静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2011年06月26日 | 説教要約

「神の御手の中で」 マタイによる福音書14:13~21

 この朝は、四福音書に記されています主イエスがなされた大いなる奇跡、「五千人の給食」より、主の御言葉をいただきましょう。

 Ⅰ 主イエスのチャレンジ

  私たちの信仰の歩みの中で、時々主イエスは私たちにチャレンジをなさいます。弟子達もこの時、主イエスからチャレンジを受けました。それは、人間的にも物理的にも不可能なこと、五千人以上の者に食物を与えなさいというものでした。主イエスは、弟子達にできないことを百も承知で、またこれから主イエスがなされる奇跡を用意して、弟子達の信仰にチャレンジをしたのでした。

Ⅱ 主イエスの御手の中にあるとき

 弟子達(ピリポ、アンデレ)の応えは、人間としてはあたりまえのもので、こんなに大勢を食べさせることはできないというものでした。しかし、これでは主の期待には応えていません。主は、人間的な計算だけでものを見るのではなく、信仰の目、信仰的思考、つまり主イエスを計算に入れての応えを待っていたのです。一人の子供が五つのパンと二匹の魚を主イエスにささげます。五千人以上の群集にとって、それらはほんの少しですが、これらのものが少年の手から主イエスの手に、主イエスの手に落ち込んだ時に、神の祝福を受けて増え、群集がみな満腹し、なお12にかごを満たしたのです。

 問題は、群集の数でも、五つのパンと二匹の魚の少なさでもありませんでした。問題は、たとえ私たちが小さくても、私たちがどの手にあるかであります。主イエスの手に信仰のゆえにささげられているのか、自分の手にあるのかです。主の手にささげらたものでありたいのです。そうする時に私たちから主の満たしが広がるのです。

2011/6/26 説教者 杉本守

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天のマナ

2011年06月26日 | 天のマナ

    「山に昇ろう」    「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)

 

   この夏も聖会やキャンプが計画され、チラシが配布されています。教団の夏季聖会は、私たちの教会と同じ60周年を迎えています。記念すべき聖会です。「60周年を振り返り、感謝と賛美、そして献身と宣教へのステップ」として、60年の歴史をプロジェクターでみたり、ハレルヤ・コーラスを会衆でささげたりいたします。5回の聖会での恵みの説教があり、主の恵みが溢れる時であります。一年に一度の機会、主の山に昇って主の恵みに浸されましょう。

   また、教区主催の小学生のキャンプが御殿場で、教団主催の中高大、青年のキャンプが大島であります。救い、聖め、献身の時となることでしょう。あのアブラハムもモーセも山に昇り主の恵みを受けました。主イエスも山に昇り、父なる神との豊かな交わりをなさいました。私たちも日常を離れて、一日でも二日でも山に昇ろうではありませんか。

    2011/6/26

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講壇の花

2011年06月26日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年06月19日 | 説教要約

「信仰の祈り」 詩篇43篇1~5節

 この詩篇は42篇の続編とも言われているもので、不信仰の世にあって、神にある者がささげる信仰の戦いの祈りが歌われている。

Ⅰ 人生の試練

 42篇の背景と同様に、この詩人はエルサレムからヘルモン山麓に捕らえ移されています。そこで、神を恐れないよこしまな民のしえたげにあっています。その中で彼は、悲しみ歩き(2)、うなだれ思いみだれている(5)のです。彼にとっては大きな試練でありました。この詩人と同様わたしたちの人生の歩みにも、負い切れない試練が時に起こってきます。それは苦しいことです。この試練は何なのだろうかと思います。そして人間的な努力によってなんとかしようとしますが、どうにもならない事があります。そういう試練は、私たちが神の前にきて跪き祈ることによってしか、道が開かれないことを知ります。

Ⅱ 神への祈り

 この詩人は、そこで神に叫びます。わたしに臨んでください。わたしのこの出来事に介入してくださいと。神の御手によって、神の民が出エジプトをしたように、私を神の光とまことを送って導いてくださいと。祈りの中で彼は神に取り扱われていきます。そして、三度目の繰り返し「神を待ち望め」は、信仰の確かさを宣言することばになっているのです。

 私たちもどんな試練の中にあっても、神を待ち望む信仰をあらわし、祈りによってその試練を乗り越えさせていただきましょう。

2011・6・19 説教者 杉本守

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天のマナ

2011年06月19日 | 天のマナ

 「霊的な礼拝」

 

  牧師家庭に育った私は、物心つくころから教会学校に出席していました。中学生になると一般の礼拝や祈祷会にも出ておりました。しかし、礼拝や祈祷会の参加には自ら進んでということではなく、親が言うのでしぶしぶという面がありました。ですから、礼拝や祈祷会に常習的に遅れて来たり、メッセージの途中に一度や二度、席を立っては、礼拝堂の外に出て一息いれるという感じで、いつも母に注意されていました。また、信仰告白の使徒信条や交読文など、声と心を合わせて会衆一同でささげるものを、自分は覚えていて早く言えると、一人突っ走っていました。今思うと恥ずかしさと申し訳なさを感じます。

 

  礼拝とは真の神にささげる厳粛な行為であり、礼拝や祈祷会には霊の流れがあることについての私の認識が本当に薄かったのでした。神の前に出、神にささげる厳粛さ、霊の流れを途切れさせないように最善をもって礼拝に集いたいのです。

 

  「それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(ロマ12:2)

  2011・6・19

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講壇の花

2011年06月19日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年06月12日 | 説教要約

「真実な神の豊かな導き」 ピリピ2章12~18節

 創立60周年おめでとうございます。この60年、主なる神は、いつも真実に私たちを豊かに導いてくださいました。心から主のみ名をほめたたえます。主なる神は、計画による導き、摂理をもってくださっています。この箇所に聞き入りましょう。

Ⅰ 神の最善なご計画

 神は、私たち一人一人に、呼び出された者の集りである教会に、最善なご計画をもっています。それは、「救いの達成」であります。「救いの達成」とは、神がイエスを救い主として信じる私たちを、義とし、聖化、きよめの深みへ導き、そして栄化されるということであります。教会で言うならば。教会が形成され、成熟し、キリストの花嫁とされ再臨の時に迎え入れられることであります。

Ⅱ 神の最善な計画の実現

 神はこの計画(救いの達成)を、私たちに働きかけ、そうなりたいと願わせるのです。そして、私たちの力で成せというのではなく、実現に至らせるのは神ご自身であると言われています。私たちのなすべきことは、神のご計画に従うことです。それは、神の言葉に従うことです。つぶやかず疑わず従っていくとき、神は私たちのうちに、救いを達成してくださるのです。

 この神の摂理の中で、これからも神に従ってまいりましょう。

2011/6/12 説教者 杉本守

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天のマナ

2011年06月12日 | 天のマナ

  「主の言葉に聞き従った教会」

   私たち一人一人には、常に三つの声が聞こえてきます。一つ目の声は外(社会や隣人)からの声です。二つ目の声は、内(自分自身)からの声です。三つ目の声は、上(聖書のみ言葉である主なる神)からの声です。時にはこの三つが一致する内容の場合もありますし、自分自身と主なる神の声の内容が一致する時もあります。

 

   しかし、違った場合、私たちの信仰は、常に主なる神の言葉を選ぶものでありたいのです。この60年間の教会の歩み、それぞれの信仰の歩みはまさしくそこにあったのですから。「あなたがたは世の光である」「あなたがたは地の塩である」「もし信じるなら神の栄光を見るであろう」など、神の言葉を聞きそれに従った歩みが教会の歴史であります。これからもそうしていくのです。なぜなら、教会とは信仰告白の上に、神のみ言葉を信じることの上に、神が建て上げられるからであります。

 

 2011/6/12

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講壇の花

2011年06月12日 | 生花
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天のマナ

2011年06月09日 | 天のマナ

「教会形成になくてならない方々を」 

 

 来週の創立60周年記念の感謝会で、60周年の教会のあゆみを写真でプロジェクターに映します。その製作にあたって気づかされたことがいくつかありました。一つ目は先週の天のマナに記載させていただいた「神の摂理」です。二つ目は、神は摂理の中、グレースチャペルを形成なされる上で、必要な時に必要な牧師・信徒を集められたということであります。教会形成初期には、ライス宣教師と福音十字軍、大川博道牧師一家を派遣し教会の土台を形成されました。そして引き続き大川牧師を用い、宣教、教育、牧会を進められる時には各牧師方を、牧師だけではなく、教会形成を進める為に必要な各信徒の方々を教会に加えなされたのでした。一人一人が神に招かれ教会に集められた出来事も時期も、それは偶然ではなく神の摂理が働いていたのです。まさに、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)のです。一人一人の存在と働きは神にあって尊く意味があるのです。

 

2011・6・5

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