静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2014年04月27日 | 天のマナ
「ただこの一時」

 敬愛します神の家族である兄姉は、日記をつけておられるでしょうか?ふと気が向くと、私は日記をつけます。4月16日(水)には、「人と比べず 世の繁栄や人の評価を求めず 栄光の冠を目指して 果敢に攻める それでいいではないか ただ 自分の使命に一生懸命だっただけ それでいいではないか それでいいではないか 神の国に入れていただく時 主イエスに『忠実な僕よ よくやった』と栄光の冠をいただく それだけでいいではないか」と記しています。
 
 パウロは、「ただこの一事を努めている。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ3:13~14)。「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。」(第二コリント6:8)と記している。この御言葉の如くに歩み続けたいと願います。

2014・4・27
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講壇の花

2014年04月27日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2014年04月27日 | 説教要約
「信じる者はイエスによって義とされる」使徒行伝13章37~39節 

「信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。」
(使徒行伝13章39節)

 第一伝道旅行のピシデヤのアンテオケの記事から、主の言葉をいただきましょう。

Ⅰ 歴史における神の救いの計画を果たす神

 パウロは、福音を語るチャンスを得て、救い主を待ち望んでいたユダヤ人に会堂で語ります。16~25節にあるように、アブラハムから救い主イエスまでのイスラエルの歴史を通して、神が約束されていた救い主はすでに来られたことを伝えます。それから、救い主を送られただけではなく、十字架と復活によって救いを成して下さったのだと語ったのであります。

Ⅱ イエスを救い主と信じる者を救う神
 
 そして、その救いは今、あなたがたの目の前に置かれていて、この福音を信じる者を神は救いなされるのであると続けるのです。「モーセの律法では義とされることができなかったすべてのことについても、信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。」(38,39)のです。そして、最後にハバクク1:5から、信じない者に対しての厳しいさばきの警告をも語っています。

 今、この時ここで、主は語っておられます。「あなたはどうですか」と。信じて義とされましょう。

2014/4/27 説教者 杉本守
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天のマナ

2014年04月20日 | 天のマナ
「神によって永遠を生きる者とされる」

「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかし、その一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」(詩篇90篇10節)と詩人は語ります。
 栄華を極め、ありとあらゆるものを手にしたソロモン王でさえ、「いっさいは空である」と言っています。では、このような地上の歩みの中で、どうしたら良いのでしょうか。それは、神と出会い、神を信じ、神と繋がり、永遠を生きる者とされることであります。限りある人間が、永遠の神と出会うことにより永遠を知り、永遠の神を信じることにより滅びの原因である罪が赦され、永遠の神と繋がることによって永遠の命を注がれ、永遠を生きる者とされるのです。神のひとり子である救い主イエスは、限りある人間をもう一度神に立ち帰らせ、永遠を与えるために十字架に架かりよみがえられたのです。永遠の神に罪をゆるされ、永遠の神に繋がることによって、死の恐れは消え、永遠の神の国に向かう平安の日々を歩み、朽ちない永遠の体を頂き、永遠の神の国に住まうのです。

2014.4.20
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主日礼拝説教要約

2014年04月20日 | 説教要約
「死に勝利したキリスト」 コリント人への第一の手紙15章20、50~58節

「そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう。」 (コリント人への第一の手紙6章14節)

 本日は、復活記念礼拝です。死に打ち勝たれよみがえられた主イエスを、イエスを死からよみがえらさせた父なる神を、この奥義を私たちに示して下さる聖霊なる神に、賛美をささげます。

 人類はアダムが罪を犯して以来、罪と死に支配されてきました。すべての人間の最大の問題はこれであります。そして誰もが自分自身の力では、この罪と死の支配から逃れることはできません。しかし、唯一、主イエスだけが十字架と復活において、この罪を解決し、死を打ち破られたのです。それだけではありません。主イエスを救い主と信じる者に救いを与えてくださいました。この救いとは、主イエスを信じる者の罪をゆるし義とし、死の支配から解放し永遠のいのちを与えてくださることです。父なる神は主イエスをよみがえらせたように、主イエスを信じるクリスチャンをよみがえらせてくださるのです。だから、クリスチャンにとって、罪と死はもはや問題ではありません。

 なんと素晴らしいのでしょうか。天国を目指す人生は。天国を先取りする日々は。

2015・4・20 説教者 杉本守

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講壇の花

2014年04月20日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2014年04月13日 | 説教要約

「神無しの人生から、神有りの人生へ」 詩篇90篇1~17節

 「主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる。山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。」(1~2節)  受難週を迎え、本日はしゅろの主日であります。主イエスが、十字架にかかるために、子ロバに乗ってエルサレムに入城しました。主の受苦をおぼえながら、御言葉に聴き入りましょう。 

 この詩篇は、モーセの作であり、神無しの人生のはかなさと神有りの人生の満たしを詩っています。

 Ⅰ 神とは

 神とは、永遠から永遠におられる方で、神によって世界が造られる前から、神でおられる方であります(2)。そしてこの神は地と世界を造られ、最後に人間を造られ生かしており、人がその使命を終えたならば、天に召す方であり、神の手の中に人はあるのであります(3)。

 Ⅱ 人とは

  人は有限な者であり、ひと夜の夢のごとく流れていき、朝には栄えたと思っても夕には枯れる弱い存在であります(5~6)。人の年は、70~80年で、その歩みも骨折りと悩みであります(10)。さらに人は、罪深く、神の光の前では滅び去る存在でしかありません(7~8)

 Ⅲ 救いとは

 そういう人間が、自分の日を数えること(自分のはかなさと罪深さを認め)によって、知恵の心を得るのです。「知恵の心」とは、「主を恐れるとは知恵のはじめ」(詩篇111:10)とあるように、主を主と認め畏敬し、主にに立ち帰ることです。知的に主を知るだけではなく、主と霊的につながることであります。罪あ人の側からは神につながることはできません。神の側から手を差し伸べていただく、つまり十字架の贖いがあって、人は神に立ち帰ることができるのです。

 神無しの人生には希望がありませんが、神有りの人生は、神のあわれみといつくしみとがあふれていて、豊かな希望があるのです。

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天のマナ

2014年04月13日 | 天のマナ

「受難週の黙想」  「主なる神の前に沈黙せよ」(ゼパニヤ書1:7)

 今週は、受難週です。イエス・キリストが十字架へと向かわれた日々です。今日は、棕櫚の主日と言われ、主イエスがエルサレムにロバの子に乗って入場した日です。月曜日は宮清めの日、火曜日は神殿で教えをなされ、水曜日はベタニヤで香油を受け、木曜日は最後の晩餐で弟子たちの足を洗い聖餐式を制定され、その夜中ゲッセマネの園で祈られました。そして金曜日に十字架に掛かられたのです。この受難(十字架)が私たちを救うためであることを思う時に、いつも以上に主の前に静まり、み言葉を読み黙想をもって主と交わることが大切であります。特に、エルサレム入場からの福音書を読み、主イエスの思いやゲッセマネの祈り、十字架の苦しみを黙想することをしたいのです。私たちは御言葉を読むとすぐに祈りを始め、自分の気持ちや願いを話し始めますが、この受難週では、祈りの前に黙想の時を持つことをお勧め致します。主イエスは、私たちに静かに語り霊的な深い交わりを望んでいるに違いないからです。

2014/4/13

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講壇の

2014年04月13日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2014年04月06日 | 説教要約

「聖霊なる神に派遣される」 使徒行伝13章1~12節

 この13章より使徒行伝が後半となります。12章までは、宣教の中心はエルサレム、宣教の対象はユダヤ人、宣教の働きは主にペテロでありましたが、この章より、宣教の中心はアンテオケ、宣教の対象は異邦人、宣教の働きは主にパウロとなります。異邦人に対する神の救いの計画が次第に明らかにされ、キリスト教は一民族の救いではなく、すべての国民の救いであることが強調されていくのです。

Ⅰ 聖霊によって立てられた異邦人教会

 聖霊によってアンテオケ教会に召し集められた人々は、さまざまでありました。しかし、彼らは、人種や社会的地位、出身地、伝統や習慣を越え、設立されてまだ日が浅いながらも信仰において一致していました。パウロとバルナバの教えに従い急速に成長し、歴史的な任務を委託される器として、主なる神は用いられたのです。

Ⅱ 聖霊なる神による派遣

 世界宣教は、人間が考え出して計画し始めたのではありません。聖霊なる神が宣教命令を発せられ、礼拝し祈り、神のみ心を求めていた教会に、そのご計画を示されたのです。聖霊なる神が遣わされるからには、聖霊なる神が責任をもって進められるのです。パウロとバルナバを宣教へと遣わせという聖霊の命令に、アンテオケの教会は従ったのです。宣教の働きの主体は神であり、教会は従うことによって神のわざに加わる時に、神のみわざは豊かに成されていくのです。

 私たちも、今日も、今週も、聖霊なる神にそれぞれの場に派遣されていきます。「主よ、あなたの宣教の働きに加わらせてください」と申し上げ、それを成させて下さることを信じて派遣されていきましょう。

2014/4/6 説教者 杉本守

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