静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2015年08月30日 | 天のマナ
「この方(イエス・キリスト)以外に救いはない」

 夏休み明けの秋の始業日が、年間統計で中高生の自殺者が一番多いとのニュ-スを聞いて心を痛めました。その夜に娘がみていた音楽番組で、ある若い男性の歌手が新曲を歌っていました。この方は歌唱力もあり、人生を深く洞察する詞を綴る方であります。前半のよく歌詞を聞いてみますと、人生とは何かと問いかけるものや、人生に起こる理不尽さ辛さなどを訴える内容でありました。一般的にも深い問題提起はよくなされますが、答えが「あきらめ」だったり「逃げ」だったりします。彼はどう答えを得て歌っているのかと後半を注目しました。彼の答えはプロセス(過程)がなく結論だけで、「生きる」を繰り返し「とにかく生きるのだ」と力強く、自分にも聴く者にも訴えるというものでした。
 
 神を抜いた考え、神から離れた生き方では、どんなに探しても人生の答えはありません。なぜなら、神が人間を造られ、存在させ、生かしているからであります。神に立ち帰える時にすべてに解決が得られます。機械がどのように動くか不思議に思いますが、製作者に聞くと「なるほどー」とわかります。人間を造り人生を導く神に聞くことであります。すべての人間の問題である罪と死の問題さえも、神は神の御子イエスによって解決を与えています。

2015・8・30
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講壇の花

2015年08月30日 | 生花
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天のマナ

2015年08月23日 | 天のマナ
 「教えられて教え 教えて教えられる」

 聖書を学ぶための基本的な書籍が三冊あります。それらは、「新聖書辞典」「新聖書語句辞典」「新キリスト教辞典」(いのちのことば社出版)です。どれも高価でボリュームがありますが、聖書を知るためには非常に助けになり役に立つ書籍です。
インターネットのある質問サイトに、「キリスト教用語なのに知らないで使っているクリスチャンたちが結構いるのでは?」との投稿がありました。明確に答えられなかったり、薄ら覚えであったりすることがあると困りますので、思いつくままに何回かシリーズで天のマナに新聖書辞典から引用または参考にさせていただき記させていただきます。

「アーメン」・・・「確固とした」「しっかりとした」「信頼できる」という意味をもった語源ヘブル語の「アーマン」から出た語で、「本当に」「確かに」「その通り」「しかあれかし」という意味。

「ハレルヤ」・・・元来はヘブル語ハルルー・ヤーで、「ヤハ(神)を賛美せよ」という意味

「贖い」・・・「買い取る、あるいは身代金を払って見受けする」という概念である

「ホサナ」・・・「今、救ってください」という意味。後に賛美に伴う感嘆詞のように用いられている。

2015・8・23
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講壇の花

2015年08月23日 | 生花
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天のマナ

2015年08月16日 | 天のマナ
 「サマーバイブルキャンプの恵み」

 先週の11日(火)~13日(木)まで、教区主催の小学生のキャンプに参加いたしました。8月30日(日)の伝道礼拝、特別伝道集会にも来て下さる盲人の田中敏信牧師が講師でした。全体で約60名(子供は30名)の参加で、主の恵みの溢れるキャンプを持つことができ、お祈りを感謝いたします。田中先生は、小学5年生の時にだんだんと目が見えなくなってきて、6年生の時には手術もしましたが完全に見えなくなってしまいました。その後、神様と出会い救われ、心の目が開かれ人生が変えられたと話して下さり、私達は喜び輝いている先生の姿に、神の素晴らしさと活き活きしている信仰を見させていただきました。

 ポイントは見える世界にあるのではありません。見えない世界にあるのです。どんなに肉眼の目が見えていても、心の目、霊の目が開かれていなければ、むなしく終わっていきます。しかし、たとえ肉眼の目が見えなくなったとしても、心の目、霊の目が開かれているならば、神の恵みに満たされ、喜びが湧いてきます。「先生、見えるようになることです。」(マルコ10:51)

2015.8.16
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講壇の花

2015年08月16日 | 生花
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天のマナ

2015年08月09日 | 天のマナ
 「平和をつくり出す人たち」

 神から離れた人の内からは平和はでてきません。なぜなら、神から離れた人は罪の中にあり、自己中心に生きているからであります。どの時代の人も平和を願い、平和を掲げてきましたが、争いが絶えない歴史を見い出します。しかし、神によって救われ変えられた者は、罪を赦され罪から救われ、神を中心に生きていて神に従っていますから神によって平和をつくりだせます。それではなぜ、時に教会でもキリスト者同士でも平和が失われ争いとなるのでしょうか。それは、神に従うことからずれてきてしまっているのであります。神に従うこととは、主なる神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する事です。国家間、民族間に限らず、教会、家族、職場など平和が失われて行く時、一人一人が自分を吟味する必要があります。私は神の御心に従っているのだろうか、それとも自分の我を通そうとしているのだとうかと。神に救われたキリスト者は、このようにへりくだることができる者たちです。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5章9節)

2015/8/9
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天のマナ

2015年08月02日 | 天のマナ
「先々ではなく今を生きる」

 私の趣味は、旅行することであります。天の父なる神様が造られた世界を、自分の目で見てみたいとの願望があるからです。そんな自分に旅行をしている時、言い聞かせていることが一つあります。それは、先々にこと、次の場所や次のすることに気を向けすぎて気を奪われ、大自然の中にいる今を十分に楽しまず、主との今の交わりをゆっくり堪能しないということであります。
 マルタとマリヤの話しが聖書にあります。マルタは接待に追われ、マリヤは主イエスの足もとに座し、じっくりとみ言葉に聴き入っていました。マルタの愛の奉仕はどんなに貴重かと思いますが、マルタは上記した私のようではないかと思わせられます。「多くのことに心を配って思いわずらっている」と主イエスはマルタに言われたように、「今のこと」よりも「次」のこと「次のこと」に心が向けられてしまっていたのです。どんなにマルタ的な奉仕が必要であっても、わたしたちはマリヤにならって、今、私たちに語って下さっている主のみ言葉に聴き入ることに専念することをしたいのであります。主イエスの「しかし、無くてはならむものは多くはない。いや一つだけである。マリヤはその良い方を選んだ」というみ言葉に従って。

2015/8/2
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