静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2015年01月25日 | 説教要約
「神を信頼する者は揺るがない」 (詩篇112篇1~10節)

「彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない。」(7節)

 この詩篇112篇は、111篇と同じ詩人で、111篇の続篇とも言われています。111篇では、神の不思議な業をうたい、112篇では、神をおそれる人の幸いをうたっています。

Ⅰ 真の神をおそれ従う
 
 人はどんな時に何をおそれるのでしょうか。「子孫の恐れ」は、未来のことでありましょう。「繁栄と富の恐れ」は、日々の糧、もっと言うなら命、死のということでありましょう。「暗黒の恐れ」は、世界の暗黒だけではなく、自分の罪のことでありましょう。人は以上のことにおそれをいだきます。サタンは、私たちが動揺し信仰を失うように画策してきます。
 しかし、私たちクリスチャンは知っています。「真のおそれ」とは、主なる神をおそれるということです。本当におそれるべき方がわかれば、余計なおそれはなくなります。主イエスは、マタイ10:28で、天地の支配者であり、全能者であり、絶対的権威者であり、永遠を御手に治めている神をおそれることが、真のおそれであると言っています。

Ⅱ 真の神をおそれ従う者の幸い

 真の神をおそれ従う者は、子孫において強くなり、繁栄と富とはその家にあり、暗黒の中にを通ることがあっても、神の光を照らしてくださるのです。未来も死の問題も罪の問題も解決され、何が起こってもゆるがない者としてくださるのです。いえ、もうしてくださっているのです。真の神を土台としている者はなんと幸いでしょうか。

 真の神のみをおそれ、揺るがないクリスチャン生活を歩んでいきましょう。

2015.1.25 説教者 杉本守

 
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天のマナ

2015年01月25日 | 天のマナ
 「自立した信仰者」
                      
 自立した信仰者とは、主イエスとの関係が豊かである者であります。私たちの信仰生活には、さまざまな事が起こります。イエス様を救い主として信じクリスチャンになったら、困難や問題が起こらなくなる訳ではありません。クリスチャンになって神に従っていたとしても困難や問題に遭います。しかし、自立した信仰をもつ前と信仰が自立したあとでは、その対応が全く違っていることに気づきます。自立した信仰をもつ前は、「なぜ、神様に従っているのにこんな目に遭うのか」とか、「なぜ、自分だけが」とか、「祈っても聞かれないじゃないか」とか、横の人や問題ばかりに目が奪われてしまっていました。しかし、自立した信仰をもってからは、「主は、このことを通して何を私に語り教えたいのだろう」とか「主は、この訓練を通して私をさらに主の喜ばれる器にしようとしている」とか「主はこのことを通して主の栄光を私に体験させようとしている」とか、問題の向こうにおられる主に目が向くようになったのです。牧師や信仰の先輩に話し祈ってもらうのも素晴らしいですが、この時という時は、主の前に一人出て静まり、み言葉をいただき、主の栄光の恵みを体験いたしましょう。
「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし、後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」(ヘブル12:11)」

2015/1/25
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講壇の花

2015年01月25日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2015年01月18日 | 説教要約
「使命を果たさせる神の深い守り」(使徒行伝23章11~24節)

「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない。」(使徒行伝23章11節)

 エルサレムにおいてパウロは、議会に引き出されます。そこで、パウロは復活された救い主イエスの福音を語りますが、復活を聞いたサドカイ派とパリサイ派で議会は混乱するのです。パウロは引き裂かれないように、千卒長によって兵営に連れて来られ、パウロの疲労困憊の長い一日が終わり静まります。その時に神はパウロに声をかけるのです。

Ⅰ 使命を果たす者を励ます神の言
 困難な中で、主はパウロに言葉をかけ、パウロは主の言葉に耳を傾け聞く、なんと幸いな関係でしょうか。主の言葉は、「しっかりせよ(勇気を出しなさい)、あなたはエルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」というものでした。「しっかりせよ(勇気を出しなさい)」、あの長血を患った女性に、湖でこぎなやむ弟子たちに、最後の晩餐での弟子たちに語られた同じ言葉が語られ、パウロは、どんなに励まされ、神の御心であるこの使命を果たさせていただくことに確信をもったことでしょうか。どんな困難の中にあっても、み言葉は必ず成っていくのです。

Ⅱ 使命を果たす者を守る神の助け
 さらにパウロの使命を阻もうとする者たちは、勢いを増します。40人の者たちが、パウロを殺すまで食い飲みをしないと誓い合い、暗殺計画を企てます。しかし、神はその悪の罠から人間には想像もできない不思議な方法をもって、パウロを助けます。それは、その暗殺計画を逆手にとるようにして、パウロの甥を用いて、その情報を千卒長に知らせ、なんと歩兵200人、騎兵70人、槍兵200人の合計470人の部隊に守らせてるのです。

 八方ふさがりに思える時こそ、主の言葉に耳を傾けみ言葉によって確認させていただき、主の不思議なわざをみさせていただこうではありませんか。

2015/1/18 説教者 杉本守
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天のマナ

2015年01月18日 | 天のマナ
 「きよめられた者の祝福」
 
 先週の月曜日に、グレースチャペルで静岡教区新年聖会が持たれました。教団委員であり仙台教会の佐藤信人牧師を通して、旧約時代の信仰者エステとルツの記事より、きよめのメッセージを頂きました。「きよめとは、『イエスは主なり』ということが、すべての領域で貫かれていることである」と。「イエスは主なり」と告白しながらも、「私が主」となっていないか。主のみ心よりも自分の思いを貫くのであれば、己に死んでいるとは言えないのではないか、との問いかけがありました。

「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(エステル記4:14新改訳)。「わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。主からの使命を託されたエステルは、同胞を救うために信仰によって進みました。そのエステルに対して、神は想像もできないほどの守りと祝福を与えたのです。

2015/1/18
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主日礼拝説教要約

2015年01月11日 | 説教要約
「主を恐れることは知恵のはじめ」 詩篇111篇1~10節

「主を恐れることは知恵のはじめである。これを行う者はみな良き悟りを得る。主の誉は、とこしえに、うせることはない。」(10)

 この詩篇と次の112篇は、各行がヘブル語のアルファベット(アーレフ、ベイト・・・タウまでの22文字)で始まるいろは歌になっています。最初のハレルヤを抜かすと22行です。時代は、捕囚後のものではないかと言われています。

Ⅰ 主に感謝する

 1節の「正しい」とは、神によって義とされ、神との関係がまっすぐにされている者であります。そういう者たちが集まる場で神に感謝をささげています。神に感謝をささげる理由は、神の恵みは深く、神のみわざは偉大で栄光と威厳とに満ちているあるからです。具体的には、神の民との契約に基づき、食住を与え、贖うことさえもして下ったことです。


Ⅱ 主を恐れることの幸い
 出エジプトの出来事、バビロン捕囚からの解放の出来事という救済の歴史を圧倒的な力をもって導く神。私たちが普段恐れている、おそれるべき人、おそれるべき出来事は、おそれることではなく、この世界を造り、この世界を治め、この世界を導き、この世界のすべてを御手の中に治めているこの真の神をおそれることこそ、知恵のはじめであります。これなくしては、どんなに一生懸命であったとしても暗中模索でしかありません。すべての源はこの主なる神なのです。

 ですから、この真の神をおそれる時に知恵を得、しっかりとした歩みができるのです。

2015/1/11 説教者 杉本守

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天のマナ

2015年01月11日 | 天のマナ
 「大人のクリスチャン」
 
 信仰生活を歩んでいますと、私たちは、時々、主のテスト(訓練)を受けます。そのテストは、「あなたの自我はきよめられているか」というものであります。精一杯奉仕する中で、誰にも評価され感謝されず、むしろ、改善要求のみを言われることがあります。その時、テストを受けているのだと感じます。ジョージ・ミューラーは、その奉仕の秘訣を尋ねた人に「わたしがジョージ・ミューラーに全く死んだ日がありました」と言いました。続けて、「自分の意見、好み、趣味、意志に全く死んだ日が。世界に対して、その賛成に対しても、非難に対しても死にました。わたしの信仰仲間や友人の賛成や非難に対してさえも死にました。それ以来、わたしは自分を神だけに認められるように努めてきました。」とも言いました。
 
「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕としての自分をいいあらわしている。」(コリントへの第二の手紙6章8節)。これに尽きます。

2015/1/11
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講壇の花

2015年01月11日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2015年01月04日 | 説教要約
「イエスの証人であるクリスチャン」使徒行伝22章1~21節

 「それはあなたが、その見聞きした事につき、すべての人に対して、彼の証人になるためである。」(使徒行伝22章15節)

 
 パウロが三回の伝道旅行を終え、エルサレム教会にいた時、エルサレム教会のユダヤ人クリスチャンは、異邦人への福音とパウロの異邦人伝道を、先のエルサレム会議でも承認したように、受け入れていましたが、(使徒21:20)5万人ユダヤ人クリスチャンたちの中には、まだ律法に熱心なものもいました。パウロらが律法を軽んじていると誤解する者もいました。また、アジヤでパウロを迫害していたユダヤ人がエルサレムに来て(21:27)群衆を扇動し、パウロを迫害したのです。その中でパウロは、自分の救いの証を含めて、イエスの福音を語ります。

Ⅰ 証人とは
  
 辞書で調べますと、「証人」とは、「ある事実を証明する人、あることを証明するために事実を述べる人」とありました。自分が体験したことや見聞きした事実を語るのが証人です。自分が体験しなかったり、見聞きしなかった出来事は証言できません。逆に体験していないのに、見聞きしていないのに証言するならば、それは偽証人となります。さらに言うならば、体験したり見聞きしたのに黙っているなら、その人は証人としての責任を果たしていません。

Ⅱ イエスの証人であるクリスチャン

 私たちクリスチャンは、主イエスが救い主であることを見聞きし信じ、救いを体験しているイエスの証人であります。私たちの務めはなんでしょうか。それは、「人々にイエスは救い主であると証言すること」です。黙っていては、証人としての務めを果たしていません。どんな状況にあっても、ここぞという時には、はっきりと信仰を表明し、「イエスこそ主である」とパウロのように証言いたしましょう。

 私たちは、確かに救い主イエスの救いを体験した証人であるのですから。

2015/1/4 説教者 杉本守
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天のマナ

2015年01月04日 | 天のマナ
 「あなたの口を広くあけよ、わたしがそれを満たそう」(詩篇81:10)    
 
 皆さん、今年始めたいことは何でしょうか? 早朝ウオーク、ラジオ体操、英語の単語を一日一つ覚える、コツコツ貯金、一人ひとりがさまざまな決め事を持ってスタートしたことでしょう。本日は、1月4日(日)、すでに三日が過ぎ、できなくてあきらめてしまい、継続の難しさを感じておられる方が、すでに2、3人はいるかもしれません。私は今年、運動するという計画が、風邪で1日も行えないまま、本日となってしまいました。

 主の大いなる救いに入れていただいたクリスチャンである私たちは、その豊かな恵みに与り続ける必要があります。神に立ち帰り神との霊の関係が回復し、豊かな命と恵みが流れ込んでくるのに、そのパイプ(礼拝、聖書を読む、祈りをする、奉仕をする、伝道する、ささげものをする)を細くし、蛇口を絞ってはいけません。大きく開いていく時、あなたの内に、あなたを通して神の御業が豊かなにあらわれるのです。

2015/1/4
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