静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2011年10月30日 | 説教要約

「神の愛による救い」ヨハネ第一の手紙4章7~12節

 「互いに愛し合いなさい」と勧められています。これは神の私たちへの願いであり、そうするように神は人間を造られたのです。しかし、人間社会を見ますと愛の関係が壊れています。夫婦が、親子が、兄弟が、友人同士が、職場で、国々がにくみねたみ、争っています。どうしてなのでしょうか。

 それは、愛である神から離れて自らを神とし、神からいただく真の愛ではなく、限界のある人間的な愛、変わりやすい愛、欲に摩り替えられた愛、自己中心な愛となっているからであります。

 どんなに立派な蛇口でも、ピカピカな金でできた蛇口でも、水道管につながり、浄水場につながっていなければ、水はでません。それと同じです。人間のうちには真の変わらない限りのない愛はありません。愛である神につながっていて、神から愛を供給されてこそ、私たちから真の愛が流れるのです。まずは、主なる神に立ち返りましょう。主なる神を信じて神とつながりましょう。

2011/10/30 説教者 杉本守 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2011年10月30日 | 天のマナ

「神の愛の御手の中で」 

 

 名画といわれるものを見ますと、繊細な色使いがなされています。星野富広詩画展にはすでに行かれたでしょうか。もし、単色だけだったり、明るい色だけだったら奥深さや味わいが表現されてこないのではないでしょうか。時には暗い色が使われたり、いろいろな色があり、また重なり合わせられることによって、名画はうまれてきます。

 

 人生にもそのことが言えるのだろうと思います。楽しいうれしい日々を私たちは望みますが、そういう日だけではありません。時には苦難や試練、葛藤したり落ち込んだりする日があります。しかし、一つ言えることは、どんな日にも私たちの信じる真の神は私たちを支え、神の愛の御手によって導き、それらの日を私たちの人生の彩りとなし、名画のような素晴らしい人生としてくださるのです。そしてやがて神の国で飾られるでありましょう。

 

 「御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの泉に導いて下さるであろう。」(ヨハネ黙示録7:17)

 

2011/10/30

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の花

2011年10月30日 | 生花
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝説教要約

2011年10月23日 | 説教要約

「清い心をください」 詩篇51篇1~19節

 私たちの教会が属している教団は、日本ホーリネス教団です。日本ホーリネス教団は、「きよめ(ホーリネス)の恵み」を強調する教団であります。この詩篇51篇より、ホーリネスの恵みをみていきましょう。

Ⅰ 義認から聖化へ

 キリスト者のスタートは、主イエスを自らの救い主と信じ、自らの罪を悔い改め、主イエスの十字架が自らの身代わりと信じた告白した時であります。主イエスは、その者の罪を赦し、義とし、神の子とし、永遠の命を与えられました。義とされて終わりではありません。この義とされたキリスト者は、きよめられ、きよめられ続けることによって成長し成熟していくのであります。そしてその完成は、主イエスの再臨の時に栄化される時であります。霊の人としてきよめられた主体性をもって主に仕えていきたいのです。

Ⅱ きよめの恵み

 ダビデは神を信じる者でありましたが、ここで姦淫と殺人という罪を犯します。そして、自らの奥の奥のうちにある罪の性質(アダムから受け継いでいる罪)をまざまざとみさせられ、自分ではどうしようもないことを認め、神の前に魂が砕かれ、「きよい心をつくり、新しい正しい霊をください」と自らの本質をきよめてくださるように叫んでおります。彼は神のお取り扱いを受け、きよめられるのです。

 人間は、誰もが罪深く、罪の性質を受け継いで持っていて、主なる神に従えず自らを神とし、自己中心に歩んでいます。

 ですから、神によってきよめられ、きよめられ続けることが必要なのです。神は砕かれた魂をきよめることができるのです。

2011/10/23 説教者 杉本守

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2011年10月23日 | 天のマナ

 「生かされている幸い」 

 

 「今まで自分の力で生きてきたし、今も生きている。そしてこれからも自分の力で生きていくんだ」と思っていた時は、生きるのがしんどかった。しかし、今では平安の内に生きている、というよりは「平安の内に生かされている」。それは神を信じてクリスチャンになってからである。自分ではなかなか気がつかなかったが、「人は、自分は神に生かされている」のである。このことを知ってからは、「神によって生かされている間は、与えられた所で力むこともなく気負うことなく自然体で、与えられた使命をなさせていただこう」と思わされる。そしてこの世での使命を終えたならば、主イエスを信じる者に確実に用意されている神の国に入れられることを喜んで体験したい。「忠実な僕よ、よくやった」と主イエスに迎え入れられるのである。ですから、地上に置かれて生かされている時も、神の国に導かれる時も私たちは幸いなのである。

 

2011・10・23

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の花

2011年10月23日 | 生花
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2011年10月16日 | 天のマナ

 「何に時間を使っていますか」  

 

 「動物と違って人間は、白紙の状態で産まれてくる。だから、豊かな成長が望まれる」という言葉を聞きます。動物とは比べものにならないくらい学習能力があり、吸収していくそうです。一生かかっても、脳の一部しか使われないようです。ですから、人間一人一人が、何に、そしてどのように時間を使うか、その使い方によって、その人の外面的なスキル(技能)だけではなく、人格の成長や成熟さにも大いに影響があるのです。どこに身を置くかです。私たちクリスチャンは、何にどのように時間をより多く使うのでしょうか。何よりも神との交わりを豊かにすることです。み言葉に聞く、祈る、賛美をする、賛美を聴く。何にどれだけ身を置いているかで人は影響を受けるのであります。影響を受けるどころではなく、主を宿す者でありたいのです。通勤通学お出かけの時に賛美やみ言葉を聞く、家庭で賛美を流す、み言葉の掲示などできることをしていきたいものです。

 

「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」(コロサイ3:16)

 

2011/10/16

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の花

2011年10月16日 | 生花
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝説教要約

2011年10月09日 | 説教要約

「悩みの日に神を呼ぶ」 詩篇50篇1~23節

 真の神とはどういう方でしょうか? 1~6節をみると、全能者、光、義なる方、審き主などとあげることができます。このお方が神を信じる者へ、神を信じない者へと何を語っているのでしょうか。

Ⅰ 神を信じる者へ

 主なる神は、神を信じる者が礼拝とささげものをささげる時、形式的で習慣的になっていないか、心からの信仰告白と感謝をもってささげているかを問うています。主なる神との関係が形だけのものにならずに、生き生きとした関係にある時、神を信じる者にどんな悩みがやってきたとしても大丈夫だと言うのです。それは、主なる神であるわたしを呼ぶなら、主なる神が神を信じる者を助けるからです。そしてその助けを受けた者は、主なる神をあがめるのであります。

Ⅱ 神を信じない者へ

 神の教えを憎み、神の言葉を捨てた者たち、盗人とくみし、姦淫を行う者と交わり、家族をそしりののしる者に対して、神はその罪をご存知で、その罪をその者の前に並べ、必ずその罪によりその者を裁かれると記されています。その裁きは圧倒的で、誰も助けることができません。

 神を信じ、神の幸いの中を歩み、神の助けを受け、神を崇める者とさせていただきましょう。

2011.10.9 説教者 杉本守

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2011年10月09日 | 教会案内

 「神のもとにある平安な人生」      「友よ」(マタイ20章13節)

 

 主イエスは、「ぶどう園のたとえ」の中で、早朝、9時、お昼、午後3時、夕方5時に雇われた人に約束通りに同じ1デナリを渡されたという話をなさいました。この話を聞いたとき、私も早朝に雇われた人の不満を共感しました。確かに一日労した人とたった一時間労した人と、約束したとはいえ、同じ給料ではと不平等さみたいなものを思います。しかしよく考えてみますと、早朝に雇われた人は、雇われないのではないかという不安はすぐになくなり、一日中平安で労することができました。しかし、5時に雇われた人は、今日は雇われず食物も買えないのかと不安な一日でした。

 あなたはどちらがよろしいですか?私は、不安で一日過ごすよりも、平安で一日労をした方がずっと良いです。早朝雇われた人とは、若い時に主に救われた方です。その生涯を主にささげて歩みます。夕方5時に雇われた人とは、生涯不安でしたが召される前に救われた方といことができるでしょう。主は同じ御国の祝福をお与えになりますが、平安な人生を早目に得ることが幸いです。

 

2011/10/9

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする