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Westminster Confession of Faith (1647)

ウェストミンスター神学者会議による信仰告白案

第3章 永遠なる神の定め

永遠なる神は清らかで賢いご意志に自由に従い、この世に起こることを絶対に変わらぬものとして定めた。しかし、神は罪をつくってはおらず、また神につくられたものの意志が損なわれることはなかった。つくられたものの世界に存在する偶然性は失われることなく、むしろこれは神の定めによって確立された。

2
あらゆる条件下で起こりうるすべてのことを神は知っているが、しかし彼は未来のこととして予見したからそれぞれを定めたわけではない。また、各条件に従って起こるであろうこととして定めたわけではない。

3
神の定めにより、神の栄光の証として、人や天使の一部は永遠の生に、また残りの者は永遠の死に、予定されている。

4
人や天使たちに対する予定は、個別かつ不変のものである。永遠に生きる者・永遠に死ぬ者の数は確定されていて、それぞれ増減することはありえない。

5
永遠の生に予定された者とは、この世界の基盤が用意される以前に神が永遠かつ不変の目的に従って、またはかり知れぬお考えと善良なるご意志に従って、救い主キリストのうちに永遠の栄光を与えられるべく選んだ者のことである。この予定の背後にあるのは神が無償で与える恩寵と愛であり、その人が信仰をもつ、善いおこないをする、これらを堅持する、などということの予見ではない。信仰や善行や堅忍は、神が人を永遠の生に予定する条件や理由ではない。称えられるべきはひとえに神の輝かしき恩寵である。

6
一定の人を栄えある天国行きに選び、予定したのと同時に神は、永遠かつ自由なご意志により、これらの人が天国に向かう道筋まであらかじめ定めた。つまり、天国行きに選ばれた者は、アダムのうちに堕落しつつもキリストの霊によって罪から取り戻され、然るべき時に導かれてキリストへの信仰に真に召され、罪を赦され、神の子とみなされ、聖なる者となり、そしてキリストの力に護られつつ信仰を保ち、やがて最終的に救われることとなる。神に選ばれていない者は誰もキリストによって罪から取り戻されず、真に召されるもことなく、罪も赦されず、神の子と認められず、聖なる者となれず、そして救われることがない。

7
神は、はかり知れぬお考えとご意志に従い、自分がつくったものすべての上に立つ者としての最高の力と栄光を示すべく、人に慈悲を与えることもあれば、与えることを控えることもある。ゆえに彼は、選ばなかった残りの人については顧みないことにした。つまり、栄えあるみずからの正義が称えられるように、その罪ゆえに彼らを不名誉と怒りの対象と定めた。

8
このいと高き、不可思議なる神の予定の教えの扱いには特別な注意と思慮が必要である。聖書のうちに明かされる神の意向を人が正しく理解し、それに従うのであれば、真に召されているという確かな意識から、自分が永遠に救われることを確信できるであろう。このようなかたちで、救済の知らせを心から信じる者は、以上の予定の教えゆえに神を褒め称え、敬い、拝めることとなるであろう。また同時に神の前にへりくだり、神の言葉に耳を傾け、そしておおいなる安らぎを得ることであろう。


第5章 神の定めについて

すべてのもののつくり主である神は、彼につくられたものすべてを、それら自体やそれらがなすことすべてを、極めて大きなものから極めて小さなものまで、彼の清く正しい定めによって支え、導き、指揮し、治めている。その源にあるのは神の完璧なる予知、および自由で不変なるご意志であり、この正しき定めにゆえにわたしたちは彼の知恵、力、正義、善良さ、そして慈悲を褒め称えなくてはならない。

2
予知され、かつこの世のはじまりの段階で神に定められたすべてのことがらは、必ず、誤ることなく、起こる。しかし同時に神は、これらがつくられたものそれぞれの本質に従って、必然的に、自由に、起こらない可能性もありつつ起こるように、定めた。

3
神の定めのなか神によってつくられたものの行動・言動が利用されているが、神はこれらに頼らず、これらを超えて、またはこれらに反して、すべてを定めることができる。

4
神のもつ全能の力、はかり知れぬ知恵、無限の善良さは、彼が定めたことのなかにあらわれている。人の堕落やその他天使や人が犯す罪までもが神の定めである。これらは罪であるが、賢く強い神が許容し、導き、治める範囲でなされることであり、さまざまなかたちで神の聖なる目的に適うようになっているのである。同時に、罪を犯す悪は、神ではなく神につくられた天使や人それぞれのものである。清く正しい神が罪をつくったわけではなく、また罪をよしと認めているわけでもない。そのようなことはありえない。

……………………

第9章
自由意志について

神は人の意志に対して然るべき自由を与えている。人の意志が善または悪をなすのは外部からの強制ではなく、生まれもった性格からくる必然でもない。

2
罪のない状態にあった人は自由であり、神の意に適う善をなす力と意志をもっていた。しかしこれは常に変わらぬものでなく、人は罪を犯すこともできた。

3
堕落によって罪に堕ちた人は、神の意に適い救済をもたらすような善をなす意志の力を完全に失っている。人として生まれたかぎり人はそのような善に背を向けており、いわば罪のなかに死んでおり、自分の力で自分を変えること、善や救済に自分を向けることができない。

4
罪深い人を善に向かわせる時、恩寵を受けた状態へと人を移行させる時、神は罪に隷属した生まれついての状態から人を解放し、ひとえに恩寵の力により、自由に善を望み、おこなう力を彼に与える。しかし、それでも人のうちには腐った部分が残っているので、彼は完全に善のみを望むことはできない。善と同時に悪をも望んでしまう。

5
人の意志が完全に、常に善のみを望むことができるようなるのは、天国に行くことができてからである。

(つづく)

*****
The Humble Advice of the Assembly of Divines,
Now Appointed by Authority of Parliament Sitting at
Westminster, Concerning a Confession of Faith (1647)

Chap. III
Of Gods eternall Decree

GOD from all eternity did by the most wise and holy Counsell of his own Will, freely, and unchangeably ordain whatsoever comes to pass[1]. Yet so, as thereby neither is God the Author of sin[2], nor is violence offered to the wil of the Creatures, nor is the Liberty or contingency of second Causes taken away, but rather established[3].

II. Although God knows whatsoever may, or can come to pass upon all supposed conditions[4], yet hath he not decreed any thing because he foresaw it as future, or as that which would come to pass upon such conditions[5].

III. By the decree of God for the manifestation of his glory, some men and Angels[6] are predestinated unto everlasting life, and others fore-ordained to everlasting death[7].

IV. These Angels and men thus predestinated and fore-ordained, are particularly and unchangeably designed, and their number is so certain and difinite, that it cannot be either increased or diminished[8].

V. Those of man kind that are predestinated unto Life, God, before the foundation of the world was laid, according to his eternall and immutable purpose, and the secret counsell and good pleasure of his Will, hath chosen in Christ unto everlasting glory[9], out of his meer free grace and love, without any fore sight of Faith, or Good works, or perseverence in either of them, or any other thing in the creature, as conditions, or causes moving him thereunto[10], and all to the praise of his glorious grace[11].

VI. As God hath appointed the Elect unto glory, so hath he, by the eternall and most free purpose of his Will, fore-ordained all the means thereunto[12]. Wherefore they who are elected being fallen in Adam, are redeemed by Chrift[13], are effectually called unto faith in Christ, by his Spirit working in due season, are justified, adopted, sanctified[14], and kept by his power through faith unto salvation[15]. Neither are any other redeemed by Chrift, effectually called, justified, adopted, sanctified and saved, but the Elect only[16].

VII. The rest of man-kinde God was pleased according to the unsearchable councell of his own Will, whereby he extendeth, or withholdeth mercy, as he pleaseth, for the glory of his Soveraign Power over his creatures, to pass by, and to ordaine them to dishonour and wrath for their sin, to the praise of his glorious justice[17].

VIII. The doctrine of this high Mystery of Predestination is to be handled with speciall prudence and care[18], that men attending the Will of God revealed in his Word, and yeelding obedience thereunto, may, from the certainty of their effectuall Vocation, be assured of their eternall Election[19]. So shall this Doctrine afford matter of praise, reverence, and admiration of God[20], and of humility, diligence, and abundant consolation to all that sincerely obey the Gospell[21].


Chap. V
Of Providence

GOD the great Creator of all things, doth uphold[1], direct, dispose, and govern all creatures, actions and things[2], from the greatest even to the least[3], by his most wise and holy Providence[4]; according to his infallible fore-knowledg[5], and the free, and immutable counsell of his own Will[6], to the praise of the glory of His Wisdom, Power Justice, Goodnesse, and Mercy[7].

II. Although in relation to the fore-knowledg and decree of God, the first Cause, all things come to pass immutably and infallibly[8]: yet by the same Providence he ordereth them to fall out, according to the nature of second causes, either necessarily, freely or contingently[9].

III. God in his ordinary Providence maketh use of means[10], yet is free to work without[11], above[12], and against them at his pleasure[13].

IV. The Almighty power, unsearchable wisdom, and infinite goodness of God so farre manifest themselves in his Providence, that it extendeth itselfe even to the first Fall, and all other sinnes of Angells and Men[14], but such as hath joyned with it, a most wise and powerfull bounding[15], and otherwise ordering, and governing of them, in a manifold dispensation to his own holy ends[16]: yet so, as the sinfulness thereof proceedeth only from the creature, and not from God, who being most holy and righteous, neither is, nor can be the Author or Approver of sin[17].


Chap. IX
Of Free-will

GOD hath indued the Will of man with that naturall liberty, that is neither forced, nor by any absolute necessity of nature determined to do good or evil[1].

II. Man, in his state of Innocency, had freedom and, power, to will, and to doe that which was good, and well pleasing to God[2]; but yet, mutably, so that hee might fall from it[3].

III. Man by his fall into a state of sin, hath wholly lost all ability of Will to any spirituall good accompanying salvation[4]: so as, a naturall man, being altogether averse from that good[5], and dead in sin[6], is not able, by his own strength, to convert himselfe, or to prepare himself thereunto[7].

IV. When God converts a sinner, and translates him into the state of grace he freeth him from his natural bondage under sin[8] and by his grace alone, inables him freely to will, and to do that which is spiritually good[9], yet so, as that by reason of his remaining corruption, he doth not, perfectly, nor onely, will which is good, but doth also will that which is evil[10].

V. The will of man is made perfectly, and immutably free to good alone, in the state of Glory only[11].

Mat. 17. 12.
Iam. 1. 14.
Deut. 30. 19
Eccles. 7. 29
Gen. 1. 25
Gen. 2. 17, 17
Gen. 3. 6
Rom. 5. 6
Rom. 8. 7
Iohn 15. 5
Rom 3. 10, 12
Eph. 2. 1, 5
Col. 2. 13.
Ioh. 6. 44, 65
Eph. 2. 2. 3, 4, 5
1 Cor. 8. 14.
Titus 3. 3. 4, 5
Col. 1. 13
Ioh. 8. 34, 36
Phil. 2. 13
Rom. 6. 18, 22
Gal. 5. 17
Rom. 7. 15, 18 19, 21, 23
Eph. 4. 13
Heb. 12. 23
1 Iohn 3. 2.
Iude v. 24.

https://en.wikisource.org/wiki/The_Humble_Advice_of_the_Assembly_of_Divines
(読み取りミスなど修正)

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Beza, A Briefe Declaration

テオドール・ドゥ・ベーズ
(シオドー・ベザ)
『図解: キリスト教の要点まとめ』

第2章
神さまのご判断は人には計り知れません。神さまの道は見えず、神さまのご意志について人は口を慎まなくてはなりません。そのような神さまの固く変わらぬご意志に従ってすべてのものは創られました。悪いもの、呪われるべきものも、です。(もちろん、これらは神さまみずからがよくお考えになって創られたというわけでなく、空の支配者、不従順の子たちに宿るあの悪霊がもたらせる範囲でもたらしたものであるわけですが。) 神さまはすべてのはじまり以前によくお考えになり、栄(は)えあることとしてすべてのものを限りある命とともにお創りになりました。特に人について神さまは、まったく正反対の二つの類の者たちを創られました。ひとつは、計り知れぬご意志と目的ゆえに神さまがお選びになり、慈悲深くもご自身の栄光を分け与えることにされた者たちです。わたしたちは神さまの言葉に従って、彼らを「尊い器」、「選ばれし者」、「約束の子」と呼びましょう。彼らは救済に予定されているのです。残りの者たちは、神さまのお考えによって呪われ、永遠の罰を受けることになっています。これは神さまの怒りと力の証明であり、彼らは滅ぶことによって神さまを称えることになります。このような者たちをわたしたちは「汚れと怒りの器」、「神に見棄てられた者」、「善から追放され悪に溺れる者」と呼びましょう。

以上の選び、そして永遠の命への予定とは、神さまのご意志によるものです。まさにこの選び、選ぶというご決定が、神さまの子たちの救済の源、いわばその第一段階です。誤解している人が少なからずいることですが、神さまは、人がご自身のことを信じ、また善いおこないをするであろうことを予見して、そしてそのような人を救済に予定するわけではありません。神さまはただご自身の善良なるご意志に従って選ぶ人を定め、そしてそのような人が結果として神を信じ、善いおこないをするようになるのです。……

同様に、神さまに見棄てられた者の破滅・地獄落ちについても、その責任はすべて彼らにあるわけですが、偉大なる神さまのご忍耐の大きさと、ご慈悲の器たる人々に与えられるお恵みの豊かさを比べることが特に必要であれば、聖書は、彼らが地獄に落とされる究極の理由、この高く深遠なる秘密へとわたしたちを導いてくれています。この秘密とはすなわち、彼らの破滅は正しき神さまのご意志であるということに他なりません。正しき神さまのご意志に対し、わたしたちは恭(うやうや)しく心から遜(へりくだ)り従わなくてはならないのです。正しいのは神さまだけであり、どのような人がどのようにしても神さまのご意志を理解することはまったくできないのですから。人の破滅・地獄落ちという定めやその目的と、この破滅自体は区別しなくてはなりません。神さまはご自身のお考えを人の目からお隠しです。と同時にわたしたちは人が地獄落ちに定められ、そしてそれゆえに破滅する理由を知っています。それは神さまのお言葉にあるとおり、心が腐っているから、神さまを信じないから、そして悪をおこなうからです。これらは定められた必然であると同時に、「汚れの器」においては各自の意志によってなされる意図的なことでもあるのです。
(A3v-A5r)

第3章
主なる神さまは、永遠なるお考えをこの世にあらわそうとされました。ご自身の栄誉とすべく、限りないお知恵に従ってある道筋を用意されました。誰をお選びに、あるいはお退けになるか、ということとは無関係にです。というのも、選ばれた者たちを救済に導いて限りないご慈悲を示すこと、および地獄落ちに定められた者たちを正しき裁きによって破滅させることの前提として、まずこの両者を不従順と罪のなかに閉じこめる必要があったからです。それでこそ神さまを信じる者すべて、つまり神さまに選ばれた者すべて--信仰とは選ばれた者に与えられる神さまからの贈りものですから--に対するご慈悲が明らかになるのです。また逆に、信じる心を与えられていない者、はかり知れない神さまのお考え・お力を知らない者を正当な理由で断罪できるようになるのです。このような経緯で、神さまのご意向とお知恵により、破滅に定められ地獄に落ちる者の罪はみな彼ら自身のもの、また逆に、選ばれた者の救済において褒め称えられるのは神さまのご慈悲のみ、ということになったのです。神さまは人を罪人としてお創りではありません。もしそうであれば、(畏れながら)罪を創ったのも神さまということになり、それを神さまがまた自分で罰する、というおかしな話になってしまいます。そうではなく、神さまは人を自分と同じ姿に創りました。罪のない、汚れのない、清らかな者として創りました。そのような人が何者かに強制されることなく、どうしても必要だから望んだというわけでもないのに--まだ罪の奴隷でなかった頃なので当然ですが--それでも自分から進んで、みずからの意志で、神さまに背いたのです。……

さらに、神さまのご意志に反することが起こりうる、などということはできません。これは神さまの全能を否定するまさに冒涜です。聖アウグスティヌスが『咎めと恩寵』第104章にはっきり記しているとおりです。だからわたしたちはこういわなくてはなりません--アダムの堕落とは彼自身の意志によって起こったことであり、そしてそれは神さまのご意志に適わないわけではなかった、と。人にははかり知れない、驚くほかない不思議なかたちで、罪という神さまのお許しにならないことが、神さまのご意志に反することなく起こったのです。このことにより、先ほどいいましたように、ご慈悲の器に定められた人々をお救いになる神さまの偉大さと恵み深さが明らかになります。同時に、辱めと破滅の器に定められた人々を滅ぼす神さまのお力や怒りの大きさも明らかになります。これらは神さまご自身の栄誉のためになされることです。神さまがお考えになっている最終的な目的は、選ばれた者の救済や呪われた者の破滅ではなく、選ばれた者を救うご慈悲、および呪われた者を破滅させる正しき裁きにより、ご自身の栄誉を称えることなのです。
(A7r-A8v)

第4章
以上のことをご自身のうちでお決めになられた時、神さまは何がどのように起こるかという順序を定めました。神さまにとってはすべてのものが同時に存在しますので、これらは実際には永遠のこと、時間の世界に属さないことですが、神さまは然るべき順序・段階を経て選ばれた者がご自身の王国にやってくるようにしたのです。神さまはお恵み深いと同時に正しいお方ですから、正義をなすこともお忘れではありません。ですから神さまは、何よりもまず、罪を犯した人を完全に元の状態に戻すことができるような仲裁者を定めることが必要、選ばれた者の救済は無償の慈悲と恵みによるものとしなくては、とお考えになりました。人とは弱く、神さまの怒りの大きさ重さに耐えられません。というか、そもそも神さまのお怒りに気づかないほど哀れで愚かな存在です。人は完全に罪の奴隷となっていて、神さまの掟を死のように忌み嫌っています。自由を取り戻すことなどまったく不可能で、ほんの少しでも神さまの法に従って生きることができません。ですから、選ばれた者の父であるこのうえなく恵み深い神さまは、無限のご慈悲で正しき裁きを和らげでくださりました。ご自身のたったひとりの子、ご自身とまったく同じ存在であり永遠にともに神であられる子に対し、聖霊の力によってまさに人間となるよう命じられました。つまり、神の性質と人の性質を救い主イエスのみにおいて結合させたのです。こうして悪しき人の腐った部分がひとりのうちで癒されることとなりました。イエスによって正義が達成される、つまりあのお方が神さまによって裁かれる、ということになりました。神の意をなす者、父なる神の怒りを鎮めおさめるに足る・値する者として、ご自身は正しく罪がないまま、わたしたち悪しき罪人のためにイエスは死ぬことになったのです。イエスがわたしたちの不従順を覆い隠し、罪すべてをみずからに引き受け、そしてわたしたちを浄化してくださるのです。こうしてイエスがご自身を犠牲としてさし出してくださったおかげで、神さまに選ばれた者はみな清らかでいられるようになりました。イエスが死に、埋葬されるとき、彼らのうちの罪も死に、埋葬されるのです。イエスが復活するとき、彼らも生き返り、新たな生を授かるのです。
(B1v-)

(つづく)

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Theodore Beza
A Briefe Declaration of the Chiefe Poyntes of
Christian Religion Set Forth in a Table (1575?)

*****
堕落前予定説(supralapsarianism)あるいは
創造前予定説(creabilitarianism)。

ベーズはカルヴァンの弟子・後継者。
だが、思想的にはカルヴァンと異なる点も少なくない。

重要なのは予定と自由意志の共存。神によって
破滅・地獄落ちに定められた人がみずからの意志と
責任において悪をなす、という矛盾。
予定説は自由意志を否定するものではない、
ということ。

逆に、天国行きの人が天国に行けるのはすべて
ひとえに神さまのお恵みによる。人は自分の
意志・力でよいことをすることができない。
(cf. アウグスティヌスなど以来の堕落人間観)

ベーズは神に選ばれた者のみのためにイエスは死んだ、
と考える。すべての人のために、でなく。
(カルヴァンは後者。)

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Hobbes, Leviathan, ch. 14

トマス・ホッブズ
『リヴァイアサン』 第14章

人が本来もっている権利、一般に自然権と呼ばれるものは、すべての人が思いどおりに自分の力を、あるがままの自分の存在・命の保護のために使う自由のことである。それがなんであれ、自分を保護するために最適と思う・考えることをする自由を人はもつ。

自然法とは、理性によって導かれる命令・一般法則、人は自分の命の破壊や命を維持する方法の喪失につながることをしてはならない、命の維持に最適と自分で考えることをしなくてはならない、という掟のことである。

(前章で述べたように)人はみながみなと戦争している状態にあり、そんななか理性によって自分の行動を決める。自分の命を敵から守ることにつながらないことは、人にとってなんの役にもたたない。このような状態においては、すべてのものがすべての人のものである。他人の命もそうである。このようにすべてのものが自然権によってすべての人のものということになると、(どれほど強い者・賢い者であっても)誰も身の安全を確信できないことになる。自然が生きることを許すすべての年月を誰も生きられない。それゆえ、理性の命令・掟として、すべての人は、望みうる最大の平和を実現するよう努力しなくてはならない。それが不可能な場合には、戦争の助けを借り、それがもたらす最大限の利益を求めなくてはならない。この掟の前半は、平和を求め、維持しなくてはならないという根源的な自然法から導かれる。後半は自然権をいいかえたものである。どんな手を使ってでも人は自分を守らなくてはならない。

*****
Thomas Hobbes
Leviathan, ch. 14

The Right Of Nature, which Writers commonly call Jus Naturale, is the Liberty each man hath, to use his own power, as he will himselfe, for the preservation of his own Nature; that is to say, of his own Life; and consequently, of doing any thing, which in his own Judgement, and Reason, hee shall conceive to be the aptest means thereunto.

. . . . . . . . .

A Law Of Nature, (Lex Naturalis,) is a Precept, or generall Rule, found out by Reason, by which a man is forbidden to do, that, which is destructive of his life, or taketh away the means of preserving the same; and to omit, that, by which he thinketh it may be best preserved. . . .

And because the condition of Man, (as hath been declared in the precedent Chapter) is a condition of Warre of every one against every one; in which case every one is governed by his own Reason; and there is nothing he can make use of, that may not be a help unto him, in preserving his life against his enemyes; It followeth, that in such a condition, every man has a Right to every thing; even to one anothers body. And therefore, as long as this naturall Right of every man to every [100] thing endureth, there can be no security to any man, (how strong or wise soever he be,) of living out the time, which Nature ordinarily alloweth men to live. And consequently it is a precept, or generall rule of Reason, That every man, ought to endeavour Peace, as farre as he has hope of obtaining it; and when he cannot obtain it, that he may seek, and use, all helps, and advantages of Warre. The first branch of which Rule, containeth the first, and Fundamentall Law of Nature; which is, to seek Peace, and follow it. The Second, the summe of the Right of Nature; which is, By all means we can, to defend our selves.

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From [Burton], Divine Tragedie

[ヘンリー・バートン]
『最近上演された聖なる悲劇』

安息日を守らない者に対する神の審判例

以下に記された神の審判例は、主の日におこなっていい娯楽についての布告が出され、多くの牧師たちによって教会で広められるようになってから二年も経たないあいだにおきたことである。というのも、(火薬に火をつければあっという間に燃えあがるように、堰を破れば水が狂って流れ出すように、)不道徳な人々はこの布告を見て自由が認められたと思いこみ、狂喜乱舞してとまではいわないが、堂々と神に背くふるまいをしてきたからである。ゆえに至るところで神の怒りが下り、多くの者が破滅することになった。ここから教訓を読みとってもらえれば幸いである。

1634年
例21
ドーセットシャーのバウントンで主の日にボーリングをしていた者たちがいて、ひとりが投げたボールが他の者の耳にあたって反対の耳から血が噴き出して、その者は死んだ。殺した側の者は逃げた。

例3
ロンドン近くのエンフィールドの若い女が、娯楽推進の書によって認められたと聞いて、主の日に他の女性たちと踊りに行った。彼女はこういっていた--足で立ててるあいだは踊らなくっちゃ! こうして立ててるあいだ彼女は踊りつづけ、そして二、三日後に死んだ。


例24
昨年の春、ウスターシャーのウートンの近くの粉屋が主の日に祭の前夜祭に行き、夜中に帰ってきたら家と粉挽き小屋が燃えあがっていた。これは目撃者である牧師によって(他の牧師に対して)証言されたことである。

例(5)
1634年1月25日の主の日は氷点下の日で、14人の若い男たちがゲインズバラ近くのトレント川の氷の上でサッカーをしていた。そのするなかで大乱闘がおこり、急に氷が割れて全員溺れて死んだ。

*****
[Henry Burton]
A Divine Tragedie Lately Acted (1636)
STC 4140.7

*****
安息日の遊びを王が承認・奨励した『娯楽の書』
(The Book of Sports)に対する批判の書。
17世紀イギリス版やらせ・虚偽報道(fake news)。
1636年に匿名出版。42年に名前・肖像画入りで出版。

(参考)
37年 耳削ぎの刑(その他の出版物や説教などのため)
41年 庶民院の断食礼拝にて説教
(この説教は出版されたが「議会の指示により出版」の記載なし)

バートンはいわゆるピューリタン。聖書における戒律の
厳守を主張する。黙示録などから導かれる千年王国思想も信奉。

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From Montagu, A New Gagg for an Old Goose

リチャード・モンタギュー
『ガーガーうるさいガチョウじじいを黙らせる本』

わたしたちを黙らせようとするあのじじいがつくった
プロテスタントの誤った考え一覧。つまりただの嘘。
……………
XVI.
アダムの堕落によってわたしたちは自由意志を失った。わたしたちは善も悪も選ぶことができない。

……イングランド国教会は、第10条で次のように述べている--「アダムの堕落以降、人は生まれもった自分の力で、または善いおこないをすることで、信仰に向かうことができないようになっている。だからわたしたちには善いおこない、神が望み喜ぶようなおこないをする力がない。ただ、善い意志・善いおこないをもたらす神の恩寵がキリストによって事前に与えられた時のみ、その善い意志をもつことができる」。ここにおいて人は二面を持つものとされている。すなわち人は、生まれつき悪であると同時に、善を回復した存在でもある。まず生まれつき悪であるがゆえに、人は、自分の自由な意志により、もともと堕落前にしていたような道徳的で正しいおこないをすることができない。しかし同時に人には自由な意志が与えられる。他でもない善い意志を抱いた時にである。自由な意志により、恩寵の助けにより、人は最終的な救済を自分で自分にもたらすことができるのである。

*****
Richard Montagu
From A New Gagg for an Old Goose (1624)
STC 18038
p.108

*****
自由意志を認めないカルヴァン派(ジェイムズ1世治世の国教会
主流派?)に対して、自由意志を認めるアルミニウス派の
著作として大問題を引きおこした著作。最終的にはジェイムズ本人の
調査により、異端でないと認定。

*****
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From Allen, A Faithful Memorial of That Remarkable Meeting

ウィリアム・アレン
『1648年ウィンザー城で開かれた決定的な軍幹部会議の正確な記録』より

それでわたしたちはウィンザー城に集まることにした。48年のはじめ頃であった。そこで一日中神に祈り、神からご好意がいただけない原因は何なのかを考えた。その日は特に答えは出なかった。ただ、答えを探し続けなくては、ということになった。その翌日も再び朝から集まり、みなで聖書の言葉を語り、そして祈った。その後、中将のクロムウェルがその場にいた者すべてに対し、とても真剣にいった--軍としてのわたしたちがしてきたことについてふり返ってみよう--キリストを信仰する個人としてよく考えよう--自分たちのうちに何か不正な点はないか、あるとしたらそれは何か、よく考えて、そして可能ならそれを突きとめよう--悲しいことだがわたしたちは正しくないがゆえに神に糾弾されている(その時わたしたちは確かにそう思っていた)--その原因を取り除こう。こうして、さらに具体的にいえば、主のお導きによりその日のわたしたちは、みなが心の底から、主がわたしたちとともにいる、主に糾弾されていない、裁かれていない、といえた最後の日はいつであったか、ふり返ることにした。主のお導きにより、わたしたちはみなでこれに取り組むことにした。……そしてまた翌日に集まることにした。

翌日集まったわたしたちは、前日の議論のつづけ、過去のおこないについてふり返った。そのなかでわたしたちは、お恵み深い神の手によって(全員一致して)思い出した、主から離れてしまった時のこと、むしろ主を怒らせてわたしたちから立ち去らせてしまった時のことを。それは、俗的な、清らかでない、呪われた、あの話しあいと決定をした時であった。わたしたち自身の知恵に頼り、恐怖心に駆られ、そして信仰が足りなかったがゆえに、その一年前にわたしたちは、王および彼に従う者たちと交渉してしまっていたのだった。

まさにこの時、ゴフ大佐(確か大佐だったと思う)があのありがたい言葉、箴言1.23--「わたしの戒めに心をとめよ」--を口にした。みずからの罪を悟っていたわたしたちに対してこういったのだ。この時の大佐の魂には主が宿っていたので、その場にいたわたしたちの多くの心に、大佐の言葉は主の言葉のように響いた。この言葉を聞き、わたしたちはひどく動揺し、恥じ、正しくない自分を心から憎んだ。そんなわたしたちを主が糾弾するのはまったく正しいことだと思った。主はわたしたちにみずからの罪を教えてくださった。のみならずどうすべきであったかも教えてくださった。こうしてみなの心は重くなり、互いに言葉をかけることすらほとんどできない状態だった。ひどく泣いていたからである。正しいことをしてこなかったこと、神を信じず、卑しくも主より人を恐れ、目先の損得で動いてきたことが恥ずかしくてたまらなかった。自分たち人間の知恵ではなく主の言葉に従うべきであった。主の言葉こそ知恵と力と平和への道なのだから。主の言葉以外はみな罠の道なのだから。……

しかし、恐れおののき震えることはよいことでもあった。わたしたちは神に感謝していた。わかったからである。主はまだ愛と優しさをわたしたちに与えてくださっているということが。……主は足下にわたしたちを呼び寄せてくださると……すぐに向かうべき方向を教えてくださった。主に導かれてわたしたちの意見は一致した。誰にも異論はなかった。わたしたちがすべきなのは、全軍を集結して……あの強力な敵と戦うことであると。へりくだりつつも主の名の下に敵を壊滅させなくてはならないと。

また、その後さらに祈り、主の顔を求めた後にわたしたちははっきりと、全員一致で決意した。……もし主が再び平和をわたしたちに与えてくださった暁には、あの血に飢えた男チャールズ・スチュアートの責任を必ず問わなくてはならない、と。あの男が流してきた人々の血に対して、主やこの哀れな国の人々を無視してあの男がしたい放題してきた悪事に対して、責任をとらせなくてはならない、と。

*****
William Allen
From A Faithful Memorial of That Remarkable Meeting of Many Officers of the Army in England, at Windsor Castle, in the Year 1648 (1659)
Wing A1052
pp. 3-5

*****
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Putney, 1647: "That Man of Blood. . . "

「あの血に飢えた男……」
軍幹部会議
パトニー、1647年11月1日

ビショップ隊長:
一言いわせてください、手短に。心のなかでいろいろ考えました。なぜわたしたちの意見がバラバラで、どうしていいかわからなくなってしまっているのでしょう? 死にかけたこの国をかつてのように立て直すことができなくなってしまっているのはなぜでしょう? わたしが見つけた答えは次のとおりです。わたし以外にもこう思っている人は少なくないと思います。特に、神を信じる人ならば。誰とはいいません、が、あの血に飢えた男への対応が甘く、まだ彼を生かしてしまっているから、絶対的な暴政の源を断ち切っていないから、駄目なんだと思います。神様はわたしたちにこれまで勝利を与えてきてくださいました。明らかに神様はあの男を敵視しているはずです。なのに彼を生かしておく、となれば当然わたしたちも破滅することになるでしょう。以上、神様がわたしの魂に語ってくださることをあえていわせていただきました。今後のこの国について神様がわたしたちひとりひとりに何を語っているか、ということだったかと思いますので。

*****
"That Man of Blood. . . "
The General Council of the Army
Putney, 1st November 1647

Captain Bishop:
I shall desire to speak one word, and that briefly. After many inquiries in my spirit what’s the reason that we are distracted in counsel, and that we cannot, as formerly, preserve the kingdom from that dying condition in which it is, I find this answer, the answer which is [vouchsafed] to many Christians besides, amongst us. I say [it] not in respect of any particular persons, [but] I say [that the reason is] a compliance to preserve that man of blood, and those principles of tyranny, which God from heaven by his many successes [given] hath manifestly declared against, and which, I am confident, may [yet] be our destruction [if they be preserved]. I only speak this [as] what is upon my spirit, because I see you are upon inquiry what God hath given in to any one, which may tend to the preservation of the kingdom.

http://oll.libertyfund.org/titles/woodhouse-puritanism-and-liberty-being-the-army-debates-1647-9

*****
王チャールズ1世の処刑を神が望んでいる、という議論。

Cf. 創世記 9:5-6
あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに。

*****
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From Arrowsmith, The Covenant-Avenging Svvord

ジョン・アロウスミス
『契約違反者の首に剣を』

……人が頭と口と暮らしから神を追放すれば、もちろん神もその人から健康と生活の安定を追放するでしょう。そのような正当な報復の例は聖書の至るところに見られます。「彼らは神でもない者をもって、わたしにねたみを起させ、偶像をもって、わたしを怒らせた。それゆえ、わたしは民ともいえない者をもって、彼らにねたみを起させ、愚かな民をもって、彼らを怒らせるであろう」(申命32:22)。「しかし主を捨て、わが聖なる山を忘れ、机を禍福の神に供え、混ぜ合わせた酒を盛って運命の神にささげるあなたがたよ、わたしは、あなたがたをつるぎに渡すことに定めた」(イザヤ65.11-12)。……主はいつも最初は優しく罰しますが、二回目からはどんどん厳しくなります。薬を塗って駄目なら串刺しにするしかないのです。あるいは八つ裂きにするとか。鞭でいうことを聞かないなら、次は蠍(さそり)の刑なのです(列王上12.11、エレミア28.12-13)。木のくびきで駄目なら鉄のくびきをかけるしかないのです。

以上、神の裁きについて語られていることを確認しました。一貫しています。そこで聖書の問題の箇所について考えてみたいと思います。「わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ、違約の恨みを報いるであろう」(レビ26.25)。

この一節をしっかり理解していただくために、立派で敬虔な議員の皆様方にはわたしの話をよくよくお聞きいただければと思います。わたしは次の三つの点にについてお話します。

1. 戦争とは神ご自身の裁きによってもたらされるものです。「わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ」とあるように。

2. 戦争とは罰です。「恨みを報いる」ものです。

3. 戦争が恨みを報いるのは、神との契約に対してなんらかの違反があったです。それは「違約の恨みを報いる」のです。

この最初の点については、聖書があちこちで証明しています。「あなたがたはつるぎを恐れた。わたしはあなたがたにつるぎを臨ませると、主は言われる」(エゼキエル11.8)。「つるぎに命じて、これを殺させる」のは神です(アモス9.4)。「つるぎよ、この地を行きめぐれ」と命じるのは神なのです(エゼキエル14.17)。戦争は神の命令によっておこるのです。「主のつるぎよ、おまえはいつになれば静かになるのか。おまえのさやに帰り、休んで静かにしておれ。主がこれに命を下されたのだ、どうして静かにしておれようか。アシケロンと海岸の地を攻めることを定められたのだ」(エレミア47の終わり)。……

ここからどのようなことがいえるのか、考えてみましょう。もし戦争をもたらすのが神であるならば--

まず、それがすべて神の思いどおりであるということになります。みずからもたらした戦争を制御できないというような不名誉は神にはありえません。……ダヴィデがゴリアテにいうように、「この戦いは主の戦い」なのであって(サムエル上17.47)、最初から最後まで神が掌握しているのです。兵を招集するのは神です。「万軍の主が戦いのために軍勢を集められる」(イザヤ13.4)。武器を発注するのも神です。「主は武器の倉を開いてその怒りの武器を取り出された。主なる万軍の神が、カルデヤびとの地に事を行われるからである」(エレミア50.25)。武器があたるあたらないを決めるのも神です。「すべてあなたを攻めるために造られる武器は、その目的を達しない」(イザヤ54最後)。「彼らの矢はむなしく帰らない老練な勇士のようである」(エレミア50.9)。一方を強くし、他方の軍を弱くするのも神です。「わたしはバビロンの王の腕を強くし、わたしのつるぎを、その手に与える。しかしわたしはパロの腕を折るゆえ、彼は深手を負った者のように、彼の前にうめく 」(エゼキエル30.24)。

第二に、神には戦争を鎮める力もあります。神は自分がもたらしたものを取り去ることもできるのです。サタンやエジプトに生きた彼の魔法使いたちは疫病をもたらすだけもたらしてそれを取り除くことができませんでしたが、神は彼らとは違います。……神は狂乱の戦火を燃えあがらせることができるとともに、それを消すこともできるのです。「来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる」(詩篇46.8-9)。

第三に、だから、神を信じるのであれば、燃えさかる戦争の炎のさなかにあっても、なんらかの幸せがあることに期待しましょう。神がもたらすものはみな、最終的に善に向かっているのですから。……神の剣はいつも鋭く砥がれていて、そして油に濡れています。常にキリストに従う人に対するご慈悲という油に。キリストは「主の軍勢の将」であるとともに、「救の君」なのですから(ヨシュア5最後、ヘブル2.10)。……負けた場合でも同じです。剣によって倒れるということは、試練を与えられること、清められること、白くなることなのです(ダニエル11.33,35)。捕虜になっても大丈夫です。エレミアがいうように、主は「この所からカルデヤびとの地に追いやったユダの捕われ人を……この良いいちじくのように顧みて恵」みました(エレミア24.5)。殺されてしまっても大丈夫です。ヨシア王のように戦死しても、その死は安らかでしょう(列王下23.29, 22.20)。

第四に、だから戦争の時、わたしたちはこの世の二次的なできごとの向こうにある神の手を見なければなりません。どこに向かって飛ぶ弾丸であっても、それは神が定めた相手に当たるのです。どこからふりおろされた剣であっても、それは天の怒りに浸されて酔っているのです(イザヤ34.5)。……

先の第二の点については以下のとおりです。

剣は復讐のためにあります。神が剣を抜く時、それはいつも神が怒っている時です。聖書と歴史を見てください。「わたしがきらめくつるぎをとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは敵にあだを返し、わたしを憎む者に報復するであろう。わたしの矢を血に酔わせ、わたしのつるぎに肉を食わせるであろう。殺された者と捕えられた者の血を飲ませ、敵の長髪の頭の肉を食わせるであろう」(申命32.41-42)。「その日は万軍の神、主の日であって、主があだを報いられる日、その敵にあだをかえされる日だ。つるぎは食べて飽き、彼らの血に酔う」(エレミア46.10)。

*****
John Arrowsmith
The Covenant-Avenging Svvord Brandished (1643)
Wing A3773
pp.3-7

https://ja.wikisource.org/wiki/口語旧約聖書
https://ja.wikisource.org/wiki/口語新約聖書

*****
1643年1月25日の断食礼拝の際に議会でおこなわれた説教。
王との戦闘を正当化するもの。

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From Marshall, The Song of Moses

スティーヴン・マーシャル
『モーセの歌』より

七つの杯から注がれるのは反キリスト一派に対する神の怒りです。神の怒りが注がれるのは反キリスト的なものがあるところだけで、これをキリストは探し、見つけ、そして見つけたら必ず破壊するのです。神の杯がなしとげるといわれていることをよく見てください。ひどい痛み・苦しみに襲われているのは獣のしるしを身につけた者たちだけですから。そのような者だけが血を飲まされ、熱に焼かれ焦がされ、痛みに歯ぎしりし、雹(雹)に打ち砕かれるのです。こんな目にあうのは獣に従う者、獣を崇拝する者、獣の王国の国民だけなのです。だから恐れなくても大丈夫です。今キリストが与えている裁きによって断罪されることはありません。反キリストのために戦う武器をこっそり、あるいは堂々ともっているのでないかぎりは。そのような武器はみな破壊しなくてはなりません。お願いします。まず第一に、すぐに、あの遺物すべてを、今わたしたちのあいだで燃える炎の油・燃料となっているものすべてを、この国から、この国の教会から、排除してください。これこそ神があなたがたに与えた仕事です。心をこめてとりくめば神がともにいてくださるでしょう。すぐにとりかかってください。おそらく、この遺物が原因となってあなたがた議員のあいだに無数の亀裂が生じ、対立してしまっているのです。そもそもこれらの対立を解消する努力が足りなかったのです。ある党派の者たちが議会を去ることになろうとも、また彼らがあなたがたに強く敵対しようとも、恐れる必要はありません。いいですか、その党派とはバビロンの娼婦の杯から酒を飲んだ者たちなのです。バビロンの娼婦を愛し、そして忌まわしき淫らな行為に耽っている者たちなのです。そのような者たちは役に立ちません。そのような者たちに邪魔されぬよう、キリストがあなたがたの仕事を守ってくれるはずです。そのような者たちはおそらく、いえ確実に、自滅していくことでしょう。この書[ヨハネの黙示録]に記されたとおりの呪いをみずからの上に、また彼らの子孫の上に、もたらすことでしょう。バビロンの服と金の延べ棒をテントに隠していたアカンのようにです。主はあなたがたの味方です。自信をもって進み、勝利を収めてください。

*****
Stephen Marshall
From The Song of Moses (1643)

[A]ll which is done in the pouring out of the seven vialls, is the wrath of God upon the Antichristian faction . . . there is no wrath upon any where ever it is poured, but onely as there is something of Antichrist among them, which Christ will search for, find, and destroy, where-ever he finds it: Consider the whole work of the vialls, and you shall finde noysome and grievous sores upon them onely that have the mark of the Beast, the drinking of bloud, the scorching with heat, the gnawing of their tongues for paine, the being destroyed with hailstones, &c. All these light onely upon the followers of the Beast, the worshipers of the Beast, the kingdome of the Beast, & therefore let none feare any hurt frõ these judgments which Christ is now inflicting, but such as either secretly or openly harbour any of Antichrists acursed stuff which must be destroyed; & let it be I beseech you, your speedy care to cast out of this Nation and Church all those reliques, which are the oyl and fuel that feed the flame which burnes amongst us: God calls you now to this work, and will be with you while you set your hearts and hands to doe it; and doe it speedily, it may be it is one Cause, why so many breaches are made upon you, because you have no more vigorously attempted it in the first place; and fear not that ye should therby lose a party, or strengthen a party against you, beleeve it, that party that hath drunk of the whores cup, and is in love with her abominations, will never be assistant, nor wil Christ suffer them to overthrow the worke committed to your hands; they may and shall destroy themselves, bringing the curses written in this book upon themselves, and their posteritie, as Achan did by hiding the Babylonish garment and wedg of gold in his tent, but the Lord will be with you, therefore go on and prosper. (7-8)

*****
内乱初期における議会への説教。黙示録にもとづく
終末論を実際の社会の分析に応用。国教会(やその長チャールズ1世)
を反キリスト・獣、つまりローマ・カトリック側の勢力と解釈し、
その討伐を(あいまいな言葉で)推進・扇動する。

「モーセの歌」はヨハネの黙示録15.3-4にある。
アカンについてはヨシュア記7参照。

このような説教をして内乱を扇動しつつ、内乱末期には
チャールズの擁護にまわる。それゆえミルトンのような
軍の支持者たちからは裏切り者と非難される。

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From "Homily against Excess of Apparel"

「華美な衣服・装飾について」(部分)
『説教の書』より

女は夫に従っていればいい、必要な服を着ていればいい--こうテルトゥリアヌスはいいました。アレクサンドリアの哲学者フィロンの妻は、どうして金を身につけないのかと訊かれてこう答えました--立派な夫がわたしを十分飾ってくれています。なのに、神様の言葉によって教育されたキリスト教徒の女性たちが夫をもって満足できないというのはどういうことなのですか? そもそもキリスト教徒であれば誰だって、天国から来てくださった救い主キリスト様の知恵と力という十分以上のものをを身にまとっているのでしょう?

愚かでおしゃれ好きで好みにうるさい女性はこういうでしょう--顔を塗ったり髪を染めたり体に香りをつけたりきれいに着飾ったりしているのは夫のため、夫にきれいと思われたいから、夫に愛されつづけたいから、と。ああ、馬鹿な言い訳です。恥ずかしい。夫に対して失礼です。だって、悪魔にもらった服を見て嬉しがるだなんて、わたしの夫は馬鹿です、といっているようなものではありませんか! 顔を塗って髪を巻いて、そして変な色をつけるなんて、創ってくださった神様に文句をいうのと同じです。一定の美しさを与えてくれた神様よりも上手にきれいに自分を創れるとでも? 外見にこだわる女性は、神様がお創りになったものを創り直そうとしているのです。あるがままのもの、自然の状態のものすべてが神様の作品です。不自然なもの、見かけを変えられたものがあるとしたら、それは悪魔の仕業なのです。そんな化粧だらけの派手な顔を見て、キリスト様を信じる賢い夫が喜ぶわけないではありませんか。化粧など、誰とでも寝る娼婦のような女がすることです。こうして男たちを悪へと引きずりこむのです。夫のためであれば、まじめな女性でも娼婦と同じことをしてよいのでしょうか? ありえません。夫のため、というのは見え透いた嘘、ただの言い訳にすぎません。そういう女性は夫以外の男たちの気を惹きたいだけなのです。きれいに装えば外に出たくなる、男たちに声をかけてほしくなる、そういうものなのです。……

ソロモンは着飾った愚かな女性についていいました--どれほど美しくても生活が乱れていておこないが悪ければ、金の鼻輪をつけた豚と変わらない、と(箴言11.12)。つまり、金々きらきらに見かけを飾れば飾るほど、そのような装いで心は美しくなるどころかますます醜くゆがんでいくのです。聞きましょう、キリスト様の神聖なる使徒たちがおっしゃることを。これは聖ペテロの言葉です--女は髪を結んだり金色のきれいな服を着たりしてはいけない--むしろ心を、目に見えない良心を、清らかに美しく保たなくてはならない--それこそが神様へのいちばんの捧げものである--いにしえの立派な女たちは金など身につけず、そして夫のいうことをよく守った(ペテロ3.3-5)。

そしてこれが聖パウロの言葉です--女は落ちつきと恥じらいを身にまとっていればいい--髪のリボンや金や真珠や高価な服などいらない--目に見えるよいおこないで心の正しさをあらわせばいい(テモテ人上2.9-10)。偉い使徒たちの言葉に従うのは難しいですか? でしたら、せめてキリスト様のことを知らない異教徒の言葉を聞いてください。デモクラテスはいいました--女を飾るのは口数と華美な衣装の少なさである。そんな服についてソポクレスもいっています--愚かな女よ、それは装飾になっていない、おまえが恥知らずな馬鹿であることを示しているだけだ。ソクラテスの言葉はこうです--まじめであることがわかるような服が女のいちばんの装いである。以上のようなことをギリシャ人はことわざであらわしました--金や真珠で女は美しくならない、まじめな女が美しい。

アリストテレスもいいました--女の衣装は法で許されているよりも少ないほうがいい--衣服のかわいらしさ、外見の美しさ、たくさんの金があっても女の評価は上がらない。むしろ控えめな心、いつもまじめに生きる姿勢が大事である。

*****
"Homily against Excess of Apparel" (part)
From The Book of Homilies

Let women be subiect to their husbands, and they are sufficiently attired, sayth Tertullian. The wife of one Philo an heathen Philosopher, being demanded why she ware no gold: she answered, that she thought her husbands vertues sufficient ornaments. How much more ought Christian women, instructed by the word of GOD, to content themselues in their husbands? yea, how much more ought euery Christian to content himselfe in our Sauiour Christ, thinking himselfe sufficiently garnished with his heauenly vertues.

But it wil be here obiected & sayd of some nice & vaine women, that al which we do in painting our faces, in dying our haire, in embalming our bodies, in decking vs with gay apparell, is to please our husbands, to delight his eyes, and to retayne his loue towards vs. O vaine excuse, and most shamefull answer, to the reproch of thy husband. What couldst thou more say to set out his foolishnesse, then to charge him to bee pleased and delighted with the Diuels tire? Who can paint her face and curle her hayre, and change it into an vnnaturall colour, but therein doeth worke reproofe to her maker, who made her? As though shee could make her selfe more comely then GOD hath appointed the measure of her beauty. What doe these women, but goe about to reforme that which GOD hath made? not knowing that all things naturall are the worke of GOD, and things disguised and vnnaturall be the workes of the Diuell. And as though a wise and Christian husband should delight to see his wife in such painted and flourished visages, which common harlots most doe vse, to traine therewith their louers to naughtinesse, or as though an honest woman could delight to be like an harlot for pleasing of her husband. Nay, nay, these be but vaine excuses of such as go about to please rather others then their husbands. And such attires be but to prouoke her to shew her selfe abroad, to entice others. . . .

What meant Solomon to say, of such trimming of vaine women, when hee sayd, A faire woman without good manners and conditions is like a Sowe which hath a ring of golde vpon her snout (Proverbs 11.22)? but that the more thou garnish thy selfe with these outward blasinges, the lesse thou carest for the inward garnishing of thy minde, and so doest but deforme thy selfe by such aray, and not beautifie thy selfe?

Heare, heare, what Christes holy Apostles doe write, Let not the outward apparell of women (saith Saint Peter) bee decked with the brayding of haire, with wrapping on of golde, or goodly clothing: but let the minde, and the conscience, which is not seene with the eyes, be pure and cleane, that is, sayth hee, an acceptable and an excellent thing before GOD. For so the olde ancient holy women attired themselues, and were obedient to their husbands (1 Peter 3.3-5).

And Saint Paul saith, that women should apparell themselues with shamefastnesse and sobernesse, and not with braydes of their haire, or gold, or pearle, or precious clothes, but as women should doe which will expresse godlinesse by their good outward workes (1 Timothy 2.9-10). If ye will not keepe the Apostles preceptes, at the least let vs heare what pagans, which were ignorant of Christ, haue sayde in this matter. Democrates saith, The ornament of a woman, standeth in scarcitie of speach and apparell. Sophocles saith of such apparell thus, It is not an ornament, O thou foole, but a shame and a manifest shew of thy folly. Socrates saith, that that is a garnishing to a woman, which declareth out her honestie. The Grecians vse it in a prouerbe: It is not gold or pearle which is a beauty to a woman, but good conditions.

And Aristotle biddeth that a woman should vse lesse apparell then the lawe doth suffer. For it is not the goodlinesse of apparell, nor the excellencie of beautie, nor the abundance of gold, that maketh a woman to bee esteemed, but modestie, and diligence to liue honestly in all things.

http://www.anglicanlibrary.org/homilies/bk2hom06.htm

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Bayly, The Practise of Pietie

ルイス・ベイリー
『信仰を実践しよう!』より

・主の日を本当に清らかに過ごすには
さて、安息日を守るには次の二点を満たさなくてはなりません。まず、いつもの仕事、体が生きるために必要な仕事から休むこと。次に、その休息を神様への奉仕にあてること……。

・第一の点について
いつもの仕事、体が生きるために必要な仕事とは、社会人としての仕事すべてをさします。その重さ・重要性は関係ありません。具体的には、まず第一に本業を休まなくてはなりません。たとえ収穫の時期であってもです。

第二に、運輸業者のように荷物を運ぶのをやめなくてはなりません。利益のために、あるいは楽しみのために外出してもいけません。神様は、安息日には獣も休むよう命じました。その日に獣を使って人が働くことがないようにです……。

第三に、市場に店を出してはいけません。これを神様は疫病や火事や不思議な洪水で罰してきました。

第四に、読書や勉強をしてはなりません。聖書や神学書についてはこのかぎりではありませんが。主の日には、魂を集中させてこの世のことを忘れるよう努めなくてはならないのです……。

第五に、あらゆる遊び・娯楽をやめなくてはなりません。他の日に許されているようなものでもです。他の日に許されている仕事でも主の日には禁じられているのですから、わたしたちの心を奪って神様を忘れさせる遊びなどいうにおよびません。

第六に、食べすぎてはいけませんし、ワインや強い酒を飲みすぎてはいけません。酔ってうとうとして心から神様に仕えることができなくなってしまうからです。

第七に、神様や天国のこと以外いっさい話をしてはいけません。安息日に俗的なことを話せば、これは働くことよりもさらにひどく安息日を汚すことになります。仕事はひとりでもできますが、話は他人がいないとできないことですから。

安息日を守っていつもの仕事を控えるというのは、獣にもできることです。キリスト教徒であれば、この日に休むことで罪を浄化しなくてはなりません。仕事が禁じられているのは、それが体と心を神様の礼拝から遠ざけてしまうからです。

他の日に許されている遊びが安息日には許されないのですから、他の日にも許されない遊びが安息日に許されないのは当然です。ですが、実際どのようにキリスト教徒が主の日を過ごしているかを見ると涙が出てきます。まるでバッコスを称えるパーティをしているようなのですから。主なるイエス様、救い主として世界を救ったイエス様を称える日なのに! ほんの一時間ほどかたちだけの礼拝をすませると、みな食べて飲んで遊びに行きます。まずお腹がふくれるまで食べて飲んで、そして遊んで踊って欲を満たします。このような冒涜は、昔から偉い神学者たちが強く非難してきたことです。アウグスティヌスもいいました、安息日に踊るくらいなら畑を耕しなさい、と。

……この本を読んでいる皆さんにはぜひ考えてほしいと思います。いつか救い主とすべての天使たちの前で答えなくてはならない日が来ますから。踊ること、劇や仮面劇で演じること、カードやさいころやバックギャモンやチェスやボウリングや狩りや熊いじめで遊ぶこと、酒をごくごく飲むこと・ちびちび飲むこと、ロビン・フッド気取りのいろんな馬鹿遊び、モリス・ダンスや各種の前夜祭、そして五月祭、これらを神様が祝福してくださると思いますか? 安息日にお許しくださるとでも? 安息日には神様を称えること、神様からお恵みをいただけるようなことのみ許されているというのに、そのような日に皆さんは上のような遊びにふけって神様に祈らない。……聞きなさい。そして震えなさい。おおお! 神を冒涜する若者たちよ! 神を畏れぬ者たちよ!

*****
Lewis Bayly
The Practise of Pietie
1613
STC 1602
pp. 563-73

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イギリス魔女裁判:証言各種

イギリス魔女裁判:自白各種


1. 使い魔(familiar)

エリザベス・スタイル:
[彼女は]蛙の姿をした悪霊を飼っており、自分の脇腹から血を吸わせてそれを養っていた。(Rosen)

マーガレット・フラワー:
彼女は次のように自白した。彼女は二匹の悪霊に血を吸わせていた。一匹は白、もう一匹は黒のブチであった。白い悪霊は彼女の左胸から、黒のブチは性器の内側から血を吸った。彼女はこれら悪霊に魂を与えることを約束し、それらは彼女が命じることを何でもすることを誓った。(Rosen)

フランシス・ミルズ:
この証人は次のように証言した。ソープの隣人たちに頼まれて魔女と思しきマーガレット・ムーンの体を調べたところ、彼女の性器の内側に三つの長い乳首のようなものが見つかり、そこには最近吸われた跡があった。(Haining)

ジョン・コッタ:
魔女のしるし[悪霊が血を吸う乳首のようなもの]は、大抵の場合性器の内側に見られる。(Sharpe)

マーガレット・ベイツ:
二、三日の見張りの後、ベイツの妻マーガレットは次のように自白した。ある日仕事をしていた時、何かが足を上ってきて性器に入っていき、そこに噛みついたのを感じた。それは魔女のしるしが見つかったところである。また別の日、教会の庭にいた時、再び何かが同じところに噛みついたのを感じた。彼女が言うには、彼女の性器には乳首のようなものが二つあり、これらはたぶん一度噛みつかれた時に同時にできたようである。(Ewen)

エレン・ドライヴァー:
エレン・ドライヴァーを監視していたロバート・ウェイツは次のように証言した。三日の見張りの後、彼女は二匹の悪霊を飼っており、それに血を吸わせていたこと、また人間の姿をした悪魔が彼女の前に現れたことを自白した。 (Ewen)

アースラ・ケンプの証言:
アースラ・ケンプは次のように自白した。十年くらい前、彼女は節々が痛くて困っており、これを直すためにウィーリーに住むコックという男の妻(すでに亡くなっている)に会いに行った。彼女が言うには、アースラは呪いをかけられていた。アースラが懇願したので、このコックの妻は彼女に呪いの解き方を教えた。……尋問官ブライアン・ダーシーが「正直に本当のことを言えば罪を軽くしてやる」と約束するなど甘い言葉をかけてやると、アースラは突然膝から崩れ、そして泣き出し、次のように自白し始めた。四匹の悪霊を飼っていること、そのうち二匹が雄で二匹が雌であること……。(Rosen)

ジョーン・アプニーの証言:
ジョーン・アプニーは次のように自白した。ある日彼女は悪霊である蛙をハロルドの家の敷居のところで放し、それはハロルドの妻に噛みつき、血を吸って殺した。しかしこの蛙はアプニーのもとには二度と帰ってこなかった。また別の日、リチャード・フォースターの妻がやってきた時にアプニーが別の蛙を放すと、それは彼女に噛みつき、そして二度と帰ってこなかった。(Rosen)

エリザベス・フランシスの証言:
彼女は次のように自白した。まず、彼女は魔術を12歳のときに祖母から習った。この祖母とはハットフィールド・ペヴレルのイヴおばさんであり、すでに亡くなっている。……この祖母が彼女に魔術を教えた時、彼女は神とその御言葉を棄て、そして血を(この祖母が呼ぶところの)サタンに与えるよう命じた。このサタンとは、祖母が白ブチの猫の姿でエリザベスに与えたものである。祖母がこれにパンとミルクを与えるよう言ったので、彼女はそうした。祖母はこれをサタンと呼び、バスケットに入れて飼うようにと言った。(Rosen)


--------------------
2. 悪魔

エレン・ドライヴァーの証言:
エレン・ドライヴァーは次のように自白した。彼女は二匹の悪霊を飼っており、血を吸わせていた。また彼女の前に人間の姿をした悪魔が現れ、彼女はある村で彼と結婚した。彼女は彼と三年間一緒に暮らし、二人のこどもをつくった。(Ewen)

エリザベス・ホバートの証言:
エリザベス・ホバートは[次のように証言した]。30年ほど前、黒い少年の姿をした悪魔が彼女の前に現れ、嫌がる彼女の背中から血を吸った。その時に彼女は、肉体と魂を与えるかわりに気に入らない人間を懲らしめてもらい、さらにお金をもらうという契約を彼と交わしたが、彼は一度もこれを実行してくれなかった。(Ewen)


--------------------
3. 悪の誘惑

エリザベス・フランシスの証言:
このイヴおばさんが彼女にサタンをくれた時、エリザベスはこの猫に(「サタンや」と呼びかけながら)お金持ちになれるよう、いろんなものを手に入れられるよう頼んだ。この猫は「よし、何がほしい?」と言った。彼女は答えた、「羊」。(Rosen)

リンダ・テイラーの証言:
リンダ・テイラーは[自白した]。彼女の悪霊たちは彼女に盗みをはたらけと言った。また、自殺してしまえと言った……。(Ewen)

プリシラ・コリットの証言:
プリシラ・コリットは[自白した]。12年前、悪魔が 「おまえの子など殺してしまえ」 と言った。「そうしないとずっと貧乏なままだぞ……」。(Ewen)

スザンナ・スミスの証言:
スザンナ・スミスは自白した。18年前、彼女の前に赤い毛むくじゃらの犬の姿をした悪魔が現れ、自分のこどもたちを殺すよう誘惑した。しかし、彼女は24時間彼と闘い、彼を追い払った。彼女はこどもたちを殺そうとはしなかった。しかし、さらに魔術について話すよう要求されると、彼女の喉に2つの腫れ物ができ、彼女は話せなくなった。(Ewen)


--------------------
4. 夢と記憶と取調べの錯綜

マーガレット・モアの証言:
マーガレット・モアは次のように言った。彼女のこどもたちが死んでしまった後、彼女は(夜に)「ママ、ママ」と自分を呼ぶ声を聞いた。それに対して彼女は、「どこ? 何してほしいの?」と訊いた。すると彼らは彼女に「何か飲みたい」と言い、彼女は「ごめんね、ないの」と答えた。すると三番目の子の声が、「おまえの魂をくれなきゃ四番目の子の命をもらう」と言った。四番目の子とは彼女に残された最後の子であった。彼女は「あの子をとられるくらいなら魂をあげる」と言った。すると裸のこどもが現れて彼女の体から血を吸った。(“Witchcraft at Sutton” 277-78)

アビゲイル・ブリッグズの証言:
アビゲイル・ブリッグズは次のように自白した。彼女の夫が死んでからひと月たった時、夫の姿をした悪魔が現れ、彼女の上にのってきた。彼女が「私を殺すの?」と訊くと、彼は夫の声で答えた、「いや、俺はいい夫になっておまえを幸せにしてやる」。(Ewen)

*****
Barbara Rosen, Witchcraft in England, 1558-1618
Peter Haining, The Witchcraft Papers
James Sharpe, Instruments of Darkness
C. L’Estrange Ewen, Witch Hunting and Which Trial
“Witchcraft at Sutton”

*****
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From Napier, A Plaine Discouery of the Reuelation

ジョン・ネイピア
『かんたん! 誰でもわかる聖ヨハネの黙示録』より

ポイント 1
神からの預言のなかに年・月・日の表記がありますが、
この一日とは一年のことです。

ポイント 2
第8-9章の七つのラッパと第16章の七つの杯は、まったく
同じものです。

ポイント 3
第五のラッパによって落ちてくる星およびそこに
あらわれるいなごは、あのおおいなる敵反キリストおよび
彼に仕える聖職者たちではなく、トルコの支配者および
彼の軍勢のことです。彼らの支配はキリスト暦1051年に
はじまりました。

ポイント 4
東の王たち、あるいは四人の御使(みつかい)が第六の
ラッパによって解き放たれますが(第9章、第16章)、
これはユーフラテス川あたりおよびその向こうの
イスラム四国のことです。これらがオスマン帝国と
なりましたが、それはキリスト暦1296年頃のことでした。

ポイント 5
第五のラッパあるいは杯の期間は245年ですが、
他のラッパ・杯の期間もそれぞれ同じくらいです。

ポイント 6
最初のラッパ・杯は特赦・解放の年、キリスト暦71年に
はじまりました。

ポイント 7
第七の封印が解かれたのは、最初のラッパ・杯と
同時であり、それは71年でした。

ポイント 8
最初の封印はキリスト暦29年の終わりに開かれはじめます。

ポイント 9
封印の期間は、みなそれぞれ七年です。

ポイント 10
最後のラッパ・杯はキリスト暦1541年にはじまり、
1786年頃に終わるものと思われます。

ポイント 11
七つの雷の声は封印せよ、書きとめてはならない、
と命じられていますが(第10章第4節)、これは第14章
第6・8・9・14・15・17・18節に記された七人の
御使のことです。

ポイント 12
七つのうちの最初の雷、および第七つまり最後の
ラッパ・杯は、1541年に同時にはじまりました。

ポイント 13
最初の三つの雷を鳴らす天使たちはみなそれぞれ
解放をもたらします。また後半四つの雷がまったく同時に
鳴るときに最後の審判が終了します。

ポイント 14
神による最後の審判は、おそらくキリスト暦1688年から
1700年のあいだにありそうです。

ポイント 15
ダニエル書や黙示録における預言の「42か月」、「1260日」、
偉大な「三日半」、「ひと時」、「ふた時」、「半時」は
みな同じ時間を意味します。

ポイント 16
「42か月」、「1260日」、偉大な「三日半」、「ひと時」、
「ふた時」、「半時」は、人間の世界ではみな1260年を
意味します。

ポイント 17
第4章にある神の王座の説明は、天における神の偉大な
お姿についてのものではなく、選ばれた者にかこまれて
この地上で王座につき支配する神の真の教会のようすを
描いたものです。

ポイント 18
24人の長老とは、旧約聖書の24巻および(比喩的に)
それについて教えることができる真の教授者をさします。

ポイント 19
「四つの生き物」とは、四つの福音書、およびそれについて
真に書き、語ることができる者をさします。

ポイント 20
神の神殿とは天にあるものですが、しかし神に選ばれた、
ほとんど天使のような人々が地上につくる教会のことでも
あります。また、比喩的にこの教会がもつすべてのもの
をも意味します。

ポイント 21
黙示録第11章にある「二人の証人」とは旧約・新約という
二つの聖書のことであり、また(比喩的に)これらについて
正しく教えることができるすべての教授者のことです。

ポイント 22
「太陽を着た女」(第12章)とは神の真の教会のことです。

ポイント 23
黙示録でバビロニアの魂と呼ばれている娼婦とは実在する
バビロニアのことではなく、今もある都市ローマのことです。

ポイント 24
十の角をもつおおいなる獣とは、ローマ帝国全体を指します。
そのなかに反キリストがいます。

ポイント 25
二本の角をもつ獣とは、反キリストと彼の王国のことです。

ポイント 26
教皇こそ預言における反キリストに他なりません。

ポイント 27
獣の像・しるし・名・数とは、みな第一の獣、大ローマ帝国
全体についてのものであり、第二のもの、反キリスト個人に
ついてのものではありません。

ポイント 28
獣の像とは、悪に落ちた君主たちのこと、名目上ローマ皇帝と
呼ばれつつローマ人でも偉大な皇帝でもない者たちのことを
さします。

ポイント 29
666という数であらわされる獣の名は、「ローマ人」としか
読めません。

ポイント 30
ローマの獣のしるしとは、いにしえからの彼の帝国に対する
人々の隷属・従順のことです。それは目に見えないものですが、
教皇によっていろいろ目に見える姿を与えられてきました。

ポイント 31
目に見える獣のしるしとは、χξς[666]という悪の数字、
そしてあらゆる種類の十字のことである。これらは第一の
獣の名からきています。

ポイント 32
ゴグとは教皇のことであり、マゴグとはトルコ人および
イスラム教徒のことです。

ポイント 33
ゴグとマゴグの軍勢(第20章)とは、第6のラッパおよび
第6の杯の軍勢のことです。

ポイント 34
サタンが縛りつけられる千年間(黙示録第20章)は、キリスト暦
300年頃にはじまります。

ポイント 35
悪魔が縛られる千年間(第20章)とは、他でもない、国々の
あいだに全面戦争をひきおこすことができなくなる、という
ことです。

ポイント 36
反キリストがキリスト教徒を全面的に支配する1260年とは、
キリスト暦300年、遅くとも316年にはじまりました。

*****
John Napier
A Plaine Discouery of the Whole Reuelation of Saint Iohn
1593
STC 18354

*****
宗教改革、つまりローマ・カトリックからの分離を
神学的に正当化するための議論。とにかくローマを
敵視するという点では「かんたん」(???)。

このテクストは千年王国を反キリストの支配下のものと
解釈。縛られた悪魔の副官として反キリスト=教皇が
この世を千年間、ローマ帝国のキリスト教化から
エリザベスによる国教会(再)確立まで、支配した。

精読に値するとは思われないが、このような書物が
数版を重ねた、つまり一定数以上の読者を得ていた、
ということを知らなくては、16-17世紀イギリス社会は
正しく理解できない。比べれば、スペンサー、シドニー、
シェイクスピア、ジョンソンらの作品がどれほど知的に
洗練されて見えることか。

イギリス文学史の「キャノン」(正典)を批判する人々は、
「イギリス文学史」を大学における授業科目として
人為的につくられたものととらえている。
そのようなものとしてしか理解できていない。
が、違う、歴史はそこにある。
読者を集めた詩・詩人、
後の著作家に影響を与えた詩・詩人は
まちがいなく存在した。
そこから自然にあらわれてくるものが
本来の「イギリス文学史」である。

(ちなみに poetry のもとの意味は「創作」。だから、
たとえば劇も poem で劇作家は poet だった。)

言語論的転回云々の話はもうやめるべきである。
そんなメタのレベルの話は社会的に、
日常生活のなかで、誰にも求められていない。
文学や文学研究の首を絞めてきただけである。

*****
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From Deios, That the Pope is That Antichrist

ローレンス・ダイオーズ
『教皇が反キリストであることについて:
イングランド国教会を批判する分離派に対する回答』

ヨハネの黙示録19:19
なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが
集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、
戦いをいどんだ。

ここにおける「獣」とは、イエス・キリストのこの世に
おける最大の敵のひとつであり、この世の戦場でキリストに
対峙する王たちやその軍勢を統括指揮する将軍のような
ものです。もちろん悪魔こそわたしたちの救い主に
対する戦争の総大将であるわけですが、黙示録において
彼は「獣」ではなく他の名で呼ばれています。すなわち
「龍」、「いにしえの蛇」、「サタン」などとです。
悪魔は獣ではありません。悪魔が「彼の力を獣に与える」のです。
獣は龍ではありません。獣が「龍のように話す」のです。
獣とは、悪魔によって呼び覚まされ、目に見える姿を
与えられてこの世にあらわれた権力者であり、そして
この世の王たちの上に立つ存在となっています。彼、
この獣が誰のことか理解できれば、もう勝ったも同然です。
なぜなら彼に負かされるのは彼が何者か知らない者だけ
だからです。この獣とは、先にもいったとおりローマ教皇の
ことです。……教皇に従うカトリックたちはこれを
認めようとしません。彼らは教皇が獣であると認めません。
わかっているからです、この獣が反キリストであることが。
反キリストとは何しょう? もちろん、イエス・キリストの
最大の敵に他なりません。教皇が獣であることを認めて
しまったら、カトリックたちは教皇に対する畏敬も従順も
みな放棄せざるを得ないのです。以下、この獣・反キリストに
ついて聖書に書かれていることがまさに教皇の統治に
あてはまること……を示したいと思います。

*****
Lawrence Deios
That the Pope is That Antichrist:
And Answer to the Obiections of Sectaries,
Which Condemne This Church of England
1590
STC 6475

聖書の引用は次のページから。
https://tinyurl.com/yccgvatl(Wikisource)

*****
黙示録から導かれる終末論。教皇を悪魔の手先として
ローマ・カトリックからの分離を神学的に正当化する。

当初これは国教会を支持する議論であったが、やがて
国教会を攻撃するために用いられるようになっていく。

*****
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From Young, Englands Bane

トマス・ヤング
『イングランド破滅のもと』より

一回でも罪を犯せば地獄落ち、と聖パウロはいう。
罪を犯す者は悪魔の一味、と聖ヨハネはいう。
なのにあのどうしようもない人間どもは何なのか。
いや、あれは人間ではない。化け物だ。泥みたいに
酔っぱらって罪に罪を重ねている。プラトンも
いっているが、泥酔というのは頭がたくさんある
怪物みたいなものである。この頭が汚い言葉を吐き、
あれが淫らな行為に耽り、三つめが怒り、四つめが殺し、
五つめが神の名にかけて罵り、六つめが呪う。
醜い怪物の汚らわしい体にこんな頭がいくつも
のっているわけだ。このような者を聖書がお許しかどうか
見てみよう。まず汚い言葉についてはコリント人への
手紙にこう書かれている--「汚い言葉を吐く者、
悪態をつく者が神の王国を受け継ぐことなどありえない」。
エペソ人への手紙第四章でもパウロは命じている--
「腐った言葉を口から吐いてはならない、教え諭す
ような、聞く人に恵みをもたらすようなことを
語らなくてはならない」。そう、わたしたちは
とげとげしいこと、意地悪なことをいうのを
やめなくてはならないのだ。さらにパウロは、
エペソ人への手紙第五章でこういっている--
「汚らしい話や馬鹿話、冗談などもキリスト教徒に
ふさわしくない、たとえほんの少しであってもそうだ」。
だが、どれほどのくだらない汚らしい話、神に対して
失礼な罵倒、清らかならざる不敬な言葉が、
酔っぱらいの口から吐き出されていることか。
神を信じる者の耳にはとてもでないが耐えられない。
まさに心から悲しいかぎり、魂はとまどうばかり、
恐れおののかざるを得ない状態である。

……………………
泥酔の怪物の二つめの頭、すなわち姦淫については、
パウロがコリント人への手紙第六章でこういっている
--「勘違いしないように。姦淫する者、姦通する者、
淫らな者、男同士で交わる者は天の王国に入れない」。
その十五節ではこうである--「知らないのか、
あなたがたの体とは救い主の体であることを。
あなたがたは救い主の体を娼婦の体にしてしまうのか。
姦淫をやめるのだ。他のすべての罪は他に対する罪だが、
姦淫だけは自分の体に対する罪である。知らないのか、
あなたの体とは神から授けられた聖霊の神殿であることを。
そもそもあなたがたはあなたがたのものではない。
救い主が高い代償を払ってあなたがたを取り戻して
くれたのだ。だからあなたがたの体に宿る神、魂に宿る
神を称えなくてはならない。あなたがたの体も魂も
神のものなのだから」。

……………………
聖ペテロもわたしたちにいっている、肉の欲望に耽っては
いけない、それは魂の敵である、と。例の詩人[オウィディウス]
曰く、「ワインは姦淫前の心の準備体操だ」。……
ロムルスは飲酒の悪が性欲につながるのを察知して
法に定めた、女が飲みすぎたら死刑、と。なぜなら、
「飲酒は不倫のはじまり、不特定多数相手の姦淫の
はじまり」だから。聖イエロニムスも同意見である--
「酒飲みが性的に清らかと信じることなど到底できない」。
こう考えたからこそ、ダヴィデ王もウリヤを酒で
酔わせようとしたのである。つまり妻と寝たい気分に
するために。

……………………
さて、泥酔の怪物の三つめの頭は怒りである。これを
プラトンは「瞬間的な狂気沸騰・血の炎上・別人格出現」
と呼んだ。これは復讐に対する欲望、友好の完全放棄であり、
まさに理性的思考の宿敵である。いうことを聞かないこと
荒れ狂う暴君のごとしである。……この悪、つまり
怒りの醜さをはっきり理解したければ、これを抱いた
最初の者、すなわち世界最初の殺人者カインについて
思い出せばいい。……ローマ人に対して聖パウロも
いっている--「神の怒りに任せなさい」(12.19)。
怒りは復讐を求めるものだが、神がおっしゃるとおり、
「復讐はわたしがすることである。わたし自身が報復する」
のであるから。……愛しき救い主も、激怒・憤怒がもたらす
不幸を見てこういわれる--「昔の人々に、殺すな。
殺す者は裁判を受けねばならない、と言われていたことは、
あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしは
あなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を
受けねばならない」(マタイ5.21-22)。思うにこれはみな
飲酒についていわれたことである。なぜなら、正当な理由なく
怒りを抱く者はいないし、思慮ある者は理由なく怒ったり
しないのであるが、酒飲みは思慮を失ってしまって怒り
狂うからである。思慮を保っているうちは誰だって互いに
愛しあい、仲間としてあたたかく接しあうものである。……

(つづく)

*****
Thomas Young
From Englands Bane (1617, 1634)
STC 26116, 26117

(26116のほうが印刷はきれいだが、
上に訳した部分を含むB2r-B3vが欠けている。)

*****
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