静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2014年01月26日 | 天のマナ

 「宣教の種を蒔き続ける」                 

 昨年、10月21日にNHKスペシャルで、中国で起きているリバイバル(拡大するキリスト教)が放映されました。ご覧になった方々も多くおられると思います。中国に最初のプロテスタント宣教師ロバート・モリソンが宣教したのは、1807年でした。その後、ハドソン・テーラーなど優秀な宣教達が福音を伝えましたが、1957年の150年後、クリスチャンは80万人であり、それほど多くの実は見られませんでした。しかし、その後50数年、2014年現在、主の時が来て、8%(1億人)を越す人がクリスチャンとなっています。30倍ではなく60倍でもなく、100倍以上の実です。福音の種を蒔き続けることをやめずに宣教し、今まで蒔かれた種が実を結んでいるのです。日本も2009年にプロテスタント宣教150年をむかえました。未だに1%クリスチャンであり、礼拝出席をしているクリスチャンは0.3%(33万人)であると言われています。しかし、種を蒔くのを止めてはいけません。必ず主の時が来て蒔いた種は実を結ぶからであります。「主にあっては、あなたがたの労苦はむだになることはないと、あなたがたが知っているからである」(Ⅰコリント15:58)

2014/1/26

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主日礼拝説教要約

2014年01月26日 | 説教要約

「神のあわれみを求める」 詩篇86篇1~17節

 この詩篇は、賛美、感謝の要素を多分に含むあわれみを祈る嘆願の祈りであります。

Ⅰ 苦難の中での叫び

 「主よ、わたしをあわれんでください。わたしはひねもすあなたに呼ばわります。」(3)     詩人の状況は切実でありました。苦しみ(1)、悩みの日に(7)とあります。具体的にはわかりませんが、高ぶる者どもや横暴な者の群れが作者の生活を脅かしています(14)。彼はその中で神に呼ばわります。

Ⅱ 叫びの内容

 彼の叫びはどのようなものだったのでしょうか。それは、自分の生活や命を脅かす者達の排除ではありませんでした。状況や敵からの守りではなく、魂の守りでありました。「心を一つにしてください」(11)との祈りです。苦難や悩みの中で、彼の心がちりちりに乱れ、自分が崩壊しそうな時、ただ神だけを畏れ、自分の思いではなく、神のみ心がなるようにという思いに集中し、神の道を歩めるようにでした。

 私たちはどのような叫びを主にしているでしょうか?心が分裂せず、いつも主を見上げ、心を一筋に主なる神の道を歩ませていただきましょう。

2014/1/26 説教者 杉本守

 

 

 

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講壇の花

2014年01月26日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2014年01月19日 | 説教要約

「人をかたよりみない神」 使徒行伝10章23~43節

 主なる神は、ペテロをカイザリヤにいる異邦人の百卒長コルネリオのもとへ導きます。

Ⅰ 神の旧い戒めに従ってきた信仰

 主なる神は、ペテロに幻を見させます。それは律法により、ユダヤ人が食べてはいけなく、汚れたものとしたいた各種の生き物が入った大きな布のような入れ物でした。主なる神はそれを食べよとペテロに言いますが、ペテロは汚れたものであるとして食べません。主なる神はさらに、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはいけない」と言われ、こんなことを三度もやり取りいたします。なぜ三度もなのでしょうか。ペテロは、旧い戒めに従ってきた自分の伝統や生活感情が神によって砕かれる経験が必要だったのです。ペテロは、これは何の意味だろうと考えますが、コルネリオのところに導かれることによって、その意味を知るのです。

Ⅱ 神の新しい戒めに従う信仰

 主イエスによって、律法は成就し、食べ物の規定する律法は終わりました。神は新約の時代にはどんな食べ物も食べて良いと言われたのです。しかし、これは食べ物のことだけを言っているのではなく、この食べてはいけない汚れたものとは、異邦人のことを示していたのです。ユダヤ人は異邦人を汚れた者として、交際をしていませんでしたが、主なる神の救いの恵みはあふれ出て、ユダヤ人だけではなく異邦人にも救いを与えるのです。その時代が来たのです。ペテロの救いの説教を通して、主イエスは異邦人であるコルネリオとその家族らを救い、聖霊が彼らに降り、神の同じ救いが異邦人にもなされたのです。ペテロはそれを見て喜び、神の新しい戒めを受け入れたのでした。それは、神は人を偏り見ない方で、全世界の人の救われるのを望んでおられるということです。

 私たちは偏見をもっていないでしょうか。神はどんな人でも救ってくださる方なのです。

2014.1.19 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2014年01月19日 | 天のマナ

「新年聖会の恵み」                  

 先週、2014年の教区新年聖会が持たれ、グレースチャペルからは16名が参加して、主のきよめの恵みをいただきました。講師が神によって遣わされ、クリスチャンに欠かせないきよめの恵みを聖書より語ってくださいました。人類の代表であるアダムが罪を犯して以降、原罪なる自我をもって生れてきた私達一人一人、内に宿る罪なる性質を持ち、罪を犯すべくして犯した私達一人一人に対して、神はキリストの十字架によって共に死に、キリストの復活によって共にいかしてくださるきよめの恵みが語られたのでした。参加者一人一人は、聴き入り、信仰によってこの恵みに与りました。今回のきよめの説教は、きよめの恵みを知的にも霊的にもはっきりとわからせていただける内容であり、クリスチャンの兄弟姉妹は、一度ならずに何度もCDで聞き、ホーリネス教団に導かれ組み入れられている者として、きよめの恵みについて語り伝える者であらせていただきましょう。これは逃してはいけないキリスト者の恵みであります。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:19、20)

2014/1/19

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講壇の花

2014年01月19日 | 生花
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天のマナ

2014年01月12日 | 天のマナ

 「神の憐れみの深さ」  

 ナルニア物語を書いた小説家であり神学者であったC・Sルイスは、「われわれは、傲慢(おごりたかぶって人を見下すこと)である間は、決して神を知ることができない。傲慢な人は、いつも事物や人びとを見下している。見下している限り、自分の上にある方(神)が目に入らないのは当たり前である。」と語っています。

「自分は正しいし他の人のように誤らない。自分はできるので自分には神なんて必要がない。自分は他の人のように弱くはなく一人で立派に生きて生ける。」と豪語している間は、神を知りえず神と出会うことはできないのです。神を知り、神を信じるための第一歩は、まず自分が罪人であることを知り認めることであります。そのためにあえて神は、人が自らの弱さや罪深さを認めるために、挫折というものをこの世から取り除かなかったのでしょう。神の憐れみがここにあるのではないでしょうか。

2014/1/12

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主日礼拝説教要約

2014年01月12日 | 説教要約

「心を主なる神に向ける」 詩篇85篇1~13節

 この詩篇は、バビロンの捕囚から解放されて帰ってきた時に作られた詩と考えられます。彼らは、祖国エルサレムの再建の意欲に燃えていましたが、いざ到着し着手してみますと、それはあまりに困難で、見通しがつかないものでした。

Ⅰ 感謝と祈りによって

 このような中で、彼らがまずしたのは、捕囚からの解放に対する感謝でした(1~3)。私たちは、今や捕囚の地にいるのではない! 神は御民の咎を赦し、罪を覆ってくださり、激しい怒りを取り去って下さったのです。彼らは感謝をもって、回復の祈り(4~7)をささげます。バビロンから解放して下さった神が、エルサレムの町を回復してくださらないはずがありませんと。

Ⅱ 栄光から栄光へと

 主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさに戻さず、神との和解の中で、栄光から栄光へと導いてくださるのです。12節には、神の掌中にある国民の祝福された姿が描かれ、主は良いものを下さるので神の民は祝福されることが告白されています。

 私たちを救ってくださった神は、人格や人間関係を回復し、私たちを本来の人の姿に戻し、栄光から栄光へと変えてくださるのであります。信仰によって始め、信仰によって得たものは信仰によって完成されていくからです。

2014/1/12 説教者 杉本守

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講壇の花

2014年01月12日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2014年01月05日 | 説教要約

「いのちの源なる神」  使徒行伝9:32~43

 新年も使徒行伝と詩篇より、主のみ言葉をいただきます。聖書の記事は、サウロの回心からペテロの宣教へと移ります。ペテロは、エルサレムより西およそ45キロあるルダ、そして地中海に面した街ヨッパに宣教に行き、聖徒達を励まします。

Ⅰ 驚くべきいのちの源なる神

 ルダでは、8年間中風に悩まされていた人を癒し立ち上がらせ、ヨッパにおいては、タビダ(ドルカス)を生き返らされました。このことを通して、いのちは神の御手にあることを神は示されました。人は使命が与えられている間は生かされ、使命を果たしたなら天に引き上げられるのです。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息(霊)をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きたものとなった」(創世記2:7)。「ちりはもとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(伝道の書12:7)とあるようにです。神はいのちであり、いのちの源なのです。

Ⅱ いのちの源なる神に活かされて

 「永遠のいのちとは、父なる神とイエス様ご自身を知ること」(ヨハネ17:3)です。神を信じ神に立ち帰り、神に繋がると、いのちの源なる神からいのちが流れ込んでくるのです。永遠のいのちとは、時間的に永遠というだけではなく、今この時、神のいのちに私たちが溢れるということであります。

 地上でのいのちだけではなく、永遠のいのちをいただいているキリスト者は、神のいのちに溢れさせていただき、この地上での使命を果たさせていただきましょう。いつ主はお迎えに来られてよいように。

2014/1/5 説教者 杉本守

 

 

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