静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

講壇の花

2013年03月31日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2013年03月24日 | 説教要約

「十字架による神の救い」 マタイによる福音書27章32~56節

 今週は、受難週です。主イエスが、十字架につけられたことを深く思いましょう。

Ⅰ 十字架を担う神の子イエス

 祭司長、律法学者、長老をはじめ、ローマ兵、道行く者そして共につけられた犯罪人たちからも、ののしられ、あざけられた主イエスは、十字架につけられました。「降りてみよ」との言葉に対して、十字架から降りることもできたはずの主イエスは、十字架から降りませんでした。それはなぜでしょう。もし、主イエスが十字架から降りたら、神の裁きは、そこにいた人々だけではなく、時間を越えて現代の私たち全てに及んだに違いありません。私たち人類に神の裁きが及ばないように、両手を広げて、神の裁きを一身に受けてくださっていたのです。

Ⅱ 神に捨てられた神の子イエス

 人類の罪を負い神のさばきを、私たちに代わって受けた主イエスは、父なる神に見捨てられたのです。父なる神に100%従い、人類の身代わりとなられた主イエスは捨てられたのです。それは、人類の罪を負ったからであります。このゆえに、私たちは赦されるのです。そして、この主イエスの十字架の死によって、聖なる神の臨在と罪深い人間とを隔てていた神殿の幕が裂けたのです。それは、誰もがいつでも神の前に近づけるようになったのです。

 主イエスの十字架による救いを感謝しましょう。

2013/3/24 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2013年03月24日 | 天のマナ

「結婚を重んじる」 「すべての人は、結婚を重んずべきである。」(ヘブル13:4)

 「結婚式を挙げないで、入籍だけするカップルがある」ことを時々聞きます。その理由は、「忙しいから」とか「お金がないから」とかであるようです。「二人が結び合わされ、二人が一つである夫婦生活が結婚式によって始まる」ことが軽くみられてきています。結婚が始まる結婚式は、仕事よりも優先され、経済よりも優先されるほど大切なものであります。仕事は、人生の一時期でありますが、結婚する夫婦は生涯のものであります。結婚式の中心は、「誓約と宣言」であり、自分達や家柄の名誉や誇りを示ために、多くの人を招いた盛大なものとする必要ありません。だから、自分達のできる経済範囲ですべきであります。どうしてもお金がないならば、両方の家族と牧師の前で質素にすれば良いのです。では、なぜ結婚式をして夫婦となるのでしょうか。社会では、式典の良さとして「節目」をあげます。結婚式も、「この人のみを夫、妻とする」という自覚を深め、「この人のみを夫、妻とする」という決心を公に示す大切な節目であります。もっと大切なことは、結婚式の中で行われる「誓約と宣言」であります。二人が神の前に、列席の方々を証人として、「夫婦となること、夫婦として愛し合う」ことを誓い、「神によって夫婦である」ことを宣言されることが何より大切なのであります。

2013/3/24

 

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講壇の花

2013年03月24日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2013年03月17日 | 説教要約

「神の子なるキリスト」 マタイによる福音書26章57~68節

 レントの日々を祈り心をもって、主イエスを礼拝しましょう。

Ⅰ 不義な裁判にかけられたイエス

 ゲッセマネの祈りの後、イエスは捕らえられ不義な二種類の裁判にかけられました。それらは、宗教裁判と政治裁判です。大祭司であったアンナス、そして大祭司であるカヤパ、全議会とによるものであります。政治裁判は、ローマの総督ピラトによるものであります。どの裁判も偽証がなされ、矛盾した訴えがあり、不義な裁判でありました。人間の罪深さをみるのです。

Ⅱ 十字架に進まれるイエス

 主イエスは、ほとんどのことに黙していましたが、神としての自らを証言するときは、「生ける神の子キリストであり、再臨時には、神の右に座して天の雲に乗ってくると明言されました。そして、人を救うのは十字架に進み行くしかないことをあらわしたのです。

 主イエスが十字架に進まれたのは、あなたのためであり、わたしのためであります。

2013/3/17 説教者 杉本守

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天のマナ

2013年03月17日 | 天のマナ

 「神の民としてのキリスト者」

 約束の地カナンに導かれた神の民は、神が王である神政国家でありました。神の民は、神がお立てになった士師たちや預言者らを通して、神のみ心を知り歩んでいました。しかし、サムエル記になり、他の国々のように目に見える人間の王を求めるようになり、預言者サムエルに「神様にお願いして王を立ててほしい」としつこく何度も求めました。神はそこまで願う民に応え、サウルを神の民の初代の王として油を注いだのです。しかし、人間の王は不完全であり失敗をし、神のみ心から離れ民を救うどころか苦しめることがあったのでした。

 現在も、同じです。国を一つにまとめ、統制のとれた強い国家とするために、人であるのに神のように祭り上げられる者がいて、またそうしていこうという人間社会の現実があるのです。人はどこまでも人であり、弱い存在であります。私たちキリスト者は、誰よりも神に頼る者でありたいのです。

 2013/3/17

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主日礼拝説教要約

2013年03月10日 | 説教要約

「神のみ心のままに」 マタイによる福音書26章36~46節

 最後の晩餐を終え、一同は賛美を歌った後、オリブ山のふもとにあるゲッセマネの園へ行きました。主イエスは特に、三人の弟子(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)をそばに置き、祈り始められました。

Ⅰ 主イエスの願い

 主イエスは、どんな嵐にも迫害にも誘惑にも恐れおののかない方でありました。しかし、ここで主イエスは、罪のない自らが、人の罪、人類の罪を負って罪人となることに対して、「悲しみのあまり死ぬほどである」と祈っております。それは、罪がどんなに汚れのろわれているものであるか、また罪に対する神の厳格な裁きを本当の意味で知っていたからであります。ですから、主イエスは、この杯(人間にかわり罪を負い十字架にかかること)を避けたいと祈られたのです。

Ⅱ 主イエスのさらに深い願い

 十字架の道以外に人間を救える方法がなく、父なる神のみ心がそこにあると確認した主イエスは、自らの率直な願いより、さらに深い自らの願いである父なる御心に従うことを決断していくのです。十字架の前哨戦であるゲッセマネの祈りで勝利したからこそ、主イエスの私達の救いは成し遂げられたのです。

 み手とみ足のみか心も裂けて、君は死に給いぬ わたしのため

2013/3/10 説教者 杉本守

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天のマナ

2013年03月10日 | 天のマナ

「喜ぶ者と共に喜ぶ」

 主イエスはパウロを通して、キリスト者の歩みを右記のみ言葉として語っています。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)

 ある牧師から、『「喜ぶ者と共に喜ぶこと」と「泣く者と共に泣くこと」と、あなたにとってどちらが難しいでしょう。』と問われたことがあります。しばらく思い巡らしていました。

 私にとっては、「喜ぶ者と共に喜ぶ」方が難しいなと感じています。それは、どうしてもひがみ根性があるからであります。「どこそこの教会が成長している」とか「どこそこの牧師が用いられている」とか、自分の口では「素晴らしいですね」と笑顔で言っていても、内側では比較しひがむ思いが潜んでいるからです。主によってきよめられ続けなければいけないと感じています。そして素直に心から喜んであげる者へと作り変えられ整えられたキリスト者とされたいのです。 

 

2013/3/10

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講壇の花

2013年03月10日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2013年03月03日 | 説教要約

「罪の赦す契約」 またいによる福音書26章26~30節

 大きな重要な契約であればあるほど、サイン、ハンコ、実印や印鑑証明が必要でしょう。主イエスはこの最後の晩餐で、人類に対する神の新しい契約を結んで下さいました。それは何によって結んでくださったのでしょうか。

Ⅰ 旧き契約

 神と人類との最初の契約は、アダムとのものでありましょう。その後、さまざまな契約が結ばれますが、大きなものとしては、出エジプトの時の過越しのものであり、また十戒を中心とするシナイ契約(出エジプト19~24章)であります。過越しの時には小羊が、シナイ契約では雄牛の血が流され、命が払われました。神は契約に常に真実でありましたが、人類は神との契約を破り続け、神に従わず偶像を拝みさばかれるものでありました。

Ⅱ 新しい契約

 そこで神は、この過越しの食事の時に、神のひとり子救い主イエスによって旧い契約を成就し、さらに新しい契約を私たち人間と結んでくださったのです。それは新しい契約は、動物の血や命ではなく、世の罪を取り除く永遠の神の小羊として、罪のないキリスト・イエスの血が流され命が払われ結ばれるものでありました。私たちは、信仰により救いを受ける新しい契約のうちにあることを感謝せずにはいられません。

 本日も聖餐式にあずかりますが、信仰をもって、いのちを注いでくださった主をおぼえあずかりましょう。

2013/3/3 説教者 杉本守

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