静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2013年06月30日 | 説教要約

「見えないものは永遠に続く」 コリント第二の手紙4章16~18節

 情報が溢れる時代に私たちは生きています。また、その情報の流れは早く、私達人間は流され踊らされてはいないでしょうか。人間の五感割合は、視覚が87%であり視覚に頼りすぎています。ですから、しっかりと識別し選別していかなければならない時代です。この時代あなたは何を見ていますか?

 聖書は、「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」と語っています。グルメ、ファッション、華やかな家や都市は見えるものであります。見える肉体を満たすにはある程度は必要でしょう。しかし、それらは見えるものは一時的であり、それらをもって見えない永遠の私達の霊を決して満たすことはできません。見えない永遠の私達の霊は、私たちに霊を授けた霊なる永遠の神様でなければ満たすことは出来ません。

 一時的な物質だけに目を奪われてしまうのではなく、霊なる永遠の神に目を注ぎましょう。「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。目えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(4章18節)

2013/6/30 説教者 杉本守

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天のマナ

2013年06月30日 | 天のマナ

 「神を信じ神の愛が注がれているから」

 一年に二回、半年に一度くらい夫婦喧嘩をします。喧嘩といっても、信頼関係を土台にした感情も含めた議論で、意見の食い違いでお互いがなかなか譲らないものであります。夫婦喧嘩は、いくつかのことを教えてくれます。一つ目は、「お互いの違い」であります。感じ方、考え方、立場、願いなど様々な違いであります。夫婦であっても、長年連れ添っていても、「人はぞれぞれ違うのだなあ」と思います。二つ目は、「人間の愛の限界を感じること、つまり自分には愛がないということを再認識する」のです。人は自分には愛があると思います。しかし、人間の愛は限界があり、時には変化し、時には自己中心的になります。

 私の娘の友達が、私の娘に「仲良い家族でいいね。お父さんもお母さんも仲良くて」とよく言われます。秘訣は、上記にあるように決して私達の内にはありません。秘訣は、主イエスの救いを受け神との関係が回復し、限りなく変わらない神の愛と憐れみが注がれているからであります。神につながるしかありません。

 「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない。誇らない。いらだたない。恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」(Ⅰコリント13:4~7)。

2013/6/30

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講壇の花

2013年06月30日 | 生花
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天のマナ

2013年06月23日 | 天のマナ

 「主イエスがそこにおられる」

 先日、ある姉が入院している病院に、8名で訪問してきました。ベットを取り囲むようにして座り、聖歌を賛美して祈り、み言葉を読み短くメッセージをし、その姉妹にお祈りしていただき、最後に一人一人が彼女の耳元でお祈りをいたしました。その彼女は、「教会堂での礼拝に来たみたいだ」と嬉しそうに何度も言われていました。まさしく、主イエスがここに臨在され、主に拝した時でした。肉体はだんだん弱くなってきていますが、魂は神に満たされ平安でありました。「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」(Ⅱコリント4:16,17)。

 「病気のときに見舞い」(マタイ25:36)と言われた主イエスは、病いの者を見舞うことを喜び、それは「わたしにしたのである」と続けています。それぞれ与えられた時に、訪問をさせていただきましょう。そこで主イエスを共に仰ぎ、主イエスにあわせていただきましょう。

2013/6/23

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主日礼拝説教要約

2013年06月23日 | 説教要約

「正しき者と悪しき者」 詩篇75篇1~10節

Ⅰ 助けは天の神より

 国家存亡の時、アッスリアの大軍によってエルサレムが包囲された時(列王記下18~19章)の詩であろうと言われています。「どこから助けが来るのであろう」と神の民は思いました。東のモアブか、西のペリシテか、南の荒野のエジプトか、いいえ助けは上(天)から来るのです。

Ⅱ 天よりの助け

 神の助けの時は、神の最善の時であり定まっています。人は時々間違いをいたします。神の時に自らをあわせゆだねるのが本来であるのに、人は、「神様何をしているのですか、遅いではないですか」と自分の時に神の時をあわせようとするのです。主権はどちらでしょうか?神は最善の時を定めています。まさにその時、神は、自らに逆らい高慢なアッスリアを主の使いによって滅ぼしたのです。

 神は正しい者(神との関係がまっすぐな者)を神の最善の時に必ず救わい勝利をもたらせるのです。「それはさばきを行われる神であって、神はこれを下げ、かれを上げられる。」(詩篇75篇7節)

2013/6/23 説教者 杉本守

 

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講壇の花

2013年06月23日 | 生花
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天のマナ

2013年06月16日 | 天のマナ

 「伝道の第一歩」 

 「聖書は食物、祈りは呼吸である」と言われます。聖書の中に祈りは多く記されています。主イエス様も父なる神との交わりを欠かさず、祈りの時間を常に確保していました。賛美すること、み言葉をいただくこと、祈ることは私達の武器であり力であります。

 7月の祈祷課題より、「宣教の祈り」として、それぞれが福音を伝えたい人の名前を挙げて、教会員でお祈りをささげたいと願っています。伝道の第一歩目は、福音を伝えたい方の名前を挙げて祈ることから始まります。兄姉は、これから救われる家族のために祈り続けておられることでしょう。それを共に分かち合い、教会全体で祈りたいのです。それぞれが家族、友人、近所の方、職場の方など、一名でもいいので名前を挙げて祈りたいのです。祈りをささげていく時に、聖霊なる神がその方にわざをなしてくださるのです。

「また、祈りのとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう。」(マタイ21:22)

 そして伝道の第二歩目は、愛の行いです。祈りつつ愛をあらわしましょう。

2013/6/16

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主日礼拝説教要約

2013年06月16日 | 説教要約

「主権は主にある」 使徒行伝2章43~47節

 聖霊を受けた使徒達は、最初の教会を形成していきました。それはとても麗しい主のからだとしての教会でありました。

Ⅰ 力強く麗しい教会

 使徒たちによって多くの奇跡としるしがなされ、神をおそれる教会でありました。また、ささげ分け与える生活がなされ、宮へは礼拝に行き、聖餐、愛餐、祈りによる霊肉の交わりがなされ、さらに使徒たちによって主イエスの教えがなされ守られていました。教会内だけではなく、すべての人に好意をもたれていた群れでした。

Ⅱ 力強く麗しい教会をもたらした理由

 どうしてそのような教会となれたのでしょうか。それは聖霊に満たされていたことはもちろん、主権を主にした教会だからであります。「おそれの念が生じ」とは、主なる神への畏敬であり、主なる神こそが主権者であることです。いっさいの物を共有にして、必要に応じてみんなの者に分け与えられたというのも、財に関しても時に関しても、いや全てのものは自分の所有ではなく、主のものであり、主の主権がそこにあり、私は神のものを管理者として預かっているにすぎないという信仰があるからです。何か人間的なイデオロギーとか信念とかからでるものではありません。

 私たちも、十分の一献金をもって、すべては主のものであるということをあらわせて頂いていることを感謝します。さらに神を主権者として歩む教会であり、個人でありましょう。

2013/6/16 説教者 杉本守

 

 

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講壇の花

2013年06月16日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2013年06月09日 | 説教要約

「神の近くにある」 詩篇73篇1~28節

 この詩人は、一つのことで躓き問うていました。「神に支配される世界において、なぜ正しい者が苦悩し、悪人がさばかれずにいるのか」というものです。

Ⅰ 幸いとは何か

 3~12節をみますと、「悪人は苦しみがなく、身は健やかで、悩まず、打たれず、肥え太り、民衆に支持され、神を畏れず、富はまし加わっている」との内容が記されています。一方、「義人は苦しみ、打たれ続けていて、時には自分の信仰が無意味なものではないかとさえ疑いたくなる所を通過している」とのものです。詩人はこのことをどんなに考え抜いても理解できずにいます。このことは人間の思考の中で解決できる問題ではないと告白します(16,17)。真の幸いとは、この世の何かではありません。この世のものは一時的ですべて過ぎ去るからです。

Ⅱ 真の幸い

 神の前に出て神と交わり、神の言葉をうけなければこの問いの解決はありません。彼は神の臨在の場に出て祈ります。そして神からの言葉を受けます。その内容は、「悪人は必ず滅ぼされる」(18.19.27)ことと、「神の近くにいることが真の幸い」(23,24)であることでありました。彼は、信仰による洞察において解決を得たのです。

 キリスト者は、世の成功者といわれている者達を妬む必要はありません。真の幸いは、神と共にいることなのですから。

2013/6/9 説教者 杉本守

 

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