静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2012年10月28日 | 天のマナ

「主を信じる者の幸い」    

 「あなたがたは、この世ではなやみがある。」(ヨハネ16:33)、砂、岩を土台としている双方に「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつける」(マタイ7:25)とあるように、この地上を歩む人生には、不幸に思える出来事や試練は起こってきます。それには信仰者も、無信仰者も違いはないのです。クリスチャンだからといって、交通事故や災害にあわず、病気を患わないということはありません。誰の人生にも様々な苦しみが起こります。

 では、クリスチャンとそうでない方との違いは何でしょうか。クリスチャンは、どんな悩みがきても、その中で、平安をもちしっかり立ち続けることができるのです。主なる神を土台としている人生だからです。また、主イエスがすべての悩みに勝利をとっておられるので、私達は勇気をいただきそのすべての悩みを乗り越え、勝利を得させてもらえるのです。「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」「倒れることはない。岩を土台としている。」

2012・10・28

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主日礼拝説教要約

2012年10月28日 | 説教要約

「神の義による支配」 詩篇64篇1~10節

 この世の中では理不尽な事が起こり私達は嘆きます。私達は、思いをどうしたらよいのでしょうか。

Ⅰ 理不尽さの中で

 詩人も理不尽な経験をしました。自分は悪くないのに、根拠のない中傷にあっていたのです。仕えれば仕えるほど悪く言われるほど辛いものはありません。「どうしてこのようなことが、どうしてこのようなことに」と嘆くことしかできません。

Ⅱ 神の義による支配

 神はこの状況をなんとも思っていないのでしょうか。いいえ違います、神は義なる方であります。神はすべてをご存知で、かすみ網にかかったご自身の愛する小鳥達をお見捨てにはなりません。神は悪者らを必ずさばかれます。彼らが掘った落とし穴に、彼ら自らが落ちるようにされるのです。

 神との関係が正しい者は、神に身を避けましょう。神の守りの中にあって必ず喜び誇る者とされるからであります。

2010/10/28 説教者 杉本守

 

 

 

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講壇の花

2012年10月28日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2012年10月21日 | 説教要約

「世の終わりが来る」 マタイによる福音書24章1~14節

 これから先の世界はどうなるのでしょうか。世の多くの者たちが「予言」し、多くの人々の興味をかき立て、不安を煽っています。それでは聖書は何といっているのでしょうか。聖書の「預言」は、神からの言葉であり確かであります。

Ⅰ 世の終わりの前兆

 イエスは弟子達の質問に答えました。エルサレムの滅びとイエスが再臨される世の終わりの前兆についてです。本日は、世の終わりの前兆を語ります。

 世の終わりの前兆は、偽キリストが出現し、世界的な国家秩序が混乱(戦争)し、自然秩序も混乱(飢餓、地震)し、キリスト者への迫害が起こり、教会内にも混乱が生じるということです。さらには、福音がすべての民に対して証しさていくということです。そして終末が来るのです。

Ⅱ 最後まで耐え忍ぶ

 その中でクリスチャンはどうしたら良いのでしょうか。「最後まで耐え忍びなさい」とあります。「最後まで」とは、世の終わりが来る時までであります。あるいは自分の地上におけるいのちの最後までであります。「耐え忍ぶ」とは、単に災いが過ぎ去るまで我慢するという消極的なことではなく、積極的に愛すること、主に従うこと、信仰の旗印を掲げ続けしっかり立ち続けることであります。主はそうした者を全く救われるのであります。

 最後まで耐え忍ぶ信仰をもって、終末を迎えるこの時代に歩み続けたいのです。

2012/10/21 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2012年10月21日 | 天のマナ

 「成熟した者へと」    

 「神はキリストの福音によって罪と死の解決をしてくださったのに、なぜ、困難や試練を残すことを許されたのだろう」と時々考えます。神の答えはきっと広く深く、人間の私達にはほんの一部しか地上ではわからないかもしれません。すべてが明らかになるのは、神の国に入れさせていただいた時でありましょう。楽しみで仕方ありません。ここではわたしなりに、人生の歩みの中で考え経験し気付かされたことを、二つあげさせていただければと思います。

 一つ目は、それらの困難や試練は、人間自身の弱さを知らせ認めさせ、全能の神に向けさせるために神は残されたのではないかということです。人は、それらによって自らの弱さを知り、神に頼るのであります。

 二つ目は、それらの困難や試練は、訓練や鍛錬となり人間自身を育てあげてるからです。喜びや楽しさだけが人間を育てるのではなく、困難や試練も人間を育てるのです。 「それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」(ヘブル12:11)

2012/10/21

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講壇の花

2012年10月21日 | 生花
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天のマナ

2012年10月14日 | 天のマナ

「イエス様を置き去りにしていませんか?」    

 人と人との関係は、人格的な交わりです。人と人形や人と人工頭脳(コンピューターなど)といわれるものの関係は人格的な交わりではありません。神は人を人格者として創造されました。人格とは、知恵、感情、意志などの心だけではなく、もっと深い霊的なことも含まれることと考えます。神が人に与えてくださった人格は、神が人を愛し特別に下さったもの(神のかたちに)であります。ですから、人と人とは人格的な交わりができるのです。

 人格的交わりは、さまざまな方法や表現を持ってなされます。会話、同じ体験する行動、そして感情を共に(共感)することなどの中でのやりとりです。しかし、やりとりがなく一方通行だったら、人格的な交わりとはいえず、寂しさや空しさが残るでありましょう。

 神と私達の関係も人格的な交わりです。あなたは主イエスを知りたいと求めていますか?愛していますか?従っていこうとしていますか?主イエスと深い霊的な交わりをしていますか?主イエスはあなたと人格的な交わりをしたいと切に望んでいます。

2012/10.14

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主日礼拝説教要約

2012年10月14日 | 説教要約

「神との麗しい関係」 詩篇63篇1~11節

 「好きで好きで気を失うほどになる、人格的な魅力気に気を失うほどになる」という経験をお持ちになったことがありますか?恋や尊敬を遥かに越えた思いでダビデは主なる神に対して、「わたしはあなたを慕いこがれる(新改訳では、気を失うばかり)」と言っています。

Ⅰ 神を慕い焦がれる

 ダビデは神を全身全霊(全存在)で慕っています。神を切に求めています。その思いは、神に対する礼拝となります。神殿での礼拝、さらには家においても神を深く思います。

Ⅱ 神との交わりの中で

 神はその求めを喜び、慕い焦がれる者を豊かに満たします。神との交わりにより、彼の魂は飽きたり満たされるのです。彼は神の満たしを経験し、神の翼のかげにあり、神を喜び歌っています。

 主イエス様と人格的な交わりを疎かにしていないでしょうか?神との麗しい関係にありますでしょうか?「私の魂は神にすがりつき、あなたの右の手(全権)はわたしを支えられる」との経験をさせていただきましょう。

2012/10/14 説教者 杉本守

 

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講壇の花

2012年10月14日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2012年10月07日 | 説教要約

「神の愛の御翼の下に」 マタイによる福音書23章25~28、37~39節

 マタイ5章の主イエスの山上の説教は、「~はさいわいである」の連続と対照的に、この章では、「~はわざわいである」の連続であります。なぜ、主イエスは、パリサイ人たちや律法学者達を非難したのでしょうか。

Ⅰ 神の愛を拒む者たち

 エルサレムは神の都で神殿があり、神の民はそこで礼拝をささげていましたが、主イエスは擬人法を使い、エルサレムを嘆きました(37)。それは、エルサレムに住む神の民の指導者達(パリサイ人や律法学者)を始め、神の民達も神に従わず自己欲に生きていたからです。神の祝福を受けて来ながら、神に逆らい神の裁きを自ら招いていたのです。

Ⅱ 神の愛の翼の中へ

 ただ単に主イエスは、彼らを弾劾したのではありません。神は、神の愛と赦しという翼を広げて、その翼の下に来るようにと、預言者だけではなく神の独り子救い主イエスご自身を送り、彼らを神の裁きから守ろうとしたのです。しかし、それをも彼らは拒んだのです。その故に、彼らは神の裁きを受けるとイエスは涙を流したのです。AD70年、エルサレムはローマによって滅ぼされます。

 今の時代、神の愛の翼が広げられています。あなたは、その下におられるでしょうか?イエスを救い主と信じ神に立ち返り、神の愛の御翼のもとにあり続けましょう。

2012/10/7 説教者 杉本守

 

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