静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2010年09月26日 | 説教要約
「平安を祈る」マタイによる福音書9章35~10章15節

 主イエスが、弟子達を派遣する記事から、共に主のみ言に耳を傾けましょう。

Ⅰ 主に願いなさい
 主イエスの見方と私たちの見方の違いを考えるのです。主イエスは、群集を見たとき、彼らを「飼う者のない羊のように弱り果てて倒れていると、深くあわれまれた」のでした。しかし、私たちはどうでしょうか。「世の中の人の方が元気で、クリスチャンに元気がない」ように感じているのではないでしょうか。
 次に主イエスは、「収穫は多いが働き人が少ない」と言われました。しかし、私たちは、「確かに働き人は少ないが、収穫も少ない」と考えてしまっているのではないでしょうか。
 確かなのは、主のみ言です。私たちは主イエスの見方に立ち、父なる神に働き人を送り出してもらうように祈り願おうではないでしょうか。「働き人を送り出す」とは、若い人達だけではなく、自らも整えられて満たされていくことであります。

Ⅱ 主の言葉を伝えなさい
 主イエスは、12弟子を選ばれて派遣していきます。彼らの務めは、「神の国が近づいた」との福音を語ること、福音に伴うしるしを行うこと、そして主の平安を祈ることでした。表面的には平安そうに見えても、内には平安がない世の人々に、この弟子達同様、私たちも、「変わらず枯れることのない主の平安」を祈る使命が与えられているのです。

 今週出会う人へ、福音を伝え平安を祈る者として遣わされましょう。

2010・9・26 説教者 杉本守
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天のマナ

2010年09月26日 | 天のマナ
 「理不尽さを経験するの中で主イエスを見上げる」

 私達は、この世で生きていく中で、時々理不尽な経験をいたします。自らの落ち度が明確ならば、潔く謝り、必要があるならば償って解決いたしますが、自らに落ち度がないのに非難されたり、状況を説明しても受け入れられず、謝らなければいけない状況に追い込まれると納得いかず、「なぜ、どうして」と思います。

 さらにもっと進み、自らに落ち度がないばかりか、指示通りにしてそれができているのにもかかわらず、拒否されたら、こんな理不尽なことはなく、怒りが湧いてきて投げ出したくなります。

 ここで私達クリスチャンは、少し考えたいのです。「世界一の理不尽さを体験された方はどなたでしょうか?それは誰のためでしょうか?」。永遠の救い主イエスは、私達を救うために、父なる神の指示に従い、限りある人となり、さらにはあの十字架まで向かいました。しかし、その結果は、私達の罪を十字架で負ったがゆえに受けた神の怒り、神の裁きによる死でありました。

 これほどの理不尽さはありませんが、この理不尽があったからこそ私達は救われたのです。ですから、理不尽さの中で主を見上げましょう。主はわかってくださり、その中でも私達にみ業をなしてくださるからです。

2010/9/26
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講壇の花

2010年09月26日 | 生花
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主日説教要約

2010年09月19日 | 説教要約
「わたしは決して動かされない」詩篇30篇1~12節

 この詩篇は、ある重病の詩人が、その瀕死の病から癒やされた時の感謝の歌であります。
 後に、その内容から、個人的なことにも国家的なことにも用いられるようになりました。
この詩から共に主のみ言を聴きましょう。

Ⅰ 主を崇めほめたたえます
 詩人は、まず1~3節で癒やされたことの感謝を詩っています。その病は重く、沈みかかっていた死の世界から、神によって引き戻された感謝であります。詩人はその喜びを自らだけではなく、他の聖徒たちにも加わり、共に賛美をささげることを呼びかけています。「主の懲らしめはつかのまであり、神の祝福は永遠である」ことが詩われています。

Ⅱ 主をほめたたえる理由
 この詩人はどうして病になったのでしょうか。それが6節以降にあります。自分の不信仰の失敗を体験として告白しています。それは、彼の信仰が自己中心的なものになり、「わたしは決して動かされない」と告白しているのです。「主の恵みを自分のために限定し、自分が満足すればそれでよい」というものでした。ですから、主は懲らしめの意味で病を詩人を置かれました。

 主の恵みは、その者だけが満たされるだけではなく、あふれ出て隣人にも流れるものであります。恵みを分かち合うことが必要なのです。そこでこそ、本来の「わたしは決して動かされない」になるのです。詩人はそれに気づいたのです。

 わたし達は、主の恵みに慣れてしまい、油断してあぐらをかき、独り占めにしてしまってはないでしょうか。主の恵みも賛美も分かち合うお互いでありたいのです。

2010/9/19 説教者 杉本守
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天のマナ

2010年09月19日 | 天のマナ
「主語は神」

 先日の市内牧師会で、教えられたことを以下に記させていただきます。

 私達の人生の主語は、誰になっているでしょうか?

 創世記にでてきますヨセフがエジプトで総理大臣になったとき、幼かった自らを奴隷として売った兄弟達が目の前に来ました。その時、自らを抑えられなくなって自分の正体を明かします。そこでヨセフは自らの波乱万丈な人生を振り返って、何と言ったでしょうか。

 創世記45章に見ることができます。彼の語った言葉の主語は、「あなたがた」と兄弟ではなく、「わたしは」と自らでもなく、「神は」と神です。「あなたがたは」と兄弟に対し、また関わってきた人や環境や状況をあげて恨み辛みを言って責めたのではありません。また、「わたしは」と自らが受けてきた苦しみや痛みをぶちまけたのでもありません。

 それらのようにすることもできましたが、彼は、「神は」と何度も始め、「神は神の民の命を救うために、わたしを先にエジプトに遣わしたのです」と神の恵み深い摂理を語ったのでした。彼の人生の視点は、神の目でありました。ここに幸いと解決がありました。

 私達も人生にそして人生に起こる課題に対して、神の視点をもち、主語を「神」として捉えたいと願います。

 2010/9/19
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講壇の花

2010年09月19日 | 生花
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天のマナ

2010年09月12日 | 天のマナ
 「リバイバルを」

 「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」(第二テモテ1:7)

 二日前の夜、一人の青年の兄弟が、奉仕の関係で教会に来られました。彼と話していく中で、彼はまじめに「先生、もうすぐリバイバルが起こりますよ」と語ってくれました。その時、わたしは少しドキッとしたのでした。その一瞬、「わたしはリバイバル(キリスト教で、信仰の原点に立ち返ろうとする運動。18世紀英国のJ=ウェスレーによるメソジスト運動、1870〜90年代のD=ムーディによる全米的大衆伝道などの例がある。信仰復興。ホーリネス教団も二度経験している)が起こるのを本気で信じているのだろうか」という自問を受けたからです。

 兄弟へのわたしの返答は、「そうだね。起こるね。」でした。さまざまな思いが過ぎりましたが、返答は信仰によるものでした。 

「主の御霊よ 触れたまえ わが心に 主の教会に 雨を降らせ リバイバルを 来たらせたまえ この地の上に」

2010/9/12
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主日礼拝説教要約

2010年09月12日 | 説教要約
「主イエスよ 信じます」 マタイによる福音書9章27~34節

 二人の盲人の癒やしを通して、主イエスのみ言に耳を傾けましょう。

Ⅰ 主イエスを信じるか
 二人の盲人は、主イエスが近くにいるのを知ると、「ダビデの子よ。わたしたちをあわれんでください」と大声で叫び、主イエスのあとをついて行きました。ここに二人の真剣で且つ継続的な求めをみるのです。
 この二人に主イエスは、「わたしにそれができると信じるか」と問いました。直級な問いかけです。「それ」とは、目が開かれ見えるようになることです。彼らは今まで見えない歩みを現実に続けていました。この言葉に本当に信仰が問われます。

Ⅱ 主イエスを信じます
 彼らはたじたじになり言葉を失ってしまったかというと、そうではありませんでした。すぐに、主イエスは病を癒やすことができる方であり、その力を持つメシアであることを信仰によって表明します。「主よ。信じます」と。
 主イエスの力は、信じる器に流れ出て、神の癒やしのみ業を彼らのうちになし、彼らは見えるようになったのでした。主イエスが彼らのうちに信仰を与え、彼らのうちから信仰を引き出されたのでした。

 わたしたちも信仰が与えられています。その信仰を主イエスに引き出していただき、主のみ業を体験させていただきましょう。

2010/9/12 説教者 杉本守 
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講壇の花

2010年09月12日 | 生花
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天のマナ

2010年09月05日 | 天のマナ
「できないことを認める恵み」
 
 わたしたちの人生の歩みの中に、様々な課題が起こってきます。そうする時に、まずわたしたちは、どのようにこれらの課題に向かい解決しようかと考え思慮いたします。そして今までの知識や経験や力などの度量で対応します。ある程度のことは自分だけで解決できますが、それらの課題がますます複雑になったり、大きくなったりしてしまうこともないわけではありません。そこでわたしたちは、家族や友人、あるいは先生と呼ばれる方に相談します。それで良きアドバイスをいただいて解決できることもあります。

 しかし、大切で重要な件こそ、人間の根本的、本質的なことになると、人間の力では解決できないことが多々あります。けれども、わたしたち限りある人間では解決できないと認めることができずに、自分で握り締め抱え込んで、行き詰ってしまう事をよくしてしまいます。

 わたしたちクリスチャンはそこで、「できないことを認める恵み」を経験できます。いつまでもできないことにしがみ付かずに、「投げ出すことができる」のです。それは自棄になり、「あきらめて放棄してしまう」ことではありません。主なる神に「委ねる」ことです。「委ねる」とは、それらの課題の解決を必ずなし支えてくださる主の恵みのわざを経験することです。

「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。」(詩篇55:22)

2010/9/5
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