静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2012年06月24日 | 説教要約

「義なる神のさばき」  詩篇58篇1~11節

 神を無視し不法を行う者たちに、裁きと滅びを願い求める激しい内容の詩であります。神を信じる信仰者が、滅びを見て喜んだりやりすぎだと思われるのではないでしょうか?どうしてなのかを見て行きましょう。

Ⅰ 悪しき者の姿

 「力ある者」とは、権威や権限を持った人々を指し、彼らはそれらを不正なことに使い、地に暴虐を満たしていたのです。ここでの非難は、そうした彼らに、個人的な問題にとどまらず、社会的な影響を与えていることに対するものです。毒コブラでさえ笛吹くものに従うのに、彼らは毒コブラよりもひどく、主なる神さえも恐れないのです。これが悪しき者の姿であり、どの時代にもいるのであります。

Ⅱ 神の義が貫かれるように

 詩人は、神の義が貫かれ、神の裁きが彼らにあるように訴えています。消え去らせ(7)、衰えさせ(8)、吹き払ってください(9)とあるようにです。詩人が問題にしたのは、正義が曲げられていて、地上で不正が働き暴虐が蔓延していることでした。深い罪認識と罪に対する激しい憎しみと苛立ちなくしてわたしたちは、神の怒り、神の義、神の聖、神の救いはわかりません。詩人はそれがわかり、激しく神の介入を求めたのです。

 わたしたちは、罪に対していい加減であってはいけません。罪に対しては厳しくあり、遠ざかり、主イエスに喜ばれる者となりましょう。

2012/6/24 説教者 杉本守

 

 

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天のマナ

2012年06月24日 | 天のマナ

「永遠の神の国を思い浮かべる」

 前回の天のマナに続き、今週もライフラインの放送の録画をたくさん観ました。その中で多くの恵みを受けましたが、その一つを分かち合いたいと思います。

 「明日の朝また会いましょう」の放送で次のようなものがありました。ホスピスで講演会があり、そこに入院されているある患者さんが講演の後、「笑って死ぬ(死を迎える)ためにはどうしたらいいのですか?」と講師に人を通じて聞いたそうです。皆さんでしたらどう応えるでしょうか?

 講師の先生は、後日手紙を彼に送られました。そこには、「有限のいのちのことを考えないで、永遠のいのちを考えてください」とあったのでした。

 何にどこに誰に目をとめているかで、私達の思いが決められていくのではないでしょうか。

 「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった」(ヘブル人への手紙11章16節) 

  主イエスに、福音に、永遠のいのちと神の国に目をとめましょう。

2012/6/24

 

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講壇の花

2012年06月24日 | 生花
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主日説教要約

2012年06月17日 | 説教要約

「必要とされる喜び」 マタイ21:1~11

 この箇所は、主イエスの十字架に向かうエルサレム入場です。なぜ、主イエスは馬にではなく、子ロバに乗って行かれたのでしょうか。

Ⅰ 子ろばを用いた主イエス

 主イエスがろばに乗られた理由は、預言の成就でした。ゼカリヤ書9章9節にメシヤ預言があり、それはメシヤはろばに乗って来られるという内容です。また、馬が軍人が乗り力の象徴であると考えられ、ロバは平和、柔和の象徴である思われていた時代です。救い主イエスは、武力によってではなく、受難(十字架)によって救いをもたらす、平安と平和をもたらす方として来られたことを示すためであったのです。

Ⅱ 主イエスをお乗せした子ろば

 主イエスは、子ろばを必要とされました。「主がお入用なのです」。この子ろばは、まだ訓練されていないろばです。初めて人を乗せるのです。しかし、主イエスはその子ろばを必要とされました。子ろばも、群集が騒ぐ中、初めての経験でしたが、主イエスをお乗せしてエルサレムまでの3、4キロへ向かったのです。

 あなたは誰を乗せ、誰を遣わされた場にお届けしているでしょうか?主はあなたを必要とし、「あなたにわたしを届けてほしい」と願われています。「主イエス様、どうぞお乗り下さい。主イエス様を遣わされていく家庭、職場、学校、地域にお届けしたいのです。」と祈ろうではありませんか。

2012/6/17 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2012年06月17日 | 天のマナ

「希望は失望に終ることはない」(ローマ書5章5節) 

 先週は、教会図書にある「ライフライン」を20放送ほど観ました。どの放映に出てくるキリストの証人の方々も、素晴らしい主イエスとの出会いがあり人生が変えられたことを語られ、私は多くの主の恵みをいただきました。

 その中の一つで、「希望に向かって」という題で放映されたひとりの兄がおられます。兄弟は、青少年生活就労自立サポートセンターで、ひきこもりの人たちのニーズにあわせた支援をしておられます。自らも5年間のひきこもりの経験の中、あるクリスチャンが一年をかけて訪問してくださり、その後、教会へ行かれ牧師に今までの話をしました。牧師からは同情の言葉が返ってくると思っていましたが、「あなたの経験は決して無駄ではない。それは神様があなたに与えた計画なんだから、きっとこれから何かあるから、それが何か一緒に祈っていきましょう」と言われた。その後、教会へ通い、まず自分の存在が神に造られた尊いもので、神に認められていることに気付き変えられていった。

 ひきこもりからの回復は、本人が認められ自信をつけることだと言われます。周りは当人の小さな行動をも認めることであり、本人は人の役に立ち必要とされていることを感じることです。そして何よりも、自分の存在を神に尊いと認めていただいていることに気付くことです。

2012/6/17

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講壇の花

2012年06月17日 | 生花
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天のマナ

2012年06月10日 | 天のマナ

 「人生はあなたが中心ではありません」 

 先週の主日の午後、学び会がもたれました。リック・ウォレン牧師著の「人生を導く5つの目的」から学びました。

 これは、神があなたを造られた目的が5つあるということです。それらは、「①あなたは神の喜びのために造られた ②あなたは神の家族となるために造られた ③あなたはキリストのようになるために造られた ④あなたは神に仕えるために造られた ⑤あなたは使命のために造られた」というものです。この本は、「人生はあなたが中心ではありません」という言葉で始まります。この言葉は、衝撃的であり、目が開かれるものです。人生の目的は、個人的な達成感、心のやすらぎ、幸福といったものより遥かに偉大なもので、あなたの家族や職業、夢や野心よりもずっと偉大なものです。

 自分がなぜこの地上に存在しているかを知りたければ、自分の内を掘り下げるのではなく、まずあなたを造られた神から始めなければならないこと、あなたは神の偉大な目的に従って、しかもその偉大な目的のために造られ生まれたからだと語るのです。「わたしは彼らをわが栄光のために創造し」(イザヤ書43:7)

2012・6・10

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講壇の花

2012年06月10日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2012年06月03日 | 説教要約

「神の国の恵み」 マタイによる福音書20章1~16節

 主イエスの「天国のたとえ」の中のぶどう園の主人から、み言葉を共にいただきましょう。

 この世の価値観によるならば、この主人は早朝から働いた人から順に、働きに応じて報酬を与えるものであります。早朝から働いた人が10時間で1デナリならば、9時から人は7時間分の賃金、12時からの人は5時間分、3時からの人は3時間分、5時からの人は1時間分となります。しかし、主なる神の天国は違います。主なる神の天国の価値によるならば、それは功績によって計られるのではなく、神の恵みとあわれみによって計られるのであります。神の恵みとあわれみによると功績に関係なく、雇われたすべての人に同じ祝福が与えられるほど、神の恵みとあわれみは溢れているのです。

 私達は、早朝組ととらえることもでき、5時組ととらえることもできます。いずれにせよ、主の恵みとあわれみは溢れていて、雇われた(救われた)わたしたちの上に豊かにあるのです。主を見上げ、救われた喜びをもって歩んでいきましょう。「わたしは、この最後のあなたと同様に払ってやりたいのだ」(14)

2012.6.3 説教者 杉本守

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天のマナ

2012年06月03日 | 天のマナ

 「恵みもますます満ちあふれた」(ローマ5:20)

 聖書を読み、お祈りをし、礼拝をささげ、クリスチャンの歩みが深くされていけばいくほど、気がつかされることがあります。それは、「自分の罪深さであり、主の恵みの深さ」であります。この気付きはクリスチャンとして健全な姿であります。クリスチャンになる前は、神から離れ自己中心のままに歩み、思いおいて言葉において行為において罪を犯してきたにもかかわらず、自分が罪人であることさえもわかりませんでした。しかし、聖霊なる神によって罪を示され、神の独り子なるイエスが救い主であり、イエスの十字架と復活によって、罪赦され義とされることがわかり、信仰と悔い改めによってこの救い(罪が赦され義とされること)を体験させていただいたのです。そして聖書を読み、祈り、礼拝をささげるクリスチャンの歩みを続けていくうちにその体験がどんなに深いことなのか理解されていくのです。「ああ、なんとわたしは罪深いのか」「ああ、こんな罪深いわたしが赦されているなんて」「義とされ神の子とされ永遠のいのちをいただいているなんて、神のお恵み以外にないと」。へりくだる者となるのです。

2012/6/3

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