静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2024年06月23日 | 天のマナ
 「荒れ地においても咲く花のように」
「私の羊を飼いなさい。よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」(ヨハネ21:17~18)。
 このみ言葉は、復活の主イエスがペトロを再召命した時に語った言葉です。この世においてペトロを始め、主に従う私たちの行く手には予期せぬ悲しみや苦しみが起こります。しかし、私達キリスト者はそこで気落ちするのではなく、不毛の砂漠のただ中で生きる小さな花の美しさに驚くように、予期せぬ喜びに気づくことです。そして、尽きることのない泉の新鮮な水のように、苦痛の深みから湧き出る測り知れない癒しの力に気づくことです。この力とは、聖霊なる神の力です。神の力は私たちの内に働き、私たちのものとなり、どこに行こうと、どんな人に出会おうと、わたしたちの内から流れ出るのです。「『私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる』。イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。」(ヨハネ7章38節)。苦難の時こそ、「イエスを主」と告白させてくださった我が内におられる聖霊なる神に目を留め、この方に落ち込みましょう。 
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天のマナ

2024年06月09日 | 天のマナ
「人間の視点ではなく神の視点で見ることが信仰」
 この地上の世界を歩んでいますと、「突然に」「予想外に」ということが起こります。ある人達は、受け止められず「ありえない」と拒否します。他の人たちは「仕方がない」とあきらめます。また別の人たちは、「関係ない」と思考を停止します。しかし、私達クリスチャンは違います。人間の視点だけではなく神の視点を授かり、神の視点に立つ信仰をもっています。「このことが起こった背後には、どんな神の意図(ご計画)があるのだろうか」「神はこのことを通して何を私に示している(教え訓練する)のか」「神はこのことをどのように解決し、神の栄光を現されるのか」というものです。この視点は、神が聖書(み言葉)によって、その只中にある者に明らかにされるのです。だからみ言葉に聴かなければ、突き抜けずに悶々とし、堂々巡りに陥ります。神の視点で見るということは、「神の言葉である聖書の語っていることを信じる」ことであります。信仰の目で見る時に、拒否したり、あきらめたり、思考を停止したりせず、すべては益と受け止め勝利することができるのです。
「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるといことを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。
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天のマナ

2024年06月02日 | 天のマナ
「出て行く者に与えられる主の恵み」  
 三週間前から、月~金曜日(雨の日以外)の朝5時半から一時間ウォーキングに出かけ、行きには「きぼう」や「クリスチャン新聞福音版」をポスティングします。6時半には、通称「グリーンベルト」と呼ばれている公園で、お年寄りの方々(6名)とラジオ体操を一緒にします。最初の一週間はお互いに面識がないので、私は30メートルほど離れ一人でしておりましたが、6回目くらいでしたか、「一緒にやりましょう」と声をかけられて、今ではイツメン(いつものメンバー)の一人です。ラジオ体操後、「あなたどこの人?」とこれまた嬉しい声かけを受け、「あっちのゴルフネットの近くにあるキリスト教会の牧師をしております」と答え、「教会?あったけ?あーあーあったあった」と。私は、自作の名刺を渡しながら、「またガンカフェやこども食堂の案内、教会案内、コンサートのチラシなどをお渡ししますね」と。一組の夫妻は、「以前ゴスペルコンサートに行きましたよ」と。「主の民は」「平和の子は」「収穫は多い」「すでに色づいて刈り入れを待っている」とは、「この方のことかな?こちらの方かな?はたまたあちらの方かな?」と主に期待しワクワクしております。自分のことで終わらずに、主に仕える恵み、主にささげる恵み、隣人を執り成し祈る恵み、地域の方々に伝える恵みを体験したいのです。
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天のマナ

2024年05月26日 | 天のマナ
 「神の愛を受け神の愛に生きる」
 「そこに愛はあるんかい?」というセリフのコマーシャルを聞いたことがあるのではないでしょうか?消費者金融会社のコマーシャルですが、そこには儲けはありますが、愛は全くありません。もし少しでも愛があるなら、高額な利息をつけないでしょうし、少なくとも無利息にすべきであります。
 教団の人事委員会に属している私は、「わが家への道」(ヘンリ・ナウエン著)をメンバーの牧師と共に読んでいます。この本からこれまでに教えられたこを、記させていただきます。(ヘンリ・ナウエンは、1932~1996年、オランダ生まれ、カトリック司祭、キリスト教霊性につての世界的な指導者)。まず、「この世の短い人生は、わたしにとって、愛を受け、愛を深め、愛に置いて成長し、そして愛を与える機会です」の言葉が心に留まりました。「互いに愛し合いなさい」と主イエスは新しい戒めを告別説教で語りました。私達自身には、私たちの周りには、私たちが住んでいる社会には、何が覆っているでしょうか?競争、争い、ねたみ、にくしみ、悪口、愚痴、高慢など、、、そうであってはいけません。笑顔、助け合い、励まし、やさしさ、感謝、喜びなどが覆うべきです。そのためにはまず、クリスチャンが主の深い愛に満たされることです。そこからが愛の歩みのスタートです。人生のテーマ、世界のテーマ、歴史のテーマは「愛」です。
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天のマナ

2024年05月19日 | 天のマナ
 「結局は神とあなたの関係です」

 「一難去ってまた一難」という言葉の意味は、「一つの災難が過ぎてほっとする間もなく、また次の災難が起きること」です。徳川家康の遺訓にも「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」とあります。まとめると、「人生には問題が起こり、難が訪れ、人は重荷を負って歩む」ということでしょう。主イエスも「あなたがたは、世では苦難(悩み)がある」(ヨハネ16:33)と言っています。では、そのような中でどのように私たちは歩むのでしょうか。徳川家康の言葉の続きを読むと、とても消極的で、読む者を「励ます」言葉ではなく、「仕方がない」と思わせる言葉に感じとれます。しかし、主イエスの続きの言葉はとても積極的で、「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」です。つまり、あなたの苦難を私に委ねなさい。勝利者なる私があなたに働き、その苦難を乗り越えさてあげる」ということです。周りの環境や状況のせいにしたり、人のせいにしていてはいつまでも問題の解決はありません。神に目を留め、神の前に苦難を置いて、静まることから問題の解決が始まります。世と世のどんな苦難にも勝っている主イエスが、触れて下さるからです。勝利者かどうかは、結局、突き詰めていくと神とあなたの関係によるのです。
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天のマナ

2024年05月05日 | 天のマナ
 「福音を伝える喜び」

 先週の教会総会で、今年度の三つの教会形成方針が承認されました。一つは、ここ数年取り組んで来ています「次世代育成」の継続です。二つ目は「礼拝を重んじる」です。礼拝の時間を聖別し主にささげることです。三つ目は「宣教(伝道)をする」です。
 ある果樹園に、さまざな果物の木が植えられていました。種類や樹年もそれぞれで、実を結ぶ時も違います。実が結ぶために農家の方は、水をやり肥料をやり、剪定をしたりします。この木の実が結ぶにはあと5年かな、こっちはあと3年、この木は来年だなと木の成長も楽しみにして育てます。そして、実が成り熟しますと収穫の時となります。今まさに収穫する木をほっといて、あと3年後の木の前に立ち続け収穫を待つ人はいません。これから実を結ぶ木の成長を見守りながら、今の収穫の木の実を収穫するのです。
 この年度、この町に主が備えて下さっている主の民は、どんな方であるか、会うのが楽しみです。「育てなさい」と言われている木と「収穫しなさい」と言われている木を共に主の愛で愛してまいりましょう。そして今年分の刈り取りをさせていただきましょう。
主は言われました。「目を上げて畑を見るがよい。すでに色づいて刈り入れを待っている。刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」(ヨハネ4:35)。
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天のマナ

2024年04月28日 | 天のマナ
「主の癒しを経験する恵み」 

 私たちが属している日本ホーリネス教団の信仰の特色は、「聖書信仰」「ウエスレー・アルミニウス主義」「四重の福音」です。「聖書信仰」とは、「旧新約聖書六十六巻は、神の霊感を受けて書かれた誤りなき神の言であり、キリストを啓示し、福音の真理を示すものである。聖書はわたしたちの信仰と生活の基準であり、教会の唯一の正典である」ということです。「ウエスレー・アルミニウス主義」については教会員手帳129ページをご覧下さい。「四重の福音」とは、主イエスが私たちに与えて下さった救いの豊かさです。それは「新生(義認)、聖化(きよめ)、神癒(癒し)、再臨(栄化)」です。今回は、「神癒(癒し)」について記します。
 この地上での歩みの中で時に私たちは病いにかかったり怪我をしたりします。主は救い主であり癒し主ですから、魂を救うと共に、肉体をも癒し傷ついた心をも癒して下さる方であります。信仰の先人でありました大橋京子姉が、「私は主の癒しを体験した」と何度も証しをして下さいました。それは若かりし時のこと、物が食べられないくらいあごが痛み、医者にかかっても治らなかったが、主イエスに祈った時、神癒(癒し)を経験したというものでした。
「まことに私は主、あなたを癒す者である。」(出エジプト記15:26)。
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天のマナ

2024年04月21日 | 天のマナ
 「教会総会における主の恵み」

 人生には様々な節目があります。「入学、卒業、入社、結婚・・・」などがすぐに挙げられるでしょう。また、年にも節目があります。「年始、年度初め、年末、年度末・・・」です。企業でも総会がありますし、キリスト教宣教団体(TVライフライン、市内キリスト教会連合会)、私たちが属している日本ホーリネス教団、静岡ホーリネス教会もそうです。

 当教会の総会は来週です。走り続けている歩みを少し止め、神の豊かな導きの中にあって過ぎ去りし年月を振り返り、神に感謝するのです。そしてこれからの神の祝福のご計画を知り確認し、期待をもつ時でもあります。私達人間は、時に目の前のことでいっぱいになり、振り回されてしまう者であります。年一度の主にある総会は、私たちの信仰の目をもう一度神の計画に向けさせ、私たちに与えられている神の使命を再び自覚させるのです。「そうだ!、主の力により自分の責任を果たさせていたこう」と。マンネリではなく、主にある新たな一歩を共に踏み出しましょう。
「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」(ルカによる福音書4章5節)。
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天のマナ

2024年04月14日 | 天のマナ
 「信仰告白としての賛美の恵み」

 ゴスペルの練習は、月の第一水曜日午後7時~ズームでのディレクターによるレッスンをしています。その他にメンバーだけで月一度の練習もあります。仕事帰りにメンバーは集うので、一日の労の疲れがありますが、毎回、賛美を主にささげている中で、主の恵みを受け心も体も、霊も肉体も満たされて、終わる時には新たなる力を与えられています。礼拝時の賛美の時も、ゴスペルレッスン賛美の時も、また自宅で口ずさむ賛美の時も、皆さんと同じく私も賛美の歌詞を私の信仰告白として、主にささげています。今、ゴスペルで練習をしている曲も素敵な賛美です。この詩も自分の信仰告白です。
 「世の人は山は動かせない 鎖は決して切れない」と言う でもね 彼らは私たちのように主なる神を知らないの 主なる神の御名には力があることを 私たちは「進む道がない、潮の流れは決して変わらない」と彼らからの言葉を聞く 彼らはどんなに大きな力が主なる神にあることを見ていないから 動かせないものを動かし 壊せないものを打ち砕く 神様 私たちは信じています あなたの奇跡を見ることを 希望は失望に終わらない なぜなら主の墓は空だから 道がないと思える時もも あなたこそが道なのです 私たちは信じています 神様 あなたは主権をもっておられるから  
「アーメン(まことに、真実に、そのとおりです)」です。
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天のマナ

2024年04月07日 | 天のマナ
「横を見るから見上げるへ」 
 
 小さい頃から私たちは比べられて育てられたのではないでしょうか。横を見て、皆と同じように歩みなさいとです。確かに協調性は必要ですが、個性を潰す協調性ではなく、オーケストラのハーモニーのように個性が活かされた協調性であることが大切です。教団の年会講演のテーマは「牧師のストレス解消法」でした。講演の後、一人一人がエゴグラム(性格分析・診断)をしましたが、その結果は全く異なるものでした。横を見て比べる見方が小さい頃から刷り込まれ、その世界に生き、ある時には優越感をもちうぬぼれ高慢になったり、別の時には劣等感をもち自己卑下し、嫉妬しねたんでいるのではないでしょうか。全ての人に共通している問題は、「罪」と「死」です。これは横を見ていては全く解決できません。人間には解決できないからこそ、神の介入が必要なのです。神は、その独り子イエス・キリストをこの世界に遣わし、十字架によって「罪」を、復活によって「死」を解決して下さったのです。ですから、横(人)ではなく、上(神)を見上げましょう。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)
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