静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2014年11月30日 | 説教要約
「闇の子から光の子へ」  エペソ人への手紙5章8節

「あなたがたがは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。」(8)

 本日は伝道礼拝です。初めて来られた方、求道者の方々を歓迎いたします。

Ⅰ 以前は闇であった
 
 「闇」とは、何でしょうか。「闇」とは「光がない状態」です。では「光」とはなんでしょうか。イエスは、「わたしは世の光である。」(ヨハネ8:12)と言われました。ですから、「闇」とは、救い主イエスを信じ受け入れていない心であり、その心をもっている人であります。私たちクリスチャンも以前は、神に背を向け、光であるイエスを受け入れていませで、闇であり、闇の中を歩いていました。どうして存在したのか、何の目的のために存在していくのか、どこの向かっていくのかもわからずに迷って暗中模索の人生でした。


Ⅱ 今は主にあって光となっている

 しかし、光である神の独り子救い主イエスを信じる時に、あなたの心に光なるイエスが入ってきてくださり、私たちは輝き、光の子として神の国を目指した確かな人生の歩みができるのです。罪は赦され義とされ、神の子とされ、永遠のいのちをいただいて歩むのです。イエスは続けて言われました。「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)。

 あなたも今日、光である主イエスを信じ、主の救いを受けて、光の子らしく歩ませていただきましょう。

2014.11.30 説教者 杉本守
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天のマナ

2014年11月30日 | 天のマナ
 「神のよって与えられる正しさ」

「正しい生活をしていれば、神を信仰しなくてもいいのではないでしょうか?」と問われます。皆さんは、どのように答えるでしょうか。「一問一答」(尾山令二著)の本を参考にして、記したいと思います。

 この質問者が言われている「正しい」ということは、何を基準にしていての「正しい」なのかであります。自分の良心は、その人だけに通用する正しさで、人によって基準が違い、人の良心は悪いことをすれば次第に麻痺していきます。また、常識的な意味で「正しい」ということも、時代が変われば変わってしまう基準であります。これらは絶対的基準にはなりません。絶対的な正しさというのものは、人間の良心や常識では判断できないもので、それは神を離れてはありえないのです。人間は、神を離れては正しい思いをもつことができず、正しいことをすることもできません。ですから、どの時代、どの状況にも変わらず貫かれている神の絶対基準においての正しさを、神を信仰することによっていただくしかありません。

2014/11/30
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講壇の花

2014年11月30日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2014年11月23日 | 説教要約
「永遠の支配者なるキリスト」 詩篇110篇1~7節

「主は誓いを立てて、み心を変えられることはない。『あなたはメルキゼデクの位にしたがって、とこしえに祭司である。』」(4)

 この詩篇は、ダビデの歌で、ダビデの後、王の即位式の式文として使われたのではないかと言われています。その内容は、メシヤ預言的であり、新約聖書に多く引用されています。

Ⅰ 永遠の王であるメシア
 父なる神と子なるメシア(キリスト)の深い信頼の関係がうたわれています。主イエスは、この1節を用いて、マタイ22:41~自分の神性を明確に主張されました。メシアは、人間としてはダビデの子でありますが、同時に神でありますからダビデの主であるのです。

Ⅱ 永遠の祭司であるメシア
 メルキゼデク(義の王)は、アブラハムが所持品の10分の1をささげた神秘的な祭司であります。シャレムの王でもありました。多くは聖書に記されていませんが、ヘブル人への手紙では、メルキゼデクに予表される主イエスこそメシアであり、とこしえの祭司であることが記されています。

 永遠の王であり、永遠の祭司なる主イエスに、これからも導かれ従ってまいりましょう。

2014/11/23 説教者 杉本守
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天のマナ

2014年11月23日 | 天のマナ
「主に感謝をささげる者の祝福」
  
 クリスマス、新年と子供たちはプレゼント、お年玉と楽しい季節でしょう。親や祖父母も、プレゼントする楽しみがあることでしょう。もし、子供や孫らが、「ありがとう」を言わなかったら、いい思いはしませんが、笑顔で「ありがとう」と何度もって言ってくれたら、それはうれしいものです。また、あげたくなることでしょう。

 先日の収穫感謝礼拝にて、ルカ17章より、主イエスによって、10人の重い皮膚病を患っていた者たちがきよめられた箇所からメッセージをいたしました。10人のうち感謝をあらわしに主イエスのもとに帰ってきたのは、1人だけでした。主イエスは、この感謝をあらわした1人を大変喜び、さらなる神の恵みを与えたのでした。主に感謝する者を主は喜び、大いなる祝福をさらに注いでくださるのです。

「そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」(14、15)


2014/11/23
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講壇の花

2014年11月23日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2014年11月16日 | 説教要約
「主なる神のみこころが行われますように」 使徒行伝21章1~14節

「こうして、パウロが勧告を聞きいれてくれないので、わたしたちは『主のみこころが行われますように』と言っただけで、それ以上、何も言わなかった。」(14)

 第三伝道旅行も終盤になり、パウロはエルサレムへ行くことを表明します。ツロの人たちはパウロを止めようとしますが、パウロは主から与えられた使命を果たすことを続けます。ツロの人たちとパウロは海岸でひざまずき共に祈ります。その祈りの姿はなんと麗しいことでしょうか。

 カイザリヤに着いたパウロは、伝道者ピリポの家にて幾日か滞在します。アガポという預言者が、パウロにこれから起こることを預言します。それは、パウロがエルサレムで迫害を受け縛られるというものでした。それを聞いた兄弟たちは、パウロがエルサレムに上らないように泣きながら願い続けました。人間的な感情から言いますとここまでされたら、さすがのパウロも動揺したことでしょう。「わたしの心をくじいたりして」と言っています。けれども、パウロは、人間的な感情の部分も神にささげて、神から授けられた使命を果たすために、こう言います。「わたしは、主イエスのためなら、エルサレムで縛られるだけではなく、死ぬことも覚悟しているのだ」と。

 この言葉に、兄弟たちも、人間的なものから解き放たれて、「主のみこころが行われますように」と祈ったのでありました。

 私たちはどうでしょうか。人間の感情、意志は大切なものでありますが、神のみ心より優先するものではありません。神にささげ、神のみ心が行われることを第一とするものでありたいのです。そこに主のみ業は進んでいきます。

2014.11.16 説教者 杉本守
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天のマナ

2014年11月16日 | 天のマナ
「キリストの手紙である私たち」
  
 先週の教会バザーでの兄弟姉妹のご奉仕をありがとうございました。雨模様でしたが、地域の方々が多く来場して下さり、良き証しの時となりました。初めて教会堂に入られた方、初めてクリスチャンにあって会話をした方もおられたと思います。パウロは、第二コリント3章1~3節でクリスチャンを「キリストの手紙である」と語り、「墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれた者である」と言っています。多くの方々が、私たちクリスチャンと出会い、キリストを読み取りました。ある両親と娘さんが二階でラーメンなどを食べながら、み言葉を読んでその意味について話していました。「心の貧しい人がなぜ幸いなのだろう」などです。横にいた私は、「教会は初めてですか?」と自然に語りかけ、そのみ言葉の意味、クリスマスの案内、ライフラインテレビの案内などをお伝えすることができました。その方々は、「クリスマスに来たい」と言っていました。バザーに来た方々が、導かれるように共にお祈りいたしましょう。

2014/11/16
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講壇の花

2014年11月16日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2014年11月09日 | 説教要約
「神の前に罪人なるあなたを執り成すキリスト」(詩篇106篇19~23節)

「それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた。」(23)

 105篇は、イスラエル(神の民)の歴史を振り返り契約に真実な神を賛美してます。106篇もその歴史を振り返り、今度は、神の民の不誠実さを告白している詩であり、契約に不真実な民をも憐み守られる神を賛美しています。

Ⅰ 神の民の罪
 出エジプトから約束の地の定住に至るまでの神の民の歴史が記され、その中での神の民の不誠実な罪が示されています。つぶやき、逆らい、偶像礼拝、不従順などの罪であります。神の救いと助けの中にありながらも、これほどまでに不誠実な民は、すべて滅ぼされても仕方がないのに、神は完全には滅ぼさないのです。それはなぜでしょうか。

Ⅱ 罪なる神の民をとりなす方 
 23節にモーセのとりなし、30節にはピネハスの仲裁という二人の神の器が立てられ、神の民をとりなしています。モーセは、アブラハムに与えられた神の恵みの契約を持ち出して祈り、また時には自分を神の書から取り除いてもかまいませんと、そこまでしてとりなしています。これらのことにより神はあわれみを神の民に垂れたのです。
 6節には、この詩人は先祖の罪を指摘するだけではなく、自分たちも先祖と同じく罪を犯したと告白しています。これは、現代の私たちにも言えることであります。自らの人生の歴史をたどる時に、イスラエルの民と同じ罪を重ねてきています。全く滅ぼされても仕方がない私たちなのに、神の憐れみを受け赦されているのです。それは、モーセのゆえでも、ピネハスのゆえでもなく、御子イエス。キリストのとりなしのゆえであり、聖霊なる神のとりなしのゆえであります。「父よ、彼らをお赦し下さい」との十字架での祈りを今もイエスは、父なる神の右の座で祈って下さっているからです。聖霊なる神も、私たちの内でうめくようにして祈って下さっているからです。

 神に対して誠実な歩みをいたしましょう。また、私たちも隣人に対して神にとりなす者とされましょう。

2014/11/9 説教者 杉本守
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