静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2015年07月26日 | 天のマナ
 「夏季聖会の恵み」
 
 年に一度、贖いの日に大祭司しか入れなかった至聖所、聖所と至聖所を隔てていた幕は、主イエスの十字架によって上から下まで裂かれました。そして主イエスは、いつでも誰でも、新しい幕(主イエス)を通って、主なる神に遠慮することなく近づくことができるようにしてくださいました。「わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり」(ヘブル10:19,20)

 本日も私たちは主なる神の前に出て礼拝をささげさせていただいています。誰が、全能の永遠の聖い神の前に出る資格があるでしょうか。私たちには何もありませんが、主イエスを通して近づかせていただけるのです。神のお恵みです。だから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信にみたされつつ、共にみまえに近づきましょう。

2015/7/26
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講壇の花

2015年07月26日 | 生花
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天のマナ

2015年07月19日 | 天のマナ
 「人を成長させる程よいストレス」
 
 新しい事にチャレンジしたり、上達を目指しますと、最初はできない自分にストレスを感じます。「ストレス」と聞くと私たちは、不必要で「ストレスがなければどんなに良いだとう」と思います。けれども最近、「もし、本当にストレスがなかったら、私たちの成長はあるのだろうか」と考えるようになりました。行き過ぎたストレスはマイナスですが、程よいストレスは、私たちの成長を促すものではないでしょうか。ヒナが卵を突き破って生まれて来るには、殻の堅さはストレスです。しかし、それを打ち破って出て来るとき、外の世界に対応できる力を得ます。私たちも歩き始めた時、自転車に乗る時、何度も転んだでしょう。学問のテストはストレスですが、勉強して多くの知識を蓄えます。新しい事や新しい次の段階にチャレンジするときには、慣れてもいないので不安がありストレスを感じますが、しかし、そのストレスを避けずに、それをバネにして努力し乗り越える時、人が成長します。38年床にいた病人にイエスは言われました。「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい。」(ヨハネ5:8)。彼はその言葉に従い立ち上がり歩きました。

2015/7/19
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講壇の花

2015年07月19日 | 生花
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天のマナ

2015年07月12日 | 天のマナ
 「十字架の愛によって愛し合う」

 昨年9月に持たれた「あしか」(東海ブロック青年)の「恋愛・結婚」というテーマでの集まりで、講師が創世記2章より次のような話をして下さいました。「夫婦の円満の秘訣は、ある言葉が言えるかどうかであります。さて、皆さん何という言葉でしょうか?」という問いから始まりました。私はそれを聞いて、「愛してるかなあ?ありがとうかなあ?」などと思いました。これらの言葉は良い言葉ですが、講師の答えは違っていました。その言葉は、「ごめんなさい」でした。私は納得しました。なかなか「ありがとう」は出ても、「ごめんなさい」はでないものです。自分が悪かったことを認めることから始まる「ごめんなさい」を人間は嫌がりしません。講師は続けました。「本当に心の底から自分の過ちを認めて謝ることができるのは、十字架のイエス様の愛を知り砕かれ、救い主イエスを神の恵みにより信じ、イエスに愛し赦されて続けているキリスト者しかできない」と。

2015/7/12
 
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講壇の花

2015年07月12日 | 生花
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天のマナ

2015年07月05日 | 天のマナ
 「密室の祈りから公の祈りへ」

「わたしたちは隠れた所での祈りすなわち密室の祈りを積み重ねていっているうちに必ず祈りの友がほしくなるものである。共に心を合わせて祈ってくれる友を求めるようになるものである。こうなってはじめて『ふたりまたは三人がわたしの名によって集まる』(マタイ18:20)公同の祈りというものが生まれて来るのである。そういう祈りの集いが持たれるとき、わたしたちは『わたしもそのなかにいるのである』との主のお約束をひしひしと感ずることがゆるされる、そしてそこでわたしたちのなかに主にある交わりが芽生えて来るのである。だから教会の祈祷会がこのような恵みの場となるためには、まずわたしたちが日毎の密室の祈りを積むことが大切である。わたしたちがそれぞれ一週間の祈りを背に負いながら祈祷会に集まって来るとき、祈祷会は確かに恵みの座とせられるのである。人前で祈れる人も、人前で祈れない人も共にもう一度自分の祈りの生活をかえりみてみようではないか。そして神の備えたもう恵みの座として私たちの祈祷会が守られるようにお互いに日毎の祈りを積んで行こうではないか。」(榎本保郎「教会づくり入門」より)。

「あなたは祈るとき、自分のへやに入り、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」(マタイ4:6)

2015/7/5
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講壇の花

2015年07月05日 | 生花
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