静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2022年01月30日 | 天のマナ
「真面目なあなたへ」      
 「あなたは真面目ですか?」と問われたら、どう答えるでしょうか。「はい」「ほどほどに」と答える方、「その真面目の定義は?」と逆に聞き返す方もいるでしょう。今回の問いを言い換えます。「あなたは自分で全部しなくてはならないと思い、自分で全部を負い行うタイプですか?」。ほどんとの方が「全部は負いきれませんので、負える分だけ」と答えるでしょうが、「はい」と答える方も幾人かはいると思います。この意味での真面目ですと、ある程度負えることができている間はよろしいのですが、負えなくなってくると燃え尽き症候群(それまでモチベーション「原動力、動機」を高く保っていた人が、突然やる気を失ってしまう症状)になります。緊張しすぎた糸、張りすぎた弦が切れてしまうのです。時には張りすぎた弦をゆるめる(切り替え)必要があります。例えば、日常を離れ自然の中に身を置きゆったりと主を思うのも良いことです。非日常に身を置く一人キャンプが流行っているようです。
 特に、人間では罪の重荷は負えません。罪責につぶされてしまいその結果は永遠の滅びです。ですから、主イエスはこの世に来て、あなたの代わりに罪を負い十字架に掛かられたのです。また主イエスはいのちをもって代価払って下さり償って下さいました。私たちのすべきことは、そのことを信じることであります。もし、隣人や社会への償いがあるならば、なかなか一気にはできないしょう。主の助けをいただき、できる範囲で少しずつしていくのがよいでしょう。
「いと高き方を隠れ場とする者は 全能者の陰に宿る」(詩編91編1節)。多くの詩篇の著者は、主の許に身を寄せました。主の許に身を寄せて、ゆったりいたしましょう。
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天のマナ

2022年01月23日 | 教会案内
 「妻からのお叱り」
 先週の日曜日の夜、午前の礼拝式を振り返りながら、妻に次のように語りかけました。「今日の第二礼拝の人数は少なかったなあ。講壇に立った時、今日は説教を語らず部屋に戻って落ち込んでいようかと思ったよ」と。もちろん、託された神の言葉を伝える使命を果たすのが牧師ですので、そんなことはしませんが、人間的な思いがふとよぎったのでした。その直後、「あなたは、礼拝をささげに来ている尊い方々(オンラインを含め)に失礼です」と妻からお叱りを受けました。その言葉に目が開かれました。このことについて黙想していますと、主は他にも示して下さいました。「あなたは、この尊い務め(主のみ言葉を伝える)に任じ信頼し立たせて下さっている主の対しても失礼です」ということでした。悔い改めの祈りをいたしました。
 私にとって、「改める」とは、次のみ言葉に立って今後の務めを果たすということです。
「私の愛するきょうだいたち、こういうわけ(復活の主が勝利を与えられている)ですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。」(コリントの信徒への手紙一15章58節)。「いつも全力を注いで」(口語訳)です。

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天のマナ

2022年01月16日 | 天のマナ
「新年聖会の恵み」
 今年の教区の新年聖会には、インマヌエル教団高津教会の藤本満牧師が、二回のメッセージを取り次いでくださいました。
 午前のメッセージは、ローマの信徒への手紙8章からでした。「キリスト者である私たちが知っている三つの事」が語られました。一つ目は、「私たちは、この世界の苦難の中で体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいるということ(23)」。二つ目に、「聖霊なる神がうめきをもって弱い私たちを、苦悩している私たちを助けて下さっていること(28)」。三つ目に、「神は私たちに栄光を与えて下さっていること」。これらの三つを私たちは知っているということです。
 人生において誰しもが失敗をします。「あんなことを言わなければよかった」「あんなことをしなければよかった」と。そして、「時間が戻せれば、やり直したいと」。しかし、クリスチャンには特別に聖霊が働き、過去の失敗さえも聖霊が良きに変え、新しく造り変えてくださるのです。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちのためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。」(ローマの信徒への手紙8章28節)なのです。何という神の大いなる恵、大きな愛でしょうか。ハレルヤ!
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講壇の花

2022年01月16日 | 生花
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天のマナ

2022年01月09日 | 天のマナ
「信仰良書を読む」
 「本を読むのは好きですか?」。私はあまり得意ではありません。本を読んでいますと、「これもいいな、こちらもいいと」、全部吸収したくなり、ほんの20ページも読むと、自分の容量がいっぱいになってしまうのです。ですから、私の場合、一日20ページを読むと良いのでしょう。
 「聖書は主食、信仰良書は副食」という言葉を聞いたことがあります。信仰良書とは、クリスチャン新聞、百万人の福音というものから、デボーションブック、証し集、聖書ガイドブック、聖書講解書・注解書、神学書など様々です。豊かな信仰生活を歩むために、聖書を土台とした信仰良書をも読むことは大いなる助けになります。福音派の私たちの信仰の立場から、「いのちのことば社」出版である書籍を読むことをお勧めいたします。書籍はもちろんグッズなどもネット通販もしております。教会にもオリーブという商品カタログもおいてありますのでご覧ください。また、葵区(静岡草深教会となり)には聖文舎がありますので、ご利用ください。聖書を読み理解し整理するのに助けになりますし、信仰の歩みの励ましにもなることでしょう。
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天のマナ

2022年01月01日 | 天のマナ
 「新年を迎える祈り(12月31日の牧師の日記より)」
 あと3時間半で、2021年も終わる。今年の日記には、主に対してつぶやきばかり記してしまった。荒野のイスラエルの民と同じである。旧約時代なら私はすでに滅ぼされていた。しかし、新約時代にある私、私の前に主イエスが御手を広げて立っていてくださるので、神の裁きではなくキリストによる赦しをいただいている。何という主の恵みであろうか。教会もコロナ下でも守られ、創立70周年記念をお祝いすることができたし、クリスマス祝会、キャンドル・サーヴィスなどの集まりもできた。妻の病も癒され、孫も与えられた。二つの教会の牧会も今年の務めを成すことができた。
 「主よ、この者のつぶやきの罪を赦して下さい。あなたを悲しませました。私はあなたの恵みなしには生きていけず、歩んで行けませんでした。このような者をあわれみ、新しい年を迎えさせてくださることを感謝いたします。来年は、主に感謝を記す日記といたします。来年もよろしくお願いいたします。イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン」。
 「見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。確かに、私は荒れ野に道を荒れ地に川を置く。」(イザヤ書43章19節)。
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