静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日説教要約

2011年11月27日 | 説教要約

「救い主を待ち望んだ者達」 ルカによる福音書2章22~38節

 本日からアドベント(待降節)に入ります。シメオンとアンナが救い主を待ち望み、救い主と出会った出来事から、み言葉をいただきましょう。

Ⅰ 救い主に出会うために

 この二人は大勢の神殿に訪れている人たちの中で、なぜ赤子であるイエスが救い主であると気がついたのでしょうか。まずそれは、救い主を待ち望んでいたからであります。漠然とではありません。今日か今日かと、日々に待ち望んでいたのです。そして、彼らは聖霊の細き声に聞き、聖霊の導きに従ったからであります。

Ⅱ 救い主に出会った者は

 この二人は赤子である救い主イエスに出会い、喜びに満たされ、神をほめたたえ、神に感謝をささげ、神の言葉(預言)を語りました。そして、この救い主イエスを人々に語り聞かせたのです。救い主に出会った者はそうなるのです。

 このアドベント、シメオンやアンナのように主イエスを待ち望み、主イエスに出会う経験へと今年もされていきましょう。

2011・11・27 説教者 杉本守

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天のマナ

2011年11月27日 | 天のマナ

「神の翼」 

『イエローストーン国立公園で山火事が起きた時のことだ。森林警備隊員たちは、山火事の被害調査のために森の中を歩き回っていた。やがて隊員のひとりが、1本の木の根元のあたりに、小鳥が化石のように姿をとどめたまま灰になって死んでいるのを発見した。彼はその無残な姿におもわず目を背けたが、小枝でそっとつついてみた。すると、驚いたことに鳥の死骸の下から3羽のヒナがちょこちょこと這い出してきたのだ。親鳥は本能で火事の危険を知り、ヒナを木の根元に運び集めて、自分の羽でおおっていたようだ。有毒なガスは上に昇って行くということも本能で知っていたのだろうか。自分は安全なところまで飛んで行き、生き延びることもできたのに・・・・。ヒナたちを見捨てることができなかったのだろう。炎にまかれ熱で体を焼かれながらも、親鳥は断固としてその体勢を維持し続けた。自分の羽の下にいる命を守るために、自ら自分の命を捧げたのだ。』 本能のなせる業とはいえ、自分の命と引き換えにヒナたちの命を守った親鳥の愛には心打たれ感動しました。しかし、もっと感動する愛があります。それは「愛する者のために命を捨てること、これ以上の愛はない」(ヨハネ福音書15-13)と諭されたイエスの愛です。イエスは、私たち人間の罪を贖うために、私たちと同じ人間となられ、しかも自らすすんで十字架の上で、私たちの罪を償うために亡くなられ、私たちを愛してくださっていることをお示しになられました。(聖ドミニコ学園のHPより抜粋)

 

2011/11/27

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講壇の花

2011年11月27日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年11月20日 | 説教要約

「へりくださる者への幸い」 マタイによる福音書18章1~14節

 主イエスの弟子たちの関心は、「天国で誰が一番偉いか」ということであり、彼らは主イエスに尋ねました。

Ⅰ 天国に入るには

 主イエスは、「天国で誰が一番偉いか」という問いへ答える先に、「天国に入るには」ということを答えました。それは、「幼な子のようになる」ということでした。「幼な子」というのは、未熟な者であり失敗をする者です。ですから、自らを神の前にも人の前にも未熟で足りない者であるとの自覚を常にすることです。しかし、それだけではありません。幼な子は、自らの弱さをしり、親により頼る者です。親の保護なしに幼な子は生きていけません。そのように、主イエスの十字架による救いを信じ、主イエスに信頼しその信仰に生き続ける者が、天国に入るのです。

Ⅱ 天国で一番偉いのは

 続いて主イエスは、天国で一番偉いのは、へりくだる者(自分を低くする者)であるといわれました。「へりくだる」とは、自己卑下でも卑屈になることでも開き直ることでもありません。それは、自分の足りなさを認めると同時に、主にあってできるという信仰をもって歩むということです。さらに、主の心を心とすることであります。そういう者が天国で一番偉いのです。

 主イエスを信じ歩む者として、天国に入れる者として、天国にふさわしい者とされていきましょう。

2011/11/20 説教者 杉本守

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天のマナ

2011年11月20日 | 天のマナ

「バザーでの主の恵み」 

 

愛する兄弟姉妹が、先週の教会バザーでの多くの奉仕をささげてくださりありがとございました。地域の方々が多く教会堂に足を踏み入れ、クリスチャンたちとの交わりを喜んでおられました。私たちも、楽しみながらご奉仕することができました。私は、兄弟姉妹の奉仕する姿や表情を見ていて、「生き生きして輝いているなあ」と感じ、クリスチャンの輝きを兄弟姉妹一人一人に見させていただきました。「本当に主イエスを救い主と信じ、救われた者は違うなあ」と確認しました。

来年のバザーはもっと伝道的にしたいと願っています。たとえば、クリスチャン新聞福音版、教会案内、ギデオンの聖書などを入れたウエルカムセットを渡したり、プロジェクターでライフラインの番組などの映像を流したりと考えています。

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:20)

 

2011・11・20

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講壇の花

2011年11月20日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年11月13日 | 説教要約

「わたしは神の家にある」 詩篇52篇1~9節

 サウル王に命を狙われたダビデが、アヒメレクの家に来たことを、ドエグがサウル王に告げた時にダビデが詠んだ詩から、今日の主の恵みをいただきましょう。

Ⅰ 報復の家に住まない

 ドエグは、神から授かったその才能や賜物を、神とその正義のために用いず、自らの欲と富に使ったのでした。それは、彼が神を避けどころとせず富により頼む者だったからでした。彼は神ぬきにやっていけると思い、むくむくとわいてくる悪への誘いに乗ったのです。そうした彼を神は砕かれるのです。ダビデは、彼の行いに対して自ら報復をせずに神にゆだねたのでした。

Ⅱ 神の家に住む

 ダビデはドエグの行いを見て、今一度自分の歩み方を確認しました。それは神の家に住むことでした。神に逆らうのではなく、神に従うこそ祝福の中に身を置くことであるのです。そのゆえに、命を狙われているとは思えないほどダビデのうちには神の平安がありました。ダビデは、神に感謝し神に賛美をささげています。

 今私たちは誰を見ているでしょうか?人々を見て恐れているでしょうか?それとも主なる神を見て平安でいるでしょうか。私たちは誰により頼んでいるでしょうか。この世のものではなく、主なる神により頼み、常に神の家にある者でありましょう。

2011・11・13 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2011年11月13日 | 天のマナ

 「ただ主の栄光をあらわす者として」 

 

1924年、パリでオリンピックが開催された。百m予選は日曜日と決まった。英国のエリック・リデルには優勝が期待されていた。ところが彼は、「日曜日には主を礼拝するために出場できない」と欠場を申し出た。英国では騒然となった。新聞は、「私は神さまのために走る」というリデルの立場を伝えたが、こう書きたてた。「リデルは狂信家か?」英国皇太子までもリデルの説得にあたるほどの大事件となったが、「王の王、主の主」に対する彼の忠実さはゆるぎもしなかった。


 神は人びとに知恵をあたえてくださった。友人の好意によって、他の日の四百mに交替して出場できるようになった。リデルは走り慣れないクラスで主の栄光のために走った。そこで彼はだれもが予想しなかった優勝を獲得したのだ。それも世界新記録で。翌年、リデルはスポーツマンとしての栄光を捨て去って、中国へ宣教師として出ていった。天津で八年間働いたが日本軍に逮捕され、1945年四三歳で捕虜収容所で天に召された。映画『炎のランナー』は、主に忠実だったかの青年を世界にあかししている。

 

2011・11・13

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講壇の花

2011年11月13日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2011年11月06日 | 説教要約

「主イエスの愛の配慮」 マタイによる福音書17:24~27節

宮の納入金について、主イエスが語られた記事から、主の恵みをいただきましょう。

Ⅰ 神のひとり子なる主イエス

 当時、20歳以上の男性は毎年一人半シュケル、神殿に税を納めていました。これは、出エジプト記30章11~16節が出所であります。集められたものは、神殿維持のために使われました。

 主イエスは、神のひとり子であり、王の家族が王に税や貢を納めないように、神殿は神の家であるので、神の子である主イエスは税を納める必要はないのであります。

Ⅱ 主イエスの配慮

 しかし、主イエスは、納めることをいたしました。それは、「神のひとり子であり救い主である主イエスを、まだそうと認めることができない者たち」に愛の配慮をなされたのであります。このことで彼らが躓かないためです。人の救いのためには、自らの当然の権利を行使しなかったのです。

 パウロは、偶像に供えられた肉の問題で、肉を食べてもかまわないが、それが弱い兄弟を躓かせるなら、その権利や自由も、隣人への配慮の中で制限し、すべて神の栄光のためにすると言いました(第一コリント8章)。

 何よりも、主イエスが私たちを救うために、神の位を置きこの世に来てくださり、十字架まで掛かってくださったことをおぼえます。すべてのことに神の栄光をあらわす者となりたいのです。

2011/11/6 説教者 杉本守

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