静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2009年08月30日 | 天のマナ
 「明るく元気で爽やかに」 

 神が、私達クリスチャン(キリストを信じてキリストに属している者)に求めていることとは何でしょうか?それは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」(第一テサロニケ5:16~18)とあります。

「聖徒の皆さん、兄弟姉妹よ。あなたは喜んでおられますか?感謝していますか?クリスチャンは、もっと喜び、笑顔がこぼれ、口から賛美と感謝が溢れる者です。それは、祈ることによって神の命を日々にいただいているからであります。喜びと感謝の根源は、神との交わりにある祈りから出てくるのす。

 日々の祈りを始め、木曜日の祈祷会、土曜日早朝の早天祈祷会はなんと幸いな時でしょうか。不平不満、、愚痴、不満、重荷、悩みがあるなら、祈りましょう。一人で祈ることが難しいなら、祈祷会に是非おいでください。祈る者達と共にいてくださる主イエスを体験できるからです。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集っている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)
 

 祈りの中で主に触れられ、救われている(罪赦され義とせられ、神の子となり、永遠の命をいただいている)喜びがなおなお溢れ、私達を明るく元気で爽やかにするのです。明るく元気で爽やかにいきましょう。

2009/8/30
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主日礼拝説教要約

2009年08月30日 | 説教要約
「神を信じ従う幸い」 マタイによる福音書5章1~3節

 カペナウムを中心に初期活動をされた救い主イエスの山上の説教から、主の恵みをいただきましょう。

Ⅰ 幸いな者の条件
 私達、人は「幸い」を求めています。「本当の幸い」とは、例え病いの中にあったとしても、貧しくあったとしても、どんな状況や境遇にあっても、そういうものに左右されず、平安をもっていることではないでしょうか。では、その幸いは何によって得られるのでしょうか。財や地位、名誉や知識は大切なものですが、そういうものは一時的で変わり易く、私達の心に常に平安をもたらしません。
 ここでの幸いな者の条件は、「心の貧しき者」であります。この「貧しき」は「極貧」をあらわす言葉です。つまり、自分には自分をも隣人をも満たすものが何もない、神のお恵みをいただなければ一日たりともやっていけないと言う、自分の心の貧しさを認めている者です。主イエスは、そういう者こそ幸いだと言っています。

Ⅱ 幸いな者の理由
 なぜでしょうか。それはまず、自分の心の貧しさに気がついている者は、神を求めるからです。そして、神に出会うからです。神は求めてくるものに必ずお会いになります。
 次に、神と出会う時に、神の国(神の愛と恵みの支配)がその人のうちに訪れるからです。神と命の関係にあり、神から愛と恵みがその人のうちに流れ込むのです。ですから、どんな境遇にあっても平安を持ち、幸いな者となるのです。

 自分の心の極貧さを認め、毎日、主なる神につながりましょう。

2009/8/30 説教者 杉本守
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講壇の花

2009年08月30日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2009年08月23日 | 説教要約
「あなたを心に留める神」 詩篇8篇1~9節

 この詩篇は、主をほめたたえる詩であります。どのような状況でどのような信仰告白が詩に綴られたのでしょうか。主の恵みをいただきましょう。

Ⅰ 偉大な神の栄光
 著者は、夜に満点の星を見て、この詩を綴ったのではないかと思われます。その星空に、神の創造の指の業を見ています。そして、その大自然、大宇宙が神の栄光をあらわし、神の名をほめたたえていることを改めて知るのです。
 私達も大自然を見るとその背後に人間をはるかに越えた存在である神を感じることであります。また、それと同時に自らの小ささや弱さ、はかなさをも知るのです。

Ⅱ 偉大な神のいつくしみ
 その世界を宇宙を創造され御手に治めておられる永遠の神が、なんと小さくはかなく罪深い人間にみ心に留め、顧みられているということに驚きます。私たちは、「果てしなく海に思う小さく弱い私の姿、神の目に映らなくても仕方ない者なのに」という詩がありますが、まさしくその通りの思いをします。しかし、そんな小さな私達を愛する神、神の愛の深さに驚くのです。
 「御心に留める」とは、「私達一人一人を覚えている」ということです。イザヤ49:16にあるように、私達の名を手のひらに刻んでくださっているのです。それは十字架によってと言えるのです。「顧みる」とは、「訪れる」と言うことです。私達は神が訪れてくださっていることを見逃してはいけません。

 神は偉大であり力強い方であり、私達に目を留め顧みてくださる方です。なんと幸いな真の唯一の神を信じさせていただいているのでしょうか。驚くばかりです。

2009/8/23 説教者 杉本守
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天のマナ

2009年08月23日 | 天のマナ
「韓国姉妹教会訪問ツアー」 

 昨年、主なる神様の不思議な導きにより、静岡教区はソウル第一聖潔教会と姉妹教会としての関係を結びました。昨年の秋には教区長である私が訪韓し、続くクリスマスには、ソウル第一聖潔教会の牧師夫人を始め、メンバーが多く訪静され、良き主にある交わりの時を持たせていただきました。

 この度は、静岡教区の方々に呼びかけて、この秋に姉妹教会を訪問する計画が、教区総会で承認され案内されました。ここにも主の深い摂理と導きがあることであります。日本の静岡教区を祝福するために、神が期待の内に計画された一つのことであると信じています。

 7つの教会より、少なくとも10名の参加を願っています。平日も含むとあって、お勤めの兄弟姉妹は、なかなか難しさをおぼえますが、時間、経済、家族の許されるならば共に隣国でなされている主イエスの御業を見させていただきたいのです。そして同じ主が、日本にも静岡の地にも御業をなされる方、なされている方であることを確信して、なおなお日本の宣教、静岡の宣教に励みたいのです。

「門よ、こうべを上げよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる」(詩篇24篇7節)

2008/8/23

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講壇の花

2009年08月23日 | 生花
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天のマナ

2009年08月16日 | 天のマナ
 「備える」
 
 先週は、思いがけない出来事がいくつも起こりました。まずは地震です。いつかは来ることかと思っていましたが、11日(火)とは誰もが予期はしていなかったのではないでしょうか。今後起こるだろうと言われている東海地震は今回の地震よりさらに大きいようです。次に大雨を降らしました台風です。この台風は珍しく、なんと日本近海で発生しました。いままでにあまりないことです。異常気象です。今回のことで被害に遭われた方々やご家族に、主イエスの癒しと慰めとお助けがありますように祈る者です。

 この地震によって、教会堂では少々物が落ちる程度でしたが、牧師館では、お皿が3枚くらい割れ、植木が3鉢くらい床に落ちました。大きな鏡が割れたというお宅もありました。皆さんの所はどうでしたでしょうか?ある姉妹の所では、地震に対する備えをしているゆえに、今回の地震程度では特に何もなかったということでした。少しだけ話を聞いてみると、しっかりと地震に対する備えをしていることを改めて知り、その大切さを教えられました。備えを万全にという今回のことを教訓に、今後私達は、地震や台風に備えることを始め、何よりも、主イエスの再臨への信仰の備えをもう一度しっかりとしようではありませんか。
 
「だから、あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイ24:44)

2009/8/16
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主日礼拝説教要約

2009年08月16日 | 説教要約
「わたしについてきなさい」 マタイよる福音書4章18~22節

 主イエスは、メシヤ(救い主)としての公の生涯をガリラヤ地方のガリラヤ湖畔の町カペナウムで始められました。まず始めに弟子達を選ばれたのでした。この記事から神の恵みをいただきましょう。

Ⅰ 主イエスの弟子の姿勢
 主イエスは誰を弟子に選ばれたのでしょうか。社会的な身分の高い人や知者ではなく、無名な一般の人で漁師をしているペテロとヤコブでした。しかし、彼らは社会的なものはありませんでしたが、神を信じ畏れ、バプテスマのヨハネの弟子達でありました。
 主イエスは彼らに、「わたしについてきない」と言われました。主イエスの弟子としての姿は、主イエスの後ろについていくものであります。主イエスの前にいくのではないのです。主イエスの御心に従っていく姿です。

Ⅱ 主イエスの弟子の働き
 主イエスの弟子とされた者の働きは何でしょうか。主イエスはさらに続けてこう言われました。「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」。「人間をとる漁師」とは、「人々のために益になる者」であります。もっと具体的に言うと、「主イエスのもとに人々を連れて来る者」であります。主イエスにこそ救いと平安があるからです。
 主イエスは、「修養努力して人間をとる漁師になりなさい」と言われたのではなく、「私についてくる者を私が人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたのです。うれしいことではありませんか。

 主イエスに今週もついていきましょう。主イエスが、私達を素晴らしい神の愛のあふれる器にしてくださるのですから。

2009/8/16 説教者 杉本守
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講壇の花

2009年08月16日 | 生花
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天のマナ

2009年08月09日 | 天のマナ
 「謝罪と償いから始まる平和」  

「平和に過ごしなさい。」(第一コリント13:11)

 毎年8月が来ますと、広島と長崎に落とされた原子力爆弾投下の出来事を思い、戦争を考えます。これらの事は、日本だけではなく世界の痛みの出来事でありました。しかし、今を生きる私達にとってこの時を、沈痛な思いだけで過ごしてはいけません。過去の失敗から学びとる必要があります。二度と惨事を起こさないように、これらの日が平和を再び誓う日であり、神の癒しと憐れみを祈る日でありたいのです。

 先日、アメリカ大統領オバマ氏が、核廃絶を訴えました。核廃絶に向けては、大きな一歩であり評価できることであります。しかし、これから良い業をして行こうという歩みは、大変素晴らしいことでありますが、それが豊かに実るかは、今までの過ちを認め、謝罪することをなしには難しいように思えるのです。日本は過去の戦争や数々の過ちを認め謝罪し償い、アメリカはアメリカで、広島や長崎の原爆資料館を訪れ、謝罪をし償う必要があるのではないでしょうか。ここから本当の信頼が生まれ、真の平和が実るのですから。
 
 上記のことは、日本、アメリカという国単位に限らず、私達一人一人の個人にも言えることであります。再び愚かな過ちをしないために謙り、神の憐れみの中に歩みましょう。

2009/8/9

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