静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2015年11月29日 | 天のマナ
 「この事実に感謝して」

 10月より我が家では、オスのハリネズミ(名:ゴン)を飼い始めました。快適に住めるように良い環境をと、飼育ゲージに、木の家、餌、水、消臭対策に木くず、運動不足解消に回転車、おやつなどをそろえました。さらに冬の寒さ対策に、温度湿度計、暖房電球、手作りのあったか寝床。そして、毎日のわたしの仕事は、糞の掃除、餌やり、水替えなどです。「寒くないかなあ・・健全に成長しているかなあ・・病気なっていないかなあ・・」と思いを注いでいます。一方ハリネズミのゴンは、飼い主がいること、快適に生きられるように毎日お世話になっていることなどわからず、知らん顔をしています。犬などはご主人を理解し感謝し従うようですが、ハリネズミでは、多少なれるくらいです。ゴンのために餌をあげたり、お掃除をしようとすると、それを理解できずに怒ったりもします。このゴンの姿をみて、神が私のためにして下さっているのに、理解できずに怒ったり愚痴をいったり心配したりしまう私と同じだなと思います。

 私達は、神に人として造られ生かされています。主なる神は、日々、私達が生きるための必要を備え、心をかけて下さっているこの事実を忘れないようにしましょう。イザヤ書45章18節のみ言葉です。
「天を創造された主、すなわち神であって、また地をも造り成し、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人のすみかに造られた主はこう言われる『わたしは主である、わたしのほかに神はない。』」

2015・11・29
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天のマナ

2015年11月22日 | 天のマナ
 「神のみわざがあらわれるため」 
 
 先日、特別支援学校の小中学生の学習発表会を観てきました。肢体不自由な子供たちが、車イスに乗って、あるいは医療器具を装着して、あるいはベットに寝たままで精一杯発表をしていました。歌ったり、先生とダンスしたり、自由にならない体をいっぱいに使っての演技でした。発表が終わった子が休憩時間に親元に来て、親に抱きしめられている姿なども見ました。これらの姿を見て感動し、神の御業があらわれていることを感じました。彼らには彼らでしか果たせない神様の特別な使命があるのです。誰しも、時に自分の存在が役に立っているかと問いたくなる時があります。
 しかし、神は常に変わらず語ってくれています。「すべてわが名をもってとなえられる者(わたしの名で呼ばれるすべての者)をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」(イザヤ書43:7)とです。神はあなたに神のみわざをあらわすため、あなたは神の栄光をあらわすために今も生かされているのです。

2015.11.22
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天のマナ

2015年11月15日 | 天のマナ
「教会の大牧者なるキリスト」 

 大説教者スポルジョンは青年の時、教会に行こうと思いました。しかし、吹雪によって阻まれ、近くの小さな教会に飛び込みました。牧師は吹雪によって来ることができず、信徒が説教していました。それは説教というものではなく、「わたし(神)を仰ぎのぞめ、そうすれば救われる」(イザヤ書45章22節)を何度も連呼していただけです。しかし、スポルジョンの心がうちに燃える経験をしました。彼は子どものころから教会に行っていたので、キリストの十字架と復活の出来事は知っていました。しかし、そのとき「ああ、キリストは私の罪を負い十字架にかかり、私が生きるために復活したのだ」ということが分かったのです。

 先週、私は清水教会でメッセージをし、礼拝をささげました。お掃除の後、皆さんを送り出してから、静岡教会のバザーの準備を気にかけながら急いで車を走らせました。着いてみるとすでにバザーは始まっていて、近隣の方々でいっぱい、そして静岡教会の兄姉の輝く笑顔と活き活きとした動きに、安心と喜び、そして「乗り遅れた」というちょっぴりの寂しさを感じました。「私が焦ってあくせくしなくても主の導きにより、ちゃんとまわり進んでいる」こと、大牧者なる主を中心とし、主に仕える大人の教会の姿をみさせていただきました。

 2015・11・15
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天のマナ

2015年11月08日 | 天のマナ
「み言葉による選択」
 
 主なる神さは、人に自由意思を与え選択することを委ねられました。そして、人の歩みは選択の連続であります。小さい事から人生の歩みを決める大きな事の選択まで、決断の連続であります。神を信じる以前の私たちは、その選択の基準を自らに置いていました。自分の願いや自分の利益でありました。しかし、神を信じ救われ、神に従う人生に変えられた私達の選択の基準は、神様の御心に従うことであります。神の御心は、聖書のみ言葉にあらわされています。特に大きな決断は、聖書のみ言葉を頂き、聖霊の導きによってみ心を確認し、教会(兄弟姉妹)の賛同や理解も得ながら進めていくことが必要です。

 夜の祈祷会では、日曜日の礼拝のメッセージをもう一度振り返りつつ、み言葉による分かち合いをしています。その中の一人の姉妹が、デボーションでいただいたみ言葉とそのみ言葉に導かれている信仰生活を、具体的に分かち合って下さっています。み言葉に生きる信仰生活とは、こういうことだと教えられ励まされています。「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119:105)

2015・11・8
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天のマナ

2015年11月01日 | 天のマナ
「クリスチャンの戦い、教会の戦い」

「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威とやみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ人への手紙6章11~12節)
 
クリスチャンの戦いは、血肉の戦いではありません。人と人、部族と部族、国と国との戦いではないということです。クリスチャンの戦いは、悪魔とその手下の悪霊(サタン)との霊的な戦いです。サタンの策略としての攻撃は明泊で、それは関係を壊すものです。神と人、国と国、部族と部族、人と人(夫婦、親子、家族、友人、隣人など)の関係を混乱させ壊すのです。その方法は、神中心で神に従う歩みから離れさせ、自己中心にさせ数々の罪を犯させ、それぞれの間に罪を置き断絶させ敵対させることです。それに対してのクリスチャンの対抗手段は、真理であり正義であり御霊の剣である神の言葉を語り、十字架と復活の福音を足に履き伝え、信仰の盾を自らの前に高くおき、神の救いをかぶり続け(与り続け)、祈ることであります。血肉に対しては、主イエスが語り、また十字架で私たちにして下さったように、敵を愛する(相手の立場に立って考える)、祈りの執り成しをし、もし報復があるならばそれは主なる神に委ねことであります。

2015・11・1
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