静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2009年02月22日 | 説教要約
「弱い時にこそ強い」 使徒行伝19章21~41節

 第三伝道旅行のエペソでの出来事より、主の御言葉をいただきましょう。

Ⅰ 人に守られる神
 神はパウロを用いなさり、宣教を通して多くのエペソの人達は救われていきました。それにつれ、偶像の神アルテミスの神殿へ行くものが少なくなり、神殿の模型を売って利益を得ていた職人たちはパウロ一行に対して、自分達の利欲とエペソの信仰心をうまく絡ませ、暴動を起こしたのでした。
 このままでは、大女神アルテミスの威厳と威信が地に落ちてしまうから、エペソ市が守護役となって守る必要があるという訳であります。偶像の神々は、人によって守られなければならない偽者の神であります。

Ⅱ 人を守る真の神
 パウロらは迫害に遭い、同労者ガイオとアリスタルコは捕らえら、劇場の群集の中に引き出され、二時間も暴動の叫びの中に置かれました。第二コリント1:8.9にパウロが示したように、極度に耐えられないくらいの圧迫でありました。
 しかし、真の生きた神は、このパウロらをそのような中で守り、救い出されたのでありました。
 
 パウロらは弱さをおぼえましたが、神の救いは豊かにあり、神の守りに取り囲まれて、強い者とされたのでありました。このエペソでの伝道を通して、黙示録の7つの教会が生み出されていきました。真の神は、弱くても信じる者を守り祝福される神であります。

2009/2/22 説教者 杉本守 
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天のマナ

2009年02月22日 | 天のマナ
「主はぶどうの木、わたしたちは枝です」
   
 「なぜ私達は日々に聖書を読むのでしょうか?」、それは自分の力では真の意味で生きられない私達が、主の御心を知り、御言によって真に生かされるためであります。
 「どうして私達は毎週礼拝をささげるのでしょうか?」、それはすぐに自己中心(自分を神とする罪)に陥ってしまう私達が、「真の神こそが神である」と表明する行為だからです。
 「なぜ私達は刻々祈るのでしょうか?」、それは孤独感に襲われる歩みの中で、キリストが共にいるという臨在を体験する交わりであるからです。
 「どうして私達は献金をささげ、奉仕をするのでしょうか?」、それはすべて(時、労、財など)は自分のものであると勘違いしてしまう私達が、それらは神のものであると告白する行動だからです。私達人間の視点から以上のことが言えます。
 
 私達は全く弱いのです。自己中心(神を神としないで、自分を神とする)にすぐなるのです。救われた私達も罪の誘惑にあい、罪を犯す傾向を持っているのです。誰が自分の力(意志、知識、経験など)で隣人を愛し、一日を神の御心のままに歩めるでしょうか。自分の力では、自分の弱さと罪深さを見せられるだけでありませんか。キリストに繋がっていなければ何一つできないのを知っているのがクリスチャンです。
 キリストを信じ、キリストに繋がることから毎日を毎週を出発していこうではりあませんか。

2009/2/22
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講壇の花

2009年02月22日 | 生花

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主日礼拝説教要約

2009年02月15日 | 説教要約
「新しく生まれる」 使徒行伝19章1~20節

 第二伝道旅行を終えたパウロらは、アジア州中心のエペソへの伝道のために、
第三伝道旅行に入りました。エペソでの伝道を通して主の恵みをいただきましょう。

Ⅰ 悔い改めの洗礼
 アポロによって、エペソにもたらされた宣教は、救い主イエスが来られるから罪を悔い改めて備えるためのバプテスマでした。彼は、霊に燃え、雄弁でありましたが、バプテスマのヨハネの教えしか知りませんでした。神は、プリスキラとアクラを通して、アポロに主イエスの十字架、復活、昇天、聖霊降臨を示されたのでした。

Ⅱ 主イエスの名による洗礼
 エペソの人々は、パウロの来訪により、救い主イエスを信じると共に、主イエスがなされた救いの業を信じ、イエスの名によって洗礼を受け、聖霊を受け満たされたのでした。
 また、魔術の本で心を満たそうとしていた町の人達は、それでは心が満たされず、キリストを信じて生まれ変わり、はじめて心が満たされたのでありました。彼らは、いらなくなった魔術の本を持ち出して焼き払ったのでありました。

 主イエスを救い主と信じる者は、救われ、聖霊が内に入り、神との豊かな交わりが回復し、心満たされるのであります。主イエスを信じていきましょう。

2009/2/15 説教者 杉本守
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天のマナ

2009年02月15日 | 生花
 「満ちたらせる神」   

「神は喜んで施す人を愛して下さるのである」(第二コリ9:7)

 教会を通して神様から毎月謝儀をいただきますと、夫婦向き合って、その謝儀を机に置き、まず感謝の祈りをします。それは、一ヶ月間、神の支えの中で健康が祝され、牧師としての働きができ、経済をはじめ多くの必要を与えられたからです。祈り終えると、必要に応じて謝儀を振り分けます。最初に振り分けるのが献金(十分の1献金、会堂献金、各種献金)です。献金袋へいれます。 「献金ができることは幸いだね」と夫婦で喜びます。次に生活費(食費、雑費など)、子供の教育費、各種保険、4人分のお小遣いと携帯代・・・・などへと振り分けます。大学生の長女は、小遣いも携帯代もバイトで稼ぎますのでなしです(笑)。

 毎回、振り分け終わりますと、足りないこともないし、余ることもありません。喜んでささげる者の必要を神様はご存知で、必ず満たされることを毎月体験しています。

 喜んでささげる者のすべてを、主イエスがますます祝福してくださることを楽しみしています。

 「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ちたらせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。」(第二コリント9:8)

2009/2/15
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講壇の花

2009年02月15日 | 生花

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主日礼拝説教要約

2009年02月08日 | 説教要約
「神の民が大ぜいいる」(使徒行伝18章1~11節)

 アテネを去ったパウロは、コリントに行きます。港町コリントは大商業都市であり、活気あふれる町でした。しかし、その反面、風紀は乱れておりました。

Ⅰ 人を通しての神の励まし
 マケドニア(ピリピとテサロニケ)の教会を心配していたことと、アテネでの宣教の結果が思うようでなかったことによりパウロは、意気消沈していました。しかし、神はそのパウロに対して、人を通して励ましを与えました。それは、プリスキラとアクラという信徒でありました。彼らはパウロの宣教の働きを経済的にも支えたのでした。また、マケドニアに行っていたシラスとテモテからの信仰の報告を聞き、パウロは再び宣教の情熱を与えられ、フルタイムで宣教をしたのでした。

Ⅱ 神の言葉による神の励まし
 ある夜、神の言葉がパウロに、「恐れるな、語りつづけよ、黙っているな」と語られました。再び使命を確認させる言葉であります。神様は、パウロに使命を与える時、その使命を全うする根拠を与えてくださる方です。「わたしがついている」「神の守りがある」「この町にわたしの民がおおぜいいる」です。
 こうしてパウロは励ましを受け、一年半福音伝え、コリントの教会が建て上げられたのでありました。

 私達も、使命をいただいています。その使命を神の励ましと神からの力により、全うさせていただきましょう。

2009/2/8 説教者 杉本守
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天のマナ

2009年02月08日 | 天のマナ
「喜び溢れるクリスチャン」

「あなたはニワトリですか?ワシですか?」と自問してみました。私はクリスチャン(キリストに属する者)として、どっちだろうか・・・・。ニワトリとは、立派な羽があるのに、たまにパタパタとするだけで、飛ぶまでにいたらず、時には甲高い声をあげ、地面を見てはついばむ。ワシとは、立派な翼を羽ばたかせ、風に乗り、自由に大空をかけめぐる。

 すべてのクリスチャンは、与えられた信仰の翼を広げ、聖霊の風を受けて、喜びの大空を自由に羽ばたくワシクリスチャンとされているはずであります。それは、罪赦され義とされ、神の子とされ、神との豊かな交わりを回復し、永遠の命をいただいているからです。これ以上の喜びの源はありません。しかし、私達は自分がワシクリスチャンであることを忘れ、ニワトリのように信仰の翼を休め、時々思い出したようにパタパタと、そしてまた、地上の世の細かいことに目を奪われてついばむ、ニワトリクリスチャンになっているのではないでしょうか。

 もう一度、救われている喜びに溢れ、ワシクリスチャンである自覚と恵みに生きていこうではありませんか。
 「わしのように翼をはって、のぼることができる」(イザヤ40:31)

2009/2/8
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講壇の花

2009年02月08日 | 生花

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主日礼拝説教要約

2009年02月04日 | 説教要約
「神を見いだせる」  使徒行伝17章22~34節

 パウロは、ギリシャのアテネで宣教をいたします。この箇所より真の神はどういう方で、どうしたら見いだせるのかをみて行きましょう。

Ⅰ 偉大な神
 アテネは、文化の街で哲学が盛んであり、過去にはソクラテス、プラトン、アリストテレスなどが広場で語り合っていまして、その習慣が続いていました。文化や哲学(思想)が豊かになることは喜ばしいことでありますが、真の神から離れた文化や哲学は、結局、自己中心と高慢にたどり着き、アテネの街は、偶像と他人を軽んじるお遊びになってしまったのです。
 その中でパウロは、福音を語ります。「真の神は、人間に造られたり、人間が考え出したりする神ではなく、神自ら天地を創造し人間を造り命を与え生かし、宇宙を治めている偉大な唯一の神である」と語りました。

Ⅱ 近くにいる神
 「その偉大な神は、遠くにいる方ではなく、自らを人間にわかるようにあらわしなさっている方である。その方法は、宇宙や自然界による被造物を通して、神の摂理によって導かれている歴史を通して、さらには聖書と救い主イエスをこの世に送り、救いのわざをなさせたことによってである」と続けて語りました。
 「偶像を拝むことは無知であり愚かであり、真の神に失礼であるので悔い改めて、真の神を信じなさい」との勧めをしたのです。

 真の神は、見出そうとする者に自らをあらわし、お救いになられます。
 近くにおられるのですから。

2009/2/1 説教者 杉本守
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