静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2018年07月29日 | 天のマナ
 「三倍祈りなさい」 (夏季聖会の恵み②)

 前回に引き続き夏季聖会の恵みをお分かち致します。

 「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。」(マタイ5:7)からも語られました。そこでは、「あわれみ深い人」とは「祈る人である」ということでした。また、続けられてこう語られました。「人を非難したくなったら、その人のために三倍祈りなさい」と。人のことはよくわかり、批評や非難をしやすい私たちです。しかし、自分のことは見ようとはせずわからないのです。主イエスは、「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」(マタイ7:3)と語っています。批評や非難することは一番簡単なことです。しかし、その人の為に三倍の時間をかけて祈ることは難しい事です。

 わたしたちクリスチャンは、祈り人として存在し歩ませていただきましょう。主イエスが父なる神の右の座にて、三倍どころか、ずっと私たちの為に祈ってくださっているのですか
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天のマナ

2018年07月22日 | 天のマナ
 「地の塩、世の光とされているクリスチャンとは」    

 西湖の湖畔に建てられたホテルで三日間、夏季聖会が開かれ、200名を超す会衆が、関東の教会から集まり、7回の主のみ言葉(聖書)のメッセージを聴き、主の豊かな恵みを受けました。

 中日の午前、東京聖書学院教会の齊藤善樹牧師が、マタイ5:1~16からメッセージを取り継いで下さいました。神によって地の塩、世の光とされているクリスチャンとは、3~12節のお取扱いを受けている者だという内容でした。自分の力で地の塩、世の光となるのではなく、一か所挙げると、「心の貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである」(3)とあるように、自分の心が飢え渇き、極貧であることに気が付いている人は、神を求め、神の恵みと愛との支配を受け満たされる。こういうふうにされている時、わたしたちは地の塩、世の光とされているとのことでした。塩は自らを隠しながら周りを引き立たせ腐敗を防止し、光は周りを照らし活かすのです。
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天のマナ

2018年07月15日 | 天のマナ
「日曜日クリスチャンから毎日クリスチャンへ」 

 一人の兄弟がこのような話をして下さいました。「半年前までは、私は日曜日クリスチャンでした。それは、日曜日だけ聖書を開きお祈りをするクリスチャンで、月曜日から土曜日までは世の中の人と同じ歩みをしていました。しかし、半年前に気付かされました。毎日クリスチャンだと。日曜日だけではなく、月曜日も火曜日も水曜日も木曜日も金曜日も土曜日もわたしはクリスチャンなんだと。この聖霊によって気付かされてから、力むことなく自然体で、毎日聖書を開き読み、祈る者とされました」。その表情は、落ち着きながらも明るく活き活きとしていて、主との霊なる交わり、人格的な交わりが充実していることをあらわしていました。

 「イエス愛します 愛します 心注ぎ ただあなただけ 慕い求めます 溢れる溢れる あなたを慕う思い みそばに引き寄せて主よ 慕い求めます」の賛美が湧いてきました。「エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み・・・エノクは神とともに歩み・・・」(創世記5:23、24)
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天のマナ

2018年07月08日 | 天のマナ
 「どんな神を信じていますか?」

 日本人の宗教観はいかがでしょうか。大ざっぱにいって、「宗教なんてなんでもいいんだ。ただ大切なのは、信心する心だ」という言葉に言い尽くせされているような気がするのです。「分け登るふもとの道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」という歌にあるように、日本人の宗教観は寛容なようですが、実は宗教に対してこれほどいい加減な態度はありません。私達は、自分が信じている神が本当に自分を救うことができるのか、しかも一時的に困ったときの神頼みではなく、永遠に救うことができるのかを、真剣に考えなければならないのではないでしょうか。
 「初めに、神が天を創造した」(創世記1:1)。(聖書に記されている)私たちの神は、天地万物の造り主なるお方なのです。(「手のひらの愛」PBAメッセージ第18集より抜粋)

 天地創造の神は、あなたを愛して、あなたを罪と死から救う神です。永遠の滅びから救い、永遠の命を与える神です。「神はそのひろり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
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天のマナ

2018年07月01日 | 天のマナ
「神の永遠の御手の中で歩んでいるクリスチャン」

 「クリスチャンの人生は永遠」です。なぜならば、罪赦され義とせられ、神の子とされ、新しい命(霊の命、永遠の命)を頂いたからです。神に立ち返り神との関係が回復し、神からの霊の命が再び注がれ、永遠の神の国に相応しい新しい命(霊の命、永遠の命)を受けたからです。罪赦されきよめられ、聖い永遠の神の国に相応しい者ともされ、さらには主の再臨の日には、永遠の体(栄光の体)をいただけるからです。

 神を信じる前までは、この地上のことがすべてであり、「人生80年」、最近では「人生90年いや100年」と言われ、そう考えて歩んできましたし、そういう視点のみで物事を考え捉えて右往左往してきました。しかし、今は違います。私たちクリスチャンの人生は永遠です。この永遠に生きる者とされている視点でこの地上の物事を捉えるのです。言葉を代えるなら、霊的視点、信仰的視点、神の計画の視点で見るのです。この視点でみさせて頂くとき、「ああ、大丈夫だ」と平安が来ます。なぜなら、私たちクリスチャンの人生は、すでに永遠の人生をあたえてくださった神の御手の中で、永遠の人生の第一ステージ・地上の歩みを歩んでいるからです。

 「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。」(ヨハネ5:17)」
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