静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2017年04月30日 | 天のマナ
「キリストは失われた人を捜しだして救うために来た」
  新約聖書の一番最初の書は、マタイによる福音書です。キリストの弟子であるマタイが、聖霊の霊感により、この書を記しました。彼は、キリストの弟子になる前は、ローマ政府の手先として、同族のユダヤ人から税金を徴収する取税人でした。当時の取税人は、私腹を肥やすために余分な取り立てをしていたので、嫌われていました。そんなある日、キリストは彼に「わたしについて来なさい」と声をかけられ、彼はすぐにキリストに従いました。それは、キリストの愛ときよさのまなざしを感じ、キリストの言葉と歩みを聞き見て、自らの罪深さを悔いていたからです。かつての彼のペンとインクは、不正の為に使われてきましたが、今はキリストの生涯を記すものとなりました。以下は、PBAメッセージ集19よりの引用です。
「山本周五郎の『赤ひげ診療譚(しんりょうたん)』に『毒草から薬を作り出したように、悪い人間の中からも善きものを引き出す努力をしなければならない』という言葉がありますが、キリストはマタイから見事に『善きもの』を引き出して下さったのです」。キリストとの出会いは、その人に改心した人生を歩ませるだけではなく、その人の能力を悪いことではなく、神と人に役立つために用いられるようにさせるのです。
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天のマナ

2017年04月23日 | 天のマナ
「切り替えるタフ(堅い・折れにくい・破れにくい・丈夫な・粘り強い)さ」

 野球の世界大会(WBC)に続き、各国で野球の試合がなされています。野球少年だった私は、メジャーリーグや日本の野球をネットで毎日のようにチェックいたします。メジャーリーグでは、日本人が活躍すると喜びます。今年は、巨人に新加入した抑えのピッチャーカミネロという選手に注目をしています。開幕から4試合連続、抑えの仕事をきっちりこなして絶好調でした。しかし、13日の試合では、バッターがしたバントのボールを取るはずが蹴ってエラーにしてしまい、それをきっかけに相手に6点を取られて負けてしまいました。しかし、翌日の試合で、カミネロは今日に集中していました。監督から2倍の仕事を命じられ、とにかくチームに貢献しようとしました。彼は、前日の失敗を引きずらず、スイッチを切り替え、監督の起用に奮い立ちました。試合前の練習では、チームメートに叱咤(しった)されながら笑顔でバント処理の練習を反復し、失敗から20時間足らずでグラウンドに立ち、精一杯の役割をなしたのでした。
 失敗してもいつまでもくよくよしないで、キリストにあるタフさを主にいただきたいのです。「わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務めに任じて下さったのである。」(Ⅰテモテ1:12)
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天のマナ

2017年04月16日 | 天のマナ
「心を離さない」

 教会学校で使われている教会学校教案誌の「聖書の光」に、以下のような文章が載せられていました。これを記した牧師も、子供が通っている学校からもらった保護者通信にあったことを書いたようです。抜粋させていただきますと、「乳児はしっかり肌を離すな。幼児は肌を離せ、手を離すな。少年は手を離せ、目を離すな。青年は目を離せ、心を離すな。」という、親の心構えとして記された言葉です。これは、親の心構えだけではなく、子供自身にも言える事かと思います。相互の良き距離感と言えるでしょう。不健全な依存関係ではなく、成長に応じ、自立に向けた健全な関係であります。
 私たちの信仰もそのようにありたいと願います。乳児や幼児の時は、神の溢れる恵みをいただくだけでよいかと思いますが、少年、青年と成長、成熟する中で、神の溢れる恵みをいただきつつ、それで終わらないで、与えられた使命を神の力によって成していく者でありたいのです。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15:12)
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天のマナ

2017年04月09日 | 天のマナ
「メッセージを自らに受け止める」
 神の言葉である聖書のメッセージをどのように受け止めておられるでしょうか。ある婦人が、礼拝の説教を聴いた後、牧師にこう話しました。「今日のみ言葉のメッセージは、大変よろしいものでした。うちの旦那が聞くにふさわしいものです」と。もちろん、旦那さんに福音を伝えるということは大切なことですが、自分のことをさて置いて、これで伝えられるのでしょうか?
 まずは、神の言葉であるメッセージが自らに語られたこととして受け止め、信じ、受け入れる必要があるのではないでしょうか。主なる神が、今日、私に語られているという、へりくだった姿勢、「しもべは聞きます。主よ、お話しください」(サムエル上3:9)ということです。そして、そのみ言葉によって聖霊なる神様に取り扱われる、砕かれ、悔い改め、信じ受け入れて、整えられることです。「このみ言葉を実行している教会はあるか」とか「このみ言葉を実行している人はいるか」とか、外に目を向けていうちは、み言葉の恵みを経験できません。
 へりくだる者に主の恵みは流れるのです。
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天のマナ

2017年04月02日 | 天のマナ
「求める者の幸い」
 主イエスの12弟子にトマスという人物がいます。彼の性格は、「はっきりと知りたい」という性質を備えていました。主イエスは、十字架を前にしての告別説教(ヨハネ14章1~)で、自らが地上での使命を終え、父なる神がおられる天の御国に行くことをお話になった時、どこへ行くかわからなかったトマスは、すぐに質問をしています。また、主イエスが復活され弟子たちに現れた時、そこにいなかったトマスは、十字架の御傷がある手に指を、わきに手を差し入れなければ信じないと言いました。主と共に歩みながらも、気が付かない未熟さと信じない疑いをもっていたトマスと言うこともできますが、しかし、それで黙っているのではなく、それらを超えた彼の求めは、イエスの溢れる愛の言動の応答をいただいき、そのイエスの愛の言動は、二千年後の私たちをも満たしています。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」「見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ20:27、29)。トマスのようにわかったふりや知ったふりをしないで、主イエスを求めていきたいのです。
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