静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2013年04月28日 | 教会案内

 「きよくある」  「キリストがわたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:20)

 「朱に交われば赤くなる」ということわざがあります。その意味は、「人は周りの環境によって、よくもなれば悪くもなるということ」であります。人は何により多く触れているか、何をより多く見て聞いているかで、それに影響されていくのであります。子供が親によく似てくるには、子供が毎日、親の話し方や言葉、しぐさを見ていることが一つの要因でしょう。

 私たちは誰に似てきているのでしょうか。主イエスを毎日見ているでしょうか。主イエスの言葉を聞いているでしょうか。そうするならば、主イエスに似てくるはずであります。いいえ、似るだけではありません。もっと深く、主イエスが主権をとって下さっているなら、主イエスが内にいてくださり、主のものとされきよくなり、自我がでるのではなく、主イエスが内から出てくださるのです。自分を見て心配する必要はありません。義認が信仰により、主イエスの恵みによって与えられたように、きよめも信じることにより、主イエスの恵みによって与えられるからです。

2013/4/28

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主日礼拝説教要約

2013年04月28日 | 説教要約

「主をほめたたえる生涯」 詩篇71篇1~24節 

 生れたときから年老いるまで、全生涯を主に捧げ、信仰に生きた詩人が、老齢になり、自分の信仰生涯を振り返りながら語る詩篇であります。

Ⅰ 信仰生涯の中での課題

 幼い時から主を信じ信仰の道を歩んできた告白がなされています。しかし、今は年老いて力衰え、老化、病い、そして「死」というこの地上での生涯が終わることが目の前にあり、課題をもっています。「老いる」ということは、天に心を向ける作業であり、地上で得た様々なものを置いていくことです。けれどもそれだけではなく、キリスト者は、なくてならぬもの(永遠のいのち)を持っているで、他のものが除かれる分それがますます輝いていくのが老いなのです。

Ⅱ 信仰生涯を貫く

 詩人は、老いていく課題の中で、信仰の歩みから反らせようとする攻撃に対し、神への信頼を強固にし常に神をほめたたえています。どうして走りぬいてきた信仰のレースを台無しにできましょうかというような思いで信仰生活を貫いています。

 信仰の生涯は、たとい老いや地上での生涯の終わりが目の前に見えても、またがサタンの攻撃にさらされても、常に主による勝利が与えられていて、賛美で突き抜けているのです。

2013/4/28  説教者 杉本守

 

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講壇の花

2013年04月28日 | 生花
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天のマナ

2013年04月21日 | 教会案内

 「最高の名作」

 ある時、こんな言葉を聞いたことがあります。「名作といわれる絵画には、さまざまな色が使われて、豊かな色彩で描かれている」というものです。決して明るい色だけが使われるのではなく、時には黒や灰色、こげ茶色や濃紺などであります。暗い色が重ねられることによって、広さや奥深さが描き出されるということなのでしょう。私たちの日々の信仰生活、そしてその積み重ねである信仰生涯にも、楽しく明るく喜ばしい色ばかりではありません。時には、困難や問題、重荷や試練など暗い色と思えるようなことが起きてきます。しかし、心を騒がせる必要はありません。なぜなら、私たちの人生を導き描いてくださる方は、決して失敗をしない、いえ、いつも一人一人にそれぞれにふさわしい最高傑作を描き出す主なる神であるからであります。私たちは、今もこの方により、名作として描かれているのです。

 「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」(ローマ5:3.4)

2013/4/21

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主日礼拝説教要約

2013年04月21日 | 説教要約

「心が内に燃える」 ルカによる福音書24章13~32節

 復活された主イエスは、40日間、弟子達に現れました。本日はエマオ途上の二人の弟子達に現れた記事から主の言葉をいただきます。

Ⅰ さえぎられていた目

 復活の日の夕方、復活の主イエスは現れ彼らに寄り添い歩いて行きました。しかし、主イエスがちがった姿(16:12)をしたいてこともあり、また目がさえぎられていてイエスを認めることができませんでした。さえぎられていたのでは、肉眼だけではなく霊の目もそうであり、主イエスが救い主であること、救い主が十字架と復活によって救いをすでになされたことが理解できず信じることができずにいました。喜びの日のに、彼らは当惑と失望と悲しみの日として歩んでいたのです。

Ⅱ 開かれた目

 そんな彼らに主イエスは寄り添い歩き、み言葉を説き明かし、旧約聖書全体にわたり、自らが救い主で十字架と復活によって救いは成されたと語ったのです。そして、彼らと共に食卓につかれ、食前の祈り、パンを裂いて渡すしぐさ、主イエスのみ手にある傷のあとを見て彼らの肉の目、霊の目が開かれたのです。彼らは、神の偉大な救いの計画とそのわざを知り、心が燃やされたのでした。

 み言葉が開かれるとき、平安と共に心が内に燃える経験を私たちはします。この朝も心燃やされようではありませんか。

2012/4/21 杉本守

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講壇の花

2013年04月21日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2013年04月14日 | 説教要約

「主なる神の助け」 詩篇70篇1~5節

 この詩篇は、詩篇40篇13~17節とほぼ同じであり、その内容は、助けを求める簡潔で真剣な叫びである。

Ⅰ 信仰者と悪者

 ここでは、信仰者と悪者が対比されて記されています。悪者とは、人のもの、人のいのちさえも求める欲望を持ち、人をさげずむ高慢な者のことであります。信仰者とは、神を尋ね求め、自らの弱さや罪深さを認め、神の前にへりくだり、神のみ業がなされることを喜ぶ者のことであります。悪者は恥を受け後ろに退かせ、信仰者は神を常にほめたたえるようにとの叫びが続きます。

Ⅱ 急いで

 1節の「すみやかに」は、私を悪者からお助け下さいとの祈りであります。しかし、5節の「急いで」「ためらわないで」は、悪者や危機からといより、わたしの内に急いで来てくださいと祈りであり、祈りが深くなっています。問題は、周りの環境や周りの人ではありません。どんな状況でも平安をもつことができる信仰、神との信頼、神との深い交わりが何よりも重要であることを知ったのではないでしょうか。

 私たちも、主なる神によって、どんな状況でもその中で輝く信仰、信頼による平安を持たせていただきましょう。

2013/4/14 説教者 杉本守

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天のマナ

2013年04月14日 | 天のマナ

「すべての人の幸せの出所」

 ポジティブ心理学の創始者であるアメリカのマーティン・セリグマン氏が、次のことなどを「幸せの実践法」として行いました。①毎夕、その日にあった感謝な出来事を3つ、日記に書く。②1日1回、鏡を見て大きな声を出して笑う。③1日1回、誰かに親切な行動をする。④友人や夫あるいは妻と、1週間に1時間、何の妨げもないようにして会話する。山形の米沢におられるある牧師は、朝、鏡の前に立ち自分の顔を見て、「『なんて素敵なんでしょう』と言う」とある講演で語っておられました。

 肯定的で、さらに積極的な思いはどこから来るのでしょうか。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(新改訳イザヤ43:3)のみ言葉は、いつも変わらずに主から私たちに語られています。何を人生の土台にするか。神からの語りかけから一日を始めましょう。

2013/4/14

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講壇の花

2013年04月14日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2013年04月07日 | 説教要約

「共におられる神によって」 マタイ28章11~20節

 本日は、復活祭記念礼拝です。そして、本日でマタイによる福音書を終えます。今後は、詩篇と交互にペンテコステまで、復活の主イエスの顕現についての記事から、み言葉をいただきましょう。

Ⅰ 弟子としなさい

 主イエスが昇天される前に、弟子達に言葉、大宣教命令を遺しました。ここに4つの動詞があり、命令形は「弟子としなさい」です。あとの3つは分詞形で表現されています。ある牧師は次のように訳しました。「全ての民を弟子としなさい。行きつつ。バプテスマを施しつつ、教えつつ」です。まずは、宣教のために出て行くことです。そして、信仰告白に導かれたら洗礼をさずけ、さらに聖書のみ言葉を教えて、成熟したキリストの弟子とすることです。牧師の弟子ではありません。キリストにしっかりつながり、キリストと生きた霊的な交わりし、キリストに献身する者であります。

Ⅱ 共におられるイエスによって

 裏切り、復活をなかなか信じれなかった弟子達には、宣教によって成熟したキリストの弟子を作るのは、困難であります。彼らの力や知識、人間的なものでは決してできません。では何によってそれはなされるのでしょうか。それは、共におられるイエスによってであります。イエスは天に帰られますが、降臨される聖霊なる神を通していつも共にいてくださり、聖霊を通して主イエスがご自身の力を注がれるのです。ですから、この大宣教命令をすることができるのです。事実、福音は全世界に伝えられました。

 私たちも、この主イエスが共にいてくださるので、この命令をなすことができるのです。

2013/4/7 説教者 杉本守

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