静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2012年01月29日 | 天のマナ

 

「主の聖徒たちの死」             (聖句は新改訳)

 

主の聖徒たちの死は主の目に尊い。(詩篇116:15)、「主にあって死ぬ死者は幸い」(黙示録14:13)の二つのみ言葉を先週一週間、なぜなのかと考えていました。 

 

インマヌエル金沢教会のHPを参照させて頂きますと次のようにありました。

一つに、そこに、魂の永遠の安息があるからです。すべての労苦から解放され、休むことが出来ます。{また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」}(黙示録14:13) 二つに、そこに復活の希望があるからです。イエスさまは、仰いました。イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」 (ヨハネ11:25) 主の聖徒の死は、新しい霊的な体によみがえる復活の希望への門なのです。 三つに、そこに、天の報いが待っているからです。パウロは言っています。「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(Ⅱテモテ4:8)主イエスは、「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』」と言われました。 (マタイ25:34)

 

これらの意味で、主の聖徒が召されることは、本当に尊いことであると再認識いたしました。

 

2010・1・29

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝説教要約

2012年01月29日 | 説教要約

「永遠の命を得るために」 ル化による福音書10章25~37節

 本日は伝道礼拝です。聖書でも有名な「良きサマリヤ人」から、み言葉をいただきましょう。律法学者がイエスを試みるために、「何をしたら永遠の命が受けられるか」と問いました。まずは「永遠の命」とは、次にどうしたらそれが得られるのかを語らせていただきます。

Ⅰ 永遠の命とは

  永遠の命とは、この世界で永遠に生きることではありません。この世界での歩みが終わった死後、神の直接支配する永遠の世界(神の国)で永遠に生きることです。しかし、それだけではありません。主イエスは、「永遠のいのちとはわたしである」と言われました。それは、この世にありながら、主イエスを信じ受け入れる時、永遠の命が与えられ、既にそれによって生き始めるのです。つまり死後のことだけではなく、既にこの世にありながら、主イエスを信じ受け入れるに者は、神に立ち返り、神との関係が回復し、内にいてくださる主イエスとの交わることにおいて霊的いのちが注がれていくのですから、質的に永遠のいのちを生き始めるということです。

Ⅱ 永遠の命を得るために

 それではどうしたらこの永遠の命を受けられうのでしょうか。主イエスは、「わたしを救い主として信じ受け入れなさい」とはすぐに答えませんでした。まず、律法を守って自分は罪人でないと思っている彼に、自分が罪人(神から離れ的をはずして生きている者)であることを自覚させる必要がありました。彼は、「神を愛し、隣人を愛すること」をしていると思っていましたが、自分の親族や友人にはそうであっても、敵対する人や不利益を生じさせる者にはそうでありませんでした。つまり関係がよくなかったユダヤ人に対してさえも愛をなしたこの良きサマリヤ人のようではなかったのです。律法を行うことによって永遠のいのちを得るためには、自分の基準で守っていると自負しても駄目なのです。神の基準で神を満足させるように完全に守らなければなりません。いつでもどこでも誰に対しても、敵対する者をも愛する愛です。人間にはそれはできません。唯一、この良きサマリヤのように、完全に律法を行われたのは主イエスです。主イエスの十字架がそれを示しています。父なる神は、律法を成就した主イエスを救い主として信じ受け入れ主イエスに属する者に対して、この者の罪をゆるし義とし、神の子とし永遠の命を与えるのであります。永遠の命を得るためには、私たちには行えない律法を行うことによるのではなく、律法を完全に行ってくださった主イエスを信じることなのです。それによって主イエスを通してくださる神の救いの恵にあずかり、永遠の命をえられるのです。これが新約、父なる神の主イエスによる私たちへの新しい契約です。

 主イエスを救い主信じ、永遠の命をいただきましょう。そして、救われた者として内にいてくださる主イエスによって、神を愛し隣人を愛する者とますますならせていただきましょう。

2012/1/29 説教者 杉本守

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の花

2012年01月29日 | 生花
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝説教要約

2012年01月22日 | 説教要約

「神のあわれみ」 マタイによる福音書18章21~35節

 主イエスはペテロに言われました。「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。」(22節)

 

 1万タラント(6000万デナリ)をゆるされた者が、60万分の一である100デナリをゆるすことができない、たとえ話を主イエスはなされました。

 たとえ話のこの人のことを聞くと「なんていう人だ」と私達は思うでしょう。しかし、この者こそ私達の姿なのです。100デナリは決して少ない額ではありません。

 小さい出来事ならゆるすでしょう。またクリスチャン以外の方なら小さい出来事でなくてもゆるすことでしょう。しかし、兄弟であるクリスチャンなのにこんなことを、そしてそれが小さい出来事でないならば、ゆるせない思いが心の奥に残るのではないでしょうか。

 

 どうしたらゆるすことができるのでしょうか。人間の決心や努力ではゆるすことはできません。神の介入がそこになければ、そしてわたしのためのである十字架における主イエスの犠牲の愛を体験し、そこから流れるゆるしに身をひたさなければゆるしの恵みの世界は開かれません。

 さらに言うならば、そのゆるしの世界に生き続けることです。彼は1万タラントゆるされたのです。しかし、門を出るとその恵みは続かず、その恵みに生きることをせず、彼から兄弟にゆるしは流れていなかったのです。

 

 み言葉を聞き自らに体験するだけではなく、兄弟姉妹に流れ出る者でありたいのです。

「わたしがあわれんでやったように、あの仲間にもあわれんでやるべきではなかったか」(33節)

 

2012/1/22 説教者 杉本守

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2012年01月22日 | 天のマナ

 「永遠を生きる者とされているクリスチャン」 

 

 主イエスを信じる者は、罪赦され義とせられ、神の子とせられ、永遠の命を受けています。そして、すで

に永遠を生きています。永遠に生きる中で今は地上の歩みをしています。神からのこの地上での使命を終

えたならば、肉体の死という扉を開けて、神の国に入るのです。ですから、この地上での歩みは、永遠に生

きていることの最初の部分に過ぎません。

 

 このことを蝶の生涯に例える人もいます。最初は卵、そして幼虫(芋虫)です。地上の歩みは芋虫のようかも知れません。芋虫の体は地上用で、空に飛ぶためには空用の羽が必要です。しかし、空用の羽を持つためには、さなぎという時を経なければなりません。さなぎの時は、動かなくなり不自由な時かも知れません。けれども、それは空へ羽ばたくための扉に過ぎないのです。

 

「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵の神は、しばらくの苦しみの後、

あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」(ペテロ第一の手紙5章10節)

 

2012/1/22

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の花

2012年01月22日 | 生花
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝説教要約

2012年01月15日 | 説教要約

「真の神を神とする」 詩篇53篇1~6節

 聖書が言う愚かな者とは、人生経験が薄いとか、教養がないとかというものではありません。聖書が言う愚か者とは、心のうちに「神はない」という者であります。「神なんかいるもんか」という時代の者達は、神を畏れることを知らず、自らの欲望に生き、人が見ていなければ、かげで不正に手を染めるのです。不正は隠し通すことができずに、必ず神によって罪が公にされるのです。

 神を信じ畏れる者達は、常に神の前にある御前感をもっています。誰が見ていてもいなくても、神の御前にいつも真実であろうとします。真の神が神であるという本質を見出している賢い者であります。自らを神とするのではなく、真の神を神とする幸いです。しかし、これは何かクリスチャンが優れているということではありません。ただただ、神のあわれみであり、神の恵みによって、気づかされていることだけなのです。主なる神に感謝いたします。

「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3章24節)

 

2012/2/15 説教者 杉本守

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2012年01月15日 | 天のマナ

 「信頼する」 

 「信頼できる方をお持ちですか?」と問われたら、皆さんはどう答えるでしょうか? 「はい、持っています。料理のことはあの方に、機械のことはこの方に頼めば安心です」と答える方

もいらっしゃるでしょう。それはそれで素晴らしいことです。

 しかし、どんなことでもどんな時でも信頼を置けるかというと、人間には無理なことでしょう。人への信頼は一時的な部分的なものであります。それは人には限りがあるからです。しかし、今年も私達が信頼する方は、永遠で全能で世界を造り治めておられる主なる神であります。なんと幸いでしょう。私達の生涯をすべて知り、私達を愛し最善に導いてくださる方であります。ですから、私達はこの主なる神に信頼し、心を騒がせないで、もう一度、心を騒がせないで、一日一日を歩んでいきましょう。

 

 「万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。」(詩篇84篇12節)

 

2012/1/15

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝説教要約

2012年01月08日 | 説教要約

「教会にあらわされる神のわざ」 マタイによる福音書18章15~20節

 今年もマタイと詩篇から神の言葉をいただきましょう。主なる神は、一人一人に神のみわざを信仰によって体験させますが、召し出された者の集まり、教会においても豊かに神のわざをなされる方であります。

Ⅰ 神のわざがあらわれる時

 それは和解がなされる時です。兄弟が罪を犯した場合のことがここで記されていますが、その者に対してここではただ裁くためだけではなく、その者が悔い改めに導かれ立ち返るようにという観点で書かれています。一人で、二人または三人で、教会で忠告する機会を与えていますし、それが結果をのこせない場合は、主イエスにお委ねするということが記されています。もし、忠告を受け入れその者が悔い改め、ゆるしゆるされる中で本来の位置に回復され愛の交わりが深まるなら、そこでなされる祈りに対して、神はどんな深い神のわざをあらわされるでしょうか。

Ⅱ 神のわざとは

 そういう祈りの中で、主イエスの名によって祈る時、主がその中にいてくださり、宣教のみ業が進んでいくのであります。地上でつなぐことは、天でもつながれ、地上で解くことは天でも解かれるのです。

 主のわざは、愛し合う兄弟姉妹の間でなされていくのです。

2012/1/8 説教者 杉本守

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2012年01月08日 | 天のマナ

 「主イエスのようにきよくしてください」 

 

 明日は成人の日です。日本では122万人の若者が成人になるそうであります。20歳で大人の仲間入りをしますが、それは成人としてのスタートであります。20歳になり成人式を迎えたからといって一人前の大人かというとそうではありません。これから、社会に生きていく中で大人として錬られ、年齢だけではなく、中身も大人にふさわしくされていき、模範としての立派な成人になっていくのであります。クリスチャンもそうであります。救い(義認)を受け洗礼によってクリスチャンとしてスタートした者は、クリスチャンにふさわしい者とされていく必要があります。成長し成熟していくということです。それは日々のクリスチャン生活を歩むと共に、主のさらに深い救い(きよめ)を受けていくことです。明日の聖会に成長成熟への求めをもって積極的に参加いたしましょう。

 「神のみこころは、あなたがたが清くなることである。」(ピリピ4:3)

2012/1/8

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする