静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

わたしのより頼む神

2010年02月28日 | 説教要約
「わたしのより頼む神」 詩篇18編1~50

 この詩は、サムエル記下22章にあるように、サウル王の迫害の手から救い出された日に、ダビデが主に向かって歌った詩であります。

Ⅰ 主への信仰告白
 詩人は、創造者であり救い主なる神を、自らをともすともし火としてとらえ、この方が自らをともして下さった、どんな時も臨在し共にいてくださったことを言い表しています。主なる神は、迫害によるいのちの危機というダビデの絶望の闇を照らし、時には岩となって支え、時には砦や盾となって守り、救い助けてくださったのでありました。

Ⅱ 主への信仰の歩み
 主なる神に照らされる中でダビデは、主に呼ばわり、主に従って歩み、主を崇めたのでありました。

 私たちにとって光は、主イエスです。主イエスは、「私に従う者は、決して闇の中をあることがなく、いのちの光を持つのです」と言われました。この岩なる方により頼んで歩もうではないでしょうか。

2010.2.28 説教者 杉本守
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天のマナ

2010年02月28日 | 天のマナ
 「主イエスを愛することは教会を愛すること」

 2月20日(土)朝9時からのSYU(静岡教区連合青年会)に、一人の兄弟(浜松教会青年)がはるばる名古屋から集ってこられました。彼は毎週土曜日、仕事をしている名古屋から浜松教会に来て日曜日の夕方に名古屋に戻ります。この日も車で朝早く名古屋を出てきたことでしょう。朝9時からのSYUは彼が時間設定をしました。それは、毎週土曜日の午後からは浜松教会での奉仕があるからです。彼は、土曜日の奉仕を終えると教会に泊まり、日曜日の礼拝と教会学校の奉仕を喜んで積極的にささげます。本当に感心するだけではなく、主イエスを愛し主イエスに仕えている姿を見させられました。

 主イエスを愛することは主イエスの体なる教会を愛することであり、主イエスに仕えるということは主イエスの体なる教会に仕えるとことであります。

 あなたはどのようにして、教会を愛し教会に仕えているでしょうか?
「互に仕え合うべきである」(エペソ人への手紙5:21)

2010/2/28
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講壇の花

2010年02月28日 | 生花
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主日説教要約

2010年02月21日 | 説教要約
「裁き合いからの解放」マタイによる福音書7章1~5節

本日も山上での主イエスの言葉に耳を傾けましょう。

Ⅰ 裁くな
 主イエスは、「裁くな」とおっしゃいました。私達は、聖書を基準に善悪の判断をし、悪からは遠ざかります。これは大切なことです。しかし、それとは別に、「裁き」の誘惑にあります。「裁く」とは、他人のあら探しをして批判し、断罪することです。あわれみのない心をもって罪ありとのみ定めることです。姦淫の場で女を捕らえて、主イエスのもとに彼女を訴えた者達の姿です。彼らは、彼女の心の叫びに耳を傾けることもなく、彼女が立ちなおれるようにしようという思いも少しもなく、ただ断罪したいだけでした。

 なぜ主イエスは「裁くな」と言われたのでしょうか
 人間は、裁く相手の一面しか知ることが出来ないからです。表面的で部分的なことしか知れないのに、それで裁いたのなら、あなたもそのようにされるからです。また、人間には人を裁く資格がないのです。それは、自分のうちに材木があるのに、他人の目のおがくずを取り除けることができないのです。姦淫の女を訴えた者達は、「罪のない者が石を投げつけるがよい」との主イエスの言葉に、自らの内にある材木をおぼえ、下を向いて帰っていったのです。

Ⅱ 愛しなさい
 では、主イエスはなんとおっしゃったのでしょうか。それは「愛しなさい」ということでした。まず、自らのうちにある材木を、神の前に認めて謙虚になり、きよめを受け取り除いてもらうことです。そうしたら、偏った表面的な味方から解放され、罪にある者が一番願っていること(罪から離れ立ち上がること)をどのようにしたらいいのかが、はっきり見えるようになります。そうしたら、本当の意味でその方からちりを取り除くことができ、その方を助けられるのです。それが愛するということです。

 主イエスの愛をいただき、裁き合いから解放され、愛し合うものとされましょう。

2010.2.21 説教者 杉本守
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天のマナ

2010年02月21日 | 天のマナ
「人を建てあげるキリスト者」
「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい」(コロサイ4章6節)

「世の中で一番簡単なことは、人を非難することであり、一番難しいことは人を建て上げることである」という言葉を聞いたことがあります。ニュースを見ながら、オリンピックを観ながら、誰もが自分なりの評論家になり批評をし、「良くやった」とか「まだ駄目だ」とか、「自分だったら、ああはしない」とか「自分だったらもっとうまくやる」とか、言ったり思ったりしています。

 「言うのは易し、行うのは難し」という昔の諺にもありますが、実際の自分がその場に置かれたら、非常に困るのではないでしょうか。正論のようなことを言って批評することも簡単であります。しかし、それをなしている方々の状況や背景などを知り、自らが同じ立場に置かれたら、自分が頭ごなしに述べた通りのことを行えるでしょうか?大きな誤解や勘違いで赤面することも多々あるのです。

 わたしたちの言葉が、主の愛から生まれ、人を建て上げる塩で味付けられた言葉でありたいのです。

2010/2/21
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講壇の花

2010年02月21日 | 生花
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主日説教要約

2010年02月19日 | 説教要約
「ひとみのように守られる神」 詩篇17篇1~9節

 この詩篇は、危機の中にありながら、眠る前に神に祈った詩人の祈りであります。

Ⅰ 神の前に訴える

 詩人は何を神の前に訴えたのでしょうか。
①それは自らの潔白であり、自らは神の道に立ち、わたしの思いも口も罪を犯す道を避けたことを告白しています。そしてパウロ(Ⅰコリント4:4)ということばのように、この詩人は自らを検討し、正しい裁きをなしてくださるよう主を仰いでいます
 
 さらにこの詩人は、自分を取り囲む敵からの救助と「ひとみのように守ってくださる」ことを願っています。

Ⅱ 神の前での確信
 この詩人は、事態がまだ暗黒に閉ざされていたにもかかわらず、祈りの座で与えられた神の答えを確信し神への期待を新たにしています。それはこれからも、「自分の正しさという小さな義ではなく、神の恵みによる全き義にあって、主の正しさの中で正しい歩みを続ける」というものでした。

 主なる神は、このような詩人をひとみのように守られました。このように、主なる神は、神を信じ従う者をひとみのように守り、御翼の陰に隠し続けてくださるのです。

2010/2/14 説教者 杉本守
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天のマナ

2010年02月19日 | 天のマナ
「イエスを仰ぎ見つつ走る」(ヘブル12:2)
 
 一年で一番寒い冬の時期がやってきました。しかし、この時期を通り過ぎると春がやってきます。私たちは、春の喜びを知っているので、この冬を忍耐を持って越せることができます。

 昨日から、カナダのバンクーバーで冬季オリンピックが開催され、その開会式の喜びと華やかさは、寒さを忘れさせるようなものでもありました。出場できる選手の方々は、誰しも努力を重ねてきたに違いありません。時には挫折のような出来事が起こったでありましょう。けれども、オリンピック出場を目指して歩み続けたのです。順位は気になるでしょうが、それは大きなことではありません。果敢に競技をなす姿が美しいのです。このオリンピックも楽しみであります。

 私たちクリスチャンの歩みにも、時には冬のような寒さをしのがなければならない困難がやってきます。しかし、名コーチなる主イエスが共にいて、多くの困難を乗り越えさせ、神のみ国まで確実に導いて下さるのです。だから主イエスを見つめ続け、今日一日をなしていきましょう。

2010/2/14
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講壇の花

2010年02月14日 | 生花
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主日説教要約

2010年02月07日 | 説教要約
「よくしてくださる神」 マタイによる福音書6章25~34節

 先週の「神を主人とし、富を主人にせず、自らの宝を天に積む」というメッセージの続きです。「ではどうやって生活をするのか、富に頼らず神に頼るので大丈夫か」との思いがでてくるのではないでしょうか。経済生活の問題は私たちにとって身近で重要なことです。

Ⅰ 思い煩うな
 主イエスは、根拠なしに上記のことを語りませんでした。では、主イエスの根拠とはなんでしょうか。主なる神は、人間にいのちといのちをおさめる器なる身体を与えられました。ですから、いのちに必要な、また身体に必要な衣食住を与えないわけがありません。空の鳥も野の花も神によって造られ、神によって養われ飾られています。人間は、創造の冠であり、他の被造物よりもはるかに優っています。主なる神は、神のひとり子イエスを私たちを救うために与えられるほどに愛してくださってるのですから、当然、衣食住も与える方です。だから、心配をする必要はないのです。

Ⅱ 神の国と神の義を求めよ
 私たちのすべきことは、思い煩うのではなく、主なる神を信頼し、神の国と神の義とを第一に求めていくことです。神の国とは神の支配です。神との交わりによって、神の愛と恵みの支配が、自らの魂に満たされることです。
 次には、神の義を求めることです。神の義とは、神との正しい関係をもち、信仰によって神に義とされ続ける歩みです。神と自らの間に他のもの(罪、欲、自己中心)をいれないようにすることです。

 神の救いのうちにある者として、よくしてくださる神に信頼し、第一に神の国と神の義を求めていきましょう。

2010/2/7 説教者 杉本守

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