という掟のことである。
(前章で述べたように)人はみながみなと戦争している状態にあり、そんななか理性によって自分の行動を決める。自分の命を敵から守ることにつながらないことは、人にとってなんの役にもたたない。このような状態においては、すべてのものがすべての人のものである。他人の命もそうである。このようにすべてのものが自然権によってすべての人のものということになると、(どれほど強い者・賢い者であっても)誰も身の安全を確信できないことになる。自然が生きることを許すすべての年月を誰も生きられない。それゆえ、理性の命令・掟として、すべての人は、望みうる最大の平和を実現するよう努力しなくてはならない。それが不可能な場合には、戦争の助けを借り、それがもたらす最大限の利益を求めなくてはならない。この掟の前半は、平和を求め、維持しなくてはならないという根源的な自然法から導かれる。後半は自然権をいいかえたものである。どんな手を使ってでも人は自分を守らなくてはならない。
*****
Thomas Hobbes
Leviathan, ch. 14
The Right Of Nature, which Writers commonly call Jus Naturale, is the Liberty each man hath, to use his own power, as he will himselfe, for the preservation of his own Nature; that is to say, of his own Life; and consequently, of doing any thing, which in his own Judgement, and Reason, hee shall conceive to be the aptest means thereunto.
. . . . . . . . .
A Law Of Nature, (Lex Naturalis,) is a Precept, or generall Rule, found out by Reason, by which a man is forbidden to do, that, which is destructive of his life, or taketh away the means of preserving the same; and to omit, that, by which he thinketh it may be best preserved. . . .
And because the condition of Man, (as hath been declared in the precedent Chapter) is a condition of Warre of every one against every one; in which case every one is governed by his own Reason; and there is nothing he can make use of, that may not be a help unto him, in preserving his life against his enemyes; It followeth, that in such a condition, every man has a Right to every thing; even to one anothers body. And therefore, as long as this naturall Right of every man to every [100] thing endureth, there can be no security to any man, (how strong or wise soever he be,) of living out the time, which Nature ordinarily alloweth men to live. And consequently it is a precept, or generall rule of Reason, That every man, ought to endeavour Peace, as farre as he has hope of obtaining it; and when he cannot obtain it, that he may seek, and use, all helps, and advantages of Warre. The first branch of which Rule, containeth the first, and Fundamentall Law of Nature; which is, to seek Peace, and follow it. The Second, the summe of the Right of Nature; which is, By all means we can, to defend our selves.
*****
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『リヴァイアサン』 第14章
人が本来もっている権利、一般に自然権と呼ばれるものは、すべての人が思いどおりに自分の力を、あるがままの自分の存在・命の保護のために使う自由のことである。それがなんであれ、自分を保護するために最適と思う・考えることをする自由を人はもつ。
自然法とは、理性によって導かれる命令・一般法則、人は自分の命の破壊や命を維持する方法の喪失につながることをしてはならない、命の維持に最適と自分で考えることをしなくてはならない、という掟のことである。
(前章で述べたように)人はみながみなと戦争している状態にあり、そんななか理性によって自分の行動を決める。自分の命を敵から守ることにつながらないことは、人にとってなんの役にもたたない。このような状態においては、すべてのものがすべての人のものである。他人の命もそうである。このようにすべてのものが自然権によってすべての人のものということになると、(どれほど強い者・賢い者であっても)誰も身の安全を確信できないことになる。自然が生きることを許すすべての年月を誰も生きられない。それゆえ、理性の命令・掟として、すべての人は、望みうる最大の平和を実現するよう努力しなくてはならない。それが不可能な場合には、戦争の助けを借り、それがもたらす最大限の利益を求めなくてはならない。この掟の前半は、平和を求め、維持しなくてはならないという根源的な自然法から導かれる。後半は自然権をいいかえたものである。どんな手を使ってでも人は自分を守らなくてはならない。
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Thomas Hobbes
Leviathan, ch. 14
The Right Of Nature, which Writers commonly call Jus Naturale, is the Liberty each man hath, to use his own power, as he will himselfe, for the preservation of his own Nature; that is to say, of his own Life; and consequently, of doing any thing, which in his own Judgement, and Reason, hee shall conceive to be the aptest means thereunto.
. . . . . . . . .
A Law Of Nature, (Lex Naturalis,) is a Precept, or generall Rule, found out by Reason, by which a man is forbidden to do, that, which is destructive of his life, or taketh away the means of preserving the same; and to omit, that, by which he thinketh it may be best preserved. . . .
And because the condition of Man, (as hath been declared in the precedent Chapter) is a condition of Warre of every one against every one; in which case every one is governed by his own Reason; and there is nothing he can make use of, that may not be a help unto him, in preserving his life against his enemyes; It followeth, that in such a condition, every man has a Right to every thing; even to one anothers body. And therefore, as long as this naturall Right of every man to every [100] thing endureth, there can be no security to any man, (how strong or wise soever he be,) of living out the time, which Nature ordinarily alloweth men to live. And consequently it is a precept, or generall rule of Reason, That every man, ought to endeavour Peace, as farre as he has hope of obtaining it; and when he cannot obtain it, that he may seek, and use, all helps, and advantages of Warre. The first branch of which Rule, containeth the first, and Fundamentall Law of Nature; which is, to seek Peace, and follow it. The Second, the summe of the Right of Nature; which is, By all means we can, to defend our selves.
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From [Burton], Divine Tragedie
[ヘンリー・バートン]
『最近上演された聖なる悲劇』
安息日を守らない者に対する神の審判例
以下に記された神の審判例は、主の日におこなっていい娯楽についての布告が出され、多くの牧師たちによって教会で広められるようになってから二年も経たないあいだにおきたことである。というのも、(火薬に火をつければあっという間に燃えあがるように、堰を破れば水が狂って流れ出すように、)不道徳な人々はこの布告を見て自由が認められたと思いこみ、狂喜乱舞してとまではいわないが、堂々と神に背くふるまいをしてきたからである。ゆえに至るところで神の怒りが下り、多くの者が破滅することになった。ここから教訓を読みとってもらえれば幸いである。
1634年
例21
ドーセットシャーのバウントンで主の日にボーリングをしていた者たちがいて、ひとりが投げたボールが他の者の耳にあたって反対の耳から血が噴き出して、その者は死んだ。殺した側の者は逃げた。
例3
ロンドン近くのエンフィールドの若い女が、娯楽推進の書によって認められたと聞いて、主の日に他の女性たちと踊りに行った。彼女はこういっていた--足で立ててるあいだは踊らなくっちゃ! こうして立ててるあいだ彼女は踊りつづけ、そして二、三日後に死んだ。
例24
昨年の春、ウスターシャーのウートンの近くの粉屋が主の日に祭の前夜祭に行き、夜中に帰ってきたら家と粉挽き小屋が燃えあがっていた。これは目撃者である牧師によって(他の牧師に対して)証言されたことである。
例(5)
1634年1月25日の主の日は氷点下の日で、14人の若い男たちがゲインズバラ近くのトレント川の氷の上でサッカーをしていた。そのするなかで大乱闘がおこり、急に氷が割れて全員溺れて死んだ。
*****
[Henry Burton]
A Divine Tragedie Lately Acted (1636)
STC 4140.7
*****
安息日の遊びを王が承認・奨励した『娯楽の書』
(The Book of Sports)に対する批判の書。
17世紀イギリス版やらせ・虚偽報道(fake news)。
1636年に匿名出版。42年に名前・肖像画入りで出版。
(参考)
37年 耳削ぎの刑(その他の出版物や説教などのため)
41年 庶民院の断食礼拝にて説教
(この説教は出版されたが「議会の指示により出版」の記載なし)
バートンはいわゆるピューリタン。聖書における戒律の
厳守を主張する。黙示録などから導かれる千年王国思想も信奉。
*****
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ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
『最近上演された聖なる悲劇』
安息日を守らない者に対する神の審判例
以下に記された神の審判例は、主の日におこなっていい娯楽についての布告が出され、多くの牧師たちによって教会で広められるようになってから二年も経たないあいだにおきたことである。というのも、(火薬に火をつければあっという間に燃えあがるように、堰を破れば水が狂って流れ出すように、)不道徳な人々はこの布告を見て自由が認められたと思いこみ、狂喜乱舞してとまではいわないが、堂々と神に背くふるまいをしてきたからである。ゆえに至るところで神の怒りが下り、多くの者が破滅することになった。ここから教訓を読みとってもらえれば幸いである。
1634年
例21
ドーセットシャーのバウントンで主の日にボーリングをしていた者たちがいて、ひとりが投げたボールが他の者の耳にあたって反対の耳から血が噴き出して、その者は死んだ。殺した側の者は逃げた。
例3
ロンドン近くのエンフィールドの若い女が、娯楽推進の書によって認められたと聞いて、主の日に他の女性たちと踊りに行った。彼女はこういっていた--足で立ててるあいだは踊らなくっちゃ! こうして立ててるあいだ彼女は踊りつづけ、そして二、三日後に死んだ。
例24
昨年の春、ウスターシャーのウートンの近くの粉屋が主の日に祭の前夜祭に行き、夜中に帰ってきたら家と粉挽き小屋が燃えあがっていた。これは目撃者である牧師によって(他の牧師に対して)証言されたことである。
例(5)
1634年1月25日の主の日は氷点下の日で、14人の若い男たちがゲインズバラ近くのトレント川の氷の上でサッカーをしていた。そのするなかで大乱闘がおこり、急に氷が割れて全員溺れて死んだ。
*****
[Henry Burton]
A Divine Tragedie Lately Acted (1636)
STC 4140.7
*****
安息日の遊びを王が承認・奨励した『娯楽の書』
(The Book of Sports)に対する批判の書。
17世紀イギリス版やらせ・虚偽報道(fake news)。
1636年に匿名出版。42年に名前・肖像画入りで出版。
(参考)
37年 耳削ぎの刑(その他の出版物や説教などのため)
41年 庶民院の断食礼拝にて説教
(この説教は出版されたが「議会の指示により出版」の記載なし)
バートンはいわゆるピューリタン。聖書における戒律の
厳守を主張する。黙示録などから導かれる千年王国思想も信奉。
*****
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From Montagu, A New Gagg for an Old Goose
リチャード・モンタギュー
『ガーガーうるさいガチョウじじいを黙らせる本』
わたしたちを黙らせようとするあのじじいがつくった
プロテスタントの誤った考え一覧。つまりただの嘘。
……………
XVI.
アダムの堕落によってわたしたちは自由意志を失った。わたしたちは善も悪も選ぶことができない。
……イングランド国教会は、第10条で次のように述べている--「アダムの堕落以降、人は生まれもった自分の力で、または善いおこないをすることで、信仰に向かうことができないようになっている。だからわたしたちには善いおこない、神が望み喜ぶようなおこないをする力がない。ただ、善い意志・善いおこないをもたらす神の恩寵がキリストによって事前に与えられた時のみ、その善い意志をもつことができる」。ここにおいて人は二面を持つものとされている。すなわち人は、生まれつき悪であると同時に、善を回復した存在でもある。まず生まれつき悪であるがゆえに、人は、自分の自由な意志により、もともと堕落前にしていたような道徳的で正しいおこないをすることができない。しかし同時に人には自由な意志が与えられる。他でもない善い意志を抱いた時にである。自由な意志により、恩寵の助けにより、人は最終的な救済を自分で自分にもたらすことができるのである。
*****
Richard Montagu
From A New Gagg for an Old Goose (1624)
STC 18038
p.108
*****
自由意志を認めないカルヴァン派(ジェイムズ1世治世の国教会
主流派?)に対して、自由意志を認めるアルミニウス派の
著作として大問題を引きおこした著作。最終的にはジェイムズ本人の
調査により、異端でないと認定。
*****
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わたしたちを黙らせようとするあのじじいがつくった
プロテスタントの誤った考え一覧。つまりただの嘘。
……………
XVI.
アダムの堕落によってわたしたちは自由意志を失った。わたしたちは善も悪も選ぶことができない。
……イングランド国教会は、第10条で次のように述べている--「アダムの堕落以降、人は生まれもった自分の力で、または善いおこないをすることで、信仰に向かうことができないようになっている。だからわたしたちには善いおこない、神が望み喜ぶようなおこないをする力がない。ただ、善い意志・善いおこないをもたらす神の恩寵がキリストによって事前に与えられた時のみ、その善い意志をもつことができる」。ここにおいて人は二面を持つものとされている。すなわち人は、生まれつき悪であると同時に、善を回復した存在でもある。まず生まれつき悪であるがゆえに、人は、自分の自由な意志により、もともと堕落前にしていたような道徳的で正しいおこないをすることができない。しかし同時に人には自由な意志が与えられる。他でもない善い意志を抱いた時にである。自由な意志により、恩寵の助けにより、人は最終的な救済を自分で自分にもたらすことができるのである。
*****
Richard Montagu
From A New Gagg for an Old Goose (1624)
STC 18038
p.108
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自由意志を認めないカルヴァン派(ジェイムズ1世治世の国教会
主流派?)に対して、自由意志を認めるアルミニウス派の
著作として大問題を引きおこした著作。最終的にはジェイムズ本人の
調査により、異端でないと認定。
*****
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From Allen, A Faithful Memorial of That Remarkable Meeting
ウィリアム・アレン
『1648年ウィンザー城で開かれた決定的な軍幹部会議の正確な記録』より
それでわたしたちはウィンザー城に集まることにした。48年のはじめ頃であった。そこで一日中神に祈り、神からご好意がいただけない原因は何なのかを考えた。その日は特に答えは出なかった。ただ、答えを探し続けなくては、ということになった。その翌日も再び朝から集まり、みなで聖書の言葉を語り、そして祈った。その後、中将のクロムウェルがその場にいた者すべてに対し、とても真剣にいった--軍としてのわたしたちがしてきたことについてふり返ってみよう--キリストを信仰する個人としてよく考えよう--自分たちのうちに何か不正な点はないか、あるとしたらそれは何か、よく考えて、そして可能ならそれを突きとめよう--悲しいことだがわたしたちは正しくないがゆえに神に糾弾されている(その時わたしたちは確かにそう思っていた)--その原因を取り除こう。こうして、さらに具体的にいえば、主のお導きによりその日のわたしたちは、みなが心の底から、主がわたしたちとともにいる、主に糾弾されていない、裁かれていない、といえた最後の日はいつであったか、ふり返ることにした。主のお導きにより、わたしたちはみなでこれに取り組むことにした。……そしてまた翌日に集まることにした。
翌日集まったわたしたちは、前日の議論のつづけ、過去のおこないについてふり返った。そのなかでわたしたちは、お恵み深い神の手によって(全員一致して)思い出した、主から離れてしまった時のこと、むしろ主を怒らせてわたしたちから立ち去らせてしまった時のことを。それは、俗的な、清らかでない、呪われた、あの話しあいと決定をした時であった。わたしたち自身の知恵に頼り、恐怖心に駆られ、そして信仰が足りなかったがゆえに、その一年前にわたしたちは、王および彼に従う者たちと交渉してしまっていたのだった。
まさにこの時、ゴフ大佐(確か大佐だったと思う)があのありがたい言葉、箴言1.23--「わたしの戒めに心をとめよ」--を口にした。みずからの罪を悟っていたわたしたちに対してこういったのだ。この時の大佐の魂には主が宿っていたので、その場にいたわたしたちの多くの心に、大佐の言葉は主の言葉のように響いた。この言葉を聞き、わたしたちはひどく動揺し、恥じ、正しくない自分を心から憎んだ。そんなわたしたちを主が糾弾するのはまったく正しいことだと思った。主はわたしたちにみずからの罪を教えてくださった。のみならずどうすべきであったかも教えてくださった。こうしてみなの心は重くなり、互いに言葉をかけることすらほとんどできない状態だった。ひどく泣いていたからである。正しいことをしてこなかったこと、神を信じず、卑しくも主より人を恐れ、目先の損得で動いてきたことが恥ずかしくてたまらなかった。自分たち人間の知恵ではなく主の言葉に従うべきであった。主の言葉こそ知恵と力と平和への道なのだから。主の言葉以外はみな罠の道なのだから。……
しかし、恐れおののき震えることはよいことでもあった。わたしたちは神に感謝していた。わかったからである。主はまだ愛と優しさをわたしたちに与えてくださっているということが。……主は足下にわたしたちを呼び寄せてくださると……すぐに向かうべき方向を教えてくださった。主に導かれてわたしたちの意見は一致した。誰にも異論はなかった。わたしたちがすべきなのは、全軍を集結して……あの強力な敵と戦うことであると。へりくだりつつも主の名の下に敵を壊滅させなくてはならないと。
また、その後さらに祈り、主の顔を求めた後にわたしたちははっきりと、全員一致で決意した。……もし主が再び平和をわたしたちに与えてくださった暁には、あの血に飢えた男チャールズ・スチュアートの責任を必ず問わなくてはならない、と。あの男が流してきた人々の血に対して、主やこの哀れな国の人々を無視してあの男がしたい放題してきた悪事に対して、責任をとらせなくてはならない、と。
*****
William Allen
From A Faithful Memorial of That Remarkable Meeting of Many Officers of the Army in England, at Windsor Castle, in the Year 1648 (1659)
Wing A1052
pp. 3-5
*****
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『1648年ウィンザー城で開かれた決定的な軍幹部会議の正確な記録』より
それでわたしたちはウィンザー城に集まることにした。48年のはじめ頃であった。そこで一日中神に祈り、神からご好意がいただけない原因は何なのかを考えた。その日は特に答えは出なかった。ただ、答えを探し続けなくては、ということになった。その翌日も再び朝から集まり、みなで聖書の言葉を語り、そして祈った。その後、中将のクロムウェルがその場にいた者すべてに対し、とても真剣にいった--軍としてのわたしたちがしてきたことについてふり返ってみよう--キリストを信仰する個人としてよく考えよう--自分たちのうちに何か不正な点はないか、あるとしたらそれは何か、よく考えて、そして可能ならそれを突きとめよう--悲しいことだがわたしたちは正しくないがゆえに神に糾弾されている(その時わたしたちは確かにそう思っていた)--その原因を取り除こう。こうして、さらに具体的にいえば、主のお導きによりその日のわたしたちは、みなが心の底から、主がわたしたちとともにいる、主に糾弾されていない、裁かれていない、といえた最後の日はいつであったか、ふり返ることにした。主のお導きにより、わたしたちはみなでこれに取り組むことにした。……そしてまた翌日に集まることにした。
翌日集まったわたしたちは、前日の議論のつづけ、過去のおこないについてふり返った。そのなかでわたしたちは、お恵み深い神の手によって(全員一致して)思い出した、主から離れてしまった時のこと、むしろ主を怒らせてわたしたちから立ち去らせてしまった時のことを。それは、俗的な、清らかでない、呪われた、あの話しあいと決定をした時であった。わたしたち自身の知恵に頼り、恐怖心に駆られ、そして信仰が足りなかったがゆえに、その一年前にわたしたちは、王および彼に従う者たちと交渉してしまっていたのだった。
まさにこの時、ゴフ大佐(確か大佐だったと思う)があのありがたい言葉、箴言1.23--「わたしの戒めに心をとめよ」--を口にした。みずからの罪を悟っていたわたしたちに対してこういったのだ。この時の大佐の魂には主が宿っていたので、その場にいたわたしたちの多くの心に、大佐の言葉は主の言葉のように響いた。この言葉を聞き、わたしたちはひどく動揺し、恥じ、正しくない自分を心から憎んだ。そんなわたしたちを主が糾弾するのはまったく正しいことだと思った。主はわたしたちにみずからの罪を教えてくださった。のみならずどうすべきであったかも教えてくださった。こうしてみなの心は重くなり、互いに言葉をかけることすらほとんどできない状態だった。ひどく泣いていたからである。正しいことをしてこなかったこと、神を信じず、卑しくも主より人を恐れ、目先の損得で動いてきたことが恥ずかしくてたまらなかった。自分たち人間の知恵ではなく主の言葉に従うべきであった。主の言葉こそ知恵と力と平和への道なのだから。主の言葉以外はみな罠の道なのだから。……
しかし、恐れおののき震えることはよいことでもあった。わたしたちは神に感謝していた。わかったからである。主はまだ愛と優しさをわたしたちに与えてくださっているということが。……主は足下にわたしたちを呼び寄せてくださると……すぐに向かうべき方向を教えてくださった。主に導かれてわたしたちの意見は一致した。誰にも異論はなかった。わたしたちがすべきなのは、全軍を集結して……あの強力な敵と戦うことであると。へりくだりつつも主の名の下に敵を壊滅させなくてはならないと。
また、その後さらに祈り、主の顔を求めた後にわたしたちははっきりと、全員一致で決意した。……もし主が再び平和をわたしたちに与えてくださった暁には、あの血に飢えた男チャールズ・スチュアートの責任を必ず問わなくてはならない、と。あの男が流してきた人々の血に対して、主やこの哀れな国の人々を無視してあの男がしたい放題してきた悪事に対して、責任をとらせなくてはならない、と。
*****
William Allen
From A Faithful Memorial of That Remarkable Meeting of Many Officers of the Army in England, at Windsor Castle, in the Year 1648 (1659)
Wing A1052
pp. 3-5
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
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してください。
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Putney, 1647: "That Man of Blood. . . "
「あの血に飢えた男……」
軍幹部会議
パトニー、1647年11月1日
ビショップ隊長:
一言いわせてください、手短に。心のなかでいろいろ考えました。なぜわたしたちの意見がバラバラで、どうしていいかわからなくなってしまっているのでしょう? 死にかけたこの国をかつてのように立て直すことができなくなってしまっているのはなぜでしょう? わたしが見つけた答えは次のとおりです。わたし以外にもこう思っている人は少なくないと思います。特に、神を信じる人ならば。誰とはいいません、が、あの血に飢えた男への対応が甘く、まだ彼を生かしてしまっているから、絶対的な暴政の源を断ち切っていないから、駄目なんだと思います。神様はわたしたちにこれまで勝利を与えてきてくださいました。明らかに神様はあの男を敵視しているはずです。なのに彼を生かしておく、となれば当然わたしたちも破滅することになるでしょう。以上、神様がわたしの魂に語ってくださることをあえていわせていただきました。今後のこの国について神様がわたしたちひとりひとりに何を語っているか、ということだったかと思いますので。
*****
"That Man of Blood. . . "
The General Council of the Army
Putney, 1st November 1647
Captain Bishop:
I shall desire to speak one word, and that briefly. After many inquiries in my spirit what’s the reason that we are distracted in counsel, and that we cannot, as formerly, preserve the kingdom from that dying condition in which it is, I find this answer, the answer which is [vouchsafed] to many Christians besides, amongst us. I say [it] not in respect of any particular persons, [but] I say [that the reason is] a compliance to preserve that man of blood, and those principles of tyranny, which God from heaven by his many successes [given] hath manifestly declared against, and which, I am confident, may [yet] be our destruction [if they be preserved]. I only speak this [as] what is upon my spirit, because I see you are upon inquiry what God hath given in to any one, which may tend to the preservation of the kingdom.
http://oll.libertyfund.org/titles/woodhouse-puritanism-and-liberty-being-the-army-debates-1647-9
*****
王チャールズ1世の処刑を神が望んでいる、という議論。
Cf. 創世記 9:5-6
あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに。
*****
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軍幹部会議
パトニー、1647年11月1日
ビショップ隊長:
一言いわせてください、手短に。心のなかでいろいろ考えました。なぜわたしたちの意見がバラバラで、どうしていいかわからなくなってしまっているのでしょう? 死にかけたこの国をかつてのように立て直すことができなくなってしまっているのはなぜでしょう? わたしが見つけた答えは次のとおりです。わたし以外にもこう思っている人は少なくないと思います。特に、神を信じる人ならば。誰とはいいません、が、あの血に飢えた男への対応が甘く、まだ彼を生かしてしまっているから、絶対的な暴政の源を断ち切っていないから、駄目なんだと思います。神様はわたしたちにこれまで勝利を与えてきてくださいました。明らかに神様はあの男を敵視しているはずです。なのに彼を生かしておく、となれば当然わたしたちも破滅することになるでしょう。以上、神様がわたしの魂に語ってくださることをあえていわせていただきました。今後のこの国について神様がわたしたちひとりひとりに何を語っているか、ということだったかと思いますので。
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"That Man of Blood. . . "
The General Council of the Army
Putney, 1st November 1647
Captain Bishop:
I shall desire to speak one word, and that briefly. After many inquiries in my spirit what’s the reason that we are distracted in counsel, and that we cannot, as formerly, preserve the kingdom from that dying condition in which it is, I find this answer, the answer which is [vouchsafed] to many Christians besides, amongst us. I say [it] not in respect of any particular persons, [but] I say [that the reason is] a compliance to preserve that man of blood, and those principles of tyranny, which God from heaven by his many successes [given] hath manifestly declared against, and which, I am confident, may [yet] be our destruction [if they be preserved]. I only speak this [as] what is upon my spirit, because I see you are upon inquiry what God hath given in to any one, which may tend to the preservation of the kingdom.
http://oll.libertyfund.org/titles/woodhouse-puritanism-and-liberty-being-the-army-debates-1647-9
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王チャールズ1世の処刑を神が望んでいる、という議論。
Cf. 創世記 9:5-6
あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに。
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From Arrowsmith, The Covenant-Avenging Svvord
ジョン・アロウスミス
『契約違反者の首に剣を』
……人が頭と口と暮らしから神を追放すれば、もちろん神もその人から健康と生活の安定を追放するでしょう。そのような正当な報復の例は聖書の至るところに見られます。「彼らは神でもない者をもって、わたしにねたみを起させ、偶像をもって、わたしを怒らせた。それゆえ、わたしは民ともいえない者をもって、彼らにねたみを起させ、愚かな民をもって、彼らを怒らせるであろう」(申命32:22)。「しかし主を捨て、わが聖なる山を忘れ、机を禍福の神に供え、混ぜ合わせた酒を盛って運命の神にささげるあなたがたよ、わたしは、あなたがたをつるぎに渡すことに定めた」(イザヤ65.11-12)。……主はいつも最初は優しく罰しますが、二回目からはどんどん厳しくなります。薬を塗って駄目なら串刺しにするしかないのです。あるいは八つ裂きにするとか。鞭でいうことを聞かないなら、次は蠍(さそり)の刑なのです(列王上12.11、エレミア28.12-13)。木のくびきで駄目なら鉄のくびきをかけるしかないのです。
以上、神の裁きについて語られていることを確認しました。一貫しています。そこで聖書の問題の箇所について考えてみたいと思います。「わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ、違約の恨みを報いるであろう」(レビ26.25)。
この一節をしっかり理解していただくために、立派で敬虔な議員の皆様方にはわたしの話をよくよくお聞きいただければと思います。わたしは次の三つの点にについてお話します。
1. 戦争とは神ご自身の裁きによってもたらされるものです。「わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ」とあるように。
2. 戦争とは罰です。「恨みを報いる」ものです。
3. 戦争が恨みを報いるのは、神との契約に対してなんらかの違反があったです。それは「違約の恨みを報いる」のです。
この最初の点については、聖書があちこちで証明しています。「あなたがたはつるぎを恐れた。わたしはあなたがたにつるぎを臨ませると、主は言われる」(エゼキエル11.8)。「つるぎに命じて、これを殺させる」のは神です(アモス9.4)。「つるぎよ、この地を行きめぐれ」と命じるのは神なのです(エゼキエル14.17)。戦争は神の命令によっておこるのです。「主のつるぎよ、おまえはいつになれば静かになるのか。おまえのさやに帰り、休んで静かにしておれ。主がこれに命を下されたのだ、どうして静かにしておれようか。アシケロンと海岸の地を攻めることを定められたのだ」(エレミア47の終わり)。……
ここからどのようなことがいえるのか、考えてみましょう。もし戦争をもたらすのが神であるならば--
まず、それがすべて神の思いどおりであるということになります。みずからもたらした戦争を制御できないというような不名誉は神にはありえません。……ダヴィデがゴリアテにいうように、「この戦いは主の戦い」なのであって(サムエル上17.47)、最初から最後まで神が掌握しているのです。兵を招集するのは神です。「万軍の主が戦いのために軍勢を集められる」(イザヤ13.4)。武器を発注するのも神です。「主は武器の倉を開いてその怒りの武器を取り出された。主なる万軍の神が、カルデヤびとの地に事を行われるからである」(エレミア50.25)。武器があたるあたらないを決めるのも神です。「すべてあなたを攻めるために造られる武器は、その目的を達しない」(イザヤ54最後)。「彼らの矢はむなしく帰らない老練な勇士のようである」(エレミア50.9)。一方を強くし、他方の軍を弱くするのも神です。「わたしはバビロンの王の腕を強くし、わたしのつるぎを、その手に与える。しかしわたしはパロの腕を折るゆえ、彼は深手を負った者のように、彼の前にうめく 」(エゼキエル30.24)。
第二に、神には戦争を鎮める力もあります。神は自分がもたらしたものを取り去ることもできるのです。サタンやエジプトに生きた彼の魔法使いたちは疫病をもたらすだけもたらしてそれを取り除くことができませんでしたが、神は彼らとは違います。……神は狂乱の戦火を燃えあがらせることができるとともに、それを消すこともできるのです。「来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる」(詩篇46.8-9)。
第三に、だから、神を信じるのであれば、燃えさかる戦争の炎のさなかにあっても、なんらかの幸せがあることに期待しましょう。神がもたらすものはみな、最終的に善に向かっているのですから。……神の剣はいつも鋭く砥がれていて、そして油に濡れています。常にキリストに従う人に対するご慈悲という油に。キリストは「主の軍勢の将」であるとともに、「救の君」なのですから(ヨシュア5最後、ヘブル2.10)。……負けた場合でも同じです。剣によって倒れるということは、試練を与えられること、清められること、白くなることなのです(ダニエル11.33,35)。捕虜になっても大丈夫です。エレミアがいうように、主は「この所からカルデヤびとの地に追いやったユダの捕われ人を……この良いいちじくのように顧みて恵」みました(エレミア24.5)。殺されてしまっても大丈夫です。ヨシア王のように戦死しても、その死は安らかでしょう(列王下23.29, 22.20)。
第四に、だから戦争の時、わたしたちはこの世の二次的なできごとの向こうにある神の手を見なければなりません。どこに向かって飛ぶ弾丸であっても、それは神が定めた相手に当たるのです。どこからふりおろされた剣であっても、それは天の怒りに浸されて酔っているのです(イザヤ34.5)。……
先の第二の点については以下のとおりです。
剣は復讐のためにあります。神が剣を抜く時、それはいつも神が怒っている時です。聖書と歴史を見てください。「わたしがきらめくつるぎをとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは敵にあだを返し、わたしを憎む者に報復するであろう。わたしの矢を血に酔わせ、わたしのつるぎに肉を食わせるであろう。殺された者と捕えられた者の血を飲ませ、敵の長髪の頭の肉を食わせるであろう」(申命32.41-42)。「その日は万軍の神、主の日であって、主があだを報いられる日、その敵にあだをかえされる日だ。つるぎは食べて飽き、彼らの血に酔う」(エレミア46.10)。
*****
John Arrowsmith
The Covenant-Avenging Svvord Brandished (1643)
Wing A3773
pp.3-7
https://ja.wikisource.org/wiki/口語旧約聖書
https://ja.wikisource.org/wiki/口語新約聖書
*****
1643年1月25日の断食礼拝の際に議会でおこなわれた説教。
王との戦闘を正当化するもの。
*****
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『契約違反者の首に剣を』
……人が頭と口と暮らしから神を追放すれば、もちろん神もその人から健康と生活の安定を追放するでしょう。そのような正当な報復の例は聖書の至るところに見られます。「彼らは神でもない者をもって、わたしにねたみを起させ、偶像をもって、わたしを怒らせた。それゆえ、わたしは民ともいえない者をもって、彼らにねたみを起させ、愚かな民をもって、彼らを怒らせるであろう」(申命32:22)。「しかし主を捨て、わが聖なる山を忘れ、机を禍福の神に供え、混ぜ合わせた酒を盛って運命の神にささげるあなたがたよ、わたしは、あなたがたをつるぎに渡すことに定めた」(イザヤ65.11-12)。……主はいつも最初は優しく罰しますが、二回目からはどんどん厳しくなります。薬を塗って駄目なら串刺しにするしかないのです。あるいは八つ裂きにするとか。鞭でいうことを聞かないなら、次は蠍(さそり)の刑なのです(列王上12.11、エレミア28.12-13)。木のくびきで駄目なら鉄のくびきをかけるしかないのです。
以上、神の裁きについて語られていることを確認しました。一貫しています。そこで聖書の問題の箇所について考えてみたいと思います。「わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ、違約の恨みを報いるであろう」(レビ26.25)。
この一節をしっかり理解していただくために、立派で敬虔な議員の皆様方にはわたしの話をよくよくお聞きいただければと思います。わたしは次の三つの点にについてお話します。
1. 戦争とは神ご自身の裁きによってもたらされるものです。「わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ」とあるように。
2. 戦争とは罰です。「恨みを報いる」ものです。
3. 戦争が恨みを報いるのは、神との契約に対してなんらかの違反があったです。それは「違約の恨みを報いる」のです。
この最初の点については、聖書があちこちで証明しています。「あなたがたはつるぎを恐れた。わたしはあなたがたにつるぎを臨ませると、主は言われる」(エゼキエル11.8)。「つるぎに命じて、これを殺させる」のは神です(アモス9.4)。「つるぎよ、この地を行きめぐれ」と命じるのは神なのです(エゼキエル14.17)。戦争は神の命令によっておこるのです。「主のつるぎよ、おまえはいつになれば静かになるのか。おまえのさやに帰り、休んで静かにしておれ。主がこれに命を下されたのだ、どうして静かにしておれようか。アシケロンと海岸の地を攻めることを定められたのだ」(エレミア47の終わり)。……
ここからどのようなことがいえるのか、考えてみましょう。もし戦争をもたらすのが神であるならば--
まず、それがすべて神の思いどおりであるということになります。みずからもたらした戦争を制御できないというような不名誉は神にはありえません。……ダヴィデがゴリアテにいうように、「この戦いは主の戦い」なのであって(サムエル上17.47)、最初から最後まで神が掌握しているのです。兵を招集するのは神です。「万軍の主が戦いのために軍勢を集められる」(イザヤ13.4)。武器を発注するのも神です。「主は武器の倉を開いてその怒りの武器を取り出された。主なる万軍の神が、カルデヤびとの地に事を行われるからである」(エレミア50.25)。武器があたるあたらないを決めるのも神です。「すべてあなたを攻めるために造られる武器は、その目的を達しない」(イザヤ54最後)。「彼らの矢はむなしく帰らない老練な勇士のようである」(エレミア50.9)。一方を強くし、他方の軍を弱くするのも神です。「わたしはバビロンの王の腕を強くし、わたしのつるぎを、その手に与える。しかしわたしはパロの腕を折るゆえ、彼は深手を負った者のように、彼の前にうめく 」(エゼキエル30.24)。
第二に、神には戦争を鎮める力もあります。神は自分がもたらしたものを取り去ることもできるのです。サタンやエジプトに生きた彼の魔法使いたちは疫病をもたらすだけもたらしてそれを取り除くことができませんでしたが、神は彼らとは違います。……神は狂乱の戦火を燃えあがらせることができるとともに、それを消すこともできるのです。「来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる」(詩篇46.8-9)。
第三に、だから、神を信じるのであれば、燃えさかる戦争の炎のさなかにあっても、なんらかの幸せがあることに期待しましょう。神がもたらすものはみな、最終的に善に向かっているのですから。……神の剣はいつも鋭く砥がれていて、そして油に濡れています。常にキリストに従う人に対するご慈悲という油に。キリストは「主の軍勢の将」であるとともに、「救の君」なのですから(ヨシュア5最後、ヘブル2.10)。……負けた場合でも同じです。剣によって倒れるということは、試練を与えられること、清められること、白くなることなのです(ダニエル11.33,35)。捕虜になっても大丈夫です。エレミアがいうように、主は「この所からカルデヤびとの地に追いやったユダの捕われ人を……この良いいちじくのように顧みて恵」みました(エレミア24.5)。殺されてしまっても大丈夫です。ヨシア王のように戦死しても、その死は安らかでしょう(列王下23.29, 22.20)。
第四に、だから戦争の時、わたしたちはこの世の二次的なできごとの向こうにある神の手を見なければなりません。どこに向かって飛ぶ弾丸であっても、それは神が定めた相手に当たるのです。どこからふりおろされた剣であっても、それは天の怒りに浸されて酔っているのです(イザヤ34.5)。……
先の第二の点については以下のとおりです。
剣は復讐のためにあります。神が剣を抜く時、それはいつも神が怒っている時です。聖書と歴史を見てください。「わたしがきらめくつるぎをとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは敵にあだを返し、わたしを憎む者に報復するであろう。わたしの矢を血に酔わせ、わたしのつるぎに肉を食わせるであろう。殺された者と捕えられた者の血を飲ませ、敵の長髪の頭の肉を食わせるであろう」(申命32.41-42)。「その日は万軍の神、主の日であって、主があだを報いられる日、その敵にあだをかえされる日だ。つるぎは食べて飽き、彼らの血に酔う」(エレミア46.10)。
*****
John Arrowsmith
The Covenant-Avenging Svvord Brandished (1643)
Wing A3773
pp.3-7
https://ja.wikisource.org/wiki/口語旧約聖書
https://ja.wikisource.org/wiki/口語新約聖書
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1643年1月25日の断食礼拝の際に議会でおこなわれた説教。
王との戦闘を正当化するもの。
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参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
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From Marshall, The Song of Moses
スティーヴン・マーシャル
『モーセの歌』より
七つの杯から注がれるのは反キリスト一派に対する神の怒りです。神の怒りが注がれるのは反キリスト的なものがあるところだけで、これをキリストは探し、見つけ、そして見つけたら必ず破壊するのです。神の杯がなしとげるといわれていることをよく見てください。ひどい痛み・苦しみに襲われているのは獣のしるしを身につけた者たちだけですから。そのような者だけが血を飲まされ、熱に焼かれ焦がされ、痛みに歯ぎしりし、雹(雹)に打ち砕かれるのです。こんな目にあうのは獣に従う者、獣を崇拝する者、獣の王国の国民だけなのです。だから恐れなくても大丈夫です。今キリストが与えている裁きによって断罪されることはありません。反キリストのために戦う武器をこっそり、あるいは堂々ともっているのでないかぎりは。そのような武器はみな破壊しなくてはなりません。お願いします。まず第一に、すぐに、あの遺物すべてを、今わたしたちのあいだで燃える炎の油・燃料となっているものすべてを、この国から、この国の教会から、排除してください。これこそ神があなたがたに与えた仕事です。心をこめてとりくめば神がともにいてくださるでしょう。すぐにとりかかってください。おそらく、この遺物が原因となってあなたがた議員のあいだに無数の亀裂が生じ、対立してしまっているのです。そもそもこれらの対立を解消する努力が足りなかったのです。ある党派の者たちが議会を去ることになろうとも、また彼らがあなたがたに強く敵対しようとも、恐れる必要はありません。いいですか、その党派とはバビロンの娼婦の杯から酒を飲んだ者たちなのです。バビロンの娼婦を愛し、そして忌まわしき淫らな行為に耽っている者たちなのです。そのような者たちは役に立ちません。そのような者たちに邪魔されぬよう、キリストがあなたがたの仕事を守ってくれるはずです。そのような者たちはおそらく、いえ確実に、自滅していくことでしょう。この書[ヨハネの黙示録]に記されたとおりの呪いをみずからの上に、また彼らの子孫の上に、もたらすことでしょう。バビロンの服と金の延べ棒をテントに隠していたアカンのようにです。主はあなたがたの味方です。自信をもって進み、勝利を収めてください。
*****
Stephen Marshall
From The Song of Moses (1643)
[A]ll which is done in the pouring out of the seven vialls, is the wrath of God upon the Antichristian faction . . . there is no wrath upon any where ever it is poured, but onely as there is something of Antichrist among them, which Christ will search for, find, and destroy, where-ever he finds it: Consider the whole work of the vialls, and you shall finde noysome and grievous sores upon them onely that have the mark of the Beast, the drinking of bloud, the scorching with heat, the gnawing of their tongues for paine, the being destroyed with hailstones, &c. All these light onely upon the followers of the Beast, the worshipers of the Beast, the kingdome of the Beast, & therefore let none feare any hurt frõ these judgments which Christ is now inflicting, but such as either secretly or openly harbour any of Antichrists acursed stuff which must be destroyed; & let it be I beseech you, your speedy care to cast out of this Nation and Church all those reliques, which are the oyl and fuel that feed the flame which burnes amongst us: God calls you now to this work, and will be with you while you set your hearts and hands to doe it; and doe it speedily, it may be it is one Cause, why so many breaches are made upon you, because you have no more vigorously attempted it in the first place; and fear not that ye should therby lose a party, or strengthen a party against you, beleeve it, that party that hath drunk of the whores cup, and is in love with her abominations, will never be assistant, nor wil Christ suffer them to overthrow the worke committed to your hands; they may and shall destroy themselves, bringing the curses written in this book upon themselves, and their posteritie, as Achan did by hiding the Babylonish garment and wedg of gold in his tent, but the Lord will be with you, therefore go on and prosper. (7-8)
*****
内乱初期における議会への説教。黙示録にもとづく
終末論を実際の社会の分析に応用。国教会(やその長チャールズ1世)
を反キリスト・獣、つまりローマ・カトリック側の勢力と解釈し、
その討伐を(あいまいな言葉で)推進・扇動する。
「モーセの歌」はヨハネの黙示録15.3-4にある。
アカンについてはヨシュア記7参照。
このような説教をして内乱を扇動しつつ、内乱末期には
チャールズの擁護にまわる。それゆえミルトンのような
軍の支持者たちからは裏切り者と非難される。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
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閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
『モーセの歌』より
七つの杯から注がれるのは反キリスト一派に対する神の怒りです。神の怒りが注がれるのは反キリスト的なものがあるところだけで、これをキリストは探し、見つけ、そして見つけたら必ず破壊するのです。神の杯がなしとげるといわれていることをよく見てください。ひどい痛み・苦しみに襲われているのは獣のしるしを身につけた者たちだけですから。そのような者だけが血を飲まされ、熱に焼かれ焦がされ、痛みに歯ぎしりし、雹(雹)に打ち砕かれるのです。こんな目にあうのは獣に従う者、獣を崇拝する者、獣の王国の国民だけなのです。だから恐れなくても大丈夫です。今キリストが与えている裁きによって断罪されることはありません。反キリストのために戦う武器をこっそり、あるいは堂々ともっているのでないかぎりは。そのような武器はみな破壊しなくてはなりません。お願いします。まず第一に、すぐに、あの遺物すべてを、今わたしたちのあいだで燃える炎の油・燃料となっているものすべてを、この国から、この国の教会から、排除してください。これこそ神があなたがたに与えた仕事です。心をこめてとりくめば神がともにいてくださるでしょう。すぐにとりかかってください。おそらく、この遺物が原因となってあなたがた議員のあいだに無数の亀裂が生じ、対立してしまっているのです。そもそもこれらの対立を解消する努力が足りなかったのです。ある党派の者たちが議会を去ることになろうとも、また彼らがあなたがたに強く敵対しようとも、恐れる必要はありません。いいですか、その党派とはバビロンの娼婦の杯から酒を飲んだ者たちなのです。バビロンの娼婦を愛し、そして忌まわしき淫らな行為に耽っている者たちなのです。そのような者たちは役に立ちません。そのような者たちに邪魔されぬよう、キリストがあなたがたの仕事を守ってくれるはずです。そのような者たちはおそらく、いえ確実に、自滅していくことでしょう。この書[ヨハネの黙示録]に記されたとおりの呪いをみずからの上に、また彼らの子孫の上に、もたらすことでしょう。バビロンの服と金の延べ棒をテントに隠していたアカンのようにです。主はあなたがたの味方です。自信をもって進み、勝利を収めてください。
*****
Stephen Marshall
From The Song of Moses (1643)
[A]ll which is done in the pouring out of the seven vialls, is the wrath of God upon the Antichristian faction . . . there is no wrath upon any where ever it is poured, but onely as there is something of Antichrist among them, which Christ will search for, find, and destroy, where-ever he finds it: Consider the whole work of the vialls, and you shall finde noysome and grievous sores upon them onely that have the mark of the Beast, the drinking of bloud, the scorching with heat, the gnawing of their tongues for paine, the being destroyed with hailstones, &c. All these light onely upon the followers of the Beast, the worshipers of the Beast, the kingdome of the Beast, & therefore let none feare any hurt frõ these judgments which Christ is now inflicting, but such as either secretly or openly harbour any of Antichrists acursed stuff which must be destroyed; & let it be I beseech you, your speedy care to cast out of this Nation and Church all those reliques, which are the oyl and fuel that feed the flame which burnes amongst us: God calls you now to this work, and will be with you while you set your hearts and hands to doe it; and doe it speedily, it may be it is one Cause, why so many breaches are made upon you, because you have no more vigorously attempted it in the first place; and fear not that ye should therby lose a party, or strengthen a party against you, beleeve it, that party that hath drunk of the whores cup, and is in love with her abominations, will never be assistant, nor wil Christ suffer them to overthrow the worke committed to your hands; they may and shall destroy themselves, bringing the curses written in this book upon themselves, and their posteritie, as Achan did by hiding the Babylonish garment and wedg of gold in his tent, but the Lord will be with you, therefore go on and prosper. (7-8)
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内乱初期における議会への説教。黙示録にもとづく
終末論を実際の社会の分析に応用。国教会(やその長チャールズ1世)
を反キリスト・獣、つまりローマ・カトリック側の勢力と解釈し、
その討伐を(あいまいな言葉で)推進・扇動する。
「モーセの歌」はヨハネの黙示録15.3-4にある。
アカンについてはヨシュア記7参照。
このような説教をして内乱を扇動しつつ、内乱末期には
チャールズの擁護にまわる。それゆえミルトンのような
軍の支持者たちからは裏切り者と非難される。
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