静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2022年05月29日 | 天のマナ
 「人生の迷子から神に立ち帰る」
 私の両親は牧師でしたので、日曜日は朝から夜まで仕事でした。「日曜孤児」にならないようにと、日曜日の午前の礼拝式が終わりますと、同居していた叔母が、時々私と弟を連れて、上野のデパートに連れて行ってくれました。マクドナルドでお昼を買ってもらい、屋上で遊具に乗せてもらいました。そんなある日、おもちゃ屋のフロアーにいた時、弟が急にもようしはじめ緊急事態となりました、叔母は2、3年生くらいだった私も連れてトイレに行こうとしましたが、おもちゃに夢中になり言うことを聞かない私は全く動きませんでした。叔母は困った末に、「ここにいなさい。どっかにいっちゃだめよ。すぐ来るから」と言ってトイレに行きました。しかし、私は気が向くままに流れていき、迷子になったのでした。迷子になっても、いろいろな商品に夢中で最初は気づきません。しかし、だんだんと「おかしいな」と思い始めまずが、まだ魅力的な商品に気を向け迷子になっていることを認めません。いよいよ、迷子になったことを認め、このままではいけないと商品を放り投げ、「我に返った」のです。このままでは家に帰れないのではと思い、叔母さんを見つけるために辺りを走り出したのです。やさしい定員さんの声もなんの慰めにもなりません。その時です。向こうに叔母さんと弟が見えたのです。本当にほっとしたことを思い出します。
 あなたは人生の迷子になり不安の中にいませんか?他ではない魂の親である主なる神に帰る時にこそ、私たちは真の平安を得るのです。「そこで、彼は我に返って言った。」(ルカ15:17)
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天のマナ

2022年05月22日 | 天のマナ
「この方(主イエス)の打ち傷によって、あなたがたは癒されたのです」(Ⅰペトロ2:24)
 「人生は何で決まるのか?」と問われたら、あなたは何と答えるでしょうか?ある人は「知識」、別の方は「財産」、他の方は「人望」などと答えるでしょう。私は、「主イエス・キリストに抱きしめられた回数」と答えます。創世記に出てくるヤコブは、我が強く、自我丸出しの人生を送っていましたので、人とぶつかり合っていました。兄を押しのけ兄に憎まれ、兄から命を狙われ家にいれなくなり、遠方の叔父さんの家に逃げました。やがて、ヤコブは家族を引き連れ故郷に戻ります。しかし、彼の心は穏やかではありません。実家には兄がいて、兄との関係が解決していないからです。彼は、ひとりになり、夜を徹して神と格闘するほどに祈るのです。神からの解決をいただかなければ、平安をもって兄と再会し、兄との関係を回復することができないからです。神の前に出て真剣に祈り、神に取り扱われ、突っ張っていた自我が神によって砕かれ、ヤコブはきよめらえたのでした。そして彼は平安の内に兄と再会し和解したのです。
 祈って神に取り扱ってもらわなければ乗り越えない課題がある時、神の前に出て真剣に祈る時をもっているでしょうか?主の御腕に抱きしめられ、主からのみ言葉を頂いて立つ経験。あの時に主に抱きしめていただいたという聖霊によるみ言葉の信仰体験の積み重ねが、クリスチャン生活の歩みなのです。
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講壇の花

2022年05月22日 | 生花
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天のマナ

2022年05月15日 | 天のマナ
 「神が創造された人の素晴らしさ」
 神ははじめから人を人として造られました。神は聖書を通してそう語りますし、私たちキリスト者はその事実を信じて真の平安をいただいています。
 私は、最近、孫との関係(孫をよく観察する)を通して、人は動物から進化したのではなく、はじめから人として神に造られたことを確認しています。孫は1歳一か月になり、だんだんできることが多くなり、成長が著しいです。ハイハイをし出して一か月後くらいにつかまり立ち、そして歩き出しました。立ち上がろうとする思いと歩こうとする行動は、教えてもらって学習して身につくというより、神が人を創造された時から与えられている本能であり人の遺伝子に組み込まれているものとつくづく思います。尻餅をついても転んでも、「人は立ち歩くのが造られた本来の姿」と言わんがばかりにスムーズに移行(立ち歩く)します。また、もう一つの行動にも教えられます。孫が、まだ喃語であり日本語では話ませんが、物を手に持ち私の方を見て「これはしていい?」と表情、そして喃語で語りかけて、コミュニケーションをとろうとしてくるのです。まだ赤ちゃんで小さいながらも、許可を得ようとする応答関係をすでにもっているということです。これも、はじめから人が神によって関係を持つ者として、神を見上げ神に語る者という存在として造られたことを示していると思うのであります。「神は人をご自分のかたちに創造された」(創世記1章27節)。
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天のマナ

2022年05月01日 | 天のマナ
「神に従う者か、神を従わせようとする者か」
 エフェソ書6章は、「教会の戦い」であります。教会の戦いは、血肉(人間)による戦いではなく、国と国、民族と民族、人と人との戦いでもありません。そして力(武力)によるものでもありません。教会の戦いは、悪魔(悪魔の策略)に対しての戦いです。そして神の武具(真理、正義、平和の福音、信仰、救い、神の言、祈り)による戦いです(エフェソ6:10~20)。さらにはイエスの愛による戦いです(ローマ12:9~20)。これが神に従う信仰者の戦いです。しかし、そうでなく神を従わせようとする戦いをしている者がいます。つまり神の名を利用して自分の思想や主義主張や欲望を成そうとする者のことです。先週のニュースで、ロシアのプーチン大統領が、ロシア正教会でイースターの礼拝をささげている映像が、各テレビで放映されました。今回のウクライナ侵攻も、まさしく血肉(人間)の戦いであり、力(武力)によるもので、ロシア正教会の一部の聖職者らが抗議しているように、神のみ言葉に反しています。今回の事に限らずこれまでの人類の歴史においても、神の名を利用して自分の思想や主義主張や欲望を進め、誤った行動をした結果、大きな痛みを残してきました。もう繰り返してはなりません。私たちももう一度、自分を点検し、神に従い平和を造る信仰者でありましょう。「平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神のこと呼ばれる。」(マタイ5:9)。
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