静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2010年06月27日 | 天のマナ
 「育てられいる感謝」
  
 私は牧師の家庭に生まれ、物心つく前から教会の中で育てられました。教会堂に住み教会学校に通い、キリスト者の交わりの中で、賛美と祈りとみ言葉によって成長していきました。

 しかし、自分の思いの中では、そのことに気がつかず、一人で大きくなったような気でいました。どんなに祈られて支えられてきたかを気がついたのは、恥ずかしながらここ数年前であります。私がイエスを救い主と信じ、救いを受けることができたのも、きよめと献身に導かれたのも、信仰生涯をここまで歩めたのも、牧師として22年目を迎えられているのも、ただ主のあわれみと両親、母教会、そして静岡教会の聖徒の方々のお祈りと支えのゆえであるのです。これに気づくまでにどれくらいの失礼をしてきたかわかりません。今もこれからも祈られ支えられて歩む私であります。

 私たち一人一人が救われ、信仰生活を歩むのには、さまざまな必要があります。牧師や奉仕をする働き人、共同体で礼拝する会堂、教会の働き(宣教、牧会、教育など)です。創立してから来年で60年、その間グレース・チャペルの聖徒方々の祈り、そして献身は、牧師を支え、牧師家族を支え、一人一人の聖徒を支え、教会を前進させてきたのです。その故に、私たちは救われに導かれ、信仰を継続できているのです。ですから感謝のあわれとして、また私たちの使命として自らもこの働きに積極的に加わるのです。

 2010/6/27
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講壇の花

2010年06月27日 | 生花
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天のマナ

2010年06月22日 | 天のマナ
 「主の恵みを受けた者達は」
  
 主にある神の家族、共同体でささげる礼拝、少人数のグループの中で主と交わるセル・グループ、主と我、1:1で深める主との交わりのデボーションにおいて、私たち一人一人は主の豊かな恵みをいただき満たされていることに感謝しています。それだけではなく私たちは、恵みを受けっぱなしではいけないことをも自覚しています。宣教と教会形成に励むことによって、さらなる主の恵みを体験し成長成熟し、主の恵みは広がっていくのです。私たちの教会では、主日の午後に、さまざまなプログラムが持たれています。改めて下に記しますので、どうぞその働きに加わりましょう。

基本的な主日の午後の予定です。特別な行事が加わると変更となります。
(偶数月)
  第一学び会、第二各部、第三僕リーダー会、第四セル・グループとグレース・アワー
(奇数月)
  第一教会学校教師会、第二ビジョンを語る会又は各部、第三役員会、第四セル・グルー  プとグレース・アワー   

「キリストを基として、全身はすべての節々により、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。」(エペソ4:16) 

2010・6・20
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主日礼拝説教要約

2010年06月20日 | 説教要約
「なぜ、こわがるのか」マタイによる福音書8章23~27節

 5月末の伝道礼拝と同じ箇所ですが、クリスチャン向けに語ります。

Ⅰ 神に従う中での試練
 主イエスは弟子達向けて、向こう岸へ行こうと言われました。それは向こう岸の人々にも神の国を訪れさせるためであります。弟子達は、その主イエスの言葉に従い舟を出しました。しかし、その途中で嵐にあい、弟子達は、死にそうになほどになり恐れました。主イエスの言葉に従ったのに、そのような試練にあったのです。そこには神の深いみ旨がありました。弟子達は、その中で共にいてくださる主イエスに助けを求めたのでした。
 私たちキリスト者が、主イエスの言葉に従う中でも試練にあうことがあります。しかし、私たちが目を向けるところは、試練そのものではなく、試練の中に共にいたもう主イエスであります。

Ⅱ 試練の中で体験する神のみ業
 恐れる弟子達に、主イエスは起き上がり、風と海をおしかりになり、嵐を鎮めたのでありました。主なる神は、深いご計画をもってらっしゃいます。試練の中を通すことにより、試練の中でしか経験できない神の驚くべきみ業を体験させるのです。

 ですから、私たちは主にしたがう中で試練にあうときこそに、こわがらずに共にいてくださる主を見て、主イエスの驚くべき神のみ業を体験させていただきましょう。

「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか。それに耐えられるように、のがれる道も備えてくださるのである。」(コリント第一の手紙10章13節)

説教者 杉本守
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講壇の花

2010年06月20日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2010年06月13日 | 説教要約
「わたしの罪をお赦し下さい」詩篇25篇4~11節

 この詩篇は、ヘブル語のいろは詩であり、他に8つの詩篇がこの形式をとっています。
また、この詩篇は、神の前にへりくだった者の詩とも呼ばれています。

Ⅰ 神の前に自らを認める
 2節にある「わたしの敵」とは、ダビデをねたみ命をねらうサウル王のこと、またダビデの王位をねらう子供達のこととも見ることができますが、ここでは続きを読むときに、自らの罪、また罪を犯させようとするサタンであるとみることもできます。
 詩人は、罪の赦しを三度(7、11、18)にわたって求めます。それほどに人の罪は網のように絡みついてくるのです。詩人は罪を認めへりくだり、神との絆の中にあって神を救いの神、恵み深く正しい神と見上げます。

Ⅱ 神の救いの道に歩む
 4節の「大路、道」とは神の示される正しい道であり、踏む固められた道であり、主の赦しと救いであります。主はへりくだる者、神の前に自らの罪を認め悔い改める者に、9節にあるように、この道を教え踏ましてくださるのです。

 私たちにも罪はからみついてきます。しかし、主イエスは十字架ですでにその赦してくださっています。また、サタンに勝利してくださっています。その赦しと勝利を受けて、いっさいの重荷とからみつく罪とをかなぐり捨て、神の国にむけた信仰の歩みをし続けてまいりましょう。

2010/6/13 説教者 杉本守

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天のマナ

2010年06月13日 | 天のマナ
「熱くなる」  

「そして、あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させたのである。」(第一コリント9:2)
 
 一昨日から、ワールドカップサッカーが始まりました。日本の最初の試合は明日の夜で、カメルーンとの一戦です。このワールドカップは、世界中、何十億という人たちが熱狂すると言われています。日本においても、今回はそれほど盛り上がっていないと報道されていますが、それでも多くの人たちがテレビ観戦をし、試合の時間帯は、街もいつもよりは閑散とするに違いありません。ある人たちは、家で仲間を集めて、ある人たちは、店を貸しきって熱くなって応援するのです。

 主にある兄弟姉妹は、最近、熱くなることがあるでしょうか?若い頃にはあったけど、今は合理的に省エネで、理性的で人目も気にするしと思われるかもしれません。私たちクリスチャンは、何に熱くなるでしょうか?それは主を愛することに熱くありたいのです。主を礼拝することに熱くありたいのです。主を賛美し主を伝えることに熱くありたいのです。主の霊に満たされていきましょう。

2010・6・13
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講壇の花

2010年06月13日 | 教会案内
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主日礼拝説教

2010年06月06日 | 説教要約
「主イエスに従っていく」マタイによる福音書8章14~22節

 主イエスの許に二人の人が、「弟子になりたい」と願い申し出た記事より、共にみ言葉に聴き入りましょう。

Ⅰ 自己中心な従い方
 最初に申し出たのは、律法学者でした。彼は主イエスの語る言葉や説教、またそれに伴う奇跡や癒しを見て、この方に従っていけば、この世界においてわたしの名声や地位、富や将来は輝くに違いないと考えたのです。それは、彼は自己達成や自己実現のためにイエスに従っていくという自己中心な従い方でした。
 二人目のことはルカによる福音書9章を見ますと、主イエスの方から「従って来なさい」との語り掛けがあります。それに対して彼は、従いたいけれど、それは今ではなく、自分の他の優先順位をしてからだとうのです。彼は条件をつけ、神の時にではなく自分の良い時に従うと言ったのです。これらは、本当の従い方なのでしょうか。

Ⅱ 神中心な従い方
 それに対して主イエスは、律法学者に、救い主なる私には「まくらする所がない」と言われ、主に従うことは、自分の志しを達成することではなく、どんな状況でも神の御心をなすことであると言われたのです。
 さらに主イエスは、条件をつけたもう一人の者に、主に従うことは、条件をつけずにすべてを最善になされる神にまかせて、今従うことであると言われたのでした。


 お互いの従い方を問われるのです。ただ神の栄光をあらわし、今従うものでありたいのです。主権なる主にそれが従うことです。

2010/6/6 説教者 杉本守 
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天のマナ

2010年06月06日 | 天のマナ
 「何を期待していますか?」
 
 先週は、政治において大きな出来事がありました。ご存知のように鳩山総理大臣が辞職し、菅新総理大臣が選出されたのでありました。各テレビ局は大賑わいで、我先にとこのことを報道し、さまざまなコメントがなされています。あるニュース番組では、「菅新総理大臣に期待することは何ですか?」と聞かれた市民の方々が、沖縄のアメリカ基地の課題、子供教育の課題、景気と雇用の課題、福祉の課題、財政の課題、無駄遣いの課題などの解決をあげていました。中には、「何も期待していません。誰がやっても同じです」というこたえもありました。これは寂しい気がいたします。
 
 今朝も私たちは、主なる神のみ前に集い礼拝をささげています。私たちは何を主なる神に期待して集っているでしょうか。「習慣だから」とか「何も期待はしてません」という方はおられないかと思いますが、「特にまあ」という方はいたりするかも知れません。私たちは、一時期で代わってしまう一国の総理大臣ではなく、永遠の全能の神に期待するのですから、大きな期待をもってみ前に出たいのです。さまざまな期待があるかと思いますが、何よりも、「わたしを取り扱い、主の霊で満たしきよめ、お遣わし下さい」という期待でありたいのです。

 「しもべは聞きます。主よ、お語りください」(サムエル記上3:10)

2010・6・6
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